Neetel Inside 文芸新都
表紙

イルカ日記
9

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「それから私は髪の毛を全部ビニールに詰めて、捨てに行ったの。それ以上それが部屋にあることに我慢できなかったから。真夜中で辺りに人は居なかった。そんな風に夜に一人で外を歩くのは初めてのことで妙にどきどきした。髪の毛は川にでも流してしまおうと思って、ふらふらと歩いていた。そうしたらその人がそこにいた。バットを持っていた」
 助手席から聞こえる少女の声は細く、語り口調は淡々としていた。先の鋭く尖った鉛筆で何かを精密に描写するように、それは抑揚なく慎重に語られていく。
 私は隣で古いホンダアコードのハンドルを握り締め海へと走らせていた。真夜中の道路に他の車の姿はなく、月明かりが薄く地上を照らしているのを更に漂白するように、アコードのヘッドライトが強く光る。
「バット?」
 私は訊き返す。
「そう、バット。金属バット。使い古されたみたいに汚れているのに、妙に鈍く光っていた。その人の顔はよく見えなかった。遠かったの。外灯の光の少し外側に居て、手元だけが照らされていた。だから最初に見えたのはバットだった」
 以前と同じ場所に車を停めた。
 少女は沈黙している。
 私は何も言わない少女を抱え、防波堤沿いの狭い階段を降りた。雨は上がっていたが、地面は濡れて、暗がりの中で月の光を受けて光っている。何度か足元が滑りそうになるのを堪えて慎重に歩く。
 岩場のくぼんた箇所には雨水が溜まっていた。できる限り水の残っていない場所を探し、やや膨らんだ平らなところを見つける。座るとひんやりとした岩の感触が服越しに伝わってくる。湿った地面で少女の白いワンピースが汚れてしまうのが気になったが、構わないと彼女は言った。
 空気は冷えていたが風はない。まっすぐに前を見ると、果てしなく続く暗い海の上には完全な円形をした満月が浮かんでいた。そんなに完全なかたちの月を、こんな風に眺めるのは本当に久しぶりのことだった。私はしばらくそれを眺めていた。少女も私の腕の中でしばらくの間沈黙していた。月を見ていたのかもしれない。


 歩いていくとその人とすれ違った。少し小柄な、痩せた感じの男の人だったように見えた。あんまりじろじろ見なかったからわからない。普段なら、そんな時間にそんな人とすれ違うのは怖かったと思う。でもそのときの私はまるで怖くなかった。色んな感覚が麻痺しているみたいに遠くて、現実味がなかったから。
 通り過ぎてしばらくすると、その人は少し離れて私の後ろをついてきた。私はそれも怖いとは思わなかった。そうするんだろうとどこかで知っていたのかもしれない。わからない。夢の中みたいな感じだった。起きていることに疑問を感じないまま、不確かな時間の中を、意識が泳ぐみたいに歩いていた。
 むしろそれは夢だったのかもしれない。どこからが夢だったのかはわからない。髪の毛を夢中で切っていたのだって、もう現実ではなかったのかもしれない。
 歩いているうちに、私には段々とそこがどこだかわからなくなっていた。見慣れたはずの近所の風景も真夜中のせいかなんとなくよそよそしくて、まるで知らない町に迷い込んだような気がした。でも足は止めなかった。行けるところまで行きたかった。
 背後の足音は途切れることなく続いていた。同じ歩調で、早まることも遅れることもなく、ずっと変わらない距離を保って。自分の足音に少し遅れて重なるその響きを聞いているうちに、……ちょっと変な話なんだけど、それが自分の一部のような気がしてきたの。確かに自分とは別の人間の足音なのに、そんなふうに歩いているのも私なんだ、という感じがしたの。うまく説明できないけど。自分の境界線がなくなって、どこか別の場所と繋がっている感じ。たまにそういうのがあるの。痛がっている人を見たら自分も痛くなるのと同じだと思う。
 でもそのときは、それよりもっと強烈な感じだった。手に金属バットを持っているような重みを感じたし、自分とは全然違う男の人の強い足で、大きくて汚れたスニーカーで地面を慎重に歩いていくような感覚があった。でも同時に私は私自身でもあって、手に提げているのは軽いビニール袋だし、履いているのは小さなサンダルなの。どちらも現実として同時に認識していた。こういうの、うまく伝わらないかもしれないけど、実際にそうだったの。
 だから気がついたら、私はその人が何をしたがっているのか知っていた。その人も私が何を欲しているのかわかっていた。私たちは個人であると同時に、同じ意識を共有するもの同士でもあった。私の足は私の意志で動いていたし、同時に私以外の意志でも動いていた。私はどこに行けばいいのかわからなかったけど、同時にどこに行けばいいのか知っていた。
 いつの間にか私は河原に来ていた。知っている場所のような気がしたけれど、そうだとしても来たのは本当に久しぶりで、記憶とは全然違う方向からたどりついたみたいだった。時々、遠くの方に架かった橋を車が渡って行くエンジン音が響いた。それ以外は人の気配はまったくない。
 土手を降りると、小石が敷き詰められている地面の隙間から背の高い雑草が生えてところどころ茂っていた。虫の音と水音。草むらには土に潜ったり草を登ったりする小さな生き物達の気配が濃密に漂っている。そこに分け入るようにして歩いていく。
 離れた足音もそれについてくる。
 首元まである雑草をかきわけていく。ある地点で急に草が途切れると、水が出現していた。川との境界線だ。水は小石の上を染み出したように溢れ、表面を洗っていく。
 ビニール袋のしばっていた口を開けた。それを逆さにして、手を伸ばして中身を振り落とす。まばらに切られた髪の毛がばらばらと落ちる。それは着水すると流れに乗り運ばれていく。あるいは石の隙間に引っかかりゆらゆらと水面を踊っている。私は黙ってそれを見ていた。ほとんどが流れて、運び去られてしまうまで。

 それから私は渾身の力を込めてバットを振り下ろした。


「最初は腰の辺り。横から思いっきり打たれた。あまりに痛くって倒れたら、上半身が水びたしになった。石が肌に刺さって擦り剥いた。うめきながら泣いていたらまたバットが肩を打った。思わず叫び声を上げて、逃げようとした。でも私はやめなかったの。どんなに痛くても、辛くても、もう殺してしまおうと思っていた。それがバットを持った男の意志だった。相手がどれだけ苦しんでもやめないこと。そしてそれは私の意志でもあった。私はやめてと何度も叫んだけど、本気でそう思っていたけど、同時に絶対にやめないと誓ってもいた。それは憎しみというよりももう義務感に近かった。痛くない辛くない死なんて許せなかった。それは一番みじめな方法で殺されるべきだったの。最も効率が悪くて、苦痛を与える方法で。
 随分長い間意識があった。肌は痣だらけになったしあちこちの骨も折れた。骨を砕く感触をバット越しに捉えながら、同時に身体の内側で骨の砕ける音を聞いた。内臓がつぶれて、皮膚が裂けて肉が沈んだ。もう一度あれに耐えられる気がしない。時間も感覚も全部歪んでぐちゃぐちゃになって、全身が熱くて、あらゆる痛みが肌の上をのた打ち回ってた。最後になってやっと頭を潰した。それで世界が真っ暗になった」
 少女は淡々とそう語ると、ふと思いついたように言葉を止めた。それは無感動に語られる痛みの記憶だった。なんの高揚も脅迫もない言葉の並びだった。
「自殺だと言っていたけれど」
 私は言葉を発していいのかどうか迷いながら、小さな声で言う。
「自殺よ」少女が答える。
「それは通り魔だ。自殺とは違う」
「世間的に見ればそう。でもそれでいいの。それは自殺に見えてはいけなかったから、一番ふさわしい方法でやって来たの」
「でもバットで殴ったのは君とは別の人間だ。それは確かな事実なんだろう」
「そうよ。けれど、それは私でもあった」
 当たり前のことを言って聞かせるような口調で彼女は言う。
「誰もそんなことに納得しない。君は自殺じゃない。被害者だ」
「納得しなくてもかまわないし、誰も気にしないわ」
「僕がかまうんだ」
「どうして」
「君に死んで欲しくなかったからだ」
 自分でも予期しない言葉が自然と口からこぼれる。
「君を殺した人間に怒りを抱いているからだ。君はそんなひどいやり方で殺されるべきではなかったと思うからだ」
 少女はしばらく沈黙していた。波の音が遠く響く。それにやや遅れて、すぐ傍の岩に水がぶつかり跳ねる、妙に立体的な音が耳に飛び込んでくる。冷たく湿った音。
 繋がっていた、と腕のない少女は言う。それならば、彼女の腕を海に流した私は何者なのか。
 私もまた彼女の自殺を助けているのだろうか?
「少し裾をめくってみて」
 少女が小さな声で言った。
 私は確かめるように、胸にもたれかかった少女の頭を見下ろす。
「スカートの裾。どんな風になっているか、見て」
 少し迷い、それから手を伸ばしてまっすぐになっていた彼女の膝を抱えて立てる。それがだらりと力なく倒れようとするのを自分の足で支え、白いワンピースの裾に手をかけて少しだけ引っ張ると、ふたつの小さなまるい膝頭が現れた。それはなにものにも汚されていない驚くほど無垢な膝だった。こちらが後ろめたくなってしまうくらいに。
「もう少し」
 彼女が言う。私はできるだけ中立的な手つきで裾を更に引く。少し肌に引っかかる麻の感触が指先に伝わる。そうして現れた肌には、確かに殴打の痕があった。ある部分は丸く、または細長い何かの痕が、青黒く残っている。その不吉な色素は白い肌のあちこちを浸食していた。
「こうやって私は私を殺したの。そのときははっきりと、そうするべきなんだって信じていた」
 少女は囁く。
「でも私は間違っていたと思う?」
 その問いについて、考える。自分で自分を殺すことについて。少女の死について。それから恋人の死について。
 でも善悪を判別することはできない。
 私に出来るのは痛みを想像することだけだ。
「わからない。ただ、痛かっただろうと思う」
 私は言った。
 沈黙が続き、それを波の音が埋める。
 少女は言う。
「痛かったわ」
 声は震えていた。もう開かれないまぶたや口元、決して崩れないはずの無表情さを乱すように。
「痛かった。私は少なくとも弱くなかったと思う。逃げたんじゃないもの。殺すことが必要だったから殺しきったのよ。見つけて、囲い込んで、追い詰めて、見つめて、見つめ続けて、殺したの。すごくすごく痛かった。でも痛め続けるしかなかった。そうしないと生きていけなかったから」
 生きる? と私は呟く。
「そうよ。生きていくため。生きたくて生きたくて、仕方なかったから殺したの」
 彼女は言う。冷えた風が渡る。月は青白く沈黙している。
「噛み合ってないってわかってる。でもそれ以外の方法なんてどこを探しても見つからなかった」
 切迫した声で言い終えてから、彼女は深いため息をついた。
 夜の森の奥深く、冷たく湿った空気の中、そっと眠りから覚める獣のように。
 それから、彼女の身体が微かに震え始める。何かの予感を捉え、全身がざわめくようにうごめいて、呼吸によって小さく膨らんでは萎む。
 動いている。
 完全な死体だったはずのその細い身体が、腕の中で息を吹き返している。
 やがて呼吸は浅く、速くなる。溺れかけたところを救われたばかりの人のように彼女は喘ぐ。今にも泣き出しそうな響きで、その隙間に呟く。
「それ以外に知らなかったの」
 唇を介して生まれたその声が喉を震わせる微かな重みが、少女の背中越しに私の胸元に伝わった。


       

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