Neetel Inside 文芸新都
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イルカ日記
5

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 それから二日間、少女は喋らなかった。私の生活は少女が来る前のような簡潔なサイクルを取り戻した。違うのはソファで眠ることだけだ。そして夜になると一度だけ少女に声をかけ、返答がないことを確かめた。
 再び少女の声を聞いたのは三日目の夕方のことだった。
「ごめんなさい」
 そのとき私は夕食後に本のページを開いたまま、ぼんやりと考え事をしていた。声はひどく小さくかすれていたので、まず空耳を疑って、しばらくじっと少女の遺体の方を見ていた。張り詰めたような沈黙があり、それからまた少女の声が続く。
「レコードを買ってきてくれてありがとう」
 私は少し考えてから訊ねる。
「レコードをかけたとき、起きていた?」
「うん」
 またしばらくの沈黙。今日はなんの音楽も流れていない。
「起きてた。レコードも聴いてた。ドビュッシーの音楽」
「気に入った?」
「たぶん。ピアノのこともよく知らないけど、綺麗な曲だと思った」
 レコードの棚に手を伸ばそうとして立ち上がると、少女が制するように言った。
「今日は音楽はかけないで」
 切迫した、懇願するような声だった。私はそれに従いソファに戻る。
「この三日間、ずっと考えごとをしてたの。起きている間にしか考えられないから」
「どんなことを?」
「お葬式のこと」
 旧式の白熱灯の光は弱く、部屋の隅までは届かない。ベッドの辺りの暗がりから少女の声が響いてくる。それは確かに現実に存在している響きのように思われた。私は一体なにと会話しているのだろう。
「ずっと雨が降っていたから、その間はいいやって決めてたの。考えることもやめてた。でも雨がやんでしまって考えなくてはいけなくなったら急に怖くなった。何かを喋ったら物事が取り返しのつかない方向に進んでしまう気がして。困らせてるのはわかってたんだけど」
「僕に気を遣う必要はないよ」私は言う。
「ありがとう。もしよかったらひとつお願いをしたいんだけど。もちろん、難しかったら断ってくれても構わないけど」
「なんだろう」
「お葬式を手伝って欲しいの」少女は小さな声で、けれどきっぱりと言った。「海へ連れて行って」


 夜中になってから、私は少女の遺体を抱え上げて車に運び、シート倒した助手席に横たえた。少女の身体は相変わらず軽い。人の形とは明らかに噛み合わない軽さ、それから不思議にやわらかくぐにゃぐにゃとした身体。どう処理すればこんな風になるのかまるで見当がつかない。
 エンジンをかけてゆっくりと車を発進させる。外灯の少ない田舎道は真っ暗で、エンジンの音がやたらと響いた。この辺りには本当にごくわずかな世帯しかない。山と海が近く、静かで、それでも少し車を走らせれば買い物に行ける。それが気に入って越してきた。それは覚えている。けれど、越してきたのがいつだったのかを正確に思い出すことができなかった。考えると脳の奥の暗がりが存在感を増していくのがわかる。
 私は小さく息を吐いた。まただ。記憶が欠けている。今はそれに関しては考えないように努めた。考えてもどうにもならない場合はなるように任せておくしかないというのが、少女が沈黙していた三日間に出た結論だった。
 車で三十分ほど街とは反対方向へ走る。少女が何も言わないので、私も黙って煙草を吸っていた。やがて海が近づいてくる。大きな曲がり角を越えると、ガードレールに縁取られた道路の向こう側に海が広がっていた。視界の端に、波が月明かりを細かく乱しているのが見える。
 人気のない道路の脇道に車を停める。ドアを開けると波音が急に迫ってきた。耳から脳内に直接侵入するような音だ。
 ここならば、道路脇の小さな階段から岩場に降りることができる。もっと安全な砂浜や埠頭が他にあるから、カップルにしろ夜釣客にしろわざわざここに来る人間はそうそういないはずだ。以前ドライブの途中で偶然見つけた。その時のことを詳細に思い出そうとして、すぐに諦めた。無理に思い出そうとすると脳の中に針金を差し込まれたようにちくちくと痛むのだ。
 私は念のため半分ほど階段を下りて身を乗り出し、人が居ないことを確かめた。引き潮の時間らしく黒々とした無骨な岩があちこちで波間から覗いている。人の気配はなかった。
 車へ戻り助手席のドアを開ける。他の車がやってきそうな気配はない。少女を抱きかかえてゆっくりと階段を下り、岩場に降りた。平たい大きな岩を歩き、岩と岩の境目を注意して下っていく。波が迫る手前で立ち止まり少女に声をかけた。
「海だよ」
 彼女の顔が海の方へ向くように少し傾ける。まぶたはもちろん閉じられていたけれど。
「すごい波音。迫ってくるみたいに大きい」
 少女が小さな声で言った。私は頷く。
「座って」
 彼女の言うとおりに私は岩場に腰を下ろす。少女の身体をどう扱うか迷って、結局は後ろから抱きかかえるような格好になった。小さな身体は足の間にすっぽりと収まり上半身はぐったりと私の胸にもたれかかっていた。女の子を抱いているというよりは、もっと小さな子どもを抱えている気分だった。
「明るい月。黒い海」
 少女が呟く。
 風はひんやりと冷たく、波音が岩を通して身体を伝ってくる。半月を少し越えていびつに丸くなった月が冴え冴えと明るく海を照らす。けれど海は闇の塊だった。光を受けてきらめく波の合間では、その闇の深さはより際立って見えた。
「私ね、見えないの。でもわかるのよ。こういう景色なんだってことがなんとなくわかる。生きてたときみたいに見えているのとはちょっと違うし、うまく説明できないけど。感じている、という方が近いのかもしれない。音も同じ。感じるの。そういう塊の存在が直接わかるの。もしかしたら本当は、あなたとは全然違うものを見たり聴いたりしているのかもしれないけど」
 私は小さく相槌を打つ。それは波音に紛れてほとんど聞こえない。
「『眠る』のはいつも急なの。いつ眠っていつ目が覚めるのか自分ではわからない。また目が覚めるという確証もない。自分がどうしてこんな風になっているのかわからないのと同じように。目を覚ますたびに、次に眠って目が覚めなかったらどうしよう、と思うのよ。そしてたとえ目が覚めても、前と同じように世界を感じられなかったらどうしようって。もう死んでいるのにおかしい話よね」
「君は本当に死んでいるんだろうか?」
 私は慎重に囁く。それはこれまで密かに抱いていた疑問だった。でも少女は即答する。
「死んだわ。死んだときのこと、はっきり覚えているもの。身体はもっとずっとひどかったのよ。誰かが直してくれたから綺麗に見えているけど、きっと洋服に隠れている辺りには、まだ痣や傷が残っていると思う」
 思わず少女のワンピースから突き出た足を見た。白い肌は無傷のまま月の光を静かに吸い込んでいる。それから、洋服に包まれている肌のことを想像した。
「見ないでね。誰にも見られたくないから」少女が言う。
「見ないよ」私は答える。「そんなことはしない」
「うん」
 胸に寄りかかった少女の身体には温度がない。呼吸や鼓動の気配もない。確かにそれは命を宿してはいなかった。
「指を、千切ってほしいの」
 穏やかに彼女が呟いた。その言葉を理解しようとしたが、できなかった。
「どういうこと?」
「指だけを海に流すの。いきなりは怖いから、できれば少しずつなくなりたいの。そうやって自分が本当になくなってしまうのを少しずつ受け入れたい」
「でも、指をどうやって」
「簡単に千切れると思う。これはもうほとんどが作り物の身体だから」
 声は淡々と続く。でも私の胸に寄りかかっている頭には、艶のある健康そうな髪が生きていた。それだけはどうしても作り物と認知できない。
「大丈夫。身体の感覚はないの。もっと言えば、そこにあるものとして理解は出来るけれど、痛みや感触はまったくない。本当よ。今こうしてあなたに寄りかかっているのはわかっているけれど、でも肌が触れているという感じはない。だから大丈夫。指を千切って」
 感情が殺された声は、そのせいでずっと痛々しく響く。
 私は手を伸ばしだらりと身体に添えられていた少女の右腕をとり、左手でそれを支えた。自分の身体が自分の意識の統御を離れかけているのを感じた。少し意識をしただけで、身体が操られるように勝手に動いてしまう。月の光が意図を増幅してでもいるように。
 私は少女の手の甲をつくづくと眺めた。月の光に細かな肌理がくっきりとさらされている。自分のものより遥かに小さいその華奢な手は、今ここでは不思議な異物に見える。ぐったりと力の抜けた指は海洋生物のやわらかさを連想させた。彼らは朝方浜辺に漂着して、朝の光に溶けて消えてしまうのだ。名前を持たない白く儚い生き物。
 少女の小指の根元を右手でつまみあげた。生き物の日常に使う一部としては、それは余りにも細く弱すぎた。鉛筆ほどしかない。奥にある頼りない骨の硬質な感覚が指に伝わる。「いいんだね?」
 怖気づいて私は訊いた。
「大丈夫」少女は囁く。それは彼女の頭の辺りから響いてくる。「お願い」
 私は右手の指にわずかに力をこめた。すると少女の指は抵抗なく窪んだ。それは肉の感触ではなかった。私が今まで触れてきたどんな肉体とも違っていた。指先に力をこめると、少し奥の方で何か細かなものが裂けていく感覚が皮膚に小さく伝わってくる。自分の心臓が不規則な音を立てていた。風が冷たいのに肌の表面は熱い。息を飲み込み、その指を引き離す。それは何の音も立てずに、ほんの少し少女の手を引きつらせて、ふっと剥がれるように千切れた。
 私は強く息を吐いた。指先に真っ白な爪をつけた少女の小指が私の右手に収まっている。そして左手には、小指のない少女の手が乗っていた。
 少女はため息交じりの小さな声を上げた。
「ありがとう。でも、十本全部をやらなくちゃ」
「わかってる。痛くない?」
「痛くない。それに、あなたはとても優しい」
 その言葉が真実なのかどうかもう私にはわからない。
 残りの九本の指も同じようにした。月の光の下で、静かに、そっと引き抜くように千切っていった。ゆっくりと二人で確かめるように。ひとつ千切るごとに、それを少女の足の上に並べていった。
 どのくらい時間がかかったのだろう。月の位置が少しずつ海に近づいていく。私達はとても静かに、十本の指に確実な死を宣告した。随分と時間をかけて。
「これを海に流すの」
 少女がそう宣言する。
 その言葉に従い、まるで使えなくなった短いチョークを回収するように、私はその十本の指を両手ですくいとる。指の断面には血や肉の気配はなく、なにか肌色の発泡スチロールをつめこんだような不自然に人口的な様子をしていた。長さの違う指がそれぞれ別の方向を向いている。
 少女の身体を岩場に横たえて私は立ち上がる。岩場の端まで行き、波が静かに岩を飲み込んでは吐き出しているのを見下ろした。そして静かに手のひらを開き、その指をぱらぱらと海に撒く。放流された指たちは着水するとしばらく漂ってから、引きずられるように遠ざかっていき見えなくなる。
 それを見届けてから私は少女の傍に戻る。彼女の身体を抱き起こして海に向けた。
「流したよ」
 彼女はとても小さな声でうん、と言った。
「不思議。痛くないけど、それが本当になくなってしまったのはわかるの」
 静かな声だった。
 それが痛みなんだ、と私は思う。
 波の音が低く響いていた。それは暗闇がぶつかり合い、光を飲み込んでいく孤独な音だった。記憶の中の波音はいつも遠くから聞こえてくる。静かでささやかな寂しい音として。けれど本物の波音は、何かを打ち消すほど激しく、喉元に迫るほど生々しい。少女の指はその波の底に引きずられていった。指のない少女は、閉じられたまぶたでその先を見つめていた。


       

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