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表紙

芹高第二野球部の莫逆
泉野鏡太郎という考え方

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 第二野球部のレフトを守る9番打者、泉野鏡太郎(いずみの きょうたろう)の事を紹介する前に、今一度思い出して欲しいのは、八戸心理が杵原良治に告白してフラれた事をそもそものきっかけにして、この試合が行われる事になったという事である。八戸心理はその捻じ曲がった復讐心から第二野球部なるイリーガルな集団を結成し、杵原良治の所属する本物の野球部に試合を申し込んだ。結果はまだ伏せておくが、これだけは言えるだろう。未来の球界を背負って立つ人間を引っ張り出すにしてはあまりにも低俗な理由だ。
 高校生の色恋沙汰を「くだらない」と切って捨てるのはやや気が引けるが、しかしスカウトマンという私の立場からして、そのような事は問題の起きない程度に、ほどほどに済ましておいてくれれば構わないというのが正直な所であり、野球の実力云々には大した影響も与えないように思う。よって、八戸心理が杵原良治に対して失恋した事自体、本来は取るに足らない瑣末事で、わざわざ大仰に取り扱う物ではないと、私は見解している。
 が、しかし、挑戦にはいつも意味がある。というのも、野球というスポーツをこよなく愛する私にとっての曲げられない事実でもある。
 三角関係、と言っても良い物かどうかは微妙な所であるが、今回の項で紹介する泉野鏡太郎という青年は、他面子同様に八戸心理の、そして真野球部両方の被害者であり、その立ち位置は非常に微妙な人物である。
 とはいえ、彼自身は八戸心理に被害を受けた等と思った事は無いようだ。逆に正規野球部に対しては八戸心理ほどではないものの恨みを持っており、事実はどうあれ被害を受けたと思っている。彼に直接、八戸心理の印象を尋ねたときの第一声は、こう言っては難だが噴飯モノだった。
「こんなに美しい人がいるのかと目を疑いましたね」
 たった今、窯から取り出したような澄みきったガラスの瞳で、表情には少しはにかみを残しながらも、真剣に答えた彼を目の前にして、悪い悪いとは思いながらも、私は思わず「そう言えと脅されているのか?」と尋ねた。
 彼はそれを真っ向から否定する。
「とんでもない! あんなに魅力的な女子は他にいませんよ。なんというか……」
 恋に落ちた青年は語る。
「一途で」
 復讐の為ならば確かに一途だ。
「活発で」
 どこからそんなエネルギーが? と思う事はある。
「それでいて思慮深い」
 悪巧みに関しては間違いない。
「とにかく惚れてしまったんです」
 人の好み、それも女性の好みといったプライベートな事に関して、私がとやかく言うのは間違っているのかもしれないが、もう少し人生経験を積んで、いわゆる一般的な価値観という物を身に付けた方が良いのではないだろうか、と面と向かって言う事はしなかったが、どれほどそう指摘したかったかはこれまでの八戸心理の行動を思い出して頂ければ理解してもらえると思う。
 そして泉野鏡太郎は八戸心理に告白をした。
 結果は、条件付きでの承諾だった。


 件の変則一打席勝負の結果、辻堂兄が入部したといえどもチームはまだ人数が足りていない。本来ならば、正規野球部と戦う為のゲリラ野球部などに好んで入る人物はいないが、八戸心理に弱みを握られているとなれば話は別だ。そこにちょうど泉野鏡太郎がやってきた。それも、惚れた弱みという極上の付け合せをぶら下げて。
 しかも、泉野鏡太郎には野球の才能があった。それは甲子園常連の強豪高、正規野球部のキャプテンになれるほどに優れた才能だった。しかし泉野鏡太郎はその才能を盗まれてしまった。気の毒にも、プロ選手にもなれるような大いなる才能を、奪われてしまったのだ。
 と、紹介しなければならない。彼の言い分を100%信じるならば。
 才能を盗まれる。
 そのような現象を聞いた事がないのは私も同じであるし、理屈から考えてもありえない。才能とは、個々の身体能力、反射神経、その他言いようのないセンスや考え方から来る物であり、そのような個性を「盗む」という行為は存在しない。こうして文章にして確かめるのも馬鹿馬鹿しいといえば馬鹿馬鹿しい。
「その顔は信じていませんね」
 随分と悲しそうな顔をするので、思わず少しばかりの同情に駆られたが、私は事実のみをここに書かなければならない。が、彼の言っている事が全くの荒唐無稽だとは言い切れないというのも事実だと後から分かった。
 才能は盗むとか盗まれるとかいう代物ではないし、かといって彼の証言も間違ってはいない。この矛盾の説明をするには、今一度、彼が八戸心理に告白をした場面に立ち戻り、その上で順を追って話の流れを説明しなければならない。


「……お前、確かこの前校舎の屋上から落ちて自殺未遂した奴だろ」
 好きです、付き合ってください。と、一切の余分をそぎ落としたストレートな告白を受けた八戸心理の返事は、まず確認だった。
「いや、あれは自殺未遂なんかじゃないんですよ。違うんです。実際、一応地面に体操部から借りたエアクッションを用意しておいて、それでこうして助かりましたし」
「そういう問題じゃない。4階から飛び降りたのは事実だろ」
 八戸心理が人の発言にいわゆる「ツッコミ」を入れるのは珍しい現象だった。
「いやいや、最初から死ぬ気は無かったんですよ。飛べる気がしたんです」
「そうか。帰れ。じゃあな」
「ちょ、待ってください心理さん。返事を聞かせてください」
「返事?」
「そうです。僕はあなたに交際を申し込んでいるんです」
「逆に聞かせて欲しいくらいだ。現国の授業中に突然教室に乗り込んできて、いきなり告白する奴を誰が好きになる。しかもそいつは頭がおかしい」
 自分も杵原良治相手に似たような事をしたのは完全に忘れているようだった、とその現場にいた芦原歩は証言する。
「僕の頭のどこがおかしいんですか?」
 まるでさっぱり意味が分からないという真顔で尋ねる泉野鏡太郎には、流石の八戸心理も絶句したという。八戸心理の性格上、害意を持って近づいてくる相手への復讐には何の躊躇いもないし、目的を達成するのに他人の精神を蹂躙する事はまるで平気なのだが、今回のように、相手が全くもって純粋な狂気をもって接してきた場合は、どうしていいか分からないという状況に陥るようだ。八戸心理でなくても同じ事かもしれないが。
「……とにかくもう私に話しかけるな。返事はノーだ」
「そんな! せめて理由を聞かせてください」
 食い下がる泉野鏡太郎に、八戸心理はやれやれと仕方なさそうに、なるべく少ない言葉で答える。
「やる事がある。それが終わるまでは、私は誰とも付き合わない」
 ここで言う「やる事」とはつまり、杵原良治に対する逆恨みを晴らす事であるが、それさえ終われば誰かと付き合う気があるとも取れる口ぶりに、クラスは若干の衝撃を受けた。
「野球……ですよね? それなら、僕をチームに加えてください」
 芹高第二野球部で唯一、自ら希望して入部した者、それが泉野鏡太郎だった。


 泉野鏡太郎という人物を紹介する上で、この言葉は使わないように、と本人から指示されている言葉が1つある。そしてどうしても使いたくなったら、こう置き換えてくれとも言われている。
 哲学者。
 彼は自分の事を時々そう呼ぶ。そして他人にもそれを依頼する。彼の主張はこうだ。
「本来人とは千差万別、それぞれがそれぞれ変わった所を持っているのだから、人を『その言葉』で呼ぶのはそもそもが間違っているんです。もしも僕の事がそう見えたのなら、それはあなたがそうなのであって、僕はただ自分の哲学に則って行動しているに過ぎません。だからどうしてもあなたが僕の行動を理解できない場合、僕を呼ぶ時はこうお呼びください」
 果たして彼の言葉は正しいのかどうか、私には判断つきかねるが、ここは取材をする私の立場と、彼自身の気持ちも慮り、彼はあらゆる意味で非常に飛びぬけた哲学者で、他クラスでも噂だった。と、紹介させてもらおう。
 例として、彼流の哲学からくる奇行のいくつかを挙げる。
 彼は高校に入ってからすぐアルバイトを始めた。本屋とコンビニ、2つの店を掛け持ちで、ほぼ毎日学校が終わってから働いていたので、給料は高校生ながら10万を超えて多かった。そこまではよくある苦学生の話だが、彼はその給料の全てを自分で使う事なく、ある所に隠した。
 そのある所というのが、学校の図書室。読書好きな彼が、これまで呼んできて影響を受けた本1冊ずつに1万円札を1枚ずつ挟んだのだ。彼曰く「良い本に出会えた事に感謝をしたくてやった」との事だったが、この事を知人にうっかりと漏らしてしまった日の夕方、図書室が人で溢れ帰った。必然、本達がずたぼろになるまで荒らされた事は言うまでもない。噂によれば合計で100万円近くが埋蔵されていたそうだが、本の被害額はもっと大きかったかもしれない。とはいえ本人にはまったく悪意もなく、これによって何か得をしている訳でもない上に、見るからに誰よりも悲しんでいたので、厳重注意で済んだそうだ。
 またある時、彼のクラスで1人の生徒がいじめられている事を彼は知った。放課後に不良の溜まり場に呼び出され、殴られたり金を要求されていたその男子生徒は、いじめらっ子によくある内気な性格の持ち主で、何の抵抗も出来ず、また誰にも相談出来なかった。その現場をたまたま目撃した彼は一瞬の迷いもなくそこに助けに入った。複数人を相手に勝てるはずもなく、的が彼に変わっただけだったが、彼は決して叫ぶのをやめなかった。
 普通、そこまでなら美談で終わる話なのだが、彼の場合それからの行動が非常に奇妙だった。次の日から毎日、彼はその不良達を見かけるたびに急いで駆け寄り、大声で「般若心経」を唱え続けたのだ。
 般若心経とは、「仏説摩訶般若波羅蜜多心経……」から始まる短い経典であり、悟りの真髄を説いたお守りのような経である。彼の家は寺でもなければ、坊主を目指している訳でもないようだが、彼は常識の1つとしてその全文を朗読出来た。
 そもそも助けに入った時も、彼は「般若心経」を口にしていた。当然不良達には意味が分からないので、ひたすら殴られ続けるだけだったが、彼は涙を流して痛みに耐えながらもやめなかった。そしてその翌日、翌々日となって、彼の般若心経の恐ろしさは明らかになった。
 元々、弱者を呼び出して暴力を振るう者達だ。人目につくところで、わざわざ注目を浴びてまで乱暴な事は出来ない。突き飛ばしくらいはするものの、決して彼は読経をやめない。般若心経以外の事は一切口に出さず、教師が来て無理やり引き剥がされるまで、ひたすらその行為を続けた。何日も、何日も。
 頭がおかしくなったと周囲は思ったが、本当に頭がおかしくなりそうだったのは不良達の方だった。原因は分かっていたが、どうする事も出来なかった。彼は暴力や周囲の視線を全く気にする事なく、傷だらけになりながら般若心経を唱え続けるのだ。
 やがて気がつくといじめは終わっていた。彼の般若心経によって不良達が改心したのか、それともこれ以上「哲学者」に絡まれるのが嫌だったのか、とにかくいじめは無くなった。だが彼はますます孤立していった。
 泉野鏡太郎に関して、この手の話は枚挙に暇が無い。毎朝早くに学校に来て、尊敬しているからという理由で創立者の銅像を磨いたり、文化祭の日、部活でもクラスでもなく個人でステージを予約し、詩の朗読を行ったりと、まず普通の高校生では考えられない行動を平気で取る。共通して言えるのは、彼自身は良かれと思ってやっているという事と、一切の利害が無いという事だ。
 そして極めつけが八戸心理への告白という事になる。
 身体能力は低く、第二野球部で1番下と言っても間違い無いが、泉野鏡太郎にはちょっとした正規野球部との関わりがあった。彼曰く、自分は小学生の時までスポーツ万能でリトルリーグの強豪チームでピッチャーをしていたという。しかしある日、現正規野球部の主将、坂巻浩介(さかまき こうすけ)によって才能を奪われてしまった為に、今は野球が下手なのだそうだ。
 もちろんそれは世界にとっての事実ではなく、彼にとっての事実である。
 しかし八戸心理からしてみれば、それが嘘であろうと真であろうとどちらも良く、利用出来る物は利用するだけだ。告白を受けた日の放課後、八戸心理が泉野鏡太郎の抱えた事情を理解した時、彼の入部が決定した。

     

 泉野鏡太郎と坂巻浩介。
 この2人は幼稚園からの同級生で、同じ小学校、同じ中学校、そして同じ芹高に通う事となった、いわゆる幼馴染という関係にある。どちらも父親は会社員、母親は専業主婦というごくごく一般的な家庭に生まれ、兄弟はなく、これといった不幸も、人生がひっくり返るような幸福も無く至って普通に過ごしてきた。
 もちろん、辻堂兄妹とは違って血のつながりは無い為、決して顔も似てはいないし、趣味や性格も全く違ったが、2人にはどこか似ている部分があった。共通する友人である正規野球部の篠崎はこう語る。
「雰囲気、としか言いようが無いですね。顔は違うのに、笑い方が似てる人っているじゃないですか。そういうのの延長線上にあるんじゃないかな。仲も良かったんですけどね、鏡ちゃん(泉野鏡太郎のあだ名)が病気になるまでは」
 最初に「病気」と聞いた時、思わず彼の奇行の数々を思い出し、精神面での病を連想してしまったのは無理もない事だろう。自称哲学者の行動は凡人である我々には理解しがたく、そこには何かしらの精神的異常を予想せずにはいられない。しかし友人の証言は違っていた。
「小学生の頃は、おかしかったのは、マッキー(坂巻浩介のあだ名)の方だったんですよ。むしろ鏡ちゃんの方がいつも大人しくて、マッキーがする変な事に突っ込みを入れる側でした。小学校の時、3階から飛び降りた時もありました。『飛べそうな気がした』とか言って、大問題になりましたけど」
 これによって話はますますややこしくなり、しかし興味は更に沸いた。
 正規野球部のキャプテンとして活躍している青年が、昔は「哲学者」だった。
 そして今哲学者を名乗る青年が、野球の才能を盗まれたと訴えている。
 二者の奇妙な関係が出来たのはやはり、「病気」をきっかけとしていた。
 中学3年生の夏、泉野鏡太郎が侵された病の名は、「悪性リンパ腫」。血液の癌のような物で、有名な白血病に近い物があるが、それに比べれば遥かに寛解しやすく、治療法はいくつもある。病院に運び込まれた泉野鏡太郎は何度も検査を受け、医者に「骨髄移植」を宣告された。
 骨髄移植とは、読んで字のごとく骨の髄を移植する手術であり、これによって血液を正常な状態に戻す事を目的とする。骨髄は減っても時間が経てば元に戻る為、ドナーの肉体的負担は麻酔が切れた後の痛み程度であり、それで誰かの命が救えるならばと骨髄バンクに登録する人は意外と多く、実際私もしている。とはいえ、非血縁者でHLA(白血球の型)が一致する確率は数千から数万分の1であり、ドナー登録をしていても実際に移植まで進むのは40人に1人程度のようだ。
 さて、察しの良いお方ならもうお分かりかとも思われるが、泉野鏡太郎と坂巻浩介の関係は、昔からの友人であり、ドナーと患者でもある。泉野鏡太郎のかかった病と、骨髄移植の必要性を知った坂巻浩介はその日の内にドナー検査の申請を済ませた。僅かな可能性であれ、役に立てるかもしれないと思ったらいても立ってもいられなかったのだろう。そして2人のHLAは一致し、手術は無事に成功した。
 言うまでもなく、骨髄移植によって人の性格が変わるなどという現象は確認されていない。血液型が変わる事はあるが、それによって人の考え方、価値観が変化するというのは科学的とは言いがたい。しかしながらこうは考えられないだろうか。元々、泉野鏡太郎はスポーツ万能で野球の才能を持つ坂巻浩介に憧れを抱いていた。似た境遇であるにも関わらず何の取り柄も無い自分にコンプレックスがあった。そして命に関わる病を患い、人生の見方が変わった。大きな手術のストレスで圧迫された精神状態の時に、移植された骨髄が坂巻浩介の物だと知る。
 何かしらの変化が起きるのはむしろ必然であるのではないだろうか。


 実際、泉野鏡太郎の奇行が始まったのは、高校に入学してからの事だそうだ。そして入れ替わるように、坂巻浩介は普通になった。というより、野球部に入部した事によって練習時間が増え、妙なことをしている暇が無くなったとも言える。坂巻浩介の才能はあっという間に花開き、1年生ながら甲子園に出る事にもなった。
 2人の高校生活は次第にかけ離れていき、会話する事さえ無くなった。今では2人が古い友人で、同じ骨髄を持っている事を知っている者の方が少ない。その少ない人物の内の1人に、八戸心理が加わってしまった事は、坂巻浩介と泉野鏡太郎の、ひいては2つの野球部の不幸であったと言う他にないだろう。泉野鏡太郎から事情を聞き出したその日、芦屋歩は八戸心理がこう呟くのを聞いている。
「これで材料は揃った」
 八戸心理が口にする「材料」といえば2つに1つしかない。復讐を果たす為の理由か、人を脅す為の脅迫材料のどちらかだ。その時の場合は、後者だった。


 残念ながら、その交渉に実際に立ち会った人物からその内容を聞き出す事に私は失敗してしまった。
 というのも、それは八戸心理と坂巻浩介の2人のみによって行われ、前者は最初から取材拒否、後者もこの件についてはノーコメントとされてしまったので、取材の手段が無かった。しかしその交渉によってもたらされた結果と、それまでに揃えた「材料」を照らし合わせて考えれば、想像はつく。もちろんこれはあくまでも推測でしかないが、その時に交された言葉とはおおよそこんな風だっただろう。
「賀来啓を第二野球部によこせ」
 八戸心理はいつも要求をシンプルに叩きつける。そこに一切の遠慮や躊躇はない。
「いきなり呼び出して、何かと思えば……良治風に言うなら『不可能だ』という所かな」
 野球部内で杵原良治以外で流行っている言葉を使って、坂巻浩介は柔らかく答えるだろう。
「お前は野球部のキャプテンで、野球部ではキャプテンの言う事は絶対だ。お前さえ認めればいい」
 これにも坂巻浩介は優しく否定する。
「うちの野球部でキャプテンは絶対なんて事はないよ。監督は絶対だけど。それに、啓本人の意思が1番大事なんじゃないか? 本人がどうしても第二野球部に行きたいというのなら、誰にも止める権利はないし」
 そんな事はあるはずがないというニュアンスが確かに含まれていたが、八戸心理は大して気にも留めない。
「あいつに意思はない。あるのは感情だけだ。そしてあいつの感情は言葉でどうとでもなる」
「酷い事を言う」
「今、必要なのはお前が許可したという事実だけだ」
 頭をぽりぽりと掻き、さてどうしてものかと思案する坂巻浩介の前に、八戸心理は何かを突き出す。
「……それは?」
「預金通帳だ。見た事無いのか?」
「あるよ。だけど……ちょっと待て、その金額は……」
 ここで脅迫材料その1が掲示される。
 辻堂兄妹との変則1打席勝負を隠し玉という手段でもって制した八戸心理は、辻堂朝乃に1つ命令をした。それは紛れも無く犯罪だったので辻堂朝乃は1度断ったが、「交渉の材料にするだけで、実際に手をつける訳じゃない」と説得され、仕方なくそれを渡し、その日の内に野球部のマネージャーを辞めた。
 脅迫材料その1とは、野球部の部費、その全額である。
 学校から出ている物と、OBからの寄付、それと噂では、大手スポーツメーカーからも支援があるというその金額は、ゆうに7桁に達する。大所帯の野球部を維持するにはそれなりの金額がかかり、野球道具、トレーニングマシン、選手達の夜食の材料費に至るまで、その全てを筆頭マネージャーが管理しているので、辻堂朝乃がその気になれば、部費の全てを別の口座に移す事も可能という訳だった。
 本来であれば、金銭は監督である桐藤教諭が管理すべきなのであるが、いかんせん金の出入りが激しいのと、備品の整備点検も仕事として兼ねなければならない為、「自主性を尊重」という形で毎年その仕事は筆頭マネージャーの物とし、領収証の提出だけが義務付けられている。それだけ信頼のおける人物でなければ、まとめ役たるマネージャーは勤まらないという事でもあるが、今回はそれが非常にまずかったようだ。
「甲子園を控えているのに、部費を失くしたとなったら大問題だろうなぁ」
 と、他人事のように八戸心理が言うと、坂巻浩介は表面上は冷静さを保ちつつも、少しだけ事態の深刻さを理解する。
「……朝乃には悪いが、警察に届けさせてもらうぞ。君も無罪じゃ済まないはずだ。それが嫌なら……」
「構わない。だが、金は返ってこない。私が逮捕されたら、この金は久我が一晩でパーッと使ってくれる手はずになっている」
「おいおい、久我って、久我修也の事か?」悪名、実力、その両方が良く知られている。
「それ以外に誰がいる。今のところ、第二野球部の主力だ」
「……」
 無論、八戸心理は久我修也に部費窃盗の件は伝えてなどいない。そうした場合のリスクが分からない程の馬鹿ではない。
「それに、あのお堅い桐藤監督の事だ。例え私達が犯人として捕まっても、問題を起こした事自体に怒って公式大会出場自粛、なんてのも考えられるな? 3年生の最後の夏がこんな形で終わるなんて、残念だったな」
 剥き出しの悪意をもって、八戸心理が本格的に脅しにかかる。気づいていても、坂巻浩介に抵抗は出来ない。
 そして脅迫材料その2が提示される。
「約束しよう。1度だけ試合をしたら、勝っても負けてもそれで終わりだ。私があのカタワに復讐する事はもうないし、野球部に嫌がらせする事もない」
 八戸心理の約束ほどあてにならない物もないが、この勝っても負けても1度きりという言葉は他の第二野球部員にも言っていたそうだ。それにこれはあくまでも脅迫なので、「断ったら何をするかは分からない」という意味も当然のように含まれている。
「……啓を貸し出して、良治と俺達と1回試合をして、それで終わりでいいんだな?」
 と、坂巻浩介はもうすっかり折れたように確認する。事故に遭ったとでも思って被害を最小限に抑えてやり過ごすのが得策であると思わせるのが八戸心理の狙いであり、脅迫材料その2とは、他ならぬ彼女自身の存在だった。
 とはいえ所詮は権力者同士の口約束。坂巻浩介が自分で言った事を破るとは限らないが、普段から人に疑われている者は人を疑う事に慣れている。駄目押しに、脅迫材料その3が提示される。
「泉野鏡太郎は、お前の事を恨んでいるぞ」
 ここから先は、口に出すのも躊躇われるような酷い詰りが続いたと予想される。本来、感謝されこそすれ恨まれるような動機は何一つ無いが、しかし現実問題泉野鏡太郎は坂巻浩介に野球の才能を盗まれたと思い込んでいる。憧れのあまり、手術をきっかけに人格を喪失した泉野鏡太郎は、その穴埋めを坂巻浩介という存在に頼った。これは人間の心の弱さから来る物であり、決して悪と呼べるような反応ではないように思える。もちろん、坂巻浩介はこれっぽっちも悪くはない。この場に悪があるとすれば、2人の傷んだ関係を利用した八戸心理にしかないが、それは今更の事でもある。
 翌日、「八戸心理の妹が患っている不治の病を治す為、正規野球部を退部して第二野球部に移る」と、涙ながらに主張した賀来啓の退部届けを、心身疲労気味な坂巻キャプテンが承諾した。設楽寿々芳を含む正規野球部のレギュラー何名かが様々な反論をあげて2人を説得したが、本人と部長が了承している以上はどうしようも出来ない。
 この日の午後、賀来退部の知らせを聞いた桐藤監督は、表面上大して気にした様子を見せなかったそうだが、放課後の練習がいつにも増して激しい物となった事に影響を与えていないとは言い難い。「1試合だけ第2野球部として出たらまた正規野球部に戻ってくる」と言っていた賀来啓が、果たしてどこのチームを相手に戦うつもりだったのかは、今となっては定かではない。

     

 物語が試合に入る前から、試合が終わった後に舞台を移すという順不同を、今回ばかりはお許しいただきたい。なぜならこの項は、あくまでも哲学者、泉野鏡太郎を紹介する為の項であり、よって少しでも彼の哲学を理解してもらう為に必要な情報を私は用意しなければならない。
 それと、この試合後のやりとりは実際に私が自分の耳で聞いており、実は録音もある。個人情報に関わる事はもちろん伏せるし、所々表現を変えたり、整形、補足する事もあるが、あくまでもこれは実際のやりとりである事を保障しよう。よって、やや無責任に思われるかもしれないが、今回はこれが事実であるという事を免責事項とさせていただく。
 名もないただの一試合が終わり、その日の野球部の練習が終わった後、2人は3年生の教室の前の渡り廊下で会っていた。最初から試合後に会う約束していたのか、それとも思い入れのある場所に自然と集まったのか、日沈後のそこは昼の喧騒を忘れて、2人の世界となっていた。
 無論、試合の結果は伏せる。


「すまない」
 最初に切り出したのは坂巻浩介の方だった。
「何について謝っているんだ? 口だけの謝罪ほど無意味な物はない。そうだろ?」
 泉野鏡太郎の冷静な口調の裏には、明確な敵意がある。
「ああ、なんだその、お前の才能を盗んだ事についてだ」
「信じてないだろ?」
「まあな」
「僕が思い込みをしていると。医者も同級生も親も妹もそう言う。君もだ」
 震えていたのは声だけではないはずだ。
「自分からこんな事を言い出すのは、なんだか自意識過剰な気もするが」と、坂巻浩介は予防線を張り、「どうして俺なんかに憧れるんだ? 俺なんて……」
「憧れてなどいるか!」
 泉野鏡太郎が声を荒げる。
「お前なんて、俺から野球の才能を盗んでいなかったら何も無い男じゃないか!」
「そんなの、みんな似たような物だろ? 何者でもない奴が何者かになりたくて、努力するんだ」
「『努力は人を裏切らない』」
「そうだ。馬鹿馬鹿しいと思うか?」
「才能はもっと信頼出来る」
 2人分のため息が聞こえた。息はぴったりだが、意図は交差している。
 しばらくの沈黙の後、坂巻浩介が話を振った。
「試合が終わって今更かもしれないが、どうして第二野球部に入ったんだ?」
「心理さんに惚れた」
「また酔狂な……」
「何故だ? あんなに魅力的な女性はいないぞ」
「はは」
 渇いた笑いを誤魔化すように、坂巻浩介が尋ねる。
「趣味については俺もあんまり人の事は言えないが、それにしたって八戸心理のどこがいいんだ?」
「信頼出来る」
 ぶっ、と噴音の後、ごほごほと咳き込み、間を開けて坂巻浩介が確認する。
「本気で言ってるのか? その辺の詐欺師よりも嘘つきだと思うぞ」
「坂巻、君は信頼の意味を履き違えている。その人物が嘘をつくから信じられないんじゃない」
「……? どういう事だ?」
「普通の女子は、いくら呆気なくフラれたからってその相手に復讐しようとなんて思わない。仮に思ったとしても、それでわざわざ相手の得意分野で負かしてやろうとまでは考えない。ところが心理さんはそれをやろうと決意した。しかも『あの』杵原良治と芹高野球部相手にだぞ?」
「だから狂ってると言われるんじゃないか」
「僕にも同じ事を言うのか?」
「いや……」
「心理さんは必ず復讐する。どんなに困難に見えても、人に狂ってると言われても、何を犠牲にしてでもだ。こんなにも信頼に足る人物は他にはいない」
「でも、それだけの事じゃないか」
「たった1つの事を出来る人間がどれだけいるんだ」
 そして再び坂巻浩介の沈黙。しかし先ほどよりはほんの少し、泉野鏡太郎の理屈に納得しているようでもある。
「まあ手放しで同意は出来ないが、なんというか……お前にとっての八戸心理解釈は、俺達にとっての良治の解釈と少し似ている所があるよ。奴の場合は、それが野球だから誰も困らないんだがな」
 坂巻浩介が1歩譲る形でこの話は終わった。
 かに見えたが、ここに泉野鏡太郎が改めて宣言する。
「それに、僕はまだ諦めてない」
「おいおい、試合後の『あれ』を見なかったのか?」
 と、坂巻浩介が尋ねる。泉野鏡太郎が「信頼出来る」と言った時よりももっと疑わしく、諭すような色合いも含めて。
「ふ、ふん。『キス』ぐらい、欧米では挨拶代わりにするんだ。どうって事ないさ」
 分かりやすい程に動揺する泉野鏡太郎と、それを慰める坂巻浩介。


 試合終了後の事、特に試合とは直接的に関係のない事について私の方から言及する事は避けるべきだと私は考えている。坂巻浩介がその時口にしたこの件については、物語の結末としていずれ語ると約束をしよう。
 そして話は再び試合前、泉野鏡太郎が芹高第二野球部に入部した段階に遡る。
「……という訳で、今日からこいつがお前らの仲間だ」
 放課後の部室にて、堂々と胸を張る八戸心理とは対照的に、訝しげな眼差しで見つめる芦屋歩。我関せずを突き通し、筋トレを続ける久我修也。mp3プレイヤーにいれた落語を聴きながらも、新入部員に注目する内海立松。辻堂兄妹はまだ来ていない。
 そんなほとんどアウェーな状況に放り込まれた新人は、やや緊張した面持ちでこう挨拶する。
「えっと、3年の泉野鏡太郎です。心理さんに誘われてこの部に入りました。一緒に野球部を倒す為に頑張りましょう! えい、えい、おー!」
 その張り切りに答える者はおらず、泉野鏡太郎の放ったエクスクラメーションマークはむなしく部室の天井に消えた。そんな空気に耐え切れなかったのか、泉野鏡太郎は更に傷口を広げる。
「……えーと、昔の友達からはきょうちゃんって呼ばれてます。後輩の方でも気軽にきょうちゃんって呼んでくださいね」
「泉野先輩」
「あ、はい」
「野球の経験はあるんですか?」
 芦屋歩の質問に、自信たっぷりに「あります!」と答える泉野鏡太郎。
「いくつからです?」
「……それはちょっと、分かりません」
「……ポジションは?」
「……いや、あの」
「ポジションと、打順何番で打ってたとか」
「分からないです。何も分かりません」
 両手を顔で覆い、俯いたのはむしろ芦屋歩の方だった。その背中に新たに乗せられた奇妙な錘が存外重い事を知ってしまったのだから仕方が無い。
「で、でも、誰にも負けない野球の才能があったはずなんです。ちょっと記憶が混乱してて分からないだけで、その才能さえ坂巻から取り戻せば、この中の誰よりも上手い自信があります」
 長い長い沈黙の中を、久我修也がダンベルを上下させ、内海立松のイヤホンから笑い声が音漏れする。そして困惑する2人をすっぱりとまとめあげるマネージャー、八戸心理が告げる。
「と、言う訳だ。こいつに1から野球を教えてやってくれ」
「……い、いや、本当なんです。信じてください!」
「ああ、信じているとも。だが今、野球の才能を盗まれたお前はズブの素人も同じという事だ」
「で、でもですね心理さん」
「おい、これ以上手間をかけさせるなよ。あと私の事を気安く呼ぶな気違い野郎」
「う……」
 絶句。ではあるものの、絶望ではない。
「……分かりました! 男、泉野鏡太郎。愛する貴方の為に粉骨砕身、野球に全てを捧げるつもりです!」
 これには流石の八戸心理も呆れたようで、無言で部室を後にする。
 その後、とりあえずグラウンドに連行された泉野鏡太郎は、バッターボックスではバットの持ち方が逆である事を指摘され、軽くノックをすればトンネルを連発し、まともにキャッチボールも出来ない有様だったが、やる気だけはある様子だったと、芦屋歩は証言する。
 かくして泉野鏡太郎は、並の身体能力、ほぼ素人の野球経験、そして尋常ならざる誇大妄想を持って第二野球部へと入部した訳であるが、意外にもその上達ぶりは目を見張る物があったという。八戸心理に対しての惚れた弱みか、それとも坂巻浩介に対する証拠のない恨みか、いずれにせよ不純な動機ではあるが人が動く原動力としてはそれなりに強かったようだ。
「で、もう才能を返せとは言わないのか?」
 試合後、坂巻浩介がこう尋ねると、泉野鏡太郎は穏やかな表情でこう返した。
「もっと良い物をもらったよ」

       

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