Neetel Inside 文芸新都
表紙

Pure and Easy
第九話「Are you gonna be my girl」

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   一


 照明の落とされた体育館の中で生徒達はただこちらに視線を集めている。それまでの出演者によって敷かれたブルーのビニールシートはすっかり埃と砂まみれになっているようだし、端の方に目をやってみるとぴっちりと張られていたシートはひっくり返ってすっかりその役目を放棄させられていた。
 壇上に上がって、まず感じたのはその熱気だ。汗まみれになって戻ってきた彼らの熱が、観客達の熱の込められた視線が、未だにこの場に残っている。ここはそう言う場所なのだ。ただ黙って聴いているだけの場所ではない。互いに熱と想いをぶちまける為の場所なのだ。
 そう思った瞬間、この熱に反比例して私の熱がぐっと下がっていく。ここでミスをして曲等止めようものなら、変な音を鳴らしたとしたら、この緊張のまま弾いている私を見たら彼らはどう思うだろうか。不安と吐き気がぐるぐると胃の中で混ざり合って出口を求めているのがすぐに分かった。だが、そんなことをしようものならそれこそ「この場を冷やす行為」となるだろう。
 逃げ場のない緊張が、もう上がってしまったという興奮に視界が狭まって暗くなる。
 震える足を引きずるようにしてアンプに近づいていくと、いつも利用しているアンペグにシールドを向ける。しかし、どうしてか何度やっても入る気配がない。
 横からスネアの音が聞こえた。気持ちの良い抜けるような宙のスネアの音だ。次にバスドラム、ハイハット、次々と聞えてくるその軽快な音に、何故だか私はその時早く自分も音を出さなくてはならないという気分にされてしまう。かち、かち、と窪みのない場所にシールドを差し込もうとする姿は、多分周囲から見たらとても滑稽だろう。でもそれが今の私だ。緊張に震え、みっともなく目をまわす。これが安藤奈津なのだ。

 震える右手を、誰かがそっと触れ、それからアンプにシールドを差し込んだ。
「深呼吸だ。奈津」
 優しくそう囁きかける声を、私は知っていた。この舞台にまで連れてきてくれた、私のやりたいことをプレゼントしてくれた声だ。
 目を閉じて、すう……と一度だけ空気を吸い込み、吐き出す。和音を乱すものが全部、外に吐き出されたような気がした。頭の中で鳴っていた雑音の塊が解けていく。
 スイッチを入れて、つまみを全てフラットにしたのち、ほんの少しだけBASSを弄る。十二時から一時へと。たったそれだけの小さな変化だけれど、この子の音は確実に変化する。
 指で四弦を弾いた瞬間、低音の壁が現れると私を通り抜け、向こう側へと飛んで行ってしまった。思わず振り返ってみたが、音はもうすっかり向こうまで駆け抜けて、溶けて消えてしまったところだった。
 大丈夫だ、いつも通りの私の音だ。真っ青なベースを見つめて私は頷く。ピックアップの傍の塗装が削れて、すっかり肌が見えてしまっている。よく見るとネックの裏側にも黒ずんだ跡が見られる。
 気がつくと後でささやいていた彼の姿もない。ドラムの先を見ると、ギターを提げた彼が足元を弄っているところだった。あれは錯覚だろうか。いや、しかし耳元ではっきりとその声が確かに聞こえたのだ。暫く考えて、しかし答えが出ないもどかしさを覚え、とにかく今はこの状況に向かっていくことなのだと頭を強く振った。
 今日がその日なのだと、自分に向けて小さく呟く。この楽器を持ってから変わった私を見せる日がきた。全てここで音を出す為に始まったとすら思っていた。いや、むしろこのスタートラインに立つ為に今までがあったのかもしれない。
「安藤さん、もう大丈夫?」
 自分の設定を終えた蜜柑が駆け寄ってくる。やっと自分の準備が終わって、緊張している私に声をかけようと、そういった顔をしていた。なら、さっきの彼は蜜柑ではなかったのだろうか。しばらく彼の顔を見て考えていたが、やめた。どちらにせよ彼に助けられたことに変わりはないのだから。
「うん、でもまだちょっと怖い、かな」
 そう言うと、彼は私の両手を自らの手で包みこみ、強く握りしめる。そして、私の目を見て笑う。
「そういう時は深呼吸しよう」
 思わず、笑ってしまった。
 どうしたの、と蜜柑は戸惑っているが、なんでもないと返答して、それからすっかり軽くなっている身体に気づいた。
「とにかく、一曲目は分かってるよね?」
「うん、タンバリンの音がして、暫くしたら私が入るんだよね」
 彼は頷いた。
「それじゃあ、今日は【Undo nut’s】の初ライブだ。精一杯楽しもう」
 そう言うと、彼は踵を返して自分のセットの前へと帰って行った。ふと私がドラムの方に目を向けると、宙は意地悪そうににやりと笑みを浮かべ、こちらを細い目で見つめていた。
 分かっている。
 でも、これはもう少しだけ先延ばしにしておきたい感情だ。まだ私の中で全部まとまっているわけではないから。
 宙にそう目線で返し、私はもう一度深呼吸した。頭の中の和音は名残惜しそうにこちらをちらりと一度見た後、先ほどのように吐き出されて消えて行った。

 話は一週間前に遡る。
 これは、私の所属するバンド、Undo Nut’sの一生忘れることのできないであろう出来事で、初めて人前で音を合わせた時の話である。

     



   二


 蜜柑と共に喫茶店の前で待っていると、斉藤宙は普段の大人びた彼女からは想像することのできないスキップでこちらにやってきた。通りを抜け、駐車場でくるりと一度回転をすると、一緒になって耳からピンクのパーカーの前ポケットに繋がっているイヤホンのコードが揺れる。
「遅れちゃってごめんね、部のミーティングに顔出してたら話しこんじゃって」
「まあ今日はミーティングだし困ることもないよ」
 蜜柑は落ち着いた様子でそう言うと、喫茶店の扉に手をかける。
「でも、ミーティングって何するの?」
 連絡を受けてからずっと腑に落ちなかった部分をやっと口にした。二人は一度顔を合わせた後、悪戯ににやりと笑みを浮かべ、喫茶店へと入って行ってしまった。何一つ答えをもらえなかった私はそこに立ち尽くしたまま、口をだらしなく開け、閉まっていく扉を見つめていた。
 何か、重要な出来事でもあるのだろうか。

   ―――――

「学園祭でライブをします」
 暫く彼の言った言葉が理解できず、何度も二人の顔を交互に見てしまった。宙はおばさんの運んできた紅茶を手にすると、上品に口をつけている。あまりの驚きで思考の止まった私の顔が面白いのか、おばさんや二人を含め、他の常連客たちもこちらをちらりと見ては口の端を上げて笑っている。
「え、ライブ……?」
「宙が今日遅れた理由はそれなんだ。ライブハウスでやるにはできる曲が少なすぎるし、なにより自作曲が一つもない。それに、うちにはライブ初心者がいるんだからそんなところから始めるよりもっとやりやすい場所があるならそっちにしておきたい」
「そこで私が提案したの。丁度休部も解けたし、部員もしっかり練習してたみたいだから、どうせなら学園祭の定期演奏会にUndo nut’sをねじ込んでもらおうって。話が確定するまで伝えられないから、結構手間取っちゃって……。ここ最近やってきた曲は大体そのライブの為のものだったの」
「え、でも学園祭って言ったらあと一週間後じゃ……」
 私の言葉を宙が指で止めると、
「今までどれだけ練習してきたと思ってるのよ。そろそろ披露する場が欲しいとは思ってたでしょう?」
 え、でも……。どんな言葉を口にしようか迷いながら、私は蜜柑を見た。
「今までじっくりと腰を据えてやってきたからね。緊張で色々分らなくなっちゃうかもしれないけど、学校での演奏だからきっとどうにかなるよ。俺もそろそろ人前で思い切り歌いたいってのもあるから」
「なっちゃん、そろそろ学校の方でも、素顔になろう」
 宙の言葉を聞いて、私は息を飲み込む。確か、学園祭の件で幾つか頼まれごとをしていた覚えがある。鞄に入っていたメモ帳を取り出して開くと、ペンの頭を顎につけたまま唸る。多すぎてメモ帳に写すことをやめた為全ては把握することはできないが、それでもこの一週間は十分に忙しくなるほどの仕事が入っている。どれも私の仕事量を買ってのことだと思うのだが、実際に思うと別に私でなくても問題のない仕事がないとは思えなかった。それこそ生徒会の方に仕事の斡旋でもお願いすればいいのかもしれない。
 ふと視線をメモ帳から上げて二人を見て、それから顔がぐっと熱を帯びていくのを感じた。それまでなら渋っていただろう状況に対して、私はもう止める算段をつけ始めている。なによりもライブの方を意識して学園祭に挑もうとしているのだ。
 なんだかそれがむず痒くて、恥ずかしくて紅茶を手に取るとぐっと飲み干して、カップで二人の顔が見えないように遮った。多分二人には私がどうしてこんなに合わせてているのか大体分かっているんだろうなと思う。それだけに余計恥ずかしくて、でもそんな自分が前よりも好きな気がして否定ができない。
「やってやろう。すごいバンドが生まれたって思わせよう」
 熱のこもった言葉でそう言ったのは、蜜柑だった。一番気持ちが高ぶっているのは宙かとばかり思っていたのだが、この様子を見るところ一番は蜜柑のようだ。何故だろう、そう思うと少しだけ顔の熱がすっと冷めて、程よい温度にしてくれる。ぬるま湯のように温くて、心地良くなってくるのだ。
「宙も、蜜柑も。組んでくれてありがとう」
 照れくさいから全てを言う気はないけれど、とにかく口にしたかった言葉を二人に向けた。この二人のおかげで私は変われたのだ。
 だからこそ、変わった自分を見せなくてはならない。それが変わろうとしたことへの責任である気がした。

   ―――――

 ミーティングを終えて喫茶店を出る。まだ二時前を回ったくらいで、まだ時間としては十分にある。このまま帰宅して練習をするのも良いかもしれない。もしくはあのレコード屋で少しの間物色するのも良い。ついこの間借りたポリスはすっかり私のお気に入りになっていた。今度行ったらどんな曲を紹介してもらえるのか、少し楽しみにしていた。
「なっちゃんはこれからどうするの?」
「ちょっとレコード屋に行こうかなって、おばさんに教えてもらった場所があって」
 私の言葉を聞いて、蜜柑が目を細めた。彼も確か常連だった筈だ。あの店主の口ぶりから窺うに最近は全く顔を出していないようだが。
 おばさん、という言葉に宙は頬に手をあてて思考を巡らせ、ああ、と納得した様子で蜜柑を見た。
「部長のとこの店か」
「部長?」私が繰り返すと宙は頷いた。
「スーツ着たおじさんがレジやってるでしょ」
 私は頷く。
「あそこ部長のおじいちゃんがやってるのよ。蜜柑が退部するまではしょっちゅう二人で通ってたって話聞いてるよ。喫茶店にも顔出してるし」
「うん、喫茶店に来てるのは教えてもらったけど、そっか、蜜柑と部長さんで来てたんだ」
「もう昔の話だよ」
 珍しく鬱陶しそうな態度をとりながら蜜柑は言った。はたして部長と何があったのだろう。これだけ話したがらないのだから、多分相当なものなのだろう。
「とにかく俺はいいよ。行きたいなら二人で行ってくれ。ああ、あと安藤さん」
 首を傾げていると彼は鞄を探り、CD入りのケースを取り出して一枚私に手渡す。何か彼の好みの曲でも見つかったのだろうかと思ったが、ラベルはおろかカードさえ入っていない。何の変哲もないそこらで売っているものだ。
「何が入ってるの?」
「曲を作ったんだ。この三週間で間に合わせたい」
 その言葉を聞いた時、彼の無茶な提案に言葉を飲んだ。数か月かけて覚えてきた曲の数々にもう一曲。それも多分彼の口ぶりからオリジナルであることは予想できる。
「曲作りは、まだやらないって……」
「俺もそのつもりだった。一昨日くらいかな、ふとサビが浮かんで、サビを作っているうちに他が浮かんで、いつの間にか構成ができてたんだ」
 私は助けを乞う様に宙を見た。宙もどうやらこの話は初耳らしく、じっと蜜柑を見つめていた。しかしその目は怒りや驚きと言うよりも、ただ真摯に彼の言葉を聞くためのものであるように思えた。
「あまりにも順調過ぎた。でもこの時期に間に合ったってことは、なんか、ここで披露する為にできたように思えて……」
「それで、できるの? 一週間で私となっちゃんが覚えて、ある程度のアレンジもして、歌詞も覚えてバンドで合わせてって。中途半端にしてまでやることじゃない」
 彼は、私と宙を交互に見た。
「蜜柑はなんでそんなに出来上がった曲にこだわるの?」
 それが聞きたかった。多分宙も同じ気持ちだったのだと思う。
 このプラスチックケースの中にはめ込まれたディスクの中に、彼がきっと何かしらの想いを乗せて作ったであろう曲が入っている。それを無下にする気持ちは全くない。ただ、メンバーとして、バンドとして曲をやる上でそれに込められた想いだけは知っていなくてはならない。そんな気がしたのだ。
 蜜柑は私の手からケースを取ると、じっと見つめる。その目は、ただ自分の作った曲をやりたいというだけのものではないと感じた。
「……おじさんが、好きだって言ってくれたリフなんだ」
 そっと開かれた口から洩れた言葉だった。
「ずっと前から考えてたリフなんだ。自作曲なんぞ十年早いって言われてた俺が唯一褒めてもらえたフレーズが入ってるんだ。前からずっと曲にしたいと思って、でもそれ以上は繋がらなくて……」
 その言葉の中に、私の会ったことのないおじさんの姿があった。ケースをぐっと握り締めながら語られるその後ろ姿を思い描きながら、もし私も会えることができたのなら、私はもっと早く変われたのだろうか。ふとそんなことを思ってしまう。
「五日」
 宙はそう言うと、左の掌を蜜柑の前に突き出した。
「今まで三人でやりたい曲を調整してやってるから、もうセトリにできるようになってる。だから最終調整くらいでどうにかなるレベルだと私は思ってる。だから、毎日二時間、計十時間の合わせで完成しないなら、この話はなしにする」
 宙の提案はある程度妥当なものだった。何よりも練習時間に関しては私から提示できる時間の限界だ。これ以上となるとどうにもならない。断ることのできるものは全て断るつもりだが、それでもある程度の仕事は残ってしまう。
「分かった。それでいこう。安藤さんもいいかな?」
 宙と一瞥して、それから頷いた。

 蜜柑と別れ、宙と共に商店街を歩く。目的の店へと向かう中、互いに特にこれといった会話は交わさなかった。多分、互いに蜜柑のあの想いにどう応えようか、それを考えていたのだと思う。
 午後三時の商店街はそれほど人が多くなくて、並ぶ店のどこを見ても暇そうな店員がレジカウンターに頬杖をついていた。子供たちのざわめきもなく、通りのカフェを覗くと主婦達が歓談をしているのが見えた。テーブルに乗ったいちごのパフェがおいしそうで、帰り際に何か果物でも買って帰ろうかな、と思い立つ。
「今日の蜜柑、良かったね」
 イチゴのことで頭をいっぱいにしている時に、隣を歩いていた宙が言った。蜜柑が良い、とはどういうことだろうか。
「あいつって人の意見ばっか尊重する奴だから、あそこまで自分を通したがる姿、実は初めて見たんだよね」
 宙の言葉に私は思考を巡らせる。
「私はあいつが好きだよ。精一杯なところとかがさ。だからバンド組もうって言われた時、喜んで引き受けたんだ。あいつのすることを後ろから見てやりたい。支えてやりたいって思えたからね」
 もちろんなっちゃんも、と私の名前を付け加えると宙は笑う。その言葉の一つ一つが、なんだかとても照れくさくて、甘くて酸味の広がるような感覚に浸るのが少し怖くなった。
「宙は蜜柑が好きなんだね」
 そう言うと、宙はしばらくじっと目を見つめ、それから笑った。笑いながら私の髪の毛を手でぐしゃぐしゃとかき交ぜる。
「なっちゃんの好きとは違うから、安心してね」
 初めは何を言われたのか分からなかったけれど、乱れた髪をまとめ直しているうちにその理由にやっと気づいて、私は慌てて首を振った。こころなしか全身が暖かくなっていく感覚を覚えたが、気のせいと自分に言い聞かせ、仕返しとばかりに宙の頭を掻きまわす。
 なっちゃんは面白いなあ。宙は声をあげて笑っていた。

   ―――――

 レコード店に着くと、あの紳士のような風貌をした店主が出迎えてくれた。また私がやってきたことが嬉しいらしく、丁寧な口調で挨拶をしてくれた。
「先日紹介したポリスはどうだったかな?」
「とても良かったです。素敵なドラムを堪能させていただきました」
 紳士と会話をしていると、私の口調もどこか矯正されて丁寧になってしまう。変に影響力のある男性だと彼にお辞儀をしながら思う。それは良かったと紳士は上機嫌に答えると、続いて宙に目を向けた。
「斉藤君も久しぶりだね、うちの孫が随分と迷惑をかけてしまったそうで。申し訳ない」
「いえいえ、そんなことないです」
 孫、とは誰のことだろうか。そんな疑問を浮かべていると、宙が気づいたらしかった。
「美月六郎さんの孫が、うちの軽音学部の部長なのよ。美月螺子っていう名前なんだけど、学園祭が終わった頃に戻ってくるんじゃないかな」
 螺子という不思議な名前に関心しながら、この紳士の名前を前回聞けていなかったことに申し訳なさを覚え、改めて彼にお辞儀をする。
「この間はお名前も聞かずにごめんなさい、美月さん、私安藤奈津と言います」
「これはこれは、丁寧にどうもありがとう。私は美月六郎です」
 そんな私達のやりとりを見ていた宙がくすりと笑い、それから美月さんに声をかけると、先ほどの蜜柑のケースを取り出した。
「ちょっとプレーヤー借りてもいいですか? 「あの蜜柑」が初めて曲持ってきたんです」
 ほう。美月さんは興味深そうに口元の鬚を撫でつけるとレジ奥の扉を開いて私達二人と手招きする。
「それはとても聴かせて頂きたいね」

 隣の部屋に移って、CDプレーヤーに今日蜜柑の持ってきたディスクをセットして再生を押す。その間紳士こと美月さんは紅茶を用意しようと言って台所へ消えてしまった。
 美月さんの部屋は三人入っても随分と広いものだった。勝手に西洋風の家具が置かれているのではないだろうかと予想をしていたのだが、壁に幾つかのレコードがかけられていたり、レコードプレーヤーからカセットプレーヤー、それらを繋ぐ黒いスピーカーが設置されていて、更に壁際にはアップライト式のピアノがあって、アコースティックギターやベース等が何本か掛けられていると想像とは全くかけ離れたものだった。
 部屋の内装を見ると紳士ではなく、音楽家といった印象を受けた。暫く物珍しそうに部屋中を見回していると、スイッチの押し込まれる音が響いて、それから歪んだギターがスピーカーから飛び出した。
 宙が椅子に腰かけたので、私もテーブル横の椅子に座った。
 クランチより少しだけ重たい歪んだ音。蜜柑のいつものセッティングだ。聴き馴染みのあるギターがエイトビートに設定されたリズムトラックの中で動きまわる。印象的なリフの応酬と、低音を支えるベースのルートが曲のバランスをうまく取り持っていた。
 前奏が終わり、Aメロに入ると蜜柑の歌声だギターに乗っかった。いつもの高音の心地よい澄んだ歌声。歌詞はまだついていないのか、ただ声を出しているだけのメロディである為、曲ができるまでの過程を知らない私にはとても新鮮に思えた。詩がなくても十分に聴ける声だ。
 聴いていて、すっと私の中にこの曲を好きだと思う気持ちが芽生えていた。コピーの時も、聴いているだけと音を出すことは全く違っていた。ならば、この曲を実際に三人で合わせた時、どんな音になるのだろうか。そう考えながらふと隣を見ると、宙が目をつむり、リズムを取りながら両手を動かしていた。どのようなフィルが入るのか考えているのだ。この単調なリズムをどのように自分色にすることができるのか。つまり、彼女もやる気なのだ。
「おじさんが好みそうな曲ですね」
 紅茶を淹れて戻ってきた美月さんは、昔を懐かしむように鬚を撫で、それから中央のテーブルにカップを置くと、洋菓子も一緒に置いた。
「蜜柑が、このリフはおじさんに褒められたって言ってました」
「やはりそうでしたか。しかし面白い曲ですね。あの子のやりたいことがすべて詰まっているのかと思ったのですが、リズム隊に関しては何も色を付けていない」
「色を?」
「自分だけの色にはするつもりがないのでしょう。ギターとメロディに関しては丁寧に織り込まれていますが、他は基本に沿ったものだ」
 隣で目を瞑っている宙は即座にそれを理解したのだろう。だからこそ、今こうして音を模索しているのだ。何度も何度も蜜柑の曲がリピートされる中で、私は紅茶に口をつけた。とても香りの良いものだ。
「それだけ信じることのできるメンバーを集められたと思ってるのでしょう。安藤君も音楽的な好みとしては非常に蜜柑に似通うところがあるからね。初心者だとしても君なら良いベースを付けてくれると信じているのでしょう」
「そんな、私は蜜柑に勧められてるものを聴いているだけですよ」
「勧められたとして、聴くのは君であり、のめり込みたい、もっと聴きたいと思うのも君ですよ」
 自身をもちなさい、と微笑む美月さんを見て、それから黒いスピーカーに視線をやる。この蜜柑の曲に、私がベースをつけることになる。そう思うと、次第に私の肩に重たいものがずしりと乗っていく感覚がした。
 こんなにいい曲なのに、私の要素を盛り込んでもいいものだろうか。始めたての私が。
 不安に戸惑いつつも、この曲ができることを願った。五日間の間に、私達三人の音でどのような音が生まれるのか、楽しみな自分もいた。

 あと七日間。
 私は、どんな音を蜜柑に提示できるだろうか。観客に表現できるのだろうか。

     



  三


 左のイヤホンからどこか寂しげなオルガンの音が鳴り、暫くして歌と共に楽器隊がやってきた。それぞれが私を囲むようにして演奏を始める。私はその中で踊るのだ。一歩、二歩とステップしながら彼らの作り出したメロディの上を鼻歌交じりに。
 ストロヴェリーフィールズフォーエヴァーの言葉を囁くと、心のどこかが落ち着くような気がした。私は果物でも頬ばったみたいに口を膨らまし、小さくすぼめた口から息を吐き出す。
 たった四分間を泳ぎまわる私を月が見つめている。踊るには少し遅すぎやしないかと訴える彼を一瞥して、構わずに私はステップを踏んだ。月ももう呆れてしまったようだ。私から目を背けるとそっぽを向いてしまった。分厚いホイップのような雲を通してレモン色の丸いシルエットを残す姿は、どこか滑稽だと思った。どんなに隠れようとしても見つけられてしまう。あまりにも目立ち過ぎるのだ。
 そうこうしているうちに到着した自宅を見上げる。窓から明かりが漏れていて、通気口からは空腹を誘う匂いが漏れ出ている。甘辛い匂いだ。慌てて階段を駆け上がり、扉を開け、自室の扉の前に荷物とウォークマンを適当に放ると一番奥のリビングの扉を開けた。
「あら、おかえりなさい」
 母はそう言うと右手のオタマを私に向けて小さく振った。コンロに乗った圧力鍋が火にかけられ、蓋の先端から白い蒸気を立てている。十分に手入れのされたウェーブがかっていた筈の髪は後頭部の方で赤いシュシュによってまとめられ、一房の束になっている。
「遅くなってごめんなさい」
「いいのよ、今日は珍しく早く帰れたから、折角だから私がごはん作っちゃおうって思ったの。私の手料理を久々に御馳走してあげる」
 申し訳なさそうにする私の頭を撫でながら母はそう言った。それから圧力鍋が甲高い悲鳴を上げ始めたことに驚き、慌てた母は素手で鍋の縁を掴んでしまった。
「熱っ!」
「もう、早くお水につけて」
 指を咥える母の傍に駆け寄るとレバーを思い切り下ろし、その指を強引に口元から引きはがすと蛇口から吐き出される冷水に当てた。指に当たって跳ねた飛沫がシンクをタン、タンと鳴らす。幸い一瞬であった為水ぶくれにはなっていないようだ。
「ふふ」
 大量の水を指に当てたまま母は笑う。何がそんなに面白かったのだろうか。私としては危うく怪我をするところだった彼女の心配をしたいところなのだが、いかんせん火傷をした本人がこの調子だと眉を顰めるくらいしかできなくなってしまう。
 暫く訝しげな表情で見ていると、母はやっと私の視線に気づいたようで、ああ、と呟くと冷水の当たる指を懐かしそうに見つめる。
「奈津が初めて料理した時は、逆だったのになって思っちゃったの」
「私?」
「そう、貴方。お母さんの代りをするんだーって張りきって、レシピ本買ってきて料理始めたかと思ったら手順が上手くいかなくて、結局パニック起しちゃってそのまま鍋の縁触っちゃったのよ?」
 そんなことあっただろうか。どうにか記憶をさかのぼってみるのだが、そんな光景は全く浮かんでこない。
「今じゃあ貴方の方がお料理は上手いものね。帰ってくるととっても美味しいご飯が食べれるから私、幸せよ」
「そんな、褒めないでよ。私はちゃんと家での当番を決めておきたいだけ。だってそうしないと家は汚くなっちゃうし、お母さんだってお腹空かせたままになっちゃうでしょう」
 それもそうね、と母はまた笑うと、鼻歌を歌い出す。そのメロディを聴いていて、初めはそれがなんなのか分らなかったのだが、サビと思われる部分に入った瞬間に頭の中で該当する一曲が浮かび上がった。
「最近、貴方の部屋からしょっちゅう聴こえてくるから覚えちゃった」
――Don’t look back in anger
 次のライブで考えられているうちの一曲だ。演奏自体は非常にシンプルであるし、蜜柑のギターなら一本でもどうにかなるだろう。非常に薄くはなってしまうが、なにより歌がメインであることからこの曲が選ばれていた。
 しかしこの曲を母が覚える位真面目に聴いていたことに驚いてしまった。
「すっかり頼り切っちゃってたのに、こんなこと言うのは良くないかもしれない」
「何?」
「奈津らしく生きなさいね」
 冷水から指を離すとレバーを上げて水を止め、再び沸かした鍋に手をかける。
「誰かの為にすること、素敵だと思うし、そうやって人のことに真剣になれる奈津は素敵だと思うわ。でもね、今貴方が立ってるのは貴方の道なんだから。誰かの道を繋ぐ為に貴自分の道を切り取る必要はないのよ?」
「そんな、無理はしてないよ」
「一生懸命お母さんの為を思ってやってくれているのは十分に分かってる。ここ最近はすっかり家に帰るタイミングもなくて貴方に頼りっきりだったからね。でも、娘の道を切り取ろうと思う親なんていないの。ましてや受取ろうとする親なんて、ね」
 蓋を開けると、圧力鍋の中から醤油ベースの甘辛い匂いが湧きあがる。濃い飴色をした液体の煮え立つ中に網目状の紐に縛られた肉の塊が入っていた。すっかり焦げ茶色に変化した肉の香りは、私の空腹を擽る。
「したいこと見つかったのなら、精いっぱいやりなさい。最近の奈津、とっても奇麗になったもの。どちらかというと家事の心配とかよりも、貴方が生き甲斐になるものを見つけたんだっていう安心の方が大きかったもの」
 ぼうっと母を見つめる。母の料理を口にできる日は、本当にいつぶりなのだろう。帰ってくるといつも一緒に囲んでいた机が、一人だけになったのはいつだったろうか。
 私が頑張っていれば、完璧になれば、いつか母は帰ってきてくれる。忙しい中でも一緒にいられる時間を作ってもらえる。誰に言われたわけでもないのに、いつからか私はそう思っていたのだ。だから全部頑張った。とにかく母と一緒にいたいが為に。
 もっと早く気づきたかった。やりたいことが見つかっていれば良かった。そうしたらもっともっと早い段階で母と過ごせる時間が増えていたのかもしれない。ああ、私はいつだって遠回りなのだ。楽器も、生活も、全て。
「駄目だな、私。いつも遠回りばっかりだ」
「あら、いいじゃない遠回り」
「なんで?」
「遠回りでもちゃんと歩いてきたから今があるんだもの。近道したって今みたいな気持にはなれないわ。貴方はこの道だからこそ自分を生かせると思った。そしてそれは見事に叶っている。素敵じゃない」
 なんだか母の言葉がむず痒くて、思わず私は俯いて唇を噛みしめてしまった。全身がそわそわする。
「遠回りなんて思うほど大した距離じゃないわよ。振り返ってる暇があるなら前を向きなさいな。いつでもできる後悔なんて放り投げちゃいなさい」
 母は多分、これまで構う事が出来なかった分、きっと私に言いたいことが沢山あるのだ。それまで母としての仕事を全うできなかったことを悔いているのかもしれない。きっと私が完璧であろうとした時期よりもずっと長い期間。だからこそ、変われた私を応援したいと思っている。ただ好きなことに身を傾ける娘の姿を見てとても喜んでいるのだろう。
 ならば、私は娘として母にその姿を見てもらうべきだ。
「ねえ、お母さん」
「なあに?」
 柔和な笑みを浮かべながら母は首を傾げる。
 いち、に、さん、し……。
 カウントと呼吸を合わせて、私は口を開いた。
「今度の学園祭、私がバンドで出るの。だから、見に来て」
 一歩づつ、何もかもが変わっていくのを感じていた。
 何を今更と言わんばかりに母は笑うと、それから穏やかな瞳を私に向けて、一度だけ頷いてくれた。
 以前宙が言っていた。ライブはその時の感情を思い切り吐き出すものだと。エモーショナルという言葉がそれだと。激しくなくても、大人しい曲でも、その人が伝えたい気持ちさえあればエモーショナルな演奏はできるのだと。
 蜜柑がおじさんに伝えたい気持ちがあるように、私はきっと、母に伝えたくてたまらないのだ。今自分が見つけた全てを吐き出すことで、私の精一杯を聴いてもらうことで、それが母への感謝になる気がする。

   ―――――

 ひたすらに繰り返されるコードの応酬の中で、私は一人フレーズ選びに手間取っていた。動き過ぎれば他にうまく乗らない。かといってルートを主体にしすぎると単調になってしまう。着実にアレンジを練っていく宙とは違い、私は未だにこの曲にどうやって向き合うべきなのかどうしても答えが出ずにいた。初ライブにして初めて母に見せる演奏なのだから、私なりに何か伝えたいものを探さなくてはならない。
 サビ前で止まってしまった私に二人からの視線が注ぐ。初心者というアドバンテージはあれど、流石にこう何度も止まってしまうのでは話にならない。しかし、聴けば聴くほど、彼女のドラムに乗せようとすればするほど、彼の歌声が活きるラインを探せば探すほど何もわからなくなっていく。引出しのない机で、それでもどこかに取っ手があるかもしれないと探すのだが、どうにもならない。
「少し休憩しよう。まだ初めての練習なんだから、追い込まれるほどの時間じゃない」
「ごめんなさい……」
「気にしないで、元々無茶を承知でやってるんだから」
 蜜柑の言葉は優しい。でも、今回に限ってはその優しさも、焦りの上で薄く伸びているだけで、本心としては早く完成させたいという気持ちが先行しているようだった。宙も次々とフィルやパターンを試してはパズルのピースをはめる様に宛がってみるが、どうにも納得のいかない様子だった。
「少し声を出し過ぎた。外で飲み物買ってくるよ」
 そう言ってスタジオを出て行った蜜柑の背中を見送った後、私は指板に目を落とした。なんとか出かかっている筈なのだ。たった一つピースさえはまれば次々と欠片が出てくる気がする。フレーズの引き出しがないなりに、私が提示できる音はある筈だ。
「なんか、なっちゃんさ、気負い過ぎてない?」
「え?」
 宙は右手のスティックを器用に回している。
「無理に動くことが必ずしも良いフレーズとは限らない。時々少し動くだけでも、それがドラムと奇麗に合うだけで化けるもの。特に今四弦から二弦とか縦横無尽に駆け巡ろうと考えてるでしょ」
 図星だった。ぐりぐりと動かすことでカッコいいラインが作れると、この曲の中で活きるフレーズが作れると思っていた。それこそジョン・エントウィッスルのように。
「なっちゃんこの曲、指弾き? ピックも大丈夫だった筈よね?」
「うん、ライブでもピックは使うよ」
 そう言って私はポケットからピックを取り出す。厚すぎるものは嫌いなので、0.8の三角ピックを好んで使う様にしていた。人差し指と親指でそれを挟むと、四弦に対してなるべく平行であることを意識しながら振り落とした。
 指の時とは違った、硬質的な音がアンプから飛び出す。
「はじめのフレーズ、ダウンピッキングでひたすら刻んでみるのはどう?」
「動かなくていいの?」
「他の音を活かす為に、時には動かずに曲の基盤になることも大事なことだからね」
 それに。宙は小さく呟くとスネアの中央を一度叩いた。
「今、いろんなこと考えてるでしょ。何かライブを意識するようなことができたとか」
 簡単に見抜かれてしまい、何度も瞬きをして宙を見た後、私は頷く。
「やっぱりね。その気持ち全部まとめてダウンピッキングに叩きこんじゃいなさい。はっきり言ってなっちゃんはまだ自分の特徴すら理解できていない状態なんだから。うだうだ考えるよりも頭空っぽにして弾いた方が絶対に良いものが出てくる」
「そう、なのかな?」
「自信持ちなさい。自分のことを信頼して、身を委ねてみなさいって。少なくとも何か一歩進めると思う」
「う、うん」
「まあ、それよりも問題は蜜柑の方なんだけどね……」
「蜜柑が?」
 憂いを秘めた視線を宙は二重扉の方に向ける。蜜柑はまだ休憩中なのだろう。しかしあのすっかり参った顔は一体何なのだろうか。
「歌詞ができてないのが致命的なのよ。覚えられるかどうかギリギリのラインでまだ一行もできてないみたい」
 そうか、蜜柑には歌詞制作もあるのか。そういえば練習の間彼は相変わらずただの声だけで曲にメロディを付けていた。最後までできている筈のメロディに文字を埋め込むということは、それほど難しいことなのだろうか。
「歌詞一つでその曲の世界観も、明るさも全く変わっちゃう。いわば曲に人格を植え付ける為の行為だと私は思ってる。メロディに乗ることでオーディエンスに最も大きな影響を与えることができるからね」
「それができていないってことは……」
「まだこの曲は、骨に肉を付けてるだけ。魂までは入ってないのよ。更に言うと、曖昧に歌詞を記憶したまま歌われるのは嫌。作った曲を完全に理解しきれてないようなもんなんだから」
「他の人がアイデアを持ってきたら、駄目なのかな?」
「私となっちゃんのどっちかがってこと? あれだけ思い入れのあるフレーズを持ってきたんだから、あいつなりにプライドがあると思う。伝えたいことも沢山あるだろうし、私達がすべきなのはあいつの世界に色を付けてやることじゃないかな。歌詞を作ってしまうのは、違うと思う」
「そんなこと言って、宙は詩はあんまり書きたくなかったりするんじゃないの?」
 図星だったようで、照れくさそうに笑みを浮かべると宙は鼻の頭を掻いた。その姿が少し可愛くて、悪戯な笑みを浮かべて彼女を見るのだった。

   ―――――

 練習を終え、宙と別れた私達は夜道を二人で歩いていた。寄るところがあると言って消えた宙の動向にも気になったが、横で俯いて歩く蜜柑の姿の方がとても心配でならなかった。
 結局今日のうちにできたのはイントロ部分だけで、ピックに変えた私のルートが奇麗に乗ったことで一つの関門を抜け出せたは良いが、今度は蜜柑がメロディにどうにか歌詞をねじ込もうとして何度も失敗し、根詰めしても良くないという宙の判断から、今日はスタジオのランプが点滅する前に片付けを終え、店を出たのだった。
「まだ一日目だけど、中々掛かりそうだね」
「うん」
「でも、ピックに変えた判断は合ってて良かった。宙の助言のおかげなの」
「うん」
 続かない会話が私の居心地を悪くさせる。ただ二文字の言葉がこれほど私の胸をぎゅっと締めつけてくるとは思わなかった。
「歌詞はどう?」
 どうにかこの欝屈とした空気を払ってしまいたい。その為に私はあえてそこに触れてみることにした。
 すると、蜜柑の足が止まってしまった。
「どうかな、必死にもがいてみてはいるんだけどね、どうにも思いつかないんだ」
「どんな詩にするつもりなの?」
「感謝、かな」
「感謝」
 私は繰り返す。
「そう、感謝。ありがとうとかじゃなくて、ただただこうして歌える喜びとかさ、誰かと一緒にバンドをやれている嬉しさを歌いたいなって思うんだ」
 その感謝の中には、彼は何も言わないがきっとおじさんの姿もある。こればかりは多分無意識だ。本心として言っているつもりだが、その中におじさんの言葉や生き様がしっかりと根付き、呼吸をしているのだ。
 それはきっと素晴らしいことだと思う。けど、ふとたった一つの不安が私の中で揺らいでいた。
 はたして、彼は園田蜜柑であるのだろうかということ。
 自然とおじさんの道を追おうとしている気がしなくもないのだ。これが悪いことだとは思わないけれど、私と宙は彼の世界に色をつけたいと思っているのだ。決してそれはおじさんではない。
「ねえ、蜜柑」
 四拍子を数える。
「なに?」
 もう一度四拍子。それから、口を開いた。
「蜜柑は蜜柑らしく生きてね」
「どういうこと?」
「お母さんに言われた言葉なの。自分の道を歩くべきだって、他人の道の為に自分の道を切り取って貼り付けるのはいけないことだって」
 蜜柑の視線が、少しだけ細くなるのが見えた。でも、私は退かない。
「私は蜜柑の歌が聴きたいんだよ。私だけじゃなくて、宙も。Undo Nut’sのメンバーは、貴方の一番のファンなんだから」
「俺のファン?」
「そうだよ」
 顔が熱い。喋るために開けた口から言葉の代わりに火でも吹き出てきそうだ。とても恥ずかしい言葉を繰り返し言いながら、それでも蜜柑には知っていてほしいと照れくささと恥ずかしさを喉元へ押し込むと火照る顔を仰ぎながら笑う。
「蜜柑の伝えたいことは、なんなの?」
 暫く彼は空を見上げて思案を巡らせているようだった。彼の中からおじさんを取り除くことはできない。いや、取り除くことがいいとも思わない。けれど蜜柑がおじさんになる必要はないのだ。私が完璧であることを目指していたように、蜜柑もまたおじさんという完璧を目指していた。
 似た者同士だからこそ、私はその気持ちをくみ取りたいと思った。組み取った上で、自分らしさを探して欲しいのだ。

 今度は、私が彼を見つけてあげる番だ。

     



   四


 ふと声がした気がして、私は振り返る。けれどそこには誰もいない。真っ白い部屋と、私だけ。
 あの声は蜜柑だったと思うけど、視認できないのではどうしようもない。何故ここにいるのか状況を把握しきれない私は、とりあえず部屋の中心でしゃがみ込んでみた。とりあえず、全てが見渡せる位置にいたいと思ったのだ。
「――――た―――――き」
 掠れた声だった。呟いた言葉はまるで、ところどころ削ぎ取られたような形で私の口から出て行く。空白だらけの言葉からは、意味を読みとれそうもない。
 もう一度、声がした気がした。やはり蜜柑の声だ。
 すぐそこに蜜柑がいる筈なのに、なんで見つからないのだろう。こんな真っ白な部屋の中心に座っているのに、あるのは真っ白な壁が四つ。
 何も聞こえない。何も言えない。
「――な――――――――――き」
 何度叫んでも、言葉は言葉として機能してくれない。私は立ち上がって右側―それが右であるのか、確信はあまりない―の壁へと歩み寄った。私が今何故ここにいるのか、その明確な理由が欲しくてたまらなかったのだ。
 白い床の上を歩くと、硬質な音が響く。硬くて冷たい音なのに、暫くするとそれは輪郭がなくなって消えていく。
 また、蜜柑の声だ。先ほどよりはっきりと聞えるようになった。どうやら向かっている方向に蜜柑がいるようだ。でも、目の前にあるのは壁だ。汚れ一つない純白の壁。この壁の先に行くには、一体どうすればいいのだろうか。
「――――――た――――――き」
 白い壁を手で叩いてみても、音はおろか衝撃すらなかった。手も痛くなければ、壁に傷もつかない。これは一体どんな材質でできているのだろう。しばらく何度も叩いてみて、結局なんの効果もないことを知った私はとうとう諦め、壁に背をつけ、滑り落ちるようにしてしゃがみ込んだ。蜜柑にはどうにも会えないようだ。
 向こうから何度も蜜柑の声がしているのに、私は彼の言葉も、姿も見つけることはできない。声がするのに、言葉が理解できないのは何故だろう。私の声も、掠れてすっかり聞き取れないし、この部屋にいるせいなのだろうか。
 壁に頭をつけると、全身が落ち着いた。このまま諦めて眠ってしまうのもいいのかな、なんて考えているのだが、不思議と眠気もなく、目を閉じても意識が落ちる気配はなかった。
「――な――――――――――き」
 掠れた声で、適当なメロディを歌ってみる。でもやっぱりその言葉は出てこなくて、そもそもこれはなんて言葉だっただろうか。口にしているのは私である筈なのに、それすら思い出せなくなってきていることに頭を抱えてしまう。
 いいじゃないか。何も知らなくても、蹲っているだけでも私はこうしてここにいられるのだ。蜜柑の姿を見つけられなくても、この囲いの中で一人でも落ち着いていられるのだから。
 そう思えば思うほど、今度は外に出たくてたまらなくなった。今まで安心できた筈の孤独が、これほど怖く感じるようになったのはいつからだっただろうか。なんでもできる安藤奈津に押しつぶされるのが怖くて、ひたすらに逃げていたのはいつからだっただろうか。
 この真っ白い部屋で孤独に溺れなくなったのは、いつからだっただろう。

   ―――――

 目が覚めて、分厚い布団と毛布を端に避けて上体を起こしてから胸元に手を乗せる。まだ心臓が高鳴っている。息も荒いし、気持ちの悪い汗でシャツがすっかり濡れていた。こんなに汗をかいたのはいつぶりだろう。それにしても酷い夢だったと、暫く深く呼吸を繰り返して、やっと落ち着いたところでベッドから降りた。
 昨日そのままにしてしまったベースとミニアンプが部屋の中央に転がっている。傍の机も散らかっていて、ノートや中身の飛び出たペンケース、そしてウォークマンが適当に置かれていた。そういえば昨日は、帰ってきてからすぐにベースフレーズを考えていたんだっけか。ミニアンプの電源を落とし、ベースをスタンドに立てかけ、一定のスペースができたところでそこに座りこむ。
 夢を見た。真っ白い部屋の夢だ。今まで見たことのない妙に現実味のある空間に、たった一人私が蹲っていた。
 私は、まだ自分を偽っているのだろうか。変わることができていないのだろうか。そんな不安を抱かせるには、十分すぎるほどの夢だった。
 とにかく変にマイナスのことを考えるべきではない。立ちあがり、自室の扉を開けて廊下を通るとリビングへと向かう。
「今日は随分とぐっすり寝てたわね」
 リビングに入ると、母が紅茶を片手に私を見てそう言った。テーブルを挟んだ先の窓際のテレビにはワイドショーが映っている。
「お母さん、仕事は?」
「今日はお休み。いつぶりかしらね。だから一日中家でのんびり紅茶でも飲んでるつもり」
「でも良かった。ここ最近働きづめだったから丁度良いよ」
 そう言うと母は目を細め、それから嬉しそうに紅茶を口にした。
 今日と明日で曲ができなければ、コピーだけでライブを迎えることになる。蜜柑は果たして、歌詞が書けたのだろうか。不安のまま扉の前に立ち尽くしていると、カップを机に置いて、母は立ち上がるとキッチンに向かう。
「座りなさい」
 優しい声で私にそう言った後、キッチンの方で火のつく音がした。
「今日も練習なんでしょう?」
「うん、夕方から」
「出来はどうなの?」
「多分、あとはボーカルの子の歌詞が出来上がったら、全部準備が終わるの」
 でも……。私はテーブルの上で頬づえをつく。
 練習中歌詞がなくてもどかしそうにしている蜜柑の姿は、正直見ていられなかった。
「それができているか、心配なの?」
 私は頷いた。
「信じてあげ続けるって難しいね」
 薬缶口の笛が声を上げる。母は笛を上に上げるとティーポットにお湯を注ぎ入れ、それからポットと空のカップを持ってくると私の向かいに座った。ワイドショーは普段通り日常の光景の、少しだけ異常な部分だけを切り取って報道している。あれがいけないだとか、原因はなんだとか。私の悩みなんかよりずっと大きな出来事を淡々と流していく。
 カップに注がれた飴色の液体からは、とても素敵な香りがした。乳白色が満たされ、それから白い湯気がもうもうと立つ。私は両の掌でそれを包み込んだ。とても熱いけどおかげで目が覚めていく。
「でも、彼はできるって言ったんじゃないのかしら?」
「うん、言った」
「いつも信頼されてる人は、できるって言葉は本当にできる時にしか言わないものよ。時々失敗しちゃったり、躓くこともあるかもしれないけど、必ず達成するわ。簡単にできるという人よりも、ずっと重みがあって、勇気の要る一言なんだから」
 紅茶、冷めないうちに飲んでしまいなさい。そう言われて私は口をつける。
 熱く柔らかな液体が喉の奥を通って、それから身体中にじんわりと広がっていくのを感じた。

    ――――――

 おそるおそるスタジオの扉を開けて一歩足を踏み入れる。少しだけ遅れてしまったのだが、スタジオへと続く防音扉が開いていないところを見ると、まだ時間にはなっていないらしかった。助かったと思い私は周囲を見回す。
「遅れてごめんなさい。まだ時間じゃなかったみたいだから、良かった」
 カウンター前に設置された幾つかのテーブルに、二人は座っていた。しかし少し様子がおかしく、私が来ても二人は決して席を立たず、テーブル中央に置かれた一枚の紙を凝視している。
 ギグバッグを後ろの壁に立て掛けた後、宙の横の席に腰かけ、改めて二人の顔を覗き込んでみた。
「どうしたの、二人とも」
「ああ、なっちゃん。ごめんね、実は練習の時間、三十分遅らせたの。勝手にやっちゃったんだけど、この後予定とか大丈夫?」
「特に予定はないけど、何かあったの?」
「歌詞をもってきたんだ」
 宙との会話に、蜜柑が顔を上げずに割って答える。
 歌詞を持ってきた。その言い回しに多少の疑問を覚えながら私もテーブル中央のルーズリーフに視線を落とす。
「……日本語詞にしたんだね」
「英語で語感を良くするかで迷ったらしいんだけど、ストレートに伝わって欲しいから迷った末こっちにしたってさ」
 宙の言うとおり、蜜柑は随分とストレートな言葉を選んで使っていた。ところどころ簡単に踏まれた韻がなんだか可愛らしいなと思いながら、それでもこの詩から伝わってくることは大体頭に浮かんだ。
 しかし、やはりというべきか、この歌詞を読む限り、おじさんの姿がこの曲から消える様子はないようだった。いや、むしろもうこの曲はおじさんの姿があるべきなのかもしれない。
 それはもしかしたら、蜜柑だけが作った曲でも、Undo Nut’sの三人で作り上げた曲でもなくなってしまうのかもしれないけれど。
 目の前の蜜柑はどうやら納得しきれていないようで、ずっと俯いていた。
「私はこの詩、いいと思うよ。力強い曲と歌に対してストレートで純粋な歌詞。とっかかりもあるし、サビのキャッチーさもあるから、きっとみんな覚えてくれるよ。」
「うん、私もそう思う」
「いや、どうしても、これじゃいけないような気がするんだ」
 納得に頷く私と宙の言葉に対し、蜜柑は首を振ると顔を上げ、それからペンを取り出して二番目と最後のサビの歌詞に線を引いてしまう。突然何を始めたのだろうかと呆気にとられていると、くるりと蜜柑は紙を逆さにして、宙の前に置いた。
「俺の伝えたい考えや言葉は理解してくれたと思う。だからこそ、二人の言葉も入れたい」
「私達にも歌詞を書けと?」
「俺一人の気持ちが入っただけじゃ未完成だと思うんだ」
 たった五行の、それも字数の決まった中に私達二人の言葉も吹き込む。それが、彼の中で最も納得できる完成形であると彼は言うのである。
 彼は例えどんな文章が載って来たとしてもそれが宙の、そして私の言葉であり率直な想いならば何の恥ずかしげもなく、いや、むしろ誇らしげに歌うだろう。
「ひとつ言っておくけど、私の文章、めちゃくちゃ下手だからな」
「構わないさ。宙の想いが詰まってるなら十分だ」
「私も、納得してもらえるような詩が書けるか分らないよ」
 戸惑いの色を隠せず私は眉を顰めて言った。しかし、蜜柑は決して退く気はないようで、私に向けて微笑むと、机に肘を乗せ、組んだ手に顔をつける。
「安藤さんにだって、言葉を届けたい人はいると思う。誰よりも人のことを考え続けてきた安藤さんだからこそ書ける気持ちも、感謝も、沢山あると思うんだ」
 俺はそれが見たい。最後だけは音として聞こえてこなかったけれど、それでも蜜柑がそう思い、私に期待していることだけは確かだった。

   ―――――

 文化祭は二日後に迫っていた。今日歌詞ができていなければ、実質コピーバンドとしてのライブとなる。いや、むしろ本当はコピーバンドとして出る予定だったのだから、予定通りの演奏になるだけだと考えた方がむしろ気が楽なのかもしれない。
 校内の雰囲気もすっかり変り、廊下は桃色の花や色とりどりの装飾で囲まれ、まるで不思議の国にでも迷い込んでしまったかのように鮮やかになっていた。そんな中ペをンキを頬に付けた少年や沢山の色紙を抱えた少女が忙しそうに駆け回っている。彼らはさしずめ白ウサギといったところだろうか。なら指示を出している安田君はきっとハートのクイーンで、作業を手伝う私はスペードのナイトと言ったところだろうか。いや、今は気まぐれに現れるからチェシャ猫かもしれない。
 そんな妄想に浸っていると、ハートのクイーンもとい安田和也がやってくる。貸出やスケジュール確認等、どうやら随分と忙しいようで、彼の眼には薄暗い影が落ちていた。こころなしか顔色も悪そうだ。疲労やストレスですっかり参っているようだ。
「安藤さん、本当にいつもすまないね」
 安田君の言葉に、私は首を横に振った。
「今までのイベントより、手伝える時間が少なくてむしろ申し訳ないくらいだよ」
「そっちを優先してもらえたらいいのに。やっと君が見つけた遣り甲斐のあることなんだから」
「ちゃんと両立はするつもりだから、そこまで気にしてもらわなくても大丈夫。とはいっても、今少しだけ切迫した状況なんだけどね」
「へえ、少し気になるなぁ。これから少し休憩なんだ。良かったら僕に話してみてはくれないかな」
 いい気分転換にもなるし。安田君はそう言って首を傾けて笑う。いつも堅い表情をしている彼にしては少し柔らかな印象を受ける仕草で、慣れていないのか少し硬さが残っているところが面白かった。

 中庭側出口から校舎を出て中庭へと向かう。どうやら今日は人が少ないようで、私は安田君と顔を合わせて、それからにっこりと笑った。
 あまり大きくはないが、噴水の池がとても綺麗な場所で、草木に囲まれた唯一の空間であるからか、休息を求める学生や、男女が青春を謳歌する場所によく使われている。後者に関しては私自身見たことがないが、時折その場にはち合わせてしまう生徒も少なくはない。
 刺激が強い行為に及んでいることもあるらしく、その光景を目撃してしまった生徒は大体ノイローゼに陥ってしまうらしい。特に一人身であると精神的にも辛いそうだ。果たしてどのようなことをしているのか気になるが、しかし一生お目にかかりたくないとも思う。
 中庭の隅にあるベンチに腰かけると、途中で買ってきた缶ジュースのうち一つを彼に手渡す。お金を払うと言われたが、要らないとすっぱりと断ると、彼は柔和な笑みを浮かべてこちらを見つめた後、プルを引いて口を付けた。大分喉も渇いていたのだろう。彼の飲みっぷりは見ていてとても気持ちが良かった。
「安藤さんが蜜柑とバンドを組んだ話は聞いていたし、ライブをやることも聞いていたけど、まさかオリジナルを一曲ねぇ……。彼も言い出したら聞かなそうだしな」
 軽く声をあげて笑う彼を横目に、私は缶ジュースを見つめる。
「とてもいい曲だと思うけど、私がベースを付けて、更に歌詞のワンフレーズも担当なんて、随分と博打打ちよね。今、歌詞に関してとても悩んでて」
「まあ君は随分と飲み込みも、曲の好みも良いから蜜柑もきっとと思ったんだろう。いつだって頼れる子だったから、ついつい僕も何かさせてみたくなるしね」
「結局その印象からは逃げられないのかな」
 乾いた笑い声をあげると、彼は静かに首を振った。
「で、どうなの。できそう?」
「ちょっと不安。でも、多分夕方までには書きあげてみせるよ」
「そっか、じゃあ安心だ」
 私の言葉をさらりと飲み込んだ彼にふと目が行ってしまった。安田君は私の視線に気づいて、それから微笑むと缶を大きく煽り、喉をごくりと大きく動かす。喉仏がくっきりした首元をぼんやりと眺めていると、空になった缶の中身を覗き込みながら彼は口を開いた。
「無意識かは知らないけど、君はできるって言った時の仕事は全部こなしてるから、きっと大丈夫だと思っただけだよ。曖昧な返事の時は大体助っ人を呼んでこなしてるしね。これまで手伝ってもらってたから君のことなら大体分かってるつもりだよ」
 全部ではないけれど。と付け足すように彼は言った。
 ふと、母に言われた言葉を私は思い出して、それからやっと飲み込めたような気がした。安田君が私のことを信頼し続けてくれているように、私と宙は蜜柑のことを信頼していたし、そして逆に蜜柑も私と宙のことを信頼してくれている。できるとしか思っていないのだ。でき上がったものが必ずいいものだとしか彼は思っていない。
「なんとなく、自信が出てきたかもしれない」
 信頼している人の持ってきたものに真摯に向き合おうとしているのだ。私達は三人とも。できないではなくて、自分の中で出来上がったものをちゃんと彼らに見せなくてはならない。きっと二人は否定はしない。良い方に持っていこうと努力してくれる。
「それは良かった」
 そう言って安田君は立ち上がる。
 そんな彼の背中を眺めていて、ふと思いついたことがあった。
「安田君も、一緒にやらない?」
 振り返った彼は、わけがわからないと言った風な顔をしていた。
「いや、私の中でバンドは四人ってイメージが強くて……。それに安田君、前に蜜柑と一緒にギター弾いてたけど、すごく上手だったから。どうかなって」
 慌てて補足すると、安田君は笑って、それから多分、今まで見た彼の表情の中でとても寂しげな表情を浮かべた。
「悪いけど、それはできないよ」
 缶を上げて、私に向けてありがとうと呟くと、噴水傍のごみ箱に入れ、それから追いかけてきた私を見て微笑んだ。
 けれど、その微笑みもまた寂しげで、木々の緑や噴水の透明に近い青と煉瓦の朱色と、溢れる色の中で彼だけ無色に見えた。古い写真みたいな色褪せた彼の姿を見て、そうさせてしまった理由がわからないことがとても申し訳なくて、私はただ黙って彼を見つめていた。
「そうだ、安藤さんはランクヘッドって、聴いたことあるかな」
 私は首を振る。
「折角だから勧めようと思って持ってきてたんだ。曲作りの邪魔になるかもしれないから、練習後に帰ってから聴いてみてよ」
 そう言って彼が取り出した黄色いジャケットを私は受け取り、まじまじと眺める。
「あとむ?」
「そう、「AT0M」っていうタイトルのアルバム。僕はこのバンドの最高傑作だと思ってる。特にスモールワールドがおすすめかな。日本語のとても綺麗なバンドだから、よければ歌詞と一緒に聴いてほしい」
 じゃあ、と手を振ると彼は校舎口へと歩いていく。その後ろ姿を見つめ、それからもう一度黄色いジャケットを眺めて呟く。
 スモールワールド。小さな世界。

 夕方に持って行った歌詞は、驚くほどすんなりと蜜柑と宙に受け入れられた。二人は私に「できると思っていた」と笑ってくれた。
 出来上がった歌詞を歌いあげる蜜柑の顔はとても晴れやかで、初めて作り上げた蜜柑のメロディに歌詞、宙のドラム、自分の初めて作ったベースラインを聴きながら、私はただこみ上げてくる喜びに身を委ねていた。
 今はただこの音の海に溺れていたい。呼吸をするごとに、音の中で気泡がぶくぶくと浮きあがって浮いていく。
 プルを引っ張った時の炭酸ジュースみたいに、すがすがしい気持ちで一杯だった。
 
   ―――――

 帰宅すると、母はまたキッチンに立っていた。後ろにまとめられた髪を右に左にと揺らしながら、すっかり覚えてしまったと言っていたドント・ルック・バック・イン・アンガーを口ずさんでいる。前から曲に対する執着がない人だと思っていたが、この曲は珍しく母の好みにハマったらしく、調理以外でもふとした瞬間に口ずさんでいた。
 なにより、私が初めてライブでやる曲だから、というのもあるのかもしれない。
 蜜柑の歌声でこの曲を聴いたとき、母はどんな気持ちで聴いてくれるのだろうか。それがとても楽しみでならなかった。

 食事を終えて部屋に戻り、放りっぱなしのベースを手元に手繰り寄せると四弦を鳴らす。深く重たい低音が部屋中に広がって、やがて消えた。ベッドの上は脱ぎ散らかされた下着と寝間着と、今回演奏する曲目のスコアであふれかえっていて、とてもじゃないが片付けないと眠れそうにない。最近はベースもしまわずに部屋に適当に置かれていることも多くなった。すぐに手にとれる位置にないとなんだか気持がざわざわしてしまうのだ。
 机の上に積まれたベース・マガジンやロック・イン、プレイヤーやバーン、音楽雑誌の山を眺め、依然までの整然とした机を思い出して少しだけ笑ってしまった。
 そういえば、借りたCDがあった。
 ベースをそっとベッドに寝かせ、枕元のコンポにディスクを差し込み、適当に音量を上げ、それから彼の勧めていたトラックを指定する。
 フロアタムの印象的なドラムと共に、奇麗なギターのリフとバッキング、自由自在に動き回るベースが一斉に流れ出した。騒がしくも心地のよい楽曲に身を揺らしていると、特徴的な歌声が文学的な言葉をメロディに乗せていく。
 出会いに対しての小さな喜びの歌に身を委ねながら、私はふと思う。これはもしかして、彼なりの告白なのだろうかと。彼の想いに気づいていないわけではない。けれども、それに対してどう向き合うべきなのか私はその術を知らない。
 恋愛に対して私はひどく弱い。経験もなければ、性に対する興味もあまりなくて、ただ眼の前のことにしか意識がいかないから、誰かと付き合うような先を考えるなんて余裕を抱くことがどうしてもできない。
 はっきりとすべきだと思うし、彼の寂しげな表情を見るのをよしと思わない自分もいる。けれどその一歩を踏み出すような勇気は、今の私にはない。
「ぼーくーがいて、きみーがいた」
 だから僕ら出会えたって言うこと。
「ぼーくーがいて、きみーがいた」
 こんなにもあったかいって言うこと。


     



   五


 少しだけお洒落をすることになった。
 そういうことにも興味を持たないとね、と母に言われ、向かいの母の寝室に連れて行かれた。母の部屋はとても広くて、でも何も置かれていない。大きなダブルベッドが一つ置かれ、その脇を埋めるようにして箪笥と化粧台が奥から順に設置されている。
 私は入って手前にある化粧台の前に座らされると、白いクリームを鼻の頭、おでこ、頬、顎に乗せられ、母は手際よくそれらを広げていく。少しだけ心地よいクリームの感覚に目を閉じたまま、つい最近まで、高校生に化粧なんて早いと言っていたのに、何故今日になって母は私にこんなことをするのだろうかと考える。
 そんな疑問を持ちつつも、次に母の手にしたファンデーションを見て、私は再び目を閉じた。
「お化粧の感想はどうかしら?」
 化粧品の感触を肌で感じつつ、私は母の手がブレない程度に首を傾げた。
「あんまり」
「あんまり。そうね、手間も掛かるし何よりとても重いからそう思うのも確かね」
「重い?」
そう繰り返すと、母の手がそっと頭を撫でた。暖かくて柔らかなその手と、触れられた髪の感触が心地よくて、身を小さく捩じらせた。少しして母は化粧を再開するため、頭に置いていた手を戻したようだ。
「理想を維持することって、とっても重いの」
「……なんとなく、それは分るかもしれない」
「分る?」
「うん、分る」
 目を閉じて母の化粧を施す手を感じながら、私は一呼吸入れた後再び口を開いた。
「私ね、なろうとしてたものがあったの。何でも出来て、頼られても何も言わずにこなせて、皆からの信頼も厚い。そんな人間であろうと思ってたの」
 母の為に、という言葉はそっと心の中にしまい込んだ。けれど、多分母は気づいているのだろう。ファンデーションを塗る手がそう言っている気がして、私はまたむず痒さに身を捩じらせた。
「その完璧な子のことを私はずっと安藤奈津って呼んでた。そうやって理想を作り出したことで、私はずっとその子を被ってたの。化粧をするみたいに、安藤奈津を着てた。でも途中で無理をしてるって気づいたとき、安藤奈津から私が離れていくのを感じた。何がなんでも取り戻さないと、かぶり直さないとって思っても、耐えきれなくなった私はもう彼女を被ることはできなかった」
「重すぎて?」
「そう、重すぎて」
 目を開けて鏡の中に映る自分を見ようと思ったのだが、母の手がそれを阻止し、ふふ、と柔らかな笑みを浮かべた。間近で見る母の手はとてもなめらかで、私より何十も歳を取っている手とはとても思えなかった。元々若く見られやすい母であるのだが、それでもこの肌のきめの細かさは、少しだけ不思議なものがあった。
「だから、最近はちょっとだけ気が楽なの。弱っても肩を抱いてくれるし、俯いて立ち止まると手を引いてくれる人ができたから。ああ、私は安藤奈津じゃなくて良いんだって思えるようになった時、なんだかとても軽くなったの」
「素敵なことね」
でもね。母は言葉を付け足すと、両腕を私の首に回し、体を私の背に押し付ける。柔らかな肌の感触と、身に染み入るような丁度良い体温が私を包みこんだ。私は母の感触を精一杯味わいながら、動かずにただ眼を閉じ続けていた。
「多分、いやきっと今、貴方は安藤奈津になれたのかもしれないわ」
「今、私が?」
 うなじの辺りに母は額をつけたまま、そう、と返事を返した。
「だって、私は貴方に幸せになって欲しいんだもの。完璧とかじゃなくていいの。ただ、貴方がしたいことに精一杯になっている姿が見られたら、私は幸せだったの。なのにここまでずっと苦労させて、貴方のことを考えることもできなくて、でも私からは何も言ってあげられなくて。本当にごめんなさい」
 そっと瞼を開いた。黒縁で模られた私の上半身くらいある鏡には、私じゃない私が映っていた。そっと薄く塗られたファンデーション、唇にはグリスがそっと引かれ、部屋の白色の照明を受けててらりと光っていた。ほんの少しだけ変わった私の顔をまじまじと見ながら、両頬に薄らと浮かぶ紅色がとても綺麗だと思った。
 そんなこと思ってないよ。許すとか、そういうのではないの。そう言おうと思ったけれど、私の背に埋まる母の顔を、今起こす必要はないと思った。多分、母は母なりに愛そうと思っていた。私も私なりに愛そうと思っていた。それだけなのだ。
 でも、ほんの少しだけ、限界を感じた時からぽっかりと空いていた穴が本当に少しだけだけど、満たされたような気持になった。
「今日、楽しみにしててね。私、初めて自分でやりたいって思えたこと、全力でやるから。安藤奈津に、今度こそなるから」
 感謝の気持ちは、伝わっただろうか。

   ―――――

 商店街から裏路地へと入ると、二人はすでに喫茶店の前に立っていた。それぞれが制服と一緒に紙袋を持って立っている。多分動きやすい服を持ってきているのだろう。母との会話ですっかりそんなことを忘れてしまっていた。どうやら制服姿で演奏を行うのは私だけになりそうだ。
 喫茶店前に到着すると、二人は私の顔を見て大きく目を見開き、それからまじまじと見つめてきた。多分、ライブがあるのに化粧をしてくるなんて不可思議な行為なのだろう。確かにあれだけ体力を使って、汗をかくハードな環境下でわざわざ丁寧にお洒落さに気を使ったとして、意味はない。化粧なんてすぐに落ちてしまうことは分かりきっていた。そればかりか、きっと演奏後私はお化けみたいになっているだろう。
「驚いた?」
「そりゃあ、いつも化粧っ気のない顔してるから。でも、なんで今日なの」
 宙の言っていることは、至極まともな言葉だった。
「お母さんが化粧してやるって言ってきかなかったの。ほら、晴れ舞台なんて珍しいことだし、それを実際に見ることができるって思ったら舞い上がっちゃったみたいで」
「ふうん。でも、似合ってる。とっても奇麗」
 ありがとうと返すと、宙は目を細めて笑った。
「で、蜜柑はどう思うのよ」
 意地悪そうな低い声色で宙がそう言うと、隣の蜜柑がやっと反応を見せた。ギグバッグに制服といった、もう見なれた出で立ちではあるけれど、蜜柑はしばらく私を足元から頭まで何度も眺め、それから頷くと微笑んだ。
「すごく良いと思う」
 その言葉を聞いて、私はなんだかむず痒くて唇を噛んだ。蜜柑の目がうまく見れずに俯いたことで、彼はどうやら心配してくれているようだが、大丈夫、と心の中でそっと呟く。多分それは私に向けてのものだったのだろう。けれど、私はあえてそれを彼への言葉だと偽ることにする。
「俺たちは三時からの出演だ。軽音学部の中でも真ん中の辺り」
「正直、いいとこもらえたと思うよ。実質入ってるかどうか怪しい女子と、既に退部してる男子とを抱えたこの問題だらけのバンドがさ」
 宙の言葉を聞いて、蜜柑はふふ、と息を洩らすように小さく笑うと、宙を見た。
「応えてやらないといけないな」
「さっさと戻って来いって意味合いも入ってるんだからな。先輩達の気持ちも汲んでやりなさいよ」
「嫌だね。少なくともあいつが卒業するまでは二度と入らない」
 楽しげな二人の会話を聞いていて、胸の奥がきりりとした。部活で期待される二人と、全く面識のない初心者が一人。足を引っ張ったままの私がどうしてここにいるのだろうかと、そう思ったら一気に不安と恐怖が押し寄せてきたのだ。
 弱気になっちゃいけない。そう自分の中に言葉を投げかけ、深く深呼吸をしてから周囲を見回す。朝方の通勤時間を過ぎた頃だからか、すっかり人気のない裏路地が、ぽっかりと口を開けている。この先の商店街はきっと明るくて活気づいているんだろう。今まではずっと商店街の側にいたのだ。自分に何ができるのかも分らないまま、ただ人ごみに巻き込まれて。
 でも、今は違った。裏路地は人こそいないが、活気がないわけではない。ただ、自分を持った人達が個々の楽しみを持ってここに居るのだ。ただその場の楽しさに巻き込まれるのではない。
 私はこれから、こちら側としてあちら側に一歩を踏み出す。ちゃんとした意識をもって、流されずに立ち続ける為に。安藤奈津という名前をちゃんと私の中に定着させるために。
「行こうか」
 そう言って蜜柑は歩き出す。ブレザーとネクタイが動きに合わせて右に左にと揺れ、背中のギグバッグも同じようにネックの方が前後に揺れていた。
 Undo Nut’sの初陣だ。ギグバッグを改めて背負い直すと、裏路地を右足でぎゅっと踏んだ。

    ―――――

 学校に到着した時、まるで御伽話の世界にでも迷い込んでしまったのかと思うくらい、不思議な気分になった。校門前の巨大な緑のアーチ、色とりどりの造花が飾り付けられて華やかになっている。中央には「○○高校文化祭」と黒いペンキで大きく書かれ、すっかり高校の姿が変わってしまった理由を語っていた。
 アーチを潜ってすぐの、玄関前の一本道は屋台で埋められ、まだ火のついていない鉄板を扱う生徒や、買い出しの食材をあわただしく運ぶ生徒達がそこら中にいた。先の玄関口にもまたアーチが置かれ、校門のものとはまた違った色合いに飾られている。
 今年で二年目になるが、それでもこの学校の文化祭は圧巻だ。学校側が随分と文化的な活動に対して協力的というか、とにかく祭り好きなのだ。学校側がそれだけの盛り上がりを見せると生徒も意外とついてくるようで、どこのクラスやサークルも最低水準のクオリティを見せている。去年のお化け屋敷は大型の教室を利用して行われ、それなりに来客者を泣かせていたらしい。
 屋台を順々に眺めながら玄関口まで歩くと、扉の横に長机があり、安田君が腰をおろしていた。机の上にパンフレットがどっさりと積まれているところを見ると、どうやら生徒会及び学祭運営委員の席のようだ。私が軽くお辞儀をすると、安田君は笑みを浮かべ手を振って反応を示してくれた。
「おはよう、三人とも」
「おはよう安田君。去年もそうだったけど、今年も随分とすごいね」
「年に一度の祭りだからね。こちらとしても張り切ってやらないといけないよ」
 そう言った後、受付前に駆けつけてきた女子生徒が慌てて彼に耳打ちをした。どうやら大事のようだ。安田君は立ち上がるとそれじゃあ、とにっこり笑ってから女子生徒の後に着いて走りはじめ、それから立ち止まると、ふと思い出したかのように振り返った。
「今日、Undo Nut’sは何時からなんだい?」
 一瞬、何を聞かれているのか理解できなかった。どうにかして彼の言葉を飲み込もうとしていると、蜜柑が横から三本指を出した。
「三時から」
 蜜柑と安田君は暫く互いに目を合わせ、それから少しして小さく頷いた。
「是非見に行くよ。ずっと楽しみにしていたんだ」
「期待に沿えるくらいの出来にはなってる。最前で見ることをお勧めするよ」
 そう言うと、安田君はどこか安心したように微笑むと、遠くなってしまった女子生徒の後ろ姿を慌てて追いかけて行った。そんな彼の姿を見つめながら、私は胸がとくんと強くなるのを感じた。
 誰かに期待されることって、こんなにも緊張して、でもすごく嬉しいものだったっけ。それまで当たり前のように圧し掛かっていたものとは違う性質に戸惑っていると、両側から二人がそっと私の肩に手を置く。
「悪くはないでしょ、ちゃんと期待してもらえるって」
 宙の言葉に、私はそっと頷く。彼女の言いたいことはちゃんと理解していた。
「ちょっとだけ怖いけど、でも、今は頑張りたいって気持ちの方が強いの」
「まあ、初ライブで緊張するのはいつものことさ。ステージに初めて立った時の気持ちは、多分一生忘れることができないものだよ」
 でも、と蜜柑は付け加えると人のいなくなった長机からパンフレットを三枚手に取って、私達に向けてみせる。
「学祭の方も十分に楽しまないと」

 パンフレットを読みながら体育館裏までの道を歩く。
 一階の廊下を通って中庭傍を横切り、階段を下ったところに体育館がある。校舎から若干段のある土地に建てられているため、無理やり階段を取りつけたそうだ。以前までは校門から出てわざわざ遠回りするような道しかなかったため、その頃に比べたらまだ楽な方なのだろう。まあ部室棟に比べたら校舎と離れてはいないが、それでも何十段とある階段を楽器を背負って歩くのは随分と辛いものがあった。運営委員達もこの階段に苦しまされているようで、踊り場にアンプを置いて休憩している生徒を二人ほど見掛けた。この段差が運搬役にとっての鬼門であることはよく知っている。去年何度も何度もここを登り降りしたのだから。
 そんな生徒達に軽く挨拶をして横を通り過ぎた後、私達はパンフレットを覗き込むようにして見た。二階のあの教室では喫茶店、生徒指導室だった教室ではメイド喫茶だとか、宙とひたすら今日行われるイベントを全て確認し、目玉だと思えるものを見つけては盛り上がった。
 その中でもとりわけ私達を注視させたのは演劇部による演目だった。有名な劇の内容を大胆に変え、よりスリリングな内容になっていると説明には書いており、なによりその改変を加えた原案が「美女と野獣」であることに驚いた。あの話を一体どのようにスリリングにしたのだろうか。非常に見物だ。タイムスケジュールを見る限り、私の演奏の後のようなので、全てが終わってほっとした丁度良いところで見ることができそうだ。

 ふと、隣で次々と食べたいものや見たいものを挙げていく宙を見て私は思う。学祭を生徒として過ごしたこと、これまであっただろうか。中学時代だって確か運営側として日中働き続けていたし、去年だって運営員会の一人として一日中学校を駆けずり回っていた覚えがある。
 だから、ここでこうやってパンフレットを持って、自分の出る演目の準備をしていることが、新鮮でならないし、むしろ違和感すらあった。私はここでこうしていていいのだろうかととても不安でたまらなくなる。
「どうかしたの?」
「ううん、なんでもないの。少しだけ、自分が今ここでこうしてるのがすごく不自然な気がしちゃって」
「それまでが不自然だったんだよ」
 それまで私達の前を無言のままずっと歩いていた蜜柑が、口を開いた。
「それまでが不自然――」
 彼の背中を見つめたまま言葉を繰り返す。蜜柑は首だけ私の方に向けると、一度だけ頷いた。
「そう、今が自然。女子高生のあるべき姿。そう思おうよ」
 蜜柑なりの気遣いに顔を綻ばせながら、私は一度だけ頷いた。
 階段を下りて、体育館の入口のをそのまま通り過ぎて私達は裏手に行く。そこには停部の解けた軽音学部の面々が出揃っており、それぞれがギグバッグとエフェクトボードらを手に集まっていた。その集団は私達が来ると一斉に視線をこちらに向けた。先日二人ほど部員と会話を軽く交わしたが、部員はもっといる。ほぼ全ての人間と初対面な為、どうするべきだろうと暫く目を泳がせていると、蜜柑が一歩前に出て、それから軽くお辞儀した。
「お久しぶりです」
 私が呆気に取られていると、宙が笑みを零し、それから坊主頭の部員が一人こちらに近づいてきた。それから坊主頭の部員は何を思ったのか、突然蜜柑の後頭部に拳骨を落とす。
 あまりにも突然の暴力であったため私は口元を両手で抑え、後頭部を摩る蜜柑と拳骨を落とした坊主頭とを交互に何度も見た。
「全く、部長と喧嘩したくらいで辞めやがって。久々にやってきたかと思えば女二人とバンド始めてるとはな」
「本当にご迷惑をおかけしました」
 顔を上げると蜜柑は相変わらず丁寧な口調で返事を返す。多分、副部長か何かなのだろう。彼の対応を見る限りそうとしか思えなかった。
「むしろあいつの血の気が多いのがいけないんだ。お前は被害者の方だよ。なんにせよ、戻ってきてくれてよかった。またお前の歌が聴けると今日をずっと楽しみにしてたんだからな」
 坊主頭はそう言って今度は蜜柑の頭をぐしぐしと右手で乱暴に撫でる。随分と力が入っているため蜜柑の頭が右に左に前に後ろにレバーのように動いた。迷惑そうな顔をしながらも、まんざらでもないらしい。蜜柑の表情を見て理解できた。
 これまで彼らの部活で何が起きたのか、誰ひとりとして語ってはくれない。多分私は部外者であり、これは部員の間だけで始末された出来事だから、というのが理由だろう。部長の停学に部活の停部。随分なことが起きたことは見てとれるのだが、その原因だけがぽっかりと口を開けている。
 いつか、私にも語ってくれる日が来るのだろうか。そんなことをぼんやりと考えていた。
「園田と斉藤はともかく、後のその子の紹介をしてくれないか? まあ顔と名前は知ってはいるが、なんともここにいるのが不思議でならない。一体お前らはどうやって彼女をバンドに連れ込んだ」
 坊主頭に指をさされ、私の胸が高鳴った。いつもより早いテンポを刻む脈を深呼吸で必死に整えながら、私は深深とお辞儀をした。一瞬、ベースの重みで前のめりに倒れかけたが、どうにか足を前に出すことでこらえる。
「彼女は安藤奈津。去年まで生徒会だったり、教師の手伝いだったり、あとは試験の順位表で何度か見たことがあると思います。が、あれはこの際全部忘れてください。こっちが本物の安藤奈津なので」
 蜜柑の言葉に驚いて、私は顔を上げた。部員達はひそひそと小言を囁き合いながらこちらを見つめている。なんだかここにいていい気がしなくて、自分だけがまるで異物のような感じがして、途端に緊張が喉元まで競り上がってくる。自分を知ってもらうことが、こんなに怖いなんて思わなかった。
 だが、坊主頭は顔を上げた私をまじまじと見つめた後、肩に手をやり、にっこりと笑みを浮かべた。
「音楽、好きかい」
 私は三回ほど頷いた。坊主頭はそうか、と一言つぶやくと、肩から手を離した。
「黒澤健人。副部長をやっている三年です。随分前から君の校内での活躍は知っているけど、バンドをやるとは知らなかった。今日はとても楽しみにしているよ」
 彼の期待に輝いた目をちゃんと見つめることができない。黒澤先輩の言葉を聞いて、私は首を横に思い切り振ると、深く息を吸ってから口を開いた。
「あの、ちょっと前までは、音楽全然知らなくて……。蜜柑、あ、園田君に勧められて、それで音楽にハマったんです。だからごめんなさい、まだ初心者で、こんな二人と一緒にできるとは思ってなくて……」
 あの、その、と頭の中で言葉がぐちゃぐちゃに混ざり合って、絡み合って、上手く口から出てこない。そんなことを言いたいわけではないのだ。私は、初めて好きになったこと、初めて自分であろうと思えたこと、その末にここにいることをどうにかして伝えたいのに。
「大丈夫」
 混乱する私の頭に、黒澤先輩の手が置かれた。
 暑い。とても体温の高い手だった。けれどその手が置かれた途端に絡まっていた言葉の糸が一つ一つ解けていって、するりと奥へと引っ込んでいった。全てを言う必要はない。そう理解した瞬間、私はやっと平静を取り戻すことができた。なによりも、この暖かい手がとても心地良くて、緊張だとか不安だとか、そんなものが全て溶けていってしまいそうだった。
「僕は蜜柑と宙を楽しみにしてるわけじゃない。君ら三人のバンドを楽しみにしてる」
 それだけ言うと、黒澤先輩は手を私達三人に振って、裏口に消えていった。彼のその行動に合わせて部員達もそれぞれが動き出す。譜面台にキーボードに、アンプにとそれに相応する人数で運び込んでいく。
 彼らの姿を眺めながら、私はしばらく呆けていた。
「さあ、準備を手伝おう」
 蜜柑の言葉と一緒に、二人が私の肩に手を置く。右、左と首をひねって順に二人の顔を見て、それから一瞬だけ目を閉じた後、私は頷いた。
 私は一人でここにいるのではない。三人で一つなんだ、と心の中で繰り返し呟き、裏口に足を踏み入れた。

   ―――――

 携帯を開いてディスプレイを覗き込む。右上に小さく表示されたデジタルの数字は丁度十二時を示している。開催時刻だ。暫くして体育館の舞台側に設置されたスピーカーにノイズが走り、それから運営委員会の声が聞こえてきた。
【本年度の文化祭を始めます。皆さん、ど――】
 突然だった。スピーカーの音がギターの歪んだ音によって遮られ、続いてドラムのスネアの音が体育館に目いっぱい響き渡る。遅れてベースの低音が床をびりびりと揺らした。
 紅色のステージ幕の奥から聴こえてくる音をじっと”眺め”ながら、私は拳を握り締めていた。設置された椅子に座って見ようと、踵を返すと私はパイプ椅子に向けて歩いていった。
 一歩足を踏み出すごとに、敷き詰められたブルーのビニールが擦れるような音を出す。ステージから少し離れて置かれたパイプ椅子はそこそこ埋まっていた。話を聞く限りこの部に対する校内の印象は最悪のようだが、それでも演奏を聴きに来る人はいるようだ。よく見ると他校のブレザーやセーラー服がところどころに混じっている。私はセーラー服の女子の隣に二つ空きがあるのを見つけると、私は彼女の隣に座った。
 ステージ幕が左右に開いて、スポットライトに照らされた四人組が現れる。ワックスで固められた髪を揺らし、半袖の高校指定のシャツとズボンにレスポールを提げている。ヘッドの方で切り揃えられていない弦が四方に飛び交い、照明の光を反射して輝いていた。
「一バンド目、the sonicっす。一発目から盛り上げていくんで!」
 ぎこちない様子でマイクに向けてそう吠えると、ドラムが四カウントとり、リードギターのアルペジオが響き始める。
「insain――」
 ボーカルの拙い英詩がアルペジオとベースの上に乗っかった。前方の方では今か今かと爆発を待つ観客達が腕を上げている。その中に宙の姿を確認できたが、蜜柑は見当たらない。
「space sonicだね。エモとかメロコアのコピーバンドなのかな」
 隣の声に顔を向けると、安田君の姿があった。腕を組んでじいっとステージ上を見つめている。
「文化祭が始まっちゃうと意外と仕事なくなっちゃうんだ」
 私の耳に届くように耳元でそう言うと、彼はにこりと微笑んだ。
「せっかくのライブなのに、座ってていいの?」
 サビが爆発するように響いて、パワーコードを基調とした歯切れのいいサウンドが響き渡った。その音と共に前方の群衆がぐっと沸いたのを見て、私の心がざわつく。
「ゆっくり聴いてるのも良いけど、最前で腕を振ってるともっと最高の気分が味わえるよ」
 彼はそう言うと、どうしようか迷っている私の手を取り、前方へと引っ張っていく。ちょっと、と声を出してみたが、この音の中で私の声と言葉は砕かれて、遥か向こうへ流されていってしまった。
 こんなに積極的に人を誘う安田君の姿をあまり見たことがなかったからか、私は少し戸惑い、けれどその強引さが結果として私の想いをくみ取ってくれたのだと思うと、笑うことができた。ブルーのビニールの張られた床を思い切り蹴って安田君の横に並び、その勢いのまま前方の群衆の中に紛れ込んだ。
 押されたり押したり、飛び跳ねてみたり、腕を振ってみたり。そんな中に紛れ込んでみると、なんだか私もその一員になれたような気がして、真似て私も右手を高く上げ、リズムに合わせて飛び跳ねてみた。
 何もかもが真っ白になって、音の塊だけが私の中で次々と破裂していく。ギターの歪みが、お腹の底に響くようなベースとバスドラムが、次々と私の中に入って暴れていく。
 でもそこに苦痛や悩み、不安はなかった。ただ、楽しくてたまらなくて、それまで抱えていた不安が吹き飛んでしまいそうだった。
 一曲目が終わると、ボーカルは間髪入れずにマイクを手にし、口を大きく開けた。
「If Your lisning.Whoa,oh,oh,oh」
 四人が一斉に叫んだその言葉が、再び音が私の中を突き抜ける。
 私はただ四人の奏でる音に身を委ねた。

 ライブが始まったことを、全身ではっきりと感じた。

     

   六

 音の粒達は私の中で、まるでサイダーみたいに弾けて全身を巡る。真っ白になりそうなほど刺激的なそれらは、私を沸き立たせた。
 人込みの中で揉まれ続けたことで、全身が汗でびっしょりだ。シャツはすっかり滲、ふと肩を見ると水色のラインが二つ。両肩に薄らと浮かんでいた。夏でもなければこんな滲み方なんてしないのだけれど。しかし多分ライブの常連者はきっとこのくらい体力を使っているものなのだろう。体温が上昇し、ふらつく足でステージ前の群衆から離れた私は、壁に背を預けた。
「すっかり疲れきってるじゃないか。もうすぐ本番だけど大丈夫かい?」
 続いて人込みから出てきた安田君はそう問いかけ、それから私の肩に軽く手を置いた後、飲み物を取ってくると言って、外へと出て行ってしまった。ブレザーを脱ぎながら、しかし腕章だけは外さない辺り、彼らしいと感じ、天井を見上げた。
 ギターのフィードバックとシンバルの音の残ったステージ上で、ギターボーカルが楽器を放ると舞台袖に引っ込み、他のメンバーも彼に続いて消えた。フィードバックの続く中で幕が下りると、やがて照明とギターの音がぷつりと姿を消した。
 彼らの演目は終了した。時計を見て時刻が二時半近くであることを確認し、それから時計の下に模造紙で作られたハンドメイド感の強いタイムスケジュール表を確認する。興奮が収まり、壁の冷たい感覚が背中に伝わって、ぐるりと熱と血液が巡って輪郭をなくしていた意識が戻っていく。もうすぐ私は、ライブだ。あのステージに立って、演奏をするのだ。
 そう考えると次第に恐怖が増していく。足元のビニールの擦れる音に、身体がびくりと反応した。何を今更怯えているのだろうか。自分が出す音にさえ怯えるなんて。あんなところ今まで何度も立っていたじゃない。立場は違えど、誰かに見られる為にあそこに立つのだから……。
 そう思った時、私ははっとして足元を見た。ああ、あそこに立っている時は、私じゃなかったんだ。安藤奈津という存在が全て私の代りをしてくれていたのだ。
 幕の奥からドラムの音が聞えてくる。音作りの終わっていないフラットなベースの低音と、クランチのかかったギターの温かみのある音。それらは幕を通して前方に集まる群衆の興奮に再び火を注いでいた。どうやらそれなりに名前の売れている演奏陣のようだ。
「いよいよ次だね」
 ペットボトルを二本抱えて戻ってきた安田君は、そう微笑むとそのうちの一本を私に差し出す。財布を取り出して小銭を出そうとすると、いいよ、と首を振ったので、私は彼の行為に甘え、出しかけた小銭をそっとしまう。彼は私の隣に並ぶと、同じように壁に背を付けてステージを眺める。
「昔、ギターを始めたての頃に、組んでいたバンドがあったんだ」
「安田君も、バンドを?」
 安田君は頷くと、昔を懐かしむように目を細め、天井を見上げる。
「バンドやったらモテるとかそんなしょうもない理由で始めたんだ。皆ギターやりたがってさ、僕もその一人。このままじゃ何も決まらないからクジで決めようっつって、僕は念願のギターの座を勝ち取った」
「ギターは、やっぱりやりたがるものなのね」
「そりゃあね、とにかく皆フロントに立ちたかった。愛しのあの子に見惚れてほしくてね。技術とか、そういうんじゃないんだ。とにかく自分をアピールする為の一つとして、バンドを始めた」
 僕もその一人、という言葉で私は思わずくすりと小さく笑いを洩らしてしまった。少ししてしまったと口を押さえたが、その漏れた笑いを聴きとっていたらしく、彼は恥ずかしそうに私を見る。
「ごめん、でもなんだか安田君の理由にしては単純だなって思ったの」
「そうかな、これでも結構僕の行動は単純だよ」
 そう言って安田君は前髪を弄り始める。
 とん、と林檎が木から落ちるみたいに館内の照明が落ちて、代わりにステージ上の照明が付いた。舞台幕越しに黄色の柔らかな灯りが漏れ、それから鍵盤の旋律が体育館の暗がりをすっと歩いて、それに続くように他の楽器達の音も地面を踏みならす。
「それでも、モテたくて音楽って特に単純だなって思っちゃうよ。その結果はちゃんと出たの?」
 そう言って隣の安田君に笑いかけると、彼は少しだけ寂しそうな顔をしたあと、一呼吸置いてから、口を開いた。


「―だ、――ないんだ」


 刹那、それまで穏やかであった音の塊に一瞬にして会場を駆けずり回る。コードだとか、和音だとか、そういったものを全く無視した音の更新はしばらく続く。しかしそのどれもがよく耳を済ませてみると、技巧的な演奏を行っているようだった。雑音のパレードはそれから暫くして一斉に音が止んで静寂が生まれる。動と静の切り替えによって生まれた静寂は、やがて鍵盤の旋律によってそっと暴かれ、その不安定なアルペジオが館内を包み込む。
 やがて後を追う様にして現れたピアノ・バッキングとうねるベース、囁くような歌声が幕を挟んで体育館内を支配する。
「New bornだ……」
「え?」
「Museの曲さ」
 ボーカルの囁く声が終わると共に、強く歪んだギターががりりと残響の残ったこの空間に齧りついた。同時にベースとドラムの音も邪悪に、力強く己の存在を訴え始めた。
 幕が開くと、鍵盤とマイク、そしてギターを提げた黒澤副部長の姿がそこにあった。ベースとドラムのスリーピースから繰り出されるその音圧に、ただ私は圧倒されていた。

――世界に繋げるんだ

 ファルセット混じりの歌声がマイクを通して響き渡る。その間も彼のギターを演奏する手は動き続け、硬質で時折軋むようなギターで次々と音を掻き鳴らす。キーボード担当と聞いていただけに、この変貌は少し衝撃だった。私は食い入るようにして彼の演奏する姿を見つめる。
 あの歌からこのカッティングが、ベースのこの歪みはどうやって作られているんだろう。これだけ技巧的なことをしながらリズムがずれない。走る様子もない。
 暴力的でありながら、どこか美しさを秘めたその曲に耳を傾けていると、歌い終わると同時に間髪入れずベーシストが歪んだ重苦しいリフを奏でる。
「――hysteria」
 こういう音楽も、ロックに属するのだろうか。トリッキーな音楽性に度肝を抜かれながら私はそんなことを思う。一体、どこまでがロックという括りであり、バンドなのだろうか。
 とにかく、目の前でMuseというバンドを、それもスリーピースでやってのける黒澤副部長含む三人の姿を、羨望の眼差しで見つめることしか私にはできなかった。

 Hysteriaが終わるころに、舞台袖からやってきた宙に呼ばれた。とうとうその時が訪れたようだ。ごくりと喉を鳴らすと、緊張を読み取ってくれたのか、安田君は私の頭をそっと撫でると笑いかけてくれた。思えば今日は随分と彼に良くしてもらっている。今度何かお礼でも返さないと釣り合わないくらいだ。私はそっと手を振ると、ステージ前を後にし、舞台裏へと回った。
「大分緊張、解けてきてるみたいだね」
 裏口に足を踏み入れると同時に、ギターを抱えた蜜柑がそう言って微笑む。振り返ると後で宙も笑みを浮かべ、私の肩に手を置いていた。随分と暖かい手だ。楽器を始めるまで、こんな風に手を置いてくれた人は、多分いなかったと思う。いや、私がそんな手をずっと拒んでいたのだ。誰かに頼っていると思われたくなくて、緊張していると思われたくなくて。
「大丈夫、頑張れる」
「困ったら、左か、後を見て」
 宙の言葉に、私は首を傾げた。よく理解できていない私を見て溜息をついた後、彼女は蜜柑と自分を指差した。
「あたし達がいるよ」
 私は、深く頷いた。頷いて、それからギグバッグのジッパーを引っ張った。
 真っ青なベースが、顔を出す。フロントピックアップ回りの塗装が?げてしまって、木目が見えている。ピックと指で弾き続けた結果だ。何度も何度も練習をした。今まで没頭したことがない私にとって、初めて夢中になって、必死になったことだ。
「行こう」
 蜜柑の言葉を聞いて、私は青色のベースを一度、強く抱きしめた。

   ―――――

「Undo Nut’sです。名前だけでも覚えて帰ってください」
 マイクによって蜜柑の声が広がる。観客の視線が私に向いているのが分る。小さな声がどこかから聞こえてくる気がする。何故あそこの安藤奈津がいるのか。そういえば最近はあまり姿を見なくなった気がしていたとか、きっとそんなことを言っているのだろう。文化祭だってそんなに姿を現していない。
 そして見なくなった私が今、ここにいる。何より去年何かしらの問題を起こしたこの部活に、あまり印象の良くない軽音学部のライブの一つの枠に。
 私は宙を見た。彼女はにこりと私の方に微笑みかける。それから蜜柑を見て、彼が穏やかな顔をして視線を返してくれた。
 蜜柑がタンバリンを手にし、リズム良く叩き始める。観衆の中に曲を知っている人がいるようで、手拍子が始まる。
 深呼吸を一回。それから蜜柑の方を見る。
――わん、つー、すりーふぉー。
 スタッカートを交えたベースリフがアンプから鳴り響く。手拍子とタンバリンとベースが混ざり合って、それから遅れてやってきたドラムが小気味よく響き出し、それと同時に蜜柑はタンバリンを投げ捨てギターの歪んだ音を鳴らす。
――Are you gonna be my girl
 Jetの代表曲とも言うべきこの曲は、流石に洋楽といえ知名度は高いらしく、三人のサウンドが音の塊となって吐き出されるとオーディエンスは歓声を上げる。
 ベースとギターのリフが重なり合って、跳ねるようなドラムの上を駆け巡る。私は何も考えず、ただピックで弦を掻き鳴らす。
「So,1,2,3,take my hand and come with me Bcoause you look so fne that I really wanna make you mine」
 ブレイクと共に蜜柑が叫び、リフが繰り返される。その間も手拍子は鳴り響く。暗闇に証明が落とされて、私達のいるステージ上だけが照らされる。今全ての目がここに集中している。この三人の音に耳を傾けている。
――手をつないで一緒に来いよ。魅力的なお前を俺のもんにしたいんだ
 途中でミスとかそういうものを考えるのはやめた。ステージに向けて腕を振ってくれる人たちと、リズムに身体を揺らす人。そして満面の笑みを浮かべて歌う蜜柑とドラムを叩く宙。皆のことを見ていたら全てがどうでもよくなる。ここではみんな、音楽を楽しみに来ているんだ。完璧でもなくて、ただひたすらに盛り上がって馬鹿騒ぎをする為に。
 だから私も馬鹿になってしまおう。ぎこちなさと恥じらいの残ったまま私は飛び跳ねながら低音を掻き鳴らす。朝整えてきた髪が乱れる。スカートなんて多分何度もひっくりかえってしまっている。
 でも、良い。楽しくてたまらないから。スタジオよりも遥かに大きな音量で響き渡る自分の音がただ楽しくてたまらない。
 一曲目が終わると同時に、蜜柑は間髪を入れずにギターを掻き鳴らす。歯切れの良いコードを繰り返す中、ドラムのリムと金物の音が響き、イントロへと流れ込んだ。三人の音がまるで洪水のように流れ出ていく。ピックを投げ捨てまだばたつく手を必死に動かして二人の演奏に食らいついていく。
「混沌の一言じゃ、全てを片付けられないだろう――」
 畳みかける様な演奏の中で蜜柑の透明な声が日本語を紡いでいく。指を忙しなく動かしながら私は彼と宙とも交互に見て、それから前に置かれたモニターに足をかける。
「揺らしてよマスター!」
 ブレイクを挟んで、サビで蜜柑が叫ぶ。キャッチーなメロディと不思議な歌詞をその透明な声で歌いあげながら、難解なコードを次々と乗り越えていく。
 ギターソロが始まると共に蜜柑はマイクの前からステージぎりぎりまで駆け、膝をつくと弦をきれそうなくらいに掻き鳴らし、全てを切り捨てる。
「描いてけ時代の彼方――」

 衣服としての効果を示しているかどうかわからない。胸元を見ると汗ですっかり肌が透けてしまっているし、下着もそれとなく透けて見えている。それに暴れている途中にスカートも翻ってしまっていたし、確実にいろんな見えてはいけないところが見えてしまっているのは確かだった。
 手の甲で額の汗を拭って、アンプヘッドの上に置いておいたミネラルウォーターを口にして一息入れる。
 少なくとも、蜜柑と宙は絶好調だ。今までにないくらい高音が奇麗に響いている。もしかしたら喫茶店の時よりも出ているのではないだろうか。あの時点で十分と思っていた歌声はまだ成長を続けているようだ。
――だって、未完なんだぜ。
 おばさんから聞いた今は亡きおじさんの言葉を思い出す。確かにその通りだ。彼は完成しない。どこまでも伸びていける。ゴール地点は未だに見えていない。
 できることなら、彼の声の最終到達点を見てみたい。どこまで飛んでいけるのか。私が彼に抱いている気持ちはそれだった。音楽という中で彼はどこまでいけるのだろう。
「ええと、改めてこんにちは、Undo Nut’sです」
 観客が沸いた。これだけ聞き心地の良い声を聴かされたら、好感を持たない人間なんてそういない。多分ここにいるほぼ全てが彼のファンになっていてもおかしくはない。過大評価と言われても良い。少なくとも私はそう確信している。
「えー、つい最近組んだバンドです。バンド名はベースの安藤奈津からで、ほら、あんどーなつってお菓子みたいな名前で可愛いですよね」
 そう言って蜜柑は水を飲んで、少年のような悪戯な笑みをこちらに向けた。言わなくてもいいのに、と身体がまた熱くなるのを感じる。折角水を飲んで少し落ち着けたのに。私はアンプを弄る振りをして背中を向けた。全部フラットで設定なんて何もないのに。
「ここからは少しトーンダウンしますが、精一杯やるんで、楽しんでってください」
 拍手。と共に、蜜柑は後ろを向いて宙と顔を合わせる。
 宙は四カウントとって、スネアとタムを。蜜柑はぺなぺなとしたギターフレーズを、私は八分を刻み、強弱をつけて次第に盛り上げていく。
 ギターの相変わらずのぺなぺなとしたリフが鳴り響く中、ドラムとスラップをメインにしたベースがギターに並走する。
 Can’t stopはもう何度もやった。宙と打ち解けるきっかけであり、このバンドを組む理由ともなった曲だ。私の中で最も思い入れがあったので、蜜柑に無理を言って入れてもらった。

――俺が愛す世界

――俺が流す涙

――波の一部になる為に

――止まることができない。

 メロディアスな蜜柑の声が詩を歌いあげる。よくこのギターを弾きながら歌えるものだと思いつつ、彼の歌声をぐっと盛り上げるべく丁寧に低音を重ねていく。

 ブツ、と音がして、音がせき止められた。私と蜜柑の機材とマイクの音が消え、照明も落ちてしまった。ざわめく観客を一瞥した後私はベースアンプに向かい、ボリュームを弄る。
「安藤さん、そっちは?」
「駄目、出ない」
「俺の方も。電源が落ちたのかな」
 ふと舞台袖に顔を向けると、戸惑った顔をした裏方達が慌てふためいている。なんにせよ、予期せぬ問題が生じたらしい。私はベースを置いて舞台袖に向かうと、一人の肩を叩いた。
「どうしたんです?」
「電源が落ちたみたいなんですけど、原因が全く分からないんですよ」
「復旧まで時間、かかりそうですか?」
 なんとも言えないと返事を返され、私は軽く頭を下げると舞台に再び戻る。ギターを置いてドラムの辺りに集まる二人に加わった。観客の方もざわめき、それから待つ人と体育館を出ていく生徒に別れていく。人が減るのは残念だが、なにより自分たちの演奏がまともに終えられないのは辛かった。
「まさかこのタイミングでこうなるとはね」
 宙は残念そうに項垂れ、スネアの淵を撫でる。まだ満足していないことが彼女の態度からよく分かった。蜜柑も次にやる筈だった曲のコード進行を鳴らしている。このバンドで初のオリジナルの制作曲。このライブのラストにやろうとしていた曲だ。
「どうにかしてやれないものかな」
 彼自身もこのまま終わるのはなんとも満足がいかないようだった。私だって同じ気持ちだ。初めてのライブで、変わった自分を披露する場所で、三人と初めて人の前で曲が合わせられると思ったのに、こんな結末は満足がいかない。
 しかしこのまま時間が過ぎていけば、後のスケジュールも押しているせいで私達の時間は削られてしまう。
 不安に胸を痛めながら、ふと私はステージ上を見た。その時何故そんな風になったのか分からないが、振り向いた先に母がいて、まるで互いにそうなることを知っていたかのように、目が合った。後ろの方で椅子に座って、いつも見たいな仕事用の服装ではなくて、クリーニングしたてのジャケットを身に付けていた。遠くからでも分るくらい気合いの入った服装で、私と目が合った後、母は自らの服装を見て恥ずかしそうに微笑んだ。
 それから、偶然なのか、隣に座るおばさんの姿を見つけた。再び振り返って蜜柑と宙を見るのだが、二人とも気づいていないようだ。再びおばさんに目を向けると、私に向けて口を開き、その前でグーパーグーパーと右手を握ったり開いたりする。
――歌え、ということらしい。
 戸惑いながら、でもこの時間を無駄にしたくない気持ちが私の中で沸き立っていく。
 一度目を閉じて深呼吸。気持ちを落ち着ける。楽器の音が出ないし、他の楽器が弾けるわけでもない。少なくとも私だって好きな曲の歌詞は覚えている。
 私は蜜柑と宙を一度じっと見つめた後、マイク近くに立って大きく息を吸った。
「デスペラード――」
 囁いた後、振り向くと蜜柑がこちらをじっと見つめていた。私はにこりと笑みを浮かべると、続ける。
「ホワイドントユーカムトゥユアセンシズ――」
「You been ou ridin’ fences fo so long now」
 たどたどしい私の歌声に続いて、あの透き通るような声が響いた。マイクを通さなくてもはっきりと聞える、大きくて力のある声だ。私は隣にいるであろう蜜柑このを想い、それから安定しないけれど、精一杯を込めた声で歌い続ける。
 生徒達はざわめくのをやめて、じっと蜜柑の声に耳を傾ける。少しして後ろから繊細なスネアの音とハイハットが聞こえ始める。歌を消さないように加減した、けれども丁寧な音だった。
――誰かが君を愛してくれるようにしなよ、遅くならないうちに。
 曲の一節を蜜柑と共に歌う。途中で途切れていた電源が復旧して、照明が私と蜜柑に集まった。このまま本来やるべき曲に戻ることもできた。けれど、私達はただ歌った。言葉を吐き出して酸素を吸い込む。全てを歌い切るには息が続かなくて少し苦しい。それでも、私は口を開いた。拳を握り締めた。目の前の光景を忘れるものかと噛みしめた。
 薄暗い中、照明の集められたステージ上から見る景色はやっぱりどこまでも不思議で、今まで見たことのないものだった。壁の隅に等間隔に並んだ非常灯の緑はとても柔らかく感じられたし、じっくりと歌に耳を傾ける観客の顔はどれも違っていて、それぞれがそれぞれの感情を抱いている。私がいつも見ていた顔なんて一つもなくて、これが心の底から見てくれていることなんだと思うと、身体が熱くなった。
 最奥で私の姿を眺めている母の表情は、さっきよりも暗くなったことでよく見えないけれど、なんとなく、笑ってくれていた気がした。
 誰かと並走することが、こんなにも心地良くて、安心できるとは思わなかった。
 ピアノパートがいないことが少しだけ、残念だけれど、でもこの三人でできる一つの表現なのだと思ったら、むしろこれでいいのだろうと思った。

――誰かが私を愛してくれるようにするよ、遅くならないうちに。



――蜜柑のリフが炸裂した。
 重たく歪んだギターから吐き出されたフレーズが、それまで水の上に立っていた気分でいた人の意識を軒並み刈り取っていく。皆夢から醒めたみたいに目を見開いて、ステージ上で一人弾き狂う蜜柑に視線を向けた。
 リハーサルスタジオという小さな箱の中で育てられたそのフレーズは、大きな会場で表情を変えた。私と宙もただただ驚くばかりで、ここまで響き方が変わるとは思っていなかった。
 まるで何もかもを巻き込んで連れて行こうとするみたいに力強くて、けれど強引ではなく自発的についていきたくなるような、どこか体温を感じるものとなっていた。
 蜜柑がこの曲に「笛吹き男」とつけた理由が、今なら分る気がする。それまでしっくりきていなかったこの言葉が、私の中でじわりと滲んで、私の一部として沈んでいく。
 多分私達は彼の、笛吹き男の音に引きずり込まれた二人だ。そして今もこのフレーズについて行くようにして、ドラムとベースが同時に蜜柑を追い掛けていく。三つの音によってより厚く、深くなったイントロに観客達は再び腕を振り上げる。
「いつか見た花が見たくて」
 歪んだギターのコードストロークに蜜柑の歌が乗る。透明で突き抜けるような歌声とそのギターサウンドは、対比するように、しかしどこかでちゃんと混ざり合っていた。
 蜜柑なりの「誰か」への感謝を込めた歌が叫ばれる。その歌声が耳を突き抜ける度に私は演奏を止めてしまいそうな程意識が真っ白になるのを感じた。
 誰かの歌を借りて声を張り上げ続けていた蜜柑の声よりもよく出ている歌声は、多分今日の演奏したどの曲よりも彼らしさのあるものだった。彼なりの表現がなされている曲なのだからそうなることは当たり前であるが。
――蜜柑は未完である。
 その言葉をまた思い出してしまった。知らない筈のおじさんの声まで聞こえた気がした。
 蜜柑がどこまでも駆け抜けていこうとしている。
 やっと手に入れた足と笛で、何もかもを連れてどこかに行きたがっている。
 じゃあ、それはどこなのだろう。
 目の前で腕を振り上げている観客や共に演奏を続ける私達を連れて、彼はどこに向かおうとしているのだろう。

 曲が終わろうとしていた。

 全てを絞り出すように私はベース弦をピックで掻き鳴らす。

 ああ、もっとこのまま続けばいいのに。

 ずっと、ずっと。

――ラストのAコードが鳴って、音は静寂に帰って行った。

 私達は何も言わず、ただ帰っていく音の後ろ姿を眺め、それから互いに顔を合わせた後、深く深くお辞儀をする。

 拍手が、私達が舞台袖に消えるまで、ずっと続いていた。

       

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