Neetel Inside 文芸新都
表紙

イルカ日記
●記憶の断片

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 ああ、この世は本当に、生きるのに値しない。
 誰も彼もが醜い。疲れてしまう。私までもが醜い。むしろ私が一番醜い。どうして。嫌いなものと決別するために強く美しくなりたいのに。心の中で憎み蔑んでいるような相手にさえ、現実世界では嫌われるのが怖い。私は平気で笑う。平気で嘘をつく。痛い言葉に傷ついていないフリをする。そして誰かを傷つけるような言葉にへらへらと同意する。保身のため。家に帰ってから全部を思い出す。気持ち悪い。吐き気がする。実際に吐く。夜中にトイレで吐いてしまう。家族に見つからないように嗚咽を抑えながら。
 でも私は別に摂食障害なんかじゃない。これは体重を減らすための行為じゃない。やるのはせいぜい週に一度。そして私が吐き出したいのは食べ物じゃない。でもこうやる以外に方法を知らないから嘔吐する。でもそれを説明したところで、理解してくれる人なんかいるはずがない。だから誰にも言わない。中途半端に理解されるのも、心配されるのも、同情されるのも、気持ち悪い。
 みんなが同じだ。誰も彼も気持ち悪いものの一部だ。不正直で不誠実で、簡単に変わってしまう、意思が弱くて汚い。わかったフリで優しいフリをするやつが一番鈍感だ。平気で相手を批難して正義ぶってるやつが一番不公平だ。自覚がないのには笑ってしまう。でもそれはきっと私のことなのだ。そしてどこかでそれを自覚していることが免罪符だと思っている。私は周りと違うの。ちゃんと傷ついている。嘘笑いも自覚してる。自分が汚いことを知っている。
 だからだからだから何だって言うの。
 ああ、夜中にトイレで二本の指を喉の奥につっこむ瞬間、あの瞬間だけは結構色んなことを忘れている。その後ですぐに最低の罪悪感がやってくるけど、汚れた便器に向かってるあのまっさらな時間だけは誰にも汚せないの。吐いている姿は最高に醜い。瞳孔開いて冷や汗かいて、充血した目をむき出しにして涙を滲ませて。未消化の食べ物だった何かと酸っぱい胃液が逆流してきて、脳が圧迫されて真っ白になるあの瞬間。気持ちいい。セックスしたことないけど、でも、「イク」ってきっとああいう感じ。自分の境目が一瞬弾けて何もかもと融合してしまう感じ。じゃあもうセックスも要らない。誰かに動物であることを知らされるなんて嫌。気持ち悪い。気持ちいいことなんて要らない。第一嘔吐とセックス、どっちが醜悪かなんて決められない。じゃあ一人がいい。
 私、夜中のトイレで一人、こうやって醜くなってる瞬間が好き。余りにも醜いから罪も罰も素通りしていくの。一番醜いものからさえ憐れまれるような時間。私はたった一人。真空の時間。口うるさいやつも嘘笑いがうまいやつも、惨めったらしくすがりついてくるやつもいない。誰だっけ、そう、私のこと好きとか言ってた男の子、少し人間扱いされたら喜んじゃっておかしい。優しい? 見る目ないね。優しいって何。きっと私永遠に優しくなんてなれない、計算づくの行動しか出来ないとかそんなんじゃなくて、もう私からは誰かに優しくするために必要な資格とか権利とかそういうのが一切奪われてるみたいに感じる。
 だって私は満足してる。簡単に誰かの関心を惹けたこと、自分の柔和な態度が有効に働いたこと、そういうことに心の奥底で喜んでいる、喜んでるくせにそれを表には出さずに申し訳なさそうな顔で「ごめんね」って言ったの。相手のことを見下してるくせに喜ぶの。ほら、私、汚い。
 汚いなら汚いなりに好きでもない男子に豚みたいに犯されるのが正しいの? でもそれはできない、汚いからこそ綺麗なものになりたい、こうやってトイレで吐いてる私とその意識は矛盾している、わかってる、でもそれは崩せないの、神様(これはもう間投詞の代わりだ)、私は本当は堪らなくセックスがしたい、でもセックスしたくない。
 汚い、気持ち悪い、もっと吐いて、浄化されるための手段なんかこれしか知らない、もっと喉の奥まで指を、手首を飲み込むくらいに、この手で胃の中身も内臓も全部掻き出せるくらい奥まで入れられたらいいのに、あんまり癖にすると醜い吐きダコが出来ちゃう、それを優越感を持って隠すような恥ずかしい女になりたくない、爪ももう切らなくちゃ、ああ早く終わらせないと家族に気づかれてしまうかもしれない、お父さんにもお母さんにも何も知らせないままでいたい、知らなくていい、わからなくていい、わかってほしくない、私今まで迷惑なんかかけたことないでしょ? これからもそうだから安心してて。私にしてあげられることは異常のない娘をプレゼントすることだけだもの、ね、できれば私は産まれたくなかったけど。
 産まれたくなかった。産まれたくなかった。産まれたくなかった。そのことを誰かのせいにしたい。悪意で満ちた世界のせいにしたい。でも違うの。わかってる。私が辛いのは私が一番汚いから。どうしろっていうの。どうなればいいの。身体の血を全部入れ替えたら直るの。死にたいわけじゃない。消滅させたい。私を。
 鼻から酸っぱいものがこみあげては降りていく、私は便座に手を突いて呼吸を乱している、誰かがそれを思いっきり笑えばいいのに。そして私は気づくと笑っている。声を出さずに天井を仰いで笑い続けている。肺が震えて空気がさざなみ立つ。おかしい。こんなことしてなんになるの。
 終わった後はいつもこうだ。
 過呼吸にならないうちに用意していたタオルで口を塞いで静かに洗面所に行き、顔を洗う。
 後処理は惨め。そういうとこまで、たぶんセックスに似ている。


       

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