顔面をクシャクシャに歪め、醜い嗚咽を漏らしながら、俺は放課後の住宅街を駆けていた。
胸の中には、人形たちに対する押さえがたい悔しさがグルグルと渦巻いている。しかし、俺が実際にしていることと言えば、彼らから尻尾を巻いて逃げ出すという醜態だった。
「ううっ……! うううっ……!」
情けない! 情けない! 情けない!
そんな思いで胸が張り裂けそうになっても、俺は弱虫の嗚咽を止めることは出来ない。
どうしても我慢ならないことが起こったのだ。
別に、俺が何か特別に酷いことを言われたわけではない。クラスメイトという名の人形に囲まれて、そいつらに良いように笑われたり馬鹿にされるのはいつものことだ。
しかし、その日はよりにもよって晴香のことを馬鹿にされたのである。
――お前、ホンットにいつも大島にべったりくっついてるよなー!
――そうそう! ヨーチエンがか母ちゃんにすがりつくみたいにさー! 大島のおっぱいがほしいならガッコーくんじゃねーよ!
――つーかあいつブスじゃね? いちいち大きい声だしたりムダにがんばったり、見ててうざってーんだよな!
――あーそういやさっ! 女子たちがすげーバカにしてたぜ! いっつもうじユキのそばにくっついててきもちわるいってさー!
――だよなー! あいついっつも笑ってっけど、ひょっとしてかわいいつもりでいんのか? ――さいきんあいつの笑ってるところ見ると、身体にうじがわいてくるんだよなー! うじユキなだけによー!
――ははははははっ! ははははははっ!
――ははははははっ! ははははははっ!
――ははははははっ! ははははははっ!
――ははははははっ! ははははははっ!
人形たちの下品な嘲笑が八方から飛んでくる。いつもの光景。ただ一つ、自分にとって掛け替えのない女の子を馬鹿にされているということを除いて。
もちろん俺は全身が震えるくらいに腹立たしかったが、それ以上に全身が固まってしまうくらいに怖かった。だから俺は、負け犬のように逃げ出すことしか出来なかった。せめて彼らの前ではと堪えていた涙も、今は赤子のように垂れ流すばかりだ。
俺はこの惨めな姿を、何が何でも晴香に見られる訳にはいかなかった。こんな姿を見られるくらいなら、本当に死んだほうがマシだった。
今、俺の脳裏に浮かぶのは、晴香の問いかけに対して、「あまり楽しくなかった」と答えた時に浮かべる、とても悲しそうな笑顔だった。
家に着くなり二階の自室へと駆け上がり、布団の中へと潜り込む。母親の呼ぶ声が聞こえてきたが、そんなことに構わず、「うぅ! うぅ!」とうめき声のような嗚咽を漏らし続けた。
「ねえ、一体どうしたっていうのよ?」
たまりかねた様子の母が部屋の中にに入ってきたが、俺はそんなことに構うことなく布団の中で泣き続けた。
「また学校で何かあったの?」
「うぅ! うぅ!」
「どこか殴られたりしてない?」
「うぅ! うぅ!」
「何か酷いことでも言われたの?」
「うぅ! うぅ!」
「ほらほら、何かおやつでも作ってあげるからもう泣かないの、ね?」
「うぅ! うぅ!」
「……ねえ、一体何があったのよ? 話してくれなきゃ、私だって分からないわよ?」
「うぅ! うぅ! うぅ! うぅ!」
こんな感じにしばらく、問答にすらなっていない不毛なディスコミュニケーションが続く。話をしたところでどうにかなるなんて全く思えなかったし、そもそも話なんてしたくなかった。ただ、晴香を馬鹿にされたにも関わらず、人形の恐怖に押しつぶされて何も出来なかった自分自身に絶望し、それでいて未だに脅えているが故に泣き続けた。
突然、暴力的な力によって腕が引っ張られ、布団が母親に取り上げられてしまう。俺はその勢いでベットの上に前のめりにつんのめって倒れた。
震える身体で、佇む母を見上げる。
「もう、いい加減にしなさい! そうやって泣いてばかりじゃ何も分からないでしょ! みっともない!」
そう怒鳴る母も、言うまでもなく人形の一体だった。
瞬間、俺は猿のような悲鳴をあげ、手にとった枕で母親に殴りかかった。
予想していなかったであろう行動にたじろぐ母親に向かって、爆発的に湧き上がってきた怒り、あるいは怯えの感情の赴くまま、遮二無二に殴り続ける。枕がすっぽ抜けてどこかに飛んでいくと、さらに手近に落ちていた本やらおもちゃやら筆記用具やらを手当たり次第に投げつけた。そして俺がはさみを投げつけた辺りで、母親は逃げるようにして部屋から出て行った。
俺は再び布団の中に潜り、絶対にここから出て行かないぞという決意をいよいよ固くした。
その後、夕食の席に呼ばれ、風呂に入るように言われたものの、俺はあらゆる呼びかけに断固として応じなかった。
一度、痺れを切らした様子の父親が部屋の中に入ってきて無理やり引きずり出そうとしたものの、俺はやはり徹底的に抵抗した。モノを投げつけ、殴りかかり、終いには掴みかかってきた腕に思い切り噛み付いた。
母親がそうであったように、父親だって人形だった。むしろ、母親なんかよりもよっぽど人形的な人形だった。そんな奴の呼びかけになんて応じるはずがないのだ。
やがて呼びかけの言葉もなくなり、暗闇に覆われた時間だけが無為に流れる。
腹は減り、汗もかき、心が弱り続ける。
布団の中は温かくて安心感があった。ここにいれば、全ての人形からから守られるような気がした。
それでいて真っ暗でただひたすらに不毛だった。ここにいると、決してどこにも行き着きはしないような気がした。
まるでここは、世界の終わりのようだった。