Neetel Inside 文芸新都
表紙

人と妖怪シリーズ
【ぬりかべと語る】

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 昔から塗り壁みたいな奴だった。何故なら彼女の声はいつも壁から聞こえるからだ。
 僕と隣人のシノブはお互い父親がいない。二人とも、生まれる前に父親を病気で亡くしていた。
 女手一つでやっていると言う共感もあったのだろう、僕の母親とシノブの母親は仲が良かった。僕らが仲良くなったのもその為だ。
 母親二人が話している間、二つ年下のシノブとよく一緒に遊んだ。お互いの家へ何度も行き来したし、近くのスーパーを探索したり、行ったこともない道に入り込んだり、夏場の駄菓子屋で涼んだり、公園で追いかけっこもした。
 中学から高校に行くまでの間、妙に意識してしばらく会話をしなくなった。それでも家は隣だし、親同士は仲が良いし、どれだけ疎遠になっても僕らの関係が断ち切れることはなかった。
 思春期ながらにしてお互い恋人を作ることすらなかったのを考えると、僕らは本当に初心(うぶ)だったんだと思う。
 もっとも、お互い独り身を貫いている点を見ると今も初心なのかもしれないけれど。

「なぁシノブ、いつからだっけ」
 ベッドで横になりながら言うと、壁の向こう側から「何が」と声がした。
「壁越しに会話するようになったのは」
「あんまり覚えてないなぁ」
 壁の向こう側からは聞き覚えのある音楽が聞こえる。コンポから流しているのだろう。
「ねぇ、その曲歌ってるの誰」
「リンドバーグってバンド」
「曲名は」
「『きみのいちばんに』」
「なるほど。今度レンタルしてくる」
「貸してあげるよ」
「ありがたい」
「でもさ、嫌でも気付くでしょ」
「何が」
「壁薄いの。これだけ普通に会話できるんだから。いつからも糞もないんじゃない。物心つくころには知ってたよ、多分」
「かもね」
 僕は目の前にある薄っぺらい壁をそっと撫でる。この壁の向こうには、シノブの部屋が広がっている。
 僕らは、この薄っぺらい壁一枚を挟んだ関係だった。
 
 家を出ようと思ったのは大学合格が決まった時だ。プライベートなどおよそ皆無だった十八年間、機会があるとしたら今しかないと思った。
 奨学金とアルバイトで生活する事を条件に母は一人暮らしを許可してくれた。母子家庭で生活は苦しかったし、母としては僕には高校卒業と同時に働きに出てほしかったはずだ。その事は僕も良く分かっていた。
 それでも僕が一人暮らしを行う事が出来たのは、国公立大学に存在する学費免除制度を受ける事が出来たからだ。特別な家庭の事情を持つ学生だけがこの制度を受ける事が出来る。学費の面で一切心配をしなくてよいとなったら、話は別だ。
 引越しの際、シノブが新居までわざわざ手伝いに来てくれた。実家から新居まで電車で二時間ほど。往来することは不可能じゃないが、当時高校生だったシノブにしたら随分な遠出になったはずだ。
「せっかく高校一緒になったと思ったらもう卒業で、しかも引越しなんてね」
 シノブは後ろで髪を束ね、ダンボールを開きながら文句を言う。白い肌は陽に透き通った茶色い地毛と対比され、妙に見映えする。
 新しい家は小さな学生アパートだった。床はフローリングで、壁紙は白く、ベランダがあった。窓から見える景色には大きな河が流れていて、そこには古めかしい橋が架かっていた。
 壁をノックすると、中身の詰まった音が響いた。実家よりも随分厚い、しっかりした壁だ。
 業者が荷物を全て運び込んでくれたので、シノブと部屋の整理をしていた。荷物と言っても必要最低限しか持って来ていないから随分と少なかったけれど。
「お前もうちの大学来いよ。それでまたお隣さんになればいい」
「えぇっ、大学までアンタと一緒って言うのはねぇ」
「じゃあ文句言うなよ」
「嘘。……目指したいけど、アンタの大学難しいからわたしじゃ無理だよ」
「勉強くらい教えてやるさ」
「じゃあ考えとく」
 大学はそこそこ楽しかった。ボランティアサークルに入り、友達もそれなりに出来た。仲のいい女の子は何人も出来たが、何故かいつもシノブが頭にチラついてとうとう恋人は出来ずじまいだった。
 一人暮らしをしてから、帰省するのは盆と正月だけになった。シノブにはもっと頻繁に帰ってくるよう言われていたが、僕だって新しい生活に浮き足立っていたのだ。仕方ない。
 シノブは度々僕の家に遊びに来た。一緒にキャンパスを見て回ったし、川辺を散歩したりもした。約束どおり勉強も教えた。
 大学の友達からはシノブとの関係性を尋ねられたが、恋人ではないと答えておいた。
 二年経った三月の春先、アルバイトを終えて更衣室のロッカーを開けると携帯電話が光っていた。開いてみるとシノブからの着信が一件。
「落ちちゃったよ」
 開口一番、そんな言葉。大学の入試だと悟る。
「うるさい隣人が出来ると思ったんだけど、残念だな」
「泣かせないでよ、馬鹿」
「泣いてもないくせに言うなよ」
「ばれたか」悪戯っぽい声。僕は溜息をついた。
「それで、どうするのさ」
「どうって、何が」
「これからだよ」
「近所の私立に受かったからそこに通う」
「あぁ、あそこか。就職率もいいし、文句ないじゃないか」
「……」
「どうした?」
「また帰ってきてよね。年二回とか言わずにさ」
「はいはい」

 大学を卒業してからは都心にある中小企業に内定し、卒業後そのまま会社近くで生活することになった。仕事はそれなりに大変だったが、先輩や同期たちに助けられ、どうにかやっていく事ができた。
 めまぐるしく一年が過ぎ、正月休みも家に帰る事ができなかった。母から度々連絡もあったが、どうせ実家に帰るよううるさく言われるだけなので無視した。
 ようやく実家に帰る事が出来たのは、社会人二年目の、盆休みだった。

 久々に帰ってきた我が家は一層古びた気がした。階段を昇れば軋み、鍵を開こうとすれば錆付いていて妙に固い。ドアはギィと甲高い金属の擦れる音がした。
「ただいま」
 とりあえず口にしてみたものの、誰もいないのは一発で分かった。電気がついておらず、物音一つしなかったからだ。失敗した。せめて連絡くらい入れとくべきだったか。
 靴を脱いで久々の我が家に上がる。以前まで感じなかった独特の匂いを感じた。人の家に漂う家庭の香りだろうか。そんなものを判別出来るようになったなんて、僕はもうすっかりこの家の一員ではなくなってしまったらしい。
 玄関を上がり、キッチンと一体化している廊下を抜けるとリビングが広がる。この部屋は母の部屋で、その隣が僕の自室になっていた。二つの部屋を区切るふすまは開きっぱなしになっており、ひぐらしの鳴き声が外から入り込む。もう夕暮れで部屋は太陽の光で茜色に染まっていた。
 荷物を床に置き、ベッドに腰掛けた。シノブは大学だろうか。何となく壁をノックし、呼びかけてみる。
「うるさいわねぇ、人が寝てるのに」
 壁の向こうから呑気な声が聞こえてきた。何だか強い安心感を覚える。
「一体何の用……」
「久しぶり」
 しばらく黙った後、「嘘……」と言う呟き。
「あんた一年半も帰ってこないで、何やってたのよ」
「ごめん」
「連絡も入れないで」
「忙しかったんだ、色々と」
「馬鹿」
「申し訳ございません」
「あと」
「うん」
「おかえり」
「ただいま」
 久々に聞く幼なじみの声は、随分心に溶け込んでいった。
 そのとき、玄関の扉が開いた。どうやら母が帰ってきたらしく、スーパーの袋がガサガサと音を立てる。
 リビングに入ってきた母は僕の姿を見て目を丸くした。
「あんた……」
「ただいま」
 照れくさくて頭を掻くと、母は何か否定するみたいに首を振った。
「何度も連絡したんだよ」
「ごめん、仕事が忙しくてさ。悪かったよ」
「そうじゃない」
 母は、沈んだ様子でうな垂れる。
「シノブちゃんが、死んだんだよ」
 何を言っているのか分からず、一瞬間が空く。
「何言ってんの、シノブなら」
「死んだんだよ。半年前に」
「悪い冗談も大概に……」
 母はとても嘘をついているようには見えず、その物言いも真に迫っていた。
「本当に?」
 母は黙って頷く。
 僕は背後にある壁を見た。
 ざらついた、無機質な壁の向こうにシノブの姿が見えた気がした。

     

「あら、秀介君」
「おばさん。お久しぶりです」
 久しぶりに会ったシノブのおばさんは、随分やつれていた。顔にクマが出来ており、疲弊しきっているのが見て取れる。それだけで、母の言葉が真実だと分かった。
「母から聞きました。その、なんて言うか……」
「良いのよ。無理に言葉にしないで」おばさんは弱々しい笑みを浮かべる。「上がって行って。秀介君が来てくれたらきっとシノブも喜ぶわ」
 玄関を上がると大きな冷蔵庫と真新しいキッチンが目に入った。こんなもの前はなかった。買いかえたのだろうか。よく見ると色々様変わりしている。テレビも、随分と新しくて大きなものになっていた。
 このアパートは隣りの家と間取りが左右対称になっている。リビングから繋がる、ふすまで締め切られた部屋。この向こうに、シノブの部屋がある。
「シノブが死んでね、少し模様替えしたの。気分だけでもどうにか変えなきゃって思って」
 おばさんはそう言いながらリビングにある仏壇の前に座った。飾られた遺影は二つになっていた。シノブの父親と、シノブの遺影。実際に目の当たりにして、動悸がした。
「ほら、シノブ、秀介君が来てくれたわよ」
 おばさんは鈴(りん)の音を鳴らす。チーンと、間延びする音が部屋に響く。
「シノブは……なんで?」かすれた声が出た。気付かないうちに、手に汗が滲んでいる。
「警察の人は、事故死だろうって」
「事故……」
「あの子の好きな公園あるでしょう? アルバイト終わりにあの公園に足を運んだみたい。あそこ、景色が良いから少し眺めようと思ったんでしょうね。でもその日は雨が降ってて、足を滑らせて……それで」
 おばさんは声を震わせ、うな垂れた。きっと事件の事を思い出すたびに涙を流していたのだろう。もう何ヶ月も。
「すいません。葬式の手伝いも出来ずに」
「いいのよ。秀介君が気に病むことないわ。町内会の人だって手伝ってくれたし、こうして来てくれただけでも十分よ。シノブだってきっとそう思ってる」
 おばさんと入れ替わりに、線香を上げた。仏壇に飾られたシノブの遺影には、大学時代に撮ったであろう写真が使われていた。髪を茶色に染めていて、今時のどこにでもいそうな若者だ。朗らかなその笑顔を眺めていると、死んだとはとても信じられなかった。こうして仏壇を前にしてもまるで実感がわかない。
 シノブが亡くなったのは丁度今年の始め頃だったらしい。そういえばその時期に母から度々電話があった。一度でも電話に出ていたら、せめて葬儀には出られただろう。面倒くさいと無視していた自分の愚かしさが恨めしかった。
「おばさん。シノブの部屋、見てもいいですか」
「ええ、構わないわよ」
 ふすまを開けると、見慣れた部屋が広がる。カーテンは締め切られており、机やベッドの上に少しだけ埃が積もっていた。それ以外は、いつものシノブの部屋だ。生前と何も変わらない。細かな遺品もそのままだった。
「あの子の家具、捨てられないのよ。掃除すると思い出しそうだから、あの子と過ごした日々の事」
 おばさんは悲しげな笑みを浮かべる。
「シノブね、家から出て行きたがってたの。就職したら秀介君みたいに都心で働きたいって」
「あいつがそんな事を?」
「直接言われたわけじゃないけどね。あの子自分を押し殺すところがあるから。でも分かるわよね、親子なんだから。多分あの子、秀介君を追いかけたかったんじゃないかしら」
「僕を?」
「あの子の先にはいつも秀介君がいた。あの子の生きる道標はあなただったのよ」
 僕は部屋に入るとベッドの側面にある壁を撫でた。この壁の向こうは僕の部屋だ。そっとシノブの名を呼んでみたが、返事はない。
 先ほどシノブと行った会話。あれは決して夢ではなかった。
 じゃあ一体、あれはなんなのだろう。
 一人の魂が、壁に取り込まれる。そんな現象が起こる可能性について僕は考えた。

 家に帰ると母が心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
「あんた大丈夫かい? 顔色悪いよ」
「大丈夫。ただ、ちょっと休みたいかな。帰ってきたばかりで疲れてるし」
「じゃあ晩御飯出来るまで少し寝ときな」
「そうする」
 部屋に入るとふすまを閉めて電気を消した。窓を開けると風が入り込み、風鈴の音が優しく響く。雲は依然として紅く染まっているが、太陽はとっくに沈んでしまいその姿はない。ベッドの上に倒れると身体が沈みこんだ。目を瞑り、深く溜息をつく。
 久しぶりに帰省したら幼なじみが死んでいた。
 家に行くと、やつれたおばさんの姿と仏壇に飾られた死の余韻があった。
 帰ってきたと思ったら最低の事ばかりだ。正直混乱しているし、全然現実味がない。
「シノブ」
「何?」
 この声が、いつも通りの呑気な声が、僕に全く彼女の死を感じさせてくれなかった。
 やっぱり、夢ではないのだ。

 シノブは僕と二人きりの時だけ返事をしてくれた。母がいるときに話しかけても何の反応もない。母が出かけると、「ねぇ秀介」と話しかけてくる。会話している最中に母が帰ってくると突如として返事が途絶えた。
 シノブが僕以外の人間に声を聴かれる事を恐れているのか、それとも他に理由があるのかは分からなかった。僕はただ『そういう物』として受け止めるしかない。
 地元の友達とは全く遊ぶ気になれず、僕は毎日家で母がパートに行く間、シノブと会話することにつとめた。彼女との会話は取りとめがなく、時々僕は彼女が死んでいると言う事を忘れそうになった。
「ねえ秀介、こっちにはいつまでいるの?」
「あと三日ってところかな。一週間盆休みで貰ってるから」
「じゃあ今年も花火見れるね」
 盆に実家に帰ると、いつもシノブと花火大会を見ていた。ベランダに出ると建物の隙間から丁度花火が姿を現し、それをビール片手に二人で眺めるのだ。
 盆に眺める花火大会は、いつしか恒例行事になっていた。何も言わなくてもシノブはその日の予定をちゃんと空けているし、僕もそうだった。
「明日だっけ、花火大会」
「そだよ」
「じゃあまたベランダでビールでも飲みながら眺めるか」
「いいねぇ。賛成」
「もう完全におっさんだな、お前」
「せめておばさんって言ってよ。こっちは華も恥らう乙女ですよ」
 シノブの笑い声につられて僕も笑った。でも、上手く笑うことが出来なかった。
「……? どうしたの、秀介」
「いや、何でもない。ちょっとね」
「何よ、変なの」
「それよりお前、気づいてないのか?」
「何が?」
「いや、やっぱりいいや」
「どうしたのよ。なんか今日変だよ」
「……かもな」
 お前、気づいてないのか? 自分が死んでるってこと。
 尋ねてしまったらシノブが消えてしまう気がして怖かった。
 彼女が死んで初めて、僕はシノブが自分の心の大部分を占めていたと自覚していた。
「ねえ秀介、仕事って大変?」
「なんだよ、急に」
「良いから。わたしって今年で大学卒業じゃない。色々聞きたいのよ」
「仕事……ねぇ。まぁそれなりに大変だよ。何せ一年も帰ってこれないくらいだ。最初は慣れようとするだけであっという間に日が過ぎて行くさ」
「実家から通える場所で就職って出来るかな」
「どうだろうね。今は就職も厳しいから、あまり地域で限定しないほうがいいかも。地域で限定しすぎると、仕事内容に目が行かなくなるから。……シノブは地元就職が良いのか?」
「わたしが出て行ったらお母さん一人になっちゃうしね。それに最近は生活も苦しそうだったから……。しばらくは私が稼いでお母さんを助けようかなって」
「そっか」
「でも、ちょっとだけ都心の方にも興味があるんだ」
「一人暮らしは大変だぞ?」
「一人じゃないよ。あんたがいるじゃん」
 シノブは多分、自分が死んだ事を自覚していない。その事が余計に僕の胸を締め付けた。

     

 次の日、久々に街の中を歩いた。見慣れた商店街、スーパー、神社、公園。どこもあまり変わらず、懐かしさがそこら中に漂っていた。思い出が多い街だ。強い日差しとうだるような暑さの中で蝉の声がこだまする。
 密集した住宅街を抜けるとやがて駅前の広場へ辿り着いた。駅のすぐ横には山際へと続く狭いトンネルがあり、そこを抜けると坂の上に公園が見える。シノブが死んだ公園だった。
 景色の良い公園で、昔からシノブはこの公園からの眺めが好きだった。悩みがあるとよくここから景色を眺めるような奴だった。
 シノブが落ちた場所はすぐに分かった。手すりに『落下注意』と書かれた張り紙がされており、傍には花が置かれていたからだ。下には前までなかった落下防止の網があり、まだ作られて間もないのが見て取れた。眺めが良い分、高さもある。風も強く、ボーッとしていると落ちそうになる。怪我ではすまないだろう。手すりは僕の腰くらいまでしかなく、落下してもおかしくない。むしろ今まで誰も落下した人がいない事の方が驚きだ。
「何で最初がシノブだったんだろうな」
 言っても仕方ないことなのに、つい口に出してしまう。
 一望できる街の情景は美しく、真夏の太陽の光を一身に受けていた。抜ける風は吹き出た汗を緩く乾かせ、体内の熱を吸い取ってくれる。うっそうと生いしげった葉が日光を反射し、妙に輝いて見える。
 事件のあった当日、天気は雨だった。シノブのアルバイト先はこの公園より少し先にある喫茶店だ。帰る時に通るとは言え、わざわざ雨が降っている公園で足を止めようと思うだろうか。
 公園を出てシノブのアルバイト先まで足を運んだ。店に入ると店長が僕を迎えてくれた。何度かシノブと来た事があったので覚えていてくれたらしい。店長はまだ若い人で、肌は日に焼けており、精悍な顔つきをしている。いかにもスポーツマンと言う感じだ。
 カウンターに座ると、アイスコーヒーを出してくれた。
「シノブちゃんの事、残念だったね。仕事も頑張ってくれていたし、みんなからも慕われていた。本当に惜しい子を亡くしたと思うよ」
「僕はいまだにシノブが死んだと言う実感が沸いてないんです」
「葬儀も出れなかったんだろ? そりゃそうだよ。僕が君の立場でも、多分同じだ」
「葬儀には誰か参加したんですか?」
「臨時休業にしてね、店のみんなで行ったよ。シノブちゃんは本当にこの店の華だったから」
 店長はしばらく店でのシノブの話を聞かせてくれた。彼女がどれだけ一生懸命毎日を生きていたのか、そしてどれだけの人に好かれてきたのか。常連のお客さんの中にはシノブと会話する事を楽しみにしていた人もいたらしい。若い男性のお客さんから手紙を渡されたこともあったと言う。
「それって、ラブレターってやつですか?」
「断ってたけどね。他に好きな人がいるからって」
 そこで店長は顔をしかめた。
「……あぁ、しまった。この話は君にはいわないで欲しいってシノブちゃんに口止めされてたんだった。でもまぁ、もう時効かな」
 昼前になり、店が混み始める気配を見せたので店を出ることにした。
「あ、待ってくれ」
 お会計を済ませたところで店長に呼び止められた。なんですかと振り向くと、彼は店の奥からハンカチを持ってきた。タオル地で出来た、灰色のハンカチだ。
 これ、渡しといてくれないか。シノブちゃんのお母さんに。これは? シノブちゃんの忘れ物だよ。

 午後には家に戻ってきた。母の姿はまだなく、ベッドに腰掛けると声がした。
「ねぇ秀介、今日はどこ行ってたのよ。呼びかけても返事しないし」
「ちょっとね。久々に街を巡ってたんだよ」
「散歩するなら私も連れて行きなさいよ」
「ごめんごめん」こう言うささやかな嘘をつくたびに心が痛んだ。
「それで、どこ巡ってたの?」
「丘の公園あるだろ。そこだよ」
「へぇ、どうしてまたあそこに?」
「ちょっとね。何せあそこには思い出がいっぱいあるから」

 小学六年生の頃、あそこでシノブと喧嘩した事がある。
 当時僕は毎日シノブとあの公園で遊んでおり、それを同じクラスのやつらにからかわれたのだ。
「お前らラブラブだな。いっつも一緒にいて。ばっかじゃねーの」
「うるさい! 別になんとも思ってねーよ、こんなブス!」
 本音ではなかった。ただ、からかわかれてついそう言ってしまっただけなんだ。
 僕のその言葉でシノブは泣き出し、クラスのやつらはビックリして逃げて行った。そのまま僕は何となくシノブに話しかけられるのが躊躇われ、その日は一言も会話せずに家に帰った。どうせ数日経てばいつもみたく話すようになると思ったんだ。
 だけど中学の間、僕はほとんどシノブと会話しなかった。こうして同じアパートに住み、いつでも話できる状態にあるにも関わらず、まるで会話した記憶がない。

「僕ら一時期仲悪かったじゃん。なのにどうしてまた話すようになったんだろうな」
「中学卒業前に、あんたがわたしに謝ってきたんじゃない。あの日のあんたの言葉、一言一句覚えてるから」
「僕、なんて言ったっけ」
「内緒」
「なんだよ、教えてくれよ。ケチだな」
「あんたが記憶力ないのが悪い」
 シノブは壁越しに愉快そうに笑った。彼女が生きているなら、さぞかし悪戯っぽい表情をしているに違いない。
 ポケットに手を突っ込むと、先ほど店長から渡されたハンカチが手に触れた。何気なく取り出す。これが私物なんて、シノブのやつ随分センスがないなと思った。ハンカチをよく見ると中に何か包まれているみたいだった。開いて見てみる。
「何、どうしたの?」
「いや、ちょっと思い出してたんだ。昔二人でネックレス買ったの覚えてる?」
「あぁ、行ったねぇ。結構古い型だったからどこにもなかった。何件も巡って、ようやく見つけたんだっけ」
「お前のおばさんにプレゼントしたよな」
「随分懐かしいね」
「あのネックレス、おばさんよく首にはめてた」
「気に入ってくれてたからね。宝物にするって言ってくれてた。どこか出かけるときはいつもはめてたよ」
「今考えたら何で僕まで一緒に買いに行ったんだろうな」
「素敵な幼なじみの為なんだから当然じゃない。何も不思議じゃないわ」
「よく言うよ。妄言も大概にしてくれ」
 僕はハンカチに包まれたネックレスを見て、少し笑った。

     

 シノブの家を再び訪ねたのは花火大会が始まる少し前だった。チャイムを鳴らすとおばさんがやつれた顔で僕を迎えてくれた。
「そう言えば秀介君、毎年シノブと花火大会見てたのよねぇ」
「ええ」
 僕は仏壇の前に座ると、静かに鈴(りん)を鳴らした。線香に火をつけ、灰の中に刺す。
「それで、今日はどうしたの? わざわざ拝みにだけ来たとは思えないけれど」
「はい。少しお話がありまして」
「話?」
 不思議そうなおばさんを尻目に、僕はリビングの机にポケットの中のものを置いた。
「これは……ハンカチ?」
「開けてみてください」
 おばさんが恐る恐る折りたたまれたハンカチを開いていく。中にはネックレスが入っていた。
「これは、私のネックレス? どうしてこれをあなたが?」
「シノブのアルバイト先の店長から預かったんです。おばさんに渡してくれって」
「あの子のアルバイト先に……。どうしてかしら。引き出しにしまってあったはずなのに」
「正確には、これはおばさんのネックレスではありません。全く同じ型の、別のネックレスです」
「別の?」
「僕が昔、彼女に上げたネックレスなんです。これは」

 中学三年になり、後輩としてシノブが進学してきた。その時の僕たちは互いを敬遠していて、廊下ですれ違っても視線すら交わさなかった。
 シノブは僕に酷い事を言われたと言う記憶があったし、僕もシノブに酷い事を行ったと言う負い目があった。帰り道も一緒で、朝の登校ではタイミングが被る事もしばしば。気まずくて仕方がなかった。
 このままではいけないと思った。でも僕にはきっかけがなかった。
 十二月になり、いよいよ高校受験間近となったときだった。帰り道の商店街で、シノブを見かけた。彼女はアクセサリーショップのショーケースを眺めており、その視線の先にはあのネックレスがあったのだ。琥珀色のネックレス。
 チャンスだと思った、ひそやかに。僕は意を決して店の中に入り、彼女に話しかけた。
「欲しいの? それ」
 シノブは一度僕をいちべつして視線を戻し、次にびっくりした顔で二度見してきた。何でこいつがとでも言わんばかりの表情で、笑いそうになった。
「欲しいなら買ってやるよ」
「いらない」
 彼女はじいとショーケースを見つめて言う。
「じゃあ僕が勝手に買ってやる」
「やめてよ。せっかくのネックレスが穢れる。大体、何であんたが私のネックレスを買うのよ。嫌がらせ?」
 少なくともまだ彼女のネックレスではないが、そこはあえて突っ込まないことにした。
「お詫びだよ。三年越しのお詫び」
「物で釣られるもんか」
「釣られなくたっていいよ。何なら捨ててくれたって良い。でも、僕は謝りたいんだよ。この三年間で感じたのは、シノブに一緒にいて欲しいって事なんだ。だから例えもう話さないままだとしても、何の詫びもないまま終えるのは嫌だ」
 僕が言うと、しばらくシノブは不機嫌そうに黙り込み、そっと口を開いた。
「……頂戴」
「えっ?」
「このネックレス、買ってくれたら許してあげる」
 当時中学生だった僕にはかなり高価な代物だったが、貯めていた小遣いをはたいてどうにか購入した。

 シノブとネックレスについて話していて全て思い出した。なんだかむず痒い記憶だったからなるたけ考えないよう努めていたらいつの間にかすっかり記憶が曖昧になっていたのだ。
「僕は、シノブがあのネックレスを着けているのを見たことありませんでした。多分おばさんに遠慮したんでしょうね」
「遠慮?」
「おばさんもこれと同じネックレスを持ってますよね? あいつ、自分と同じネックレスをおばさんにプレゼントしたんです。買うのに僕も付き合いましたから良く覚えています。多分、同じネックレスを持っているって事をおばさんに悟らせたくなかったんでしょう。おばさんが気を使わなくてもすむように」
「そう、あの子が……」おばさんはそっと溜息を吐くと、ふと首をかしげた。「でも、それとあの子のアルバイト先にネックレスがあった事と、どう関係するの?」
「このハンカチ見てください。何か違和感を感じませんか?」
「違和感?」
「これ、男物なんです。僕がシノブにあげたネックレスは、このハンカチに包まってました。それで考えたんです。このハンカチは一体誰のだろうって」
 そこでおばさんはハッとした。思い出したようだ。
「亡くなったおじさんのハンカチですよね、これ」
「ええ。たしかこんな柄のハンカチ、お父さん持ってたわ。もう何年も前だからうろ覚えだけど」
「シノブにとって、このハンカチは宝物だったんです。そして、このハンカチに包まれたネックレスもまた、宝物だったんだと思います」
 シノブはネックレスを着けることはなかった。その代わり、彼女は肌身離さずこのネックレスを持っていた。亡くなった父親のハンカチと共に。
「ここからはあくまで僕の推測ですが、シノブが亡くなったのはこのネックレスが原因ではないのかと僕は思うんです」
「どういう事?」
「このネックレス、シノブがバイト先においているユニフォームから出てきたそうです。右のポケットから」
 事故のあったあの日、彼女はバイトを終えハンカチがない事に気付いた。いつも肌身離さず持っていたものだからなくなった事に割と早期の段階で気付いたのだろう。ただ、無意識のうちにユニフォームのポケットに入れた事を忘れていた。その間の抜けた感じも、あいつらしい。
 来た道に落としてないかと探し歩いていたシノブは念のため公園にも足を踏み入れた。道に落としたハンカチが風で流されたのかもしれないとでも考えたのだろう。公園を探す中で、彼女は例の場所へと足を運んだ。
 今日、公園に足を運んだ時、葉が太陽の光を強く反射していた。だとすれば、雨露に濡れた葉が街灯を反射し、輝いて見える可能性はなかっただろうか。
 シノブは手すりの遥か下で輝くそれをネックレスかもしれないと思い、覗き込んだのだ。
「ずっと気になっていたんです。どうしてシノブが雨の日にわざわざ公園に足を運んだのか。でも、これでようやく謎が解けた気がしたんです」
「大切にしていた物のために命を落とすなんて、やるせないけど、なんだかあの子らしいわね」
「あくまで、僕の推測ですけどね」
 おばさんはゆっくりと首を振る。
「ううん、そう言うことにしておきましょう。あの子が死んだ事実は変わらないけど、原因が明らかになって何だか少しだけ報われた気がするの」
「恨んでますか、僕のこと」
 間接的にとは言え、シノブが死ぬ要因となったネックレスは僕から贈られたものだ。
「恨まないわよ」おばさんは泣き笑いみたいな顔をすると、机上のネックレスをそっと僕に差し出してきた。
「あの子がそれほどまでにして大事にしていたネックレス、それと同じ物を私にプレゼントしてくれた。それが分かっただけで、私は充分幸せだったんだって思ったわ」
 おばさんは窓の外を見る。
「あの子が家を出たがっているって分かった時、この生活に嫌気がさしたんだって思ったの。家族二人、支えあって暮らしてきたつもりだったけど、あの子には我慢ばかりさせていたから。夫を亡くして、娘にも捨てられるんだって」
「積み立てていたシノブの結婚資金で家具を買い揃えたのも、それが原因ですか」
「あら、ばれちゃったのね」彼女はバツの悪そうな顔をする。「色々重なってるところでシノブの事故があって、これまで頑張ってきた事が急に馬鹿馬鹿しく思えちゃったのよ」
 でも、全部私の勘違いだったのね。おばさんは胸を撫で下ろすように呟いた。心から安堵したとき、人間はこんな表情を浮かべるのではないだろうか。
「秀介君、このネックレスは、あなたが持っていなきゃ駄目よ」
「いいんですか」
「ええ」
 おばさんは立ち上がると、引き出しからよく似たネックレスを取り出した。すっかり色のくすんでしまった、安っぽいネックレス。
「だって私には、シノブがくれたネックレスがあるもの」

     

 部屋のベッドに寝転がると、床がミシリと軋んだ。母はまだ帰っておらず、僕は電気もつけずに手に持ったネックレスを眺めた。
「ネックレスなんて、お前にあげなきゃよかった」
 僕が言うと、壁の向こうから「はっ?」とシノブが声を上げる。
「何? 何の話?」
「中学の頃僕がお前に上げたネックレスだよ」
「なんでそんな酷いこと言うのよ」
「このネックレスのせいで、お前が死んでしまったんだから」
 僕の言葉に、シノブは黙った。
 どちらが良いだろうかと考えていた。僕がこのネックレスを上げなければ、恐らく彼女は死ななかった。もう二度と会話することはなかったかもしれない。でも、彼女が死ぬこともなかった。
「なぁ、シノブ。お前はもう死んでるんだよ、半年も前に事故で。多分、このネックレスを探して」
「……うん、知ってた」
 僕は壁を見た。
「なんとなく分かってたんだ。自分の身体がおかしいって事。五感も、心も、まるで平坦でさ、眠くもならないし、お腹も減らないんだよ。まるで押入れの中にずっと閉じ込められてるみたいに真っ暗で、何も聞こえないんだ。……でも、あんたの声だけは聞こえた。真っ暗な中にスッと光が射すみたいに、それだけで心が安らぐのが分かったんだ」
「うん」
「最初は、病院にいるのかなって思った。いつもの公園で、ネックレスを探してたんだよ。それで、高台から落ちて、身体全体が動かなくなってしまったんだって」
「うん」
「あんたと話してるうちに、私はどうやら家にいるらしいって分かった。いつもみたいに壁越しにあんたと話してるんだって」
「だから花火を一緒に見ようなんて言ったんだな」
「わたしの状況に気付いてないんだと思ってさ。あんた馬鹿だから」
「うるさいよ」視界がにじんだ。
「そっか、わたし、死んでたんだね」
「うん」
「もう一緒にビール、飲めないんだね」
「……うん」
「ねぇ秀介、わたしはあんたにネックレスをもらった時心底嬉しかったんだよ。あんたと会話しないまま過ごす人生なんて、多分酷く空虚で寂しい物になってた。高校に行く時も、大学に行く時も、私の目指す先には常にあんたがいたからね。だからネックレスを上げなきゃ良かったなんて、そんな寂しいこと言わないで欲しい。これはわたし達の絆なんだよ」
「そうだな、ごめん」
 その時窓の外が強く光り、ネックレスが虹色に輝いた。窓の外で花火が上がっていた。花火大会が始まったのだ。小さなボロアパートの一室から見える花火は絶景で、開いた窓から音の振動まで伝わってきそうだった。
「秀介、もう花火大会始まってる?」
「いま始まったよ」
「今年も、綺麗?」
「例年と変わりないさ」
「そっか。じゃあ、わたしも花火見えてるよ。あんたと一緒に見てるんだ、この壁越しに」
「うん」
 何発も花火が上がる。夜空を彩っていく。壁越しの中で、何となく終わりのときが近いのが分かった。
「シノブ」
「うん?」
「僕はずっと、君が好きだったんだ」
「遅いよ、馬鹿」
「ごめん」
「まぁそう言うところ、嫌いじゃないけどね」
「あんがと」
「あ、秀介」
「なんだよ」
「私の机の二段目に、CD入ってるから」
「CD?」
「見れば分かるよ。向こうに帰る前に見てみて」
「分かった。そうする」
「それとさ、秀介」
「なにさ」
「わたしもずっと──」
 そこでシノブの声は聞こえなくなった。空に何発も花火が連続して上がり、まばゆい光と大きな音で世界が埋め尽くされた。
 それ以後、もうシノブの声が聞こえることはなかった。

 冬になった。年末の仕事も一段落し、正月は何とか実家に帰れる見通しが着いたときに母から電話があった。
「母さんもこっち来たら良いのに」
「何言ってんの。町内会で忙しいんだから行ける訳ないでしょう? 明日も商店街の皆さんと年末のイベント準備をしなきゃなんないんだよ。いいかい、あんた正月はちゃんと帰ってきなさいよ」
「はいはい、分かったよ。……そう言えば、お隣のおばさんは元気にしてる?」
 母は少し間をおいたあと、柔らかい声で「元気でやってるよ」とだけ答えた。それだけで何となく分かった。深い説明などなくても大丈夫なんだと僕を安心させてくれた。
「帰省したら挨拶がてら拝みに行っときなさい」
「そうする。じゃあ、また」
 電話を切るとふと窓に目が行った。曇ったガラス越しに、かすかに雪が降っているのが分かる。
「寒いと思ったよ」
 僕はコタツに入るとおもむろにコンポの電源をつけた。そういえば今どのCDが入ってたっけ。考えていると曲が流れ出した。どこか懐かしいバンドソング。リンドバーグだ。コタツに身体を入れ込み、耳を傾けていると不意に聞き覚えのある曲が流れてきた。
 曲名は確か『君のいちばんに』。

 もうすこしだけ もうすこしだけ このままで ここにいて 感じていたい

 シノブの机の引き出しに入っていたアルバム。本当に律儀なやつだ。死んでからも人に貸すCDを覚えているなんて、心底馬鹿だ。
 でも、この曲を聴く度に僕は彼女の事を思い出す。
「泣く暇くらい与えて欲しかったよな」少しぼやいてから鼻水を啜った。
 二十年近く、僕は一人の女の子が好きだった。よく笑い、よく泣き、よく怒る子だった。僕らは薄っぺらい壁一枚を挟んだ、そんな関係だった。
 もう壁越しに彼女の声が聞こえる事はない。今、僕が住んでいる家は音など隣に漏らさないような中身の詰まった壁に包まれている。
 時間が経つにつれ、思い出は風化していく。いつしか自分が予想していた女性とは全く違う人と恋に落ち、結婚する事だってあるかもしれない。
 だけど、きっと彼女のことは忘れない。
 この曲と、ネックレスを見るたびに、彼女の事を思い出す。
 そしてその度に、僕は懐かしさに目を細め、そっと微笑むのだ。

──了

       

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Neetsha