Neetel Inside ニートノベル
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一章

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 暗い闇の中を漂っている感覚から急に、視界が切り替わって目の前に白い四角形が映し出された。仰向けに布団を抱えながら天井の白を見つめる。夢の中から現実世界に引き戻され、寝惚け気味の頭がまだそれに追いついていない。しばらく自分の存在がすべて浮遊しているような感覚があった。
 男はベットの上で見たばかりの夢の内容ををぼーっとしながら脳裏に巡らした。ふと気がついたように、ベッド脇のテーブルに置いた目覚まし時計に目を向けた。時計は八時四十分を指していた。アラームをセットした時間より二十分早く目が覚めたようだ。
 あくびをして、上体を起こす。頭の中にもやのようなものが残っていて、そこにまだ眠りを求めるような感覚があった。かすかにわだかまっているそれを払うように軽く頭を叩いた。見えないもやのようなものが晴れて、心なしか視界が明瞭になった気がする。
 ベッド下のスリッパを履き、両手を組んで上に大きく体を伸ばした。アラームを止め、洗面台へのそのそと歩く。男は鏡に向かい合って自分の姿を眺めた。白いシャツにグレーの半ズボン。寝起きのせいか顔が少し赤みを帯びている。色素の薄い茶色気味の髪は寝返りで乱れて、それぞればらばらの方向へ散らばっている。緑色の瞳の周りに何本もの赤く細かい線がある。充血しているのだ。
 顔を冷たい水で洗っている最中も、よく覚えてないはずの夢の中の映像が断片的に脳裏をよぎる。
 いい夢ではなかった。むしろ悪夢と言っていいかもしれない。確かどこか暗い場所に居た。そしてその中に体が沈んでいった。とめどなく長い間、より深くまで。それから――そうだ、何かが聞こえた。
 『…ね………った…に』
 その先を思い出そうと記憶を絞りつくすが、そこから先がふつりと途切れてしまったかのように思い出せない。
 『…ね………った…に』
 タオルで顔を拭いていても、ぼそぼそとしてよく聞き取れない呟きのようなものが何度も頭の中を反復する。――何を言ってるのだろう?
 頭を左右に振ってそれらの余計なものを追い払った。こんなことを考えてる場合ではない。特に今日は、もっと他に考えるべきことが沢山ある。
 冷蔵庫から料理を載せた皿を取り出し、温めて食べた。作業的な動作で料理を口に運ぶ。頭の中で様々な考えるべきことが渦巻いて、味はよく分からなかった。
 食事を終え、シャワーを浴びて、再び鏡の前に立つ。シャツは白いままで上から薄茶色のコートを羽織り、黒のズボンをベルトを締める。薄い色調の服で固めた身なりはぱっと見て地味だ、としか言葉が出ない。目立ちにくく、印象が薄い。完璧だ、とつぶやいた。
 居間に戻り、さほど広くない自分の空間を見回した。淡い色調の壁紙が窓から差す日光を柔らかく迎え入れている。壁際に配置されたベッド、その脇に同じぐらいの高さのテーブル。いくつもの本棚に冷蔵庫、その他の電化製品や生活必需品がまばらに配置されている。不便にも感じなかったのであまり意識はしなかったが、改めてよく見ると物が少ないことに気がついた。
 アパートを出て図書館へ向かって下り坂の歩道を歩く。少し肌寒い。何年間も見飽きた道が今日はやけに無機質なものに思える。ピリリリリ、とベル音がポケットから振動とともに響いた。携帯電話に着信が入っている。画面には上司の名前が表示されていた。
 男はため息をついた。正直、この上司――セドリック・ノーチスのことはあまりよく思っていない。だからと言って出ないわけにはいかない。応答ボタンを押した。
「もしもし、セドリック」
「おはよう、クラン。今どこに居る」
 挨拶を交えて上司が陽気さを帯びた馴れ馴れしい声で話しかける。電話越しに朝の職場の騒々しい空気が伝わってくる。クランはさほど感情のこもらない声で返事をした。
「今家から出たところです。まだ早いので時間まで第二図書館で待機してます」
「時間……そうだ、時間には気をつけておけよ。ちゃんと指定された時間は覚えているな?」
「十一時二十分に現場に到着していればいいんですよね。分かっていますよ」
 声のトーンを変えずに受け答えをした。電話口の上司は一瞬間を置いて、
「いいか。今回の作戦の成否はお前にかかっている。それも嫌というほど分かっているだろう。三ヶ月かけて作り上げてきた作戦だ。そして今日がその仕上げだ。三ヶ月のうちに積み上げた重荷の全てがお前の手にかかっていると言っても過言じゃない」
 その重荷を何故俺だけが背負ってるんだ。言葉には出さず胸の奥で呟いた。上司は相も変わらず浮ついた口調で感情をふんだんに混ぜ込んだ長台詞を並べ立てる。
「この作戦を成功させればお前の昇進だってまず確定する。なあ分かるだろう?実力のあるお前を見込んでのことだ。優秀なお前にしか任せられない大役だ」
「はあ……」
「まあそれだけ責任も大きいがな。お前に限ってそんなことは無いかと思うがな、もしも……いや、もしもだが」
「失敗なんてしませんよ」
 声の調子を強く、先手を打って上司の不穏さを漂わせる語尾を潰した。もはや一刻も早くこの会話を終わらせたかった。
「図書館に着いたんで切ります。また追って連絡しますんで」
「おい、クラ――」
 半ば無理やりに通話を切り、携帯電話をポケットに滑らす。用は済んだだろう。溜息をついて、目の前のガラス扉の前に立つ。自分では気がつかなかったが表情が少しこわばっている。
 緊張しているんだ。クランは自分に言い聞かせた。いつも通りにやればいい。大丈夫、うまくいくだろう。
 図書館に入ってすぐ左にある、カフェコーナーの椅子に座った。両手を交差させテーブルに肘を置く。自分の右手がやけに冷たいことに気がついた。目を閉じ、組んだ両手の上に頭を預ける。
『…ねば…かった…に』
 頭の中に、あの呟きが鮮明に蘇る。なぜか、掴み所の無い取っ掛かりをふとした拍子に捕まえたような気がした。椅子の上で考え込むようなポーズを取っている体勢のまましばらく記憶を追って、そして溜息をついた。
 やめよう。今日はこんなことを考えている場合じゃない――そう分かっているはずなのに、なぜかあのぼそぼそとしてよく聞き取れない呟きが頭から離れなかった。

     

 六月上旬の、ちょうど街に梅雨の兆しが来るころに、それは起こった。高等女学校の学生であるリュシー・ブラウンとアガサ・マークステインがイーストサイドで行方不明になった。当時から最近に至るまで警察による捜索が行われていたが、いまだに行方不明のままである。二人は同じクラスで過ごし、同じ電車で通学するという親友同士の間柄であった。両者共に成績良好、品行方正な生徒であったと二人の担任教師が証言している。家族や人間関係にもなんら問題は無く、自発的に姿をくらましたとは考えられず、またその理由もなかった。
 二人が消息を絶ったその日は金曜日であり、学校を後にしてから二人はクラスメートの友人たちと二時間ほど行動を共にしていた。その際、リュシーは家族に電話で帰りが遅くなる旨を伝えている。メインストリートに立ち並ぶ数々のショッピングセンターやゲームコーナーを回った後、帰りの電車の時間が近いからと友人たちと駅前の広場で別れたところで、二人は姿を消している。通信社の記者が取材を元に簡潔にまとめたこの「イーストサイド行方不明事件」と呼ばれる事件の概要である。
 金曜日に一緒にいた友人たちと、ショッピングセンター内の書店や連絡通路の監視カメラに写っていた二人の姿が、状況証拠を裏付けるものとした。警察は二人が何らかの事件に巻き込まれた可能性を視野に、三週間にも及ぶ大規模な捜査を展開した。マスコミ関係者が警察の動きをかぎつけるのは早かった。すぐさまワイドショーや情報番組のほぼすべてがこの事件の報道で埋め尽くされ、「イーストサイド行方不明事件」という呼称がつけられるほどに、一時期は巷を騒がせる結果となった。この事件は学生の保護者層に少なからず衝撃を与えたようで、話題に上ってすぐに教育委員会へ集団下校の重要性や、その実現案についての投書が殺到する事態となった。
 今となってはこの事件が話題に上ることはほぼ無くなった。進展の見られない結果に警察の捜査は実質打ち切られ、イーストサイドでは十年ぶりの学生世代の行方不明者を出してしまう結果となった。ワイドショーや情報番組も次々に供給される情報を捌くことに忙しくなり、すでにこの事件が表舞台へ出る機会は見られなくなった。「イーストサイド行方不明事件」はもはや人々の記憶の底に埋もれてしまい、時たま思い出される程度に不幸な事件として、投書で警察の能力に疑問を呈する形として小さく生き残り続けている。
 クランはポケットから懐中時計を取り出した。九時五十分。手にしていたスクラップブックを本棚に戻し、階段を下りた。さっきと同じカフェコーナーでコーヒーを買い、手近な椅子に座ってこめかみを指で押さえながら考えを巡らせた。テストを前日に控えた学生のように「イーストサイド行方不明事件」のあらゆる情報を脳内で反芻する。
 視線を上げて、辺りを見渡した。手前から奥にかけて小さくなっていくやや台形の空間に、自動販売機といくつかの白く小さいテーブルが配置されている。クランの座っているテーブルをひとつ越したところに、高校生か大学生のカップルが互いに顔を合わせて談笑している。入り口から、親子が手をつないで互いに微笑んで受付へ向かった。子供は小学生くらいだろうか。今日が土曜日であることを思い出した。しかし、曜日に関係なく仕事の予定でカレンダーが埋め尽くされている自分にはどうでもいいことだった。不意に、何故か空しさがこみ上げてきた。最後に休日をとったのはいつだったのか、思い出せない。その日に自分は何をしていたのか――多分、寝ていただろう。時間があるからといって、特に何もすることはない。数少ない友人は職場にしかいないので、連れ合ってどこかに遊びに行くことはまずない。よく考えてみると、特にしたいことはない。仕事しかすることがない。
 行方不明の二人は、土曜日に何をするつもりだったのだろう。考えているうちに気分がどんどん沈んでいくのに気づいて、クランは紙コップからコーヒーを一気にあおるようにして飲んだ。空の紙コップを握りつぶして、自販機脇のゴミ箱に捨てた。気分直しに今度はミルクティーでも買おうと思い、懐の財布に手をかけた。
 不意にポケットから振動を感じ取り、クランはどきりとした。電源を切り忘れた――あわててポケットに手をかけ、そこからベル音が静かな空間に響き渡った。カップルの視線がこちらを向いたのが視界の端で見えた。通話ボタンを押してメロディを止めると同時に足早に入り口へ駆け出し、半ば苛立ちに近い感情を覚えながら外へ出た。誰かと思い、携帯電話に向けて何か言おうとして、
「クラン?出たのか?」通話口から声が流れた。その声を聞いて、刺々しい感情がスッと奥へ隠れた。それは数少ない友人の中の、ただ一人の親友の声だった。
「や、どうしたんだ?ランス?」親しみを込めて返事を返した。
「クラン。いきなり悪いな。あ、もう場所についているのか?」
「いや、まだだ。今図書館で暇をつぶしてたところだ」
「そうか」通話口の向こうの親友は一呼吸おいて、「ちょっと話したいことができたんだ」
「話したいこと?」クランは少し考えて「女か?」
「違う違う。あ、いや、間違ってはないな……」
「なんだ、面倒事なのか」
「そうでもない。いや、詳しいことは会って話したいんだが……今日の午後、大丈夫か?」
 頭の中で素早く時間を計算した。すべてを終えるまでの時間を少なめに、また多めに見積もり、そして、ちょうど都合のいい時間が頭に浮かんだ。
「大丈夫だ。午後か……仕事が済んだら一度本部に戻るから多分、一時にはそっちへ向かえると思う」
「悪いな、邪魔して。あらかじめ言っておけばよかったんだが……」
「気にするな。それじゃあ」
 短く告げて電話を切ろうと思い、すんでのところでとどまった。
「なあランス。話したいことって……一応どんなことなんだ?」
 うーん、と親友は迷っている様子だったが、
「どんなことって言うかなあ。まあ、もしかしたら……過去の俺たちに少し関係のあることかもしれないんだ」
「過去の?」
 過去と、思いもかけなかった単語に返事の声が上ずった。同時に心臓が少し跳ね上がったようにまたどきりとして、背中がぞくりとするのを感じた。
「どうした?」
「いや、なんでもない。続けてくれ」
 背中に冷や汗をかくのを感じながら、クランは言った。その先をあまり聞きたくはなかった。だからといって、聞かないわけにはいかないのだ。
「まあ、手短に言うよ。グリーンホースの代表取締役の、オーダム・アスターってやつがさ」
 一瞬で体が硬直した。心臓が早鐘を打ち、今にも口から飛び出してきそうだった。まさか親友からそれを聞くことになるとは、夢にも思っていなかったのだ。
「若いころに、俺たちが昔居た孤児院に何度か来ていたらしいんだ」
「……そうか」
 こう返事をするだけで精一杯だった。思いもかけない親友の話にショックを受けていた。
「クラン?どうした、体調が悪いのか?」
「……心配しないでくれ。ああそうだ、今日、俺はどこに行けばいい?」
「いつもの所だ……おい、本当に大丈夫か?」
 親友の声が明らかにクランを心配していた。クランはできるだけ明るい口調で、
「大丈夫。じゃあな、すぐにそっちに行くから」
 そういって、通話を切った。少し歩いた先にベンチを見つけ、そこに腰掛けた。深呼吸をして心臓に手を当て、数分ほどで落ち着いた。ふと左胸に当てた手を見た。まだ震えていた。

 

     

 十一時。イーストサイドから歩いてきたクランは、森を大きく取り囲むフェンスの前に立っていた。一番上にコイルのごとく輪を重ねたように巻きつけられた有刺鉄線が、外部からの侵入者を徹底的に拒む姿勢を見せていた。あるいは、内側から逃さないとするように。
 はるか右のほうに通行関所が構えられていて、そこが通常の入り口である。本来はそこから正規の手続きをして、監視員二名と森の中へ二時間だけ入ることになっている。今回の作戦の活動は非公式にに設定されている。事情を話して通してもらう、というわけにはいかない。話したとて、通るのは無理だろう。犯罪者とはいえ、これから人を殺すのだから。
 毒々しい緑色に塗られた背の高いフェンスが目の前にそびえていた。森を周回するパトロールはさっき通り過ぎ、侵入のチャンスは今しかなかった。深く息を吸い込んで、クランはフェンスに歩み寄った。厚手の手袋はめ、両手には鉤状に小さく湾曲した鉄の棒。ぎりぎり指が入らない大きさの網目に鉤を引っ掛け、両腕の力だけでフェンスをよじ登る。当初は素早く上れるように両足にも鍵をつけることを考えもした。しかし、靴に備え付けた鉤が網目におかしな引っ掛かりかたをして、身動きが取れなくなってしまう光景が容易に想像できたので即座にやめたのだ。順々に自分の体を腕の力で手繰り寄せ、フェンスのてっぺんまで到達した。
 左手にを鉄を握り締めたままぶら下がり、一息ついた。十年来の厳しい訓練の成果か、体力はまだ十分に残っている。ふと、自分が針葉樹の先端に手が届くほどの高さに居ることを自覚した。すぐ下に見える地面は縮尺された地図の写真のようだ。高所恐怖症でなくとも、この光景は冷や汗ものである。
 難しいのはこれからだった。自分の体重を左手から右手の鉤に預けた。疲れを感じさせないような動作で、行きがけに用意したショルダーバッグの中からペンチを取り出した。丸を描くように巻きつけられた有刺鉄線の一端にペンチを挟み込み、グリップを強く握り締めて切断した。手袋の分厚い繊維は有刺鉄線の針を通さないほど堅牢にできている。そのおかげで躊躇無く有刺鉄線を掴むことができた。円の向きに逆らって力いっぱい捻じ曲げる。片手では厳しい作業だったが、二分ほどでなんとか人一人が通れるだけの隙間を作った。
 パトロールの巡回する間隔は十五分程度。おそらく半分が過ぎたころだ。隙間からフェンスを乗り越え、注意深く有刺鉄線を元の状態に近いように手早く巻きつけた。最後が一番の難関だった。上りに安全なように設計したJ字型の鉄の棒が、下りの際に小さな網目に鉤を引っ掛けづらくなるという弊害を備えてた。もう少し考えていれば、とクランは今さらながらに少し後悔していた。
 慌てず落ち着いて、と自分に言い聞かせながらフェンスを降りる。上りのときとは違い、小さな網目に鍵を引っ掛けて降りるということに使う神経は計り知れなかった。右に左に、鉤をはずしながらできるだけ下のほうの網目に引っ掛ける。一歩間違えて転落してしまえば怪我は免れない。最悪死ぬ。慎重に降りようとしても、タイムリミットがある。この状況の難易度はかなり高かったが。全ての意識を集中させ、冷静に地面に降りていく。あと三メートルという所にまで地面が迫った。
 ふと、何かが聞こえて心臓が縮み上がりそうになった。確実に聞き取れなかったが、話し声だと瞬時に理解できた。そして、足音。まだ視界の端にも写らないが、確実にパトロールが近くに居て、徐々に距離を詰めてくる。悠長に降りようとしている場合ではなくなってしまった。
 フェンスを蹴って、網目から鉤を外してそのまま落下した。幸い土はやわらかく、着地の衝撃と音を吸収された。地面に突いた握りこぶしの両手も両脚もダメージは少なかった。尻餅をついた体勢から両手で身を起こし、できるだけ早足で手近な木の陰にさっと身を隠した。その数秒後、もしくは同時に。足音が近づいて、止まった。こちらからは向こうの姿は見えない。向こうからも見えない、はずである。
「今さ、音、したよな」
「ああ。フェンスに何かがぶつかったみたいな……」
 男の声だった。どうやら二人居るらしい。
 気づかないでくれ、と心から祈りながらクランは木の陰で身を縮ませる。
「どうする?一応報告しておくか?」
 心臓が激しく鼓動する。身じろぎせずに息を潜め、静寂に溶け込もうとした。
「うん、そうだ……いや、やっぱやめとこう。どうせ前と同じやつだろ」
「そうだな。はっきり言って面倒だし……まあ、問題ないだろ」
 けだるげな声が二つ。どちらも自分の職務に対していいかげんな態度が滲み出ているのがよくわかる。
「よし。行こうぜ。もう今日はこれで帰れるし」
 男たちは歩き出し、やがて足音も聞こえなくなった。数分後。さっと周囲に誰も居ないことを確認し、クランはほっと胸をなでおろした。安堵から木を背にしてそのまま座り込んで、疲労した体を休ませた。ほんの一分ほどの出来事が、その十倍ほど長く感じられた。
 呼吸が落ち着いたところで、立ち上がる。森の中には一本しか道がないと聞いている。探すまもなくそれはすぐ見つかって、下生えの緑の中に土の色が線のようになって延びていた。
 土の上を歩き出す。木々が両側にそびえ、太陽の光が地上に振りまかれているはずの日中にも薄暗く、寒かった。時おり冷たい風が通り抜け、ざあざあと木が体を揺らしながら土の上にきらめく木漏れ日を波打たせていた。
 森の中の道はほぼ暗記していた。それをもとに正しい道順を進む。分かれ道が目の前に開ける。二枝にも三枝にも分かれたその道を立ち止まることなく進む。何度も、何度も。
 やがて、針葉樹の密集が薄れて広い場所に出た。数歩進んだ先に階段が上へ伸びているのが見える。クランはそれを、軽々とした足取りで一段飛ばしで駆け上がる。
 階段は長かった。百段ほどある石造りのそれを上りきって、その建物が見えた。
 今は住むものが居ないそのレトロティックな大きな建物を、クランは真っ直ぐと見据えた。正面に構えられた赤い塗装のはげた樫の木の扉を見つめる。まるで魅入られたかのように。
(ここに、標的が居る)
 どうしてか扉に対して、漠然とした恐れのようなものが胸の内に暗い影を落とし、だんだんと形を成してきた。たとえば、そこから目を離した瞬間に化け物が扉の隙間から目を覗かせて、こちらを見ているかもしれない、というような。まるで馬鹿げていた。幼い子供の抱くような恐怖感だった。だが、その馬鹿げた恐怖感のために建物の赤い入り口から目が離せなかったのだ。
 だから、気がつかなかった。
 建物の二階の窓。ぴったりと閉められているはずのカーテンの端が、少し動いたことに。その小さな窓目から、視線がクランを捉えていたことに。

       

表紙

文:花田サトシ 絵:裏木 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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