Neetel Inside 文芸新都
表紙

イルカ日記
7

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 自殺したの、と少女が言った。
 波の音が低く唸る。
 少女は私の胸にもたれかかり、夜の海の方を向いていた。その小さな頭を見下ろしながら、もしも彼女に表情があったなら今どんな顔をしているのだろうと考えた。それを知ることができないのがもどかしい。
「どうして」
 小さな声で、できる限り空気を乱さないように訊ねる。それは好奇心からの質問ではない。好奇心からであってはならない。彼女が訊ねられることを求めている、だから私はそれに答えて質問をする。それだけだ。
「どうしてだったんだろう。それを正確に表現することは難しいの」
 少女が静かに言う。
「あなたの恋人もそうだったんじゃないかな。難しいから遺書に書けなかった」
「どうだろうね」
「恋人ってどんな人だったか思い出せる?」
「覚えている部分もあれば、思い出せない部分もある」
「思いつく限り言ってみて」
 何か思い出すかも、と彼女が言った。
 私は記憶を探ろうと目を閉じて集中する。脳の奥がひきつれるように伸び縮みし、前頭部がじんわりと痺れる。それから針金を差し込むような鋭い痛み。無理に何かを引きずり出すことを諦めて、思いつくままに口を動かすことに決めた。
「確か……二つほど年下だった。でも、あまり年齢差を感じたことはなかった。煙草を吸っていた。背が高くて痩せていて、髪は黒くて肩より少し長いくらい。ひどい偏食で、一部の野菜を激しく憎んでいた。感情のコントロールが苦手なところがあって時々ヒステリックに怒ったり、落ち込んで泣いたりしていた」
 思い出すというよりは、自然に引きずられるようにして言葉が出てくる。
「その人のどこが好きだったの」
「さあ。それこそ説明するのが難しいな。音楽も読書も、趣味があうようであわないところも多かった。食べ物の嗜好も違っていたしね。僕はいつも野菜を食べさせようとしていたけど、彼女も頑固だから苦労してた」
「死んでしまおうとするような人だった?」
「わからないんだ」私は答える。
 夜の冷たさを含んだ海風が肌を撫でていく。ワンピース一枚の少女の身体を、長袖を着込んだ腕で包む。寒さは感じないのだろうとわかっていても見ているこちらが寒かった。
「そうだったとも言えるし、そうじゃなかったとも言える。弱いところもあったし、そういう部分の方が目立っていたけど、基本的には『殺しても死にそうにない』感じだった」
「なぁにそれ。ひどい」
 少女がくすくす笑う。
「芯はすごく強いと思ってた。普通の人から見ればあまり幸福な人ではなかったけれど、そういうのは仕方のないことだと思っていたみたいで、不満を言ったりいじけたりしていなかった。だから僕は彼女が死んでしまうなんて考えたことはなかったんだ。どんなひどい目に遭っても生きていく側の人だと思っていた。何かに負けて死んでしまうような人じゃないと」
 無意識的に続いていく言葉が記憶を再構築していく。これは本当の記憶なのだろうか?  なにひとつ実証はないけれど、たぶんそうだという手応えがあった。言葉は違和感なく私の脳に馴染み定着していく。
 それでも、辿ることができるのはそこまでだった。
 手繰り寄せていたはずの言葉の連なりを急に見失ってしまう。自分の言葉が再構築した恋人のことを思い浮かべてみた。けれど彼女の表情だけは今でも思い出せない。顔だけが影に隠されていて見えない。
「きっと、強い人だから自分で自分を殺しちゃったのよ」
 やがて少女が呟いた。とても低く、小さいけれど波音を超えてはっきりと届く声で。
「ねぇ、死にたいわけじゃないの。死にたいと思っていたわけじゃない。ただ、殺さなければいけないと思った。存在させておくべきではないと思ったの。そのふたつは全然違うものなのよ」


 その夜、私はまた恋人の夢を見る。


 ここに越してくる前に住んでいた部屋だ。恋人が下着に私のシャツを羽織っただけの格好で、パイプベッドにもたれかかって床に座り、煙草を吸っている。窓から差す埃っぽい昼の日差しを背にして、彼女は逆光の中で影を抱えて佇んでいる。手元から上る細い煙が広がって空中に解けていく。
 細い首や骨っぽい手首の輪郭が影の中に見えた。顔はうまく見えない。女の人にしては長身だったが、その日差しの中では彼女は不思議なくらいあどけなく見えた。骨っぽい足首や膝頭、手首の形。うまく大人になりきれなかった気配が身体のあちこちにたくさんまとわりついている。伸ばしっぱなしの黒髪のせいもあるかもしれない。煙草がいかにも不釣合いで、却ってそのあどけなさを強調している。
「昔ね」
 彼女が唐突に口を開く。
「すごく苦手だったの。誰かが忙しくて大変なときとか、『もう頭がおかしくなっちゃう!』とか冗談めかして言うじゃない。私、それが本当に苦手だったのよ。それ聞くたびにいつも怯えてた」
 低く鼻にかかる気だるい声。息継ぎをするように彼女は煙草を口元へ運び、吸い、静かに吐く。煙の軌跡が日差しに透ける。
「中学くらいのときに、母親が頭おかしくなっちゃって。もう家に帰るといつも泣いてるの。頭が痛い、頭が痛いって。病院に行くけどなんにもなくて、ちょっと情緒の不安定な人だったから、心因性のものだろうって言われて鎮痛剤貰って帰ってくるんだけど、薬が嫌いだから飲みたくないって言う。あんまりひどいときは飲んでたみたいだけど大して効かなかった。真っ暗な部屋で泣きながら頭が痛い痛いって呻いてた。
 それで私が部屋の片づけしたり、夕食の準備したりしてたの。ああ普通の子は帰るとお母さんの手料理があって、今日一日の楽しかったこととかを話して、お風呂に入って、気持ちいいお布団で寝るんだろうなって考えながら。『日本昔ばなし』の終わりの歌みたいなね。でもうちでは父親はいつも夜遅くにしか帰ってこなかったし、母親は私が何をしても感謝の言葉もなく、頭が痛いとか何が気に入らないとか不満ばっかりなのよ。それはもうひどい食卓だった。食べ物の味なんか全然しなかった。食べるのが嫌いになったのはその頃のせいだと思う。
 でもそれはまだマシな方だった。本当にひどい発作が月に何回かあって、それが来るともう薬を飲んでもダメなの。頭を抱えてごろごろ転げまわるの。金切り声で痛いっ、痛いって叫びながら。それがもう怖くて。傍にいて必死でどうにかしようとするんだけど、まあ当然、何も出来ないわけ。そのときにいつも母親が『ああもう頭がおかしくなる!』って騒ぐの。もう本当にそうなるんじゃないかと思った。むしろ、もうなっちゃってるんじゃないかと思った」
 彼女は淡々と、少し皮肉るような冷笑が滲んだ口調で話す。母親の声真似をするときだけは声が少し高くなった。
「違うわね。なってたらいいなと思ってたんだ。だって発作が来ると、あの人、私のことをずっと罵倒し続けるのよ。頭痛いって言ってるのに背中をさすってみたりしてうろたえてる私に、あらん限りの暴言を吐くの。あんたみたいに歯並びの悪くて醜い子は誰にも好かれないとか、小さい頃から偏食がひどくてミルクも飲まなくてロクな子に育つはずないと思ってたとか、勉強が出来ないどころか本当に頭が悪くて情けないとか、作る飯がまずくて堪らないとか。それが本気の言葉なのよ。すごく恨めしげにこっちを睨みつけながら、低い声で、私のことを心底憎んでるって顔で言うの。呪いを刻み込む呪い師みたいに。でも私はそれに対して何も言えないの。だって今にも死にそうに脂汗流して転げまわってる人に、何か言えるわけない。だからきっとお母さんは頭がおかしくなってるからこんなこと言うんだって思うようにしてた。
 だから一番堪らないのは、彼女にちゃんと真っ当な理性が残ってるのを知らされることだった。時々、本当にまともなときがあって、そのときは帰るともうきちんとご飯が用意されてて、部屋も片付いていて、母親も機嫌よく迎えてくれるの。悪夢が一気にどこかに吹っ飛ばされてるの。でももうそんなときでも私はまた頭がおかしくなるんじゃないかって気が気じゃなくて。それは一日っきりのこともあれば、一週間続くこともあった。でもいつも同じ。ある日帰ると、部屋の中が真っ暗で、じめじめした泣き声が聞こえてくる。そして私はどこかで安心しながらスイッチを切り替えるの。そうこっちが現実、お久しぶりこんにちはってね」
 私は何も言わずに彼女の話を聞いていた。私が相槌を打たないことを、彼女は特に気にとめてもいなかった。それがいつも通りの私たちのやり方だった。彼女が好きに話す。私は黙って聞いている。時にそれは支離滅裂なものになったので(彼女はまとまった話をするのがひどく苦手だった)、必要があれば質問をして、話の流れを整える。
 けれど今は、私の身体は思うように動かない。声さえ出せない。これは記憶の再現なのだ。私は当時の私の身体に入り込み、観察者としてただ知覚することしか許されていない。
 彼女は手元の灰皿に煙草を押し付けて消した。ほとんどが吸われないまま灰になってしまっていた。そしてまた新しい一本を箱から取り出しライターで火をつける。何かを燃やし続けておくことが、まるでこの話に必要な儀式であるかのように。
 スイッチ、と彼女は言う。
「そういう癖がついちゃうのね。自分を現実から切り離して、ずっと遠くから今の自分を見下ろしているみたいな。そうやってぼんやりと全部をやり過ごすの。それでも高校に入る頃には色んなことが少しマシになってた。発作の程度も軽くなってたし、私も段々と慣れてきていたしね。もしかしてこのまま治るのかもしれないと思ってた時期もあったの。でも一年くらいするとまたそれはちゃんと再発した。長いあいだ潜っていた鯨が、息継ぎのために海面に浮かび上がってくるみたいに。今度は病院の検査で頭の中に腫瘍があるのが見つかった。それからびっくりするくらいあっという間に母親は死んでしまったの。死ぬまでの短いあいだは本当にひどかった。脳が侵されると信じられないくらい強烈に性格が歪むのよ。本人のせいではないし本気の言葉じゃないんだって、医者にそう説明されても、それは結構きつい経験だった。昔の発作のときと同じように、ううんもっと凄まじく、母親は恨み言や呪いの言葉を吐き続けていた。思わず『お母さんは病気だからそういうこと言うの。本気じゃないんだよ』って言うと、全力で否定されるのよ。『違う、馬鹿にするな』って。それがすごい迫力なのよ。それがニセモノの言葉だなんて最後まで思えなかった。
 で、最期はげえげえ吐きながら、ものもよくわからないようになって死んだの。すごくかわいそうだった。こんな死に方だけはしたくないって思った。でもそれから、私の生活はとても静かになったの。まったく悲しくなかったとは言わないけど、急に人生がすごく穏やかになってしまって、拍子抜けしたのよ。とっくに家事には慣れていたし不都合は何もなかった。父はほとんど家に帰ってこなかったけれど金銭的にはしっかりしていたし、母親の保険金はまるまるそっくり私の将来のために預けてくれていて、大学を卒業するとき通帳を貰ったの。これで生きていけって。それっきり連絡も取ってない。多分別に家庭をもっていたんだと思う。捨てられたとも言えるけど、でもすごくありがたい捨てられ方だったと思う」
 そこまで喋ってから、彼女はしばらくのあいだ立てた膝に顎を乗せて煙草を吸っていた。
 彼女がこんなに長い文章を整然と喋るのは珍しいことだった。ものを考える能力がないというわけではない。むしろ平均よりも知能は高かったと思う。ただ人より刺激に敏感なところがあって、それがいつも彼女の世界を奇妙に複雑にしていた。音や、光や、言葉の響きの意味を普通の人よりずっと拡大解釈して意味づけしてしまうせいで、その情報量の多さに脳の処理が追いつかずに混乱してしまうのだ。それで時に表現が支離滅裂になる。それはよく知らない人から見れば知性の不足に思えたかもしれない。
 感受性が鋭いという言葉は、この場合にはふさわしくないような気がした。彼女は彼女特有の世界を生きているのだと言うしかなかった。そしてその世界は随分と住みづらそうな場所だった。空気は不必要なほど尖っていて、ささいな言葉が無意味なほど反響を繰り返して頭痛を引き起こすほど大きくなってしまう。
「ロシアの小説、読んだことある? ドストエフスキーの」
 彼女がぽつりと言う。
「いや、ないな。読んでみようとはしたけど諦めた。台詞の長さと、何もかも詰め込んであるのが息苦しかったのと。でも一番大きかったのは登場人物の名前が覚えられなかったことかな」
 私の答えに彼女は低く笑う。すぐに笑うところが彼女の最大の美点のひとつだ。
「あの人の小説ってすぐに人が発狂するの。激怒したり悲嘆にくれたり、興奮して喋ってる間に、熱に浮かされてきてそのまんま発狂しちゃうの。19世紀のロシア人がそうだったのか、ドストエフスキーのドラマツルギーとしてそれが必要だったのか、よくわからないんだけど。でも私はそれを本当だと思ったのよ。すごく自然でわかりやすいことだって。人がわりと簡単におかしくなってしまうのを知ってたから。だから苦手だったの。友達なんかが冗談で『おかしくなっちゃう』って口にすると、わかってても反射的に不安になった。そのまま本当におかしくなってしまうんじゃないかって身構えてしまうの。習慣とか学習って想像以上に無意識に染み付いているものなのよね」
 話が一番最初に帰結したことを知って、僕は頷いた。
 洗い立てのシーツのようにしみひとつない午前の日差しは眩しく、彼女の方を注視しようとすると目が痛んだ。彼女は依然としてほのかな淡い影の塊としてそこにいた。
「私が最終的に何を言いたいのかわかる?」
 問われて、少しのあいだ考える。それは無理な謎かけだった。正直に答える。「話の流れは理解していると思うけど」
「うん。あなたほどいい聞き手には会ったことないもの」
 彼女が笑う。
「私が一番怖いのはね、いつか私がおかしくなってしまうことなの。きっとそれってすごくささやかなきっかけで起きてしまうことなのよ。それが怖いの」
 彼女の煙草は既に、灰皿でかたちを残したまま燃え尽きていた。
「何もかもわからなくなって、色んなものを呪って、汚い言葉を撒き散らしてしまうようになるんじゃないかって。その境界線が人よりもずっと薄くてゆるい気がするの。だってそれはみんなが思っているよりもずっと近くにあるものなのよ。自分がおかしくなってしまうって想像したことある?」
「ないな」私は言って、煙草の灰を灰皿に落とす。「でも、もし言おうとしていることがその不安についてなんだったら、心配ないと思う。僕が思う根拠ならいくらでも挙げられるよ」
「ありがとう。優しいね。でももう少し続くの」
 彼女はまたくすくすと笑う。秘密話をする女学生みたいに無邪気で控えめな笑い方だった。
「根拠なんて言うけど、きっと、あなたは私についてなんて全然知らないのよ」
「そうかもしれないけどね」内心少し傷つきながら答える。
「私が言いたいのは、私はすごくすごくヘヴィな荷物だってこと。あなたが想像している以上に」
「そんな風に思ったことはないけど」
「あなたに会ってから、少しだけまともになったと思う。でもそれだっていつまで続くかわからない。私の頭の中にも腫瘍が居るかも知れない。母親をおかしくしたのとおんなじやつが。それが腫瘍というかたちをとっているとは限らないけれど、私はいつも自分の内側にそういうものの気配を感じて生きてきたの」
 彼女は自分の指で頭を指す。ピストルをかたどるように人差し指を立てて。
「普段は見当たらなくてもそれはどんなときにも絶対に居て、忘れかけた頃に姿を見せるのよ。誰かとすごく楽しくお酒を飲んだ春の夜の帰り道とか、通りすがりの老夫婦が幸せそうに話しているのを見たときとか、雨の夕方に気がついたら路地で一人きりになっているときとか。私が一番無防備なときに限って、それがそっと姿を現して、不気味な影を残していくの。そうなると一気に心が冷えてしまう。ひどいわよ。急にバケツで冷水をぶちまけたみたいになる。でも私はどこかで安心してるの。ずっと何も起こらないままでいられるわけがないって知っているから」
 私は彼女の方を見つめようと努力する。眩しさに目に涙が滲んで視界がうまく定まらない。どうして彼女の顔を思い出すことができないのだろう? それが疑問から不安になり、焦燥にさえなる。突然、近づいて確かめたい衝動に駆られた。でも身体は動かなかった。この世界は私の記憶であり、当時の私は今動いてこの空気を壊すべきではないと直感的に知っていた。既になされた決定を覆すことはできない。
「ずっとずっと一人で夜の海で溺れてるみたいな感じがしてた。ある日そこに筏がぷかぷかやってきて、乗ってもいいよって言うの。それでしがみついた。今は海もとても穏やかで、月も丸くてとても明るい。暖かくて素敵な夜。私は幸せ」
「せめてボートくらいになれればよかったんだけど」
「豪華客船にしておけばよかった?」
 彼女は笑みの滲んだ声で言う。幸福を染みこませた古い写真のような切ないかすれ声。
「でもどっちだって同じなのよ。要するに、全部は私の側の問題なの」
 何を言うべきなのか私は考えた。でも何もうまく言葉にできなかった。それは当時の私も今の私も同じだった。
 彼女はそれを全部汲み取ってでもいるかのように、うつむいたまま静かに続ける。
「安心してね。沈める気なんてないから。そんなことになったら、自分で腕を千切ってでもしがみつくのを止めるわ」


       

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