Neetel Inside 文芸新都
表紙

人と妖怪シリーズ
【ぬりかべと語る】

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 昔から塗り壁みたいな奴だった。何故なら彼女の声はいつも壁から聞こえるからだ。
 僕と隣人のシノブはお互い父親がいない。二人とも、生まれる前に父親を病気で亡くしていた。
 女手一つでやっていると言う共感もあったのだろう、僕の母親とシノブの母親は仲が良かった。僕らが仲良くなったのもその為だ。
 母親二人が話している間、二つ年下のシノブとよく一緒に遊んだ。お互いの家へ何度も行き来したし、近くのスーパーを探索したり、行ったこともない道に入り込んだり、夏場の駄菓子屋で涼んだり、公園で追いかけっこもした。
 中学から高校に行くまでの間、妙に意識してしばらく会話をしなくなった。それでも家は隣だし、親同士は仲が良いし、どれだけ疎遠になっても僕らの関係が断ち切れることはなかった。
 思春期ながらにしてお互い恋人を作ることすらなかったのを考えると、僕らは本当に初心(うぶ)だったんだと思う。
 もっとも、お互い独り身を貫いている点を見ると今も初心なのかもしれないけれど。

「なぁシノブ、いつからだっけ」
 ベッドで横になりながら言うと、壁の向こう側から「何が」と声がした。
「壁越しに会話するようになったのは」
「あんまり覚えてないなぁ」
 壁の向こう側からは聞き覚えのある音楽が聞こえる。コンポから流しているのだろう。
「ねぇ、その曲歌ってるの誰」
「リンドバーグってバンド」
「曲名は」
「『きみのいちばんに』」
「なるほど。今度レンタルしてくる」
「貸してあげるよ」
「ありがたい」
「でもさ、嫌でも気付くでしょ」
「何が」
「壁薄いの。これだけ普通に会話できるんだから。いつからも糞もないんじゃない。物心つくころには知ってたよ、多分」
「かもね」
 僕は目の前にある薄っぺらい壁をそっと撫でる。この壁の向こうには、シノブの部屋が広がっている。
 僕らは、この薄っぺらい壁一枚を挟んだ関係だった。
 
 家を出ようと思ったのは大学合格が決まった時だ。プライベートなどおよそ皆無だった十八年間、機会があるとしたら今しかないと思った。
 奨学金とアルバイトで生活する事を条件に母は一人暮らしを許可してくれた。母子家庭で生活は苦しかったし、母としては僕には高校卒業と同時に働きに出てほしかったはずだ。その事は僕も良く分かっていた。
 それでも僕が一人暮らしを行う事が出来たのは、国公立大学に存在する学費免除制度を受ける事が出来たからだ。特別な家庭の事情を持つ学生だけがこの制度を受ける事が出来る。学費の面で一切心配をしなくてよいとなったら、話は別だ。
 引越しの際、シノブが新居までわざわざ手伝いに来てくれた。実家から新居まで電車で二時間ほど。往来することは不可能じゃないが、当時高校生だったシノブにしたら随分な遠出になったはずだ。
「せっかく高校一緒になったと思ったらもう卒業で、しかも引越しなんてね」
 シノブは後ろで髪を束ね、ダンボールを開きながら文句を言う。白い肌は陽に透き通った茶色い地毛と対比され、妙に見映えする。
 新しい家は小さな学生アパートだった。床はフローリングで、壁紙は白く、ベランダがあった。窓から見える景色には大きな河が流れていて、そこには古めかしい橋が架かっていた。
 壁をノックすると、中身の詰まった音が響いた。実家よりも随分厚い、しっかりした壁だ。
 業者が荷物を全て運び込んでくれたので、シノブと部屋の整理をしていた。荷物と言っても必要最低限しか持って来ていないから随分と少なかったけれど。
「お前もうちの大学来いよ。それでまたお隣さんになればいい」
「えぇっ、大学までアンタと一緒って言うのはねぇ」
「じゃあ文句言うなよ」
「嘘。……目指したいけど、アンタの大学難しいからわたしじゃ無理だよ」
「勉強くらい教えてやるさ」
「じゃあ考えとく」
 大学はそこそこ楽しかった。ボランティアサークルに入り、友達もそれなりに出来た。仲のいい女の子は何人も出来たが、何故かいつもシノブが頭にチラついてとうとう恋人は出来ずじまいだった。
 一人暮らしをしてから、帰省するのは盆と正月だけになった。シノブにはもっと頻繁に帰ってくるよう言われていたが、僕だって新しい生活に浮き足立っていたのだ。仕方ない。
 シノブは度々僕の家に遊びに来た。一緒にキャンパスを見て回ったし、川辺を散歩したりもした。約束どおり勉強も教えた。
 大学の友達からはシノブとの関係性を尋ねられたが、恋人ではないと答えておいた。
 二年経った三月の春先、アルバイトを終えて更衣室のロッカーを開けると携帯電話が光っていた。開いてみるとシノブからの着信が一件。
「落ちちゃったよ」
 開口一番、そんな言葉。大学の入試だと悟る。
「うるさい隣人が出来ると思ったんだけど、残念だな」
「泣かせないでよ、馬鹿」
「泣いてもないくせに言うなよ」
「ばれたか」悪戯っぽい声。僕は溜息をついた。
「それで、どうするのさ」
「どうって、何が」
「これからだよ」
「近所の私立に受かったからそこに通う」
「あぁ、あそこか。就職率もいいし、文句ないじゃないか」
「……」
「どうした?」
「また帰ってきてよね。年二回とか言わずにさ」
「はいはい」

 大学を卒業してからは都心にある中小企業に内定し、卒業後そのまま会社近くで生活することになった。仕事はそれなりに大変だったが、先輩や同期たちに助けられ、どうにかやっていく事ができた。
 めまぐるしく一年が過ぎ、正月休みも家に帰る事ができなかった。母から度々連絡もあったが、どうせ実家に帰るよううるさく言われるだけなので無視した。
 ようやく実家に帰る事が出来たのは、社会人二年目の、盆休みだった。

 久々に帰ってきた我が家は一層古びた気がした。階段を昇れば軋み、鍵を開こうとすれば錆付いていて妙に固い。ドアはギィと甲高い金属の擦れる音がした。
「ただいま」
 とりあえず口にしてみたものの、誰もいないのは一発で分かった。電気がついておらず、物音一つしなかったからだ。失敗した。せめて連絡くらい入れとくべきだったか。
 靴を脱いで久々の我が家に上がる。以前まで感じなかった独特の匂いを感じた。人の家に漂う家庭の香りだろうか。そんなものを判別出来るようになったなんて、僕はもうすっかりこの家の一員ではなくなってしまったらしい。
 玄関を上がり、キッチンと一体化している廊下を抜けるとリビングが広がる。この部屋は母の部屋で、その隣が僕の自室になっていた。二つの部屋を区切るふすまは開きっぱなしになっており、ひぐらしの鳴き声が外から入り込む。もう夕暮れで部屋は太陽の光で茜色に染まっていた。
 荷物を床に置き、ベッドに腰掛けた。シノブは大学だろうか。何となく壁をノックし、呼びかけてみる。
「うるさいわねぇ、人が寝てるのに」
 壁の向こうから呑気な声が聞こえてきた。何だか強い安心感を覚える。
「一体何の用……」
「久しぶり」
 しばらく黙った後、「嘘……」と言う呟き。
「あんた一年半も帰ってこないで、何やってたのよ」
「ごめん」
「連絡も入れないで」
「忙しかったんだ、色々と」
「馬鹿」
「申し訳ございません」
「あと」
「うん」
「おかえり」
「ただいま」
 久々に聞く幼なじみの声は、随分心に溶け込んでいった。
 そのとき、玄関の扉が開いた。どうやら母が帰ってきたらしく、スーパーの袋がガサガサと音を立てる。
 リビングに入ってきた母は僕の姿を見て目を丸くした。
「あんた……」
「ただいま」
 照れくさくて頭を掻くと、母は何か否定するみたいに首を振った。
「何度も連絡したんだよ」
「ごめん、仕事が忙しくてさ。悪かったよ」
「そうじゃない」
 母は、沈んだ様子でうな垂れる。
「シノブちゃんが、死んだんだよ」
 何を言っているのか分からず、一瞬間が空く。
「何言ってんの、シノブなら」
「死んだんだよ。半年前に」
「悪い冗談も大概に……」
 母はとても嘘をついているようには見えず、その物言いも真に迫っていた。
「本当に?」
 母は黙って頷く。
 僕は背後にある壁を見た。
 ざらついた、無機質な壁の向こうにシノブの姿が見えた気がした。

       

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