Neetel Inside 文芸新都
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 夏のボーナス、略してナスの使い道は割とすぐに決まった。
 それはとあるスタジオでの休憩時間の事である。いつもの広い休憩室。四つの椅子に囲まれた机がいくつも並び、僕らはその中の一帯を占領する。土日だからか僕らみたいな社会人バンドっぽいのが多い。
「ねぇ秋君」ストレートの髪をクルクルいじり紅子がしゃべる。
「なんじゃいな」僕は竹松のひざで痛くない程度にスティックをポコペコやる。
「ナス出た? ナス」
「ナス? ああ、うんこか」
「ボーナスよ」
「ボーナスか。出たよ」
 我ながら何でうんこに発想が行ったのか理解出来ない。しかし重要なのはそこではなく次の紅子の言葉だった。
「じゃあさ、レコーディングしよう。アルバムの」
「デモじゃなくていきなりアルバム作っちゃうの?」
「デモなんて入れられるのせいぜい二、三曲でしょ? 持ち曲二十もあったら選びきれんでしょうが」
「それもそうか。いいよー」
 そんな軽い会話でレコーディングが決まった。ちなみに竹松に意思確認はしない。してもしゃべらない。

 とにかくそんな訳でアルバム製作に向けてスタジオに入る日々が始まった。
 週一回だった練習は徐々に週二、週三と回数を増し、必然的に貧乏神をスタジオに連れて行く機会も増えた。スタジオに連れてきてもらうと貧乏神は楽しそうで、いつも休憩室できゃっきゃと喜ぶ。紅子と仲が良いのだ。よく懐いている、紅子が。
「貧ちゃんは貧乏神なんだよね」貧乏神のほっぺをつつきながら紅子が言う。
「せや」
「ぜーんぜん見えないね」
「可愛すぎるからな」僕は頷く。
 紅子に甘える貧乏神の姿はまるで天使である。しかしふと不思議に思う。
「でも貧乏神は人を不幸にするって言うのに、変だな。僕はちっとも不幸じゃない」
「秋君は不幸に気づかないタイプって気がする」
「黙らっしゃい」
 すると頬をつつかれていた貧乏神が口を開いた。
「実はなぁ、うちは人を不幸にするんとちゃうねん。不幸な人のとこに寄せられるだけやで。ちいとも金がたまらん人のとこにな」
「なるほど」
 僕と紅子は同時に頷いた。竹松は全く会話には参加せずにベースを弾いている。君、ちょっとは楽器手放したらどうよ。
「つまり僕に財政的な余裕が出来ると貧乏神は出て行ってしまうと」
「せやね」
「やだ! 貧ちゃんがいないなんて考えられない!」
 紅子がギュッと貧乏神を抱きしめる。
「じゃあ僕の家出た後は紅子のとこに行ったら良いんでないの?」
 すると紅子はハッとした。
「そうよ、それが良いわ。貧ちゃんうちにおいで。一緒に暮らそ」
「アカンわ。紅子はちょっと堅実にお金貯めすぎやねん」
「じゃあ闇金に手を出すから」
「やめなさい」ここで止めておかないとこの女、本気で手を出しかねない気がした。
 貧乏神はそっと紅子から逃れると、僕の膝に座り、体を預けてくる。
「うちは兄ちゃんが一番や。お金もないし、適度に運もない」
「かわゆいやつめ」
「秋君、その返しはどうかと思うよ……。ま、そうとなったら冬のナス、秋君には貯金させるわけにはいかんね」
「マジかよ」
「ライブしよう、ライブ。冬には音源も完成してるっしょ。んで君の機材も一新しよう。ついでに打ち上げ代も出しちゃおう。んで私の新しいバッグも買ってくれ」ここぞとばかりに欲望に見舞われる女である。
「何を勝手な。竹松も何か行ってよ」
 竹松は僕を見てそっと肩をすくめた。なんかしゃべってお願い。

 その日のスタジオ終わりに四人で飲みに行った。飲みに、とは言っても貧乏神はもっぱらオレンジジュースだが。
 不思議な事に今までこの和服小僧を誰も奇異の目で見た事がない。僕には分からないが、何か独特な力が働いているみたいだった。存在を当然と錯覚させる何かが。
 スタジオ近くの居酒屋、分かりやすく言うと笑笑の四人席で、ビールとオレンジジュースを飲みながら談笑する。掘りごたつ式の席で、他の客席から少し離れているので居心地が良い。
「しっかしあれだねぇ。僕の人生がこれほどまでに向上しないのは何でなんだろうね」
「それはな、兄ちゃんの人生が今低迷期にはいっとるからやねん。低迷期に入ってもうたらなかなか抜け出せへん」
「じゃあ秋君はずっと独身男か」
「やめて。竹松も何とか言ってやってよ」
「……」
「しゃべって、お願い」
「まぁ兄ちゃん、そんなに落ち込んだらあかへん。何かきっかけになるような悪い事が起こったら運気も治るねん。安心してくれ」
「安心出来る要素が微塵もない……」
「でも貧ちゃん、悪い事って言っても、秋君は今まで女の子に散々フラれたんだから十分悪いこと起こってるんじゃないの?」
「そんなんまだ大したことないで。攻撃で言えばまだジャブしかないんちゃう」
「じゃあ僕にはまだフックとアッパーが待ってるのか。恐ろしいねそりゃ」
「逆にそれを乗り越えたら兄ちゃんの運気はうなぎのぼりや。多分」
「秋君の場合のぼる前に深海まで沈みそうだけどね」
「よし、これより紅子さんの断髪式を行います。この肉切りハサミで」
「やんややんや」
「さわんな糞が!」
 肉切りハサミを持ちながらふと思う。
 僕の人生が向上したら、貧乏神は出て行ってしまうのだろうか。
 この生活を楽しいと思ってしまっている僕には、それはちょっと嫌かもしれない。

 僕たちのアルバムは、秋口に完成した。

       

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