Neetel Inside 文芸新都
表紙

Pure and Easy
第三話「Loop & loop」

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「安藤さんのおかげで大分仕事が進んだよ」
 生徒会会計の安田君はそう言うと、奇麗に整った白い歯を見せて笑った。彼のこういう爽やかな笑顔は嫌いではない。けれども、彼はしきりに私を頼り、力強いと厚い信頼を寄せてくる人物であり、正直私にとってそれが大分プレッシャーとなっている。
 明かりの消えた半透明色の蛍光灯をぼんやりと見つめてみる。等間隔に並べられたそれらを眺めながら、寸分もたがわず設置されたそれに私を見つけた。
「そういえば、この後は余裕あるのかな?」
「え、ああ、何故?」
 安田君の声に私は慌てて反応し、それからぎこちなく微笑む。彼は私に笑みを返し、大したことじゃないんだ、と呟いて、それから一瞬視線を逸らすと、再び私を見つめる。
「仕事、手伝ってくれた礼をしたいなと思ってるんだ。といっても飯を奢るくらいしかできないけどね」
 彼はまた白い歯を見せると、右手を私に差し伸べる。彼の気持ちにはそれとなく気づいているつもりであった。この言葉だってきっと彼なりに勇気を振り絞った一言なのだろう。それくらいはいくら恋愛に疎い私だって分かる。
 分るのだけれど……。
「ごめんなさい、まだ仕事、残ってるし帰宅して家事もやらないといけないから」
 この手を取って、この身を委ねてしまった時が、とても怖かった。私という存在でいっぱいいっぱいなのに、気を抜いてそれがあふれ出したら、多分もう私は安藤奈津でいられなくなるような気がしていた。
 私は深くお辞儀をして、それから彼と距離を置くように早足でその場を立ち去る。居続けたとしても彼はきっと優しいから、笑顔で私に接してくれる。けれども、そんな残酷なことをさせたくはない。
 玄関に着くまで、私は一度も振り返らなかった。
いや、怖かったのだ。
 彼が一体どんな顔をしているのかが。

   ―第三話「ループ&ループ」―

 鍵を差し込んで回し、扉を開ける。窓から差し込む夕日に照らされて、部屋は橙色に染まっていた。私は靴を脱いで几帳面に整えると、それから壁にぽつんと付いたスイッチを押し、蛍光灯に灯りを灯した。鞄を部屋に置いて、それからベストとスカートを脱いで紺色のジャージと灰色のシャツに着替えると、一度大きく伸びをする。
 それから、部屋のクローゼットを暫く見つめ、それから意をけっして開けた。うまく整理された服達の隅に、そっと青色のベースが置かれている。スタンドに立てられているがいまいち窮屈そうに見えて仕方がない。けれども母に見つかるのもなんだか嫌で、結局ここしか収納場所を見つけることができなかったのだ。
 私はネックを握り、クローゼットからベースを取り出すと、ストラップを肩にかけ、それから壁にかかっている鏡の前に立ってみる。
 そこには、私がいた。
 いつもとは違う、優秀だとか、完璧だとか、そういうイメージではなく、楽器を手にして目を輝かせている私が。ストラップが中途半端な位置のせいで、どこか歪で、ぎこちなさの残る姿。
 けれども、その姿はとても新鮮で、とても気持ちが良かった。
 右の腕をボディに乗せ、人差し指で四弦を弾く。弱弱しくて、小さな低音が、弦を震わせて響いた。ベースの生音のあまりの小ささに、初め私は驚きを覚えた。彼の弾いていたギターの音がハッキリと聞こえていたこととのギャップもあったのだと思うが、本当に意識しなければ、他の音が鳴ってしまうとすぐに?き消されてしまいそうな音だった。

――君に言いたいことはあるか

――そしてその根拠とはなんだ

 懇切丁寧に教えてもらった生活のフレーズを、まだおぼつかない左の指先を必死に動かして弾いていく。そのたびにとても小さな低音がボン、ボンと部屋に弱弱しく響く。
 ベースは全ての土台なんだよ。彼はそう言っていた。メロディをより印象的にするように、歌い手が歌いやすくなるように、ドラムとギターをまとめる為に、曲を合わせる上でとても大切な役割をもっているのだという。
 私に、できるだろうか。
 そんな不安を振り切るように、私は生活のサビのフレーズを奏でる。休符の混じった、単純であるけれど、確かな存在感を残していくベースライン。

 頭の中で鳴っていた演奏が止まる。そして私の指も止まった。最後の一音がしんと静まった部屋の中で、ずっと鳴り続ける。
 クローゼットの中のスタンドにベースを立て懸けると、部屋を出た。そろそろ母の帰ってくる時間だ。夕食の準備をしなければならない。冷蔵庫から買いだめておいた食材を取り出すと、包丁を握り締め、それからまな板の上に人参を置いて、刃を振り下ろす。
 軽快なリズムでニンジンが刻まれていく。トン、トンと一定の拍子に耳を傾けながら、私はふと鼻歌を乗せる。
 ああ、これだけで音楽になるものなのか。
 身近な音をこんな風に思ったことはなかった。なんだか面白くて、私は調子づいたまま料理を続けていく。
 なりたい、と思った。

   ―――――

 ハードケースを右手に持った彼は、私の姿を見つけると笑顔で手を振った。私は緊張で高鳴る胸を必死に抑えながら、彼に手を振る。
「初スタジオ、だね」
 彼はそう言ってから、通りの先を指差す。レンタルスタジオ「ライラ」と書かれた看板が置かれていて、その前で呆け顔の老人が一人ただぼんやりと路上に水を撒いている。
「昔からあるスタジオなんだけど、小さいし安いし、個人練習ならここで十分事足りちゃうからよく来るんだ。流石に家で大音量は流せないしね」
 そう言って、彼は歩き出す。私はベースを背負いなおしてから、彼の後ろにくっつくようにしてついていく。
「おじさん、どうも」
「おお、みっちゃんか」
 軽快な挨拶をする蜜柑を見て、老人の顔が先ほどまでの呆けたものから意識と焦点のはっきりした顔に戻る。それから少し彼と話を続けた後、じろり、と私を見つめる。
「この子は?」
「楽器始めたてで、俺が面倒みてるんだ」
 彼が紹介してくれたおかげで、老人の顔つきは和らいだ。いや、和らいだというか、少し嬉しそうな、柔和な笑みになった。
「はじめまして、安藤です」
「御丁寧にどうも、こんな子に利用してもらえるなんて、嬉しい限りだよ」
 そう言って彼は笑いながら、スタジオ内へと入っていく。
「あの人は朝田さん。このスタジオを運営してる人ね。これから時々くることになると思うから、覚えておくといいよ。あのおじさん、一度覚えた客の顔は忘れない人だからよくしてもらえるよ」
 さあ、僕らも。蜜柑はそう言うと私の手を取り、スタジオへと連れて行く。何一つ無知な状態だからか、私は緊張に身を震わせながら、どこかはやる気持ちに混乱しながら、スタジオ内へと足を踏み入れた。


 吸音材に包まれた個室には、ギターアンプとベースアンプ、そしてマイクとミキサーがそれぞれ一つづつ置かれているだけで、ドラムはなかった。
 私は戸惑いながら、ベースアンプの横にカバーを置き、スタンドにベースを立て懸けてから個室内を見て回る。部屋に入って右側の壁は全面鏡になっていて、私と蜜柑の姿が映っている。私は髪型が少し変な気がして、鏡に顔を寄せて前髪を指で弄り、それから鏡越しにニヤつく蜜柑の顔を見て、瞬時に鏡から離れた。鏡を見ると少し髪を弄りたくなる癖を見られた。それが恥ずかしかった。
 私はなにもなかったかのようにアンプの前に行って、シールドを繋ぎ、電源を入れてボリュームを上げた。
「弾いてごらん」
 彼はそう言ってほほ笑むと、自分もギターを鳴らす。ああ、ループ&ループの初めの特徴的なパワーコードが彼のストラトギターから流れる。
 私もそれに続くようにベースを提げて、それから四弦に指を乗せ、開放弦を弾いた。




 重厚な音が私の体を震わせる。



 暫くその生音ではありえなかった音の感触に、棒立ちになる。全身の毛は逆立っているし、その音の感触に思わず目を見開いてしまった。
「気持ち良いでしょ」
 彼はしてやったり、とでも言いたげな表情で私を見た。私はその言葉に、ただ無言で頷くしかなかった。それから生唾を飲み込み、恐る恐る開放弦を再び鳴らす。
 ボーン、地に足のついた音がずっしりと私の耳にのしかかる。とても重たい音なのに、どこか気持ち良くて、昂揚感の湧き上がるその音に、暫く感動し続ける。
「これ、すごいよ」
「良いでしょ、それがベースだよ。君が魅力を感じた、低音だよ」
 それから何度も何度も、感触を確かめるように、その音を身に馴染ませるように、弦を指で弾いていく。

 横から、あのギターの音が聞こえてきた。

 私は蜜柑を見る。ギターのフレットに洗濯ばさみのようなものを挟んでいることに少し疑問を覚えたが、彼のギターから聞こえる音は、確かにあの「生活」のイントロだった。彼は何度もイントロの同じフレーズを繰り返しながら私を見て笑う。うん。私は頷いてから、弦に指を乗せた。彼はいくよ、と口を動かす。
 ダダダッ……。
 ドラムの入ってくるあのタイミングに合わせて、彼の演奏に潜り込んだ。ギターのストロークと、私の少しだけ稚拙なベースラインが合わさって、曲を成していく。その二つの音の中に、蜜柑の歌が入ってくる。
――君に言いたいことはあるかい。
 ああ、これはもう音楽だ。三つの音の絡み合う光景に感動を覚えながら、私は確かにそう思ったのだ。これは音楽だ、と。私と彼の二人で組み上げた一つの楽曲だと。
 彼のギターがソロに差し掛かる。それまで座っていた彼が立ち上がると、細かなフレーズに指を滑らせながら私に近づき、そしてこちらを見て笑う。私も思わず笑みが零れて、それから身を揺らしてギターを掻き鳴らし、叫ぶ彼の姿にただ一言、感謝を呟く。互いの音の中で多分聞こえていないだろう。聞こえていないけれども、確かに口にしたい言葉だった。

――ありがとう。

 一瞬だけ、彼がこちらを見た気がするが、私は視線を逸らし、自分のフレットに目を移す。生活が終わると、そのまま彼のカウントと共に、ループ&ループへと演奏が移行した。シンプルなエイトビート、けれども遅くても速くてもいけない。確実なリズムをもって刻むエイトビートを、そう意識して私はルートを弾く。

   ――――――

 たった二曲をただひたすらに合わせているうちに、もう時間が迫っていた。楽器を弾くという行為は思った以上に体力を使う。私と蜜柑は互いにすっかり汗を浮かせながら、それでも確かな充実感に包まれていた。
「すごく楽しかった」
 若干上がった息を整えながら、それでも溢れ出るこの暖かな感情を伝えるべく、私はただ一言そう言った。
「安藤さん、きっと上手くなるよ。リズム感がとても良いから」
 多分、お世辞混じりの言葉だということは理解している。けれども、今はそんなお世辞でさえ幸福として受け取ってしまう。なんだか照れくさくなって一度微笑んでから、スタジオを出た。廊下は少し涼しくて、暖まった身体をゆっくりではあるが、冷ましていく。
 すぐ傍に設置されたベンチに腰掛け、歌を口ずさみながら、両足を揺らす。
 その時、一番奥の扉が開いた。すっかり自分の世界に入り込んでいた私は恥ずかしくなって押し黙り、開いた扉の方をじっと見つめる。
 明るい茶色でショートヘアーの女の子がタオルで顔を拭きながら出てきた。右手にはスティックを持っているから、多分彼女はドラマーなのだろう。
 彼女はこちらに気づいて、こちらを遠目に見ている。私は一度お辞儀をした。
 少し空いた距離の中で、互いの視線が交差する。何か声をかけるべきかと考えるのだが、なんの言葉も出ない。私はただ彼女の顔を見て、硬直していることしかできなかった。

 静寂。

 静寂―

 静――

 暫くして、ショートの少女は踵を返すと、再びスタジオへと入っていってしまった。私は止めていた息を吐き出すと、大きく呼吸し、それからもう一度だけ奥のスタジオを見た。知り合い、だったのだろうか。それとも人間違いだったのか。
「安藤さん?」
「え、あ、はい!」
 扉を開けて出てきた蜜柑に驚き、私はベンチから腰を上げ、裏返った声で返事をした。彼は小さく笑い声を洩らし、それから片付けをしよう、と言う。
 その彼の言葉に逐一大きな返事を返しながら私もスタジオへと飛び込んでいき、ベースの片付けをしようとシールドをアンプから引っこ抜いた。
「あ、それは――」 


 ボンッ!


 彼が注意するより、私がシールドを抜くのが早かった。

       

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Neetsha