Neetel Inside 文芸新都
表紙

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 チャイムが鳴る。
 地獄のゼミの時間が終わった。
 先ほどの出来事があり、内心気落ちしながら資料を片付けていると「久保君」と声を掛けられた。
「さ、佐伯さん」
「今日みんなで飲み会するんだけど、久保君も来ない?」
 えっ、という顔を周りがする。たぶん僕もしていた。彼らからすれば『呼んだら駄目な奴カテゴリー』に僕が入っているし、僕も『呼ばれたら駄目な奴カテゴリー』に自身を入れている。
 たぶん佐伯さんはそう言うのをキチンと理解している。そしてわざと気付いていないフリをして僕を誘っている。彼女はそういう賢しさ(さかしさ)と優しさを兼ね備えている人間なんだ。
 でもこの視線の中「行く」なんてとてもじゃないが言えない。僕の選ぶべき選択肢は把握している。それくらい自分をわきまえているつもりだし、空気だって読めるつもりだ。
「いや、いい、いいいいいい」
 首と手を振りながら答える。我ながら断り方が下手すぎる。
「何か用事とかあるの?」
「の、飲み会とか苦手なんだ。お酒飲めないし」
「飲まなくてもご飯とかあるよ。もっと久保君と話してみたいしさ。行こうよ」
 一瞬心が揺れ動いたが、すぐにハッとする。分かってる。佐伯さんは僕を仲間はずれにしたくないだけなんだ。
「ま、まあとにかく今回はやめとくよ。じゃあ」
 僕は鞄を持つとそそくさとその場を去った。早足で教室から離れ、講義棟から出て、足早に駐輪場へ向かう。構内にはお昼の放送が流れていた。最近よく流れている曲だ。古い曲だからか、耳障りで仕方がない。自転車にまたがり、学校を後にする。
 脳内では色んな後悔が浮き出ていた。
 せめて誘ってもらった御礼くらい言うべきだった。断るにしたってもっとやんわりと言えたはずだ。千載一遇のチャンスだったのに。嫌われただろうか。そもそも好かれてなんかいなかったはずだ。それに今のやりとりでいい印象を与えるわけがない。不快にしてしまっただろうか。
 たった一分足らずのやり取りで浮かぶ後悔はじりじりと心を占めていく。小骨の様に引っかかってなかなか取れない。
「お前今のは駄目だよ。零点。キモオタ度は満点だけどな」
「黙れ変態」
 横からおじさんがちくちく刺してくるのを余計重荷に感じながら家へと到着した。僕は今日何度目かになる溜息を吐くと鍵を開き、ドアを開ける。
 奇妙なことに部屋の空気に違和感を感じた。何だか肌寒い。それと何故だかトイレのドアが開いている。
「お、もう来ているみたいだな。喜べ相棒」おじさんは顔をちょっと赤くしてトイレのドアを指差す。僕は唾をゴクリと飲み込んだ。
 中から見たことのない女子高生が姿を見せた。セーラー服で、前髪を切りそろえている。異様なほど肌が白く、目に涙黒子があった。
「俺の初恋の女性、花子さんだ」
「花子です、よろしく」
 僕は気絶した。

 目が覚めると玄関先で僕は倒れていた。横にあるトイレをそっと覗いてみる。誰もいない。おじさんも、花子さんも。今までのは全部夢だったのか。人生があまりに楽しくなさ過ぎて、見てしまった虚構。
「疲れてるのかな……ハハッ」
 乾いた笑みを浮かべながらリビングに入ると、机を囲んで女性物の下着を着た変態とセーラー服の女子が談笑していた。僕は吉本芸人ばりに飛び込み前転して机もろとも吹っ飛んだ。
「相棒、いまのリアクションは良いな。結構うけるよ。ぷーくすくす」
「何やってんですか、あんた」
「何って、お前が余りにヘタレだから恋愛アドバイザーとして講師を呼んだんじゃないか」
 ムンと胸を張っておじさんは花子さんを手で指し示す。目が合った彼女は照れたように頭を下げた。確かに可愛い。
「どうやって連れてきたんですか」
「相方契約の延長だよ。俺の協力者として花子さんを申請した。お前の行くところならどこへだって行けるぜ」
 その辺の謎設定はもう聞くのもうんざりだ。
「僕は別に恋愛アドバイザーなんて求めてませんけど」
「でも、変わりたいのは事実なんでしょう?」
 花子さんが首を傾げながら僕を覗き込んでくる。そんなつぶらな瞳で見ないでほしい。僕はどぎまぎして視線を逸らした。
「花子さん、こいつ陰キャラだから女の子に話しかけられたら言葉に詰まるんだよ」
「ま、初心(うぶ)なんですね」
 クスクスと花子さんは笑う。ムカつくが事実なので返す言葉がない。それにしてもこの二人、一緒にいるとまるで援交カップルである。
「それで、あなたは佐伯さんと言う女の子と仲良くなりたいのよね?」
「な、なな何でそれを」
「お前が気絶している間に俺が話しておいた。包み隠さずな」
 余計な事を。
「詳しい話は神様から聞きました。便所飯なんて、したくないんでしょう?」
「それは……まぁ」あんなもんしたくてする奴はいない。
「一人でご飯を食べることはそんなに苦痛ですか?」
「そうじゃないですけど」

 大学にいると、どこにいても心が落ち着かなかった。
 スタートで出遅れて、部活やサークルにも入りそびれて、気付いたら周囲にはもうグループが出来ていて。
 一人で講義を受けるたび、なんだか妙に惨めな気分になる事があった。大講義室では僕と同じ様に一人で昼食を取る人もいる。でも友達と一緒に楽しそうに食事する人もたくさんいた。そういう人たちを見るたびに、心がざわめくのがわかった。自分が笑われているような、そんな気さえした。
 個室は、この学校で唯一の、安寧の地だった。

「人が変わるには長い時間が必要です。一日二日で、あなたが急に友達と充実したキャンパスライフを送れるようになるのは難しい」
 そこで花子さんは「でも」と強く発音する。
「きっかけがあれば、人は変われるんです。どんな惨めな一歩でも、その最初さえ歩めれば始まるんです。あなたにはもう、それが訪れているんじゃないですか?」
「そんなもの……」
 あった。たくさん。気付かないふりをしていただけだ。自分にだってチャンスがあれば。考えなかった訳じゃない。なかったのはチャンスじゃなかった。勇気だ。
「踏み出さないと始まらないんです」
 花子さんは僕の手をそっと握った。思わず息を呑む。女の人に手を握られるのは生まれて初めてだ。
「あなたは変わりたいって思ってるじゃないですか。現状に諦めを抱くんじゃなくて、変わりたいって。その理由が何だか、思い出せませんか?」
 理由。
 便所飯を始めたのが理由?
 便所の神と出会った事が理由?
 それとも──。
 僕の中にあったのは、佐伯さんと課題作りに勤しんだあの一週間だった。
 付き合いたいとかそんな物ではない。少しでも傍で、彼女がこれから歩んでいくであろう幸せをそっと眺めていたいと思うようになったのだ。
「実は花子さんもな、便所飯をしていたんだよ」
「えっ」
 おじさんの言葉に、花子さんは少し悲しげに笑った。
「虐められていたんです。トイレでしかご飯、食べさせてもらえなくて」
 こんな可愛い人でも便所飯を? 信じられない。
「あなたを見ていると、昔の私を思い出します」
「勝手に思い出さないで下さい」
「大学はもういいやとか、高校は諦めようとか、今までそうやって生きてきたんじゃないんですか? 変わろうとしない自分を正当化しようとしてましたよね」
 何もいえなかった。図星だった。
「捨てたものは帰ってきません。取り返しもききません。楽にもなりません。私がそうだったから」
 知っている。そんなこといつも分かっていた。感じていたのだ。
「相棒」
「何ですか」
「難解な壁は、ぶち当たってみると意外と薄かったりするぞ」
 おじさんは真っ直ぐ僕を見つめてくる。
 僕は「はぁ」とわざとらしい溜息を吐いた。
「花子さん」
「はい」
「もし今このおじさんが付き合おうって言ったら、その申し出を受けますか」
「お前、急に何を……」
「いいからおじさんは黙っていてください。僕にとって重要なことなんです。どうなんですか、花子さん」
 僕は彼女を真っ直ぐ見据え、おじさんは恐る恐る振り返る。
 やがて花子さんはにっこり笑った。
「絶対嫌です」
「え……」おじさんは力ない声を出した。ショックが体からあふれ出ている。
 その様子に花子さんは呆れ顔で付け加えた。
「女性物の下着に仮面被った中年男性と付き合う女子なんていないと思いますけど」
「ですよね。キモイし」思わず賛同した。その言葉がとどめになったのか、おじさんは倒れた。
「気持悪い奴はやっぱり気持悪い。おじさんだけでなく、ゼミのみんなが僕に抱く印象って言うのもやっぱり同じなんだと思います。一度ついた悪印象って言うのは拭い去るのはかなり難しいんじゃないでしょうか」
「まぁ、それは、確かに」
 花子さんは曖昧に頷く。僕が何を言いたいのか分かりかねている感じだ。
「つまり」
「つまり?」
「もう僕には何も失う物なんてないって事なんですよね」
 僕は携帯を取り出した。かける相手なんてもう決まっている。僕がゼミで連絡先を知っているのなんて一人しかいない。手が震える。
 謝って、それから……。
「花子さん」
「はい?」
「本番の前に、練習してもらって良いですか」
「練習?」
「佐伯さんとうまく会話する練習です」
 電話と、それから飲み会で。

       

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