二十三日のスタジオにて、僕はようやく休日出勤の旨を紅子達に伝えた。内緒にして誤魔化そうと思っていたのだが、当日にもスタジオに入ろうと紅子が言い出したために白状せざるを得なくなったのだ。
「はぁ? 明日も出勤?」紅子はチューニングしていた手を止めた。「休日出勤今日だけじゃなかったの?」
「すまんこ」
僕がスティックで鼻くそをほじりながら謝ると紅子はギターを置いて胸倉をつかんできた。
「なんでそんな大事な事黙ってんのよ」
「急に決まったのです。すまんこ」
「まんこまんこうるさいよ。殺すよ?」
「ちんこ」
「殺す」
紅子の目が獣みたく光る。あ、死んじゃう。
「やめたってくれ紅子ー!」
まさに紅子がこぶしを振りかぶったその時、世にも可愛い叫び声がスタジオ内に響いた。見ると貧乏神が必死に紅子の服を引っ張っている。
「貧ちゃん……」
胸倉を掴む力が弱まるのを感じた。
「兄ちゃんは仕事頑張っとんねん。当日もちゃんとライブ出れるって言っとったんや。だから堪忍したってくれぇ」
「ホント?」
「誠でごんす」
僕が両手をひらひらさせると、紅子は仕方ないなぁと溜め息をついて手を離してくれた。そのままかがんで涙目の貧乏神を撫でる。
「それならそうと早く言いなさいよ」
「ライブに支障はないから大丈夫だと思ってさ」
まさかいちゃもんつけて解散にまで追い込んでやろうと考えていたなどとはとても言えない。言ったら最後、今度はこぶしではなくギターが飛んでくるだろう。貧乏神を連れてきてよかったと心底思った。
「まぁ当日はリハなしになっちまうからよろしく」
「バリバリ支障きたしてるじゃんよ。大体なんで貧ちゃんがここにいんのよ。この糞寒いのに上着も着せずに、かわいそう。お手てチューチューしてあげんね」やめてあげて。
「うちは寒さ感じひんから大丈夫やで。今日来たんは紅子のとこにお泊りするためや」
その言葉に紅子の目が輝くのを僕は見逃さなかった。一応補足しておく。
「明日僕は会社帰りに直で会場向かうからさ。貧乏神は紅子に連れて行ってもらおうかと思って」
前もって頼まなかったのは絶対に了承される自信があったからだ。頼む必要性すらない。
「明日一日貧ちゃんと過ごせるって言うの……?」
「夢みたいだろ」
「うん」
容易い女である。ときメモで言えばパラメーターを上げるだけで勝手に好感度も上昇する女キャラに似ている。ついでで攻略されるキャラである。
ちなみにこの騒動の間も竹松君は出来上がった音源を聞きながらベースを弾いていた。もう帰って。
そんなこんなで二十四日になった。
朝から仕事に追われ、年末の忙しさはピークに達しようとしている。
うちの会社は一応二十九日で業務納めのため、今日を越えれば今年の山場はもう終わりだ。
ろくに昼休憩も挟まずに、皆一様にデスクに向かっている。取引先からの発注依頼と、受注キャンセル、商品のやりくりをどうこなすかが肝だ。
息もつく暇がなかったが、そのおかげか時間が過ぎるのは妙に早かった。刻一刻と時は流れ、六時になるとどこからか歓声が上がった。意外な事に昼間はあれだけ追われていた業務は、最後の方になると割と余裕で終える事が出来た。
「おう秋元! 飲みに行くぞ!」
「あっ、帰ります!」
「貴様ー!」
騒々しい中、僕はそそくさと上着を羽織る。正直少し休みたかったがこれ以上ここにいると無理やり飲みに連れられかねない。
早足にエレベーターホールまでくると、なぜか尚先輩と部長がいた。
「それじゃあ松本さん、お疲れ様」「お世話になりました」そんな会話が耳に入る。
「何やってんですか?」
怪訝な顔で近寄ると部長がギクリと顔を強張らせた。
「お前か……。もう帰るのか? この後、飲みに行くみたいだが」
「生憎と用事がありますんで」
「明石屋サンタか……」お前もか。
エレベーターがやってくる。扉が開いた。尚先輩が乗り込む。部長は乗らない。見送るだけか。
「それじゃあ部長、ありがとうございました」
「元気でやるんだよ」
「はは、尚先輩なんか会社辞める人みたいですね」
僕がエレベーターに乗り込みながら笑うと部長は「月曜まで内緒だぞ」と唇の前に人差し指を立て、そのまま扉が閉まると同時に見えなくなった。
しばし沈黙が漂う。エレベーターが下降する。
えっ。
「辞めるんですか?」
「うん」
えっ。
『えぇ! 本当かい?』とマスオさんのモノマネをしようと思ったがそれはなんだか違う気がしてやめた。
「会社ってそんな急に辞められるもんなんですか」
「実は一ヶ月前から決まっていたのだよ。部長には内緒にしてもらってたんだ」
驚きもしたが、同時に妙に納得してしまった。うちの会社はそうやって辞めて行く人が多い。猫のように音も立てずに消える人が。気まずいんだろうな、とか騒がれたくないんだろうな、とかそんな憶測が勝手に出てきてしまう。
「実家の家業を手伝うことになってね。辞めるって公言したらまた飲みだのなんだのってうるさくなりそうだから。君にはなんか言っておこうかと思ったんだけど、言えなかったんだよ。ごめんね」
一週間前飲みに行った時の事を思い出す。
──私さ、前から言おうと思ってたんだけど……。
彼女が言おうとしていた事はこれだったのか。
何故あの時何か引っかかったのかようやく分かった。『次』の話がでなかったのだ。毎度飲み会終わりに言われる、『次』いつ飲むのかっていう話。
正直、ショックは隠しきれなかった。呆けてしまい、上手く言葉が出ない。頭が混乱していて何を言えば良いのかわからなかった。
会社の外へ出る。つめたい風が肌を刺す。外はすっかり暗かった。陽が落ちるのが早い。
一緒に並んで歩いて、ようやく出た言葉が「短い間ですが、お世話になりました」だった。そんなんで良いのか。何かもっと言うべき事があった気がする。
そんな僕の姿を見て尚先輩はおかしそうに笑った。
「最後なのに君はいっつもそんなんだなぁ」
「はぁ、すいません」
「私、君が他の女の子に目移りするの、すごく嫌だったんだよ」
「何でですか」
「鈍いなぁ。好きだったからだよ。気づくと思ったんだけどなぁ。普通」
えっ。
まさかの衝撃的告白だった。
ここか。
ここだったか。
まさかここだったか!
僕が女の子にフラれて喜んでいたのも、毎度飲んでくれたのも、おっぱいさわらせようとしてくれたのも、クリスマス一緒に居たいとか言ったのも。
ここだったか! 僕は心で叫んだ。
しかし今更告白など彼女は何を考えている。僕に一体何を言えと言うのだ。
──実は僕も本当は尚先輩が……。
──以前から尚先輩の事が気になってて……。
──Dカップも悪くない。
ダメだ。どれも説得力がまるでない上に自分の愚かしさを上塗りするばかりである。
それでも。
それでも何か言わなきゃ。
彼女は僕の言葉を待っていた。何となく、最後の言葉にするつもりなのが読めた。僕はちゃんと選ばなくちゃいけない。絶対に後悔しない、一言を。
そして僕は口を開いた。
「えぇ! 本当かい?」
風が吹いた。沈黙が漂う。
尚先輩は一瞬、ものすごく冷たい目をした後、首を捻った。
「さよなら」
僕は、彼女の背中を追いかけられずに、そのまま立ちつくした。彼女の姿は、やがて見えなくなる。
何やってんだろう。
風が突き刺さるなか、弱々しい力で服の袖をちょいちょいと引っ張られた。表情を変えずにそのまま下を見る。さぞかし僕は間抜けな顔をしていただろう。
そこにいたのは、貧乏神だった。子供用の防寒着を着せられ、フードをかぶっている。
「迎えに来たで、兄ちゃん」
手を引っ張ろうとする貧乏神を僕は制した。
「ちょっと待って。今、不運のジャブとアッパーが同時に来たから」
「でもこれから運気は右肩上がりや」
「その防寒着、どうしたの」
「紅子が買ってくれた。クリスマスプレゼントって」
「こんないたいけな子供を着物一枚で放っておくなんて出来ないからね」
顔を上げる。紅子がにやけ顔で立っていた。
「クリスマスにフラれるとか、ぷーぷぷぷ、だっせ」
「うるさいな……」
僕は俯いた。するとポン、と肩を叩かれる。竹松だった。居たの。
「なんだよ、竹松」
竹松は笑みを浮かべる。
「今日は良いドラム叩けよ、秋」
「ばっか、何言ってんだよ」
僕は肩をすくめると、天を仰いで叫んだ。
「当たり前田のクラッカー」
「キモッ」紅子が顔をしかめた。貧乏神が肩を揺らして笑い、紅子はわぁ可愛いと彼を抱き上げる。
「さ、さっさと行きましょ。あんたの舞台はこっちじゃなくてあっち。フラれんのは予定調和。景気付けに音楽で飛ばすわよ、その陰気と不運。終わったら四人で打ち上げ。最高に上手い酒で完璧」
「ですな」
僕は手を前に差し出した。竹松がその上に自分の手を乗せる。次に紅子が乗せ、最後に貧乏神が乗せた。
「成功させよう。必ず」竹松が言う。
「ライブ何年ぶりだっけ」僕は首をかしげた。
「三年くらいじゃない」
「全然いけるな、それじゃあ」
「秋君のその意味分からない自信どこから来るんだか」
僕は胸を叩き「ここ」と指し示す。返ってきたのは「引くわ、その返し」と言う一言。お決まりのやり取りだ。
僕は皆の顔を見回す。
「よし、行こう」紅子。
「みんな頑張ってええ結果出してくれ」貧乏神。
「当然」僕。
「だな。俺たちの音楽をしてやろう」竹松。
竹松。
僕達は互いに頷くと、叫んだ。
「竹松がしゃべった!」
こいつ口臭ぇ。