Neetel Inside 文芸新都
表紙

人と妖怪シリーズ
【便所飯レクイエム】

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 便所飯が僕の日課だ。
 便所飯とは文字通り便所で飯を食う行為のことである。友人のいない大学生が一人ぼっちで昼食を取る際、周囲の視線から避けるために使う禁じ手だ。
 便所飯にはいくつの弊害がある。その中でも大きな物といえば臭いだろう。例えば隣の個室で用を足している人がいるとして、脱糞音は音楽プレーヤー等を使用しイヤホンをすればごまかせるが、臭いだけはそうは行かない。特にお昼休みの後半はトイレの使用率が激しくなるので、弊害はより顕著になる。それに、便所飯をしている事を悟られるわけにもいかない。
 その為僕の様な便所飯を喰らう者はいち早くトイレに駆け込み、いち早く出て行く必要がある。全ては行動の速さとタイミングが重要だった。
 昼休み、講義終わりのチャイムが鳴ると僕の勝負は始まる。僕はサッと立ち上がると、早歩きで十三号館のトイレに向かった。十三号館は僕の居る四号館と隣接しており、主に法学部の院として使用されている建物だ。新設されたばかりなので内装が綺麗なのが特徴である。もちろん、トイレも。
 大学に入学して三年間、今まで様々なトイレを使用してきた。しかしこの十三号館のトイレに勝る物はなかった。
 十号館の経済学部棟のトイレ。十三号館に負けず劣らずの清潔度を保ってはいるが、いかんせん学生が多いのが困りものだ。それにトイレに行くまでに多くのカップルや、男女混合で行動する学生を目にする。彼らを目撃した後に自分のやろうとしている行動に目を向けてしまうと精神的に落ち込み、便所飯どころじゃなくなる。
 三号館のトイレ。汚く、異臭が消えない。
 一号館のトイレ。どうやらここは一部の学生の中では『スポット』となっているらしい。この間カップルがトイレの中で『いたしている』現場に遭遇して酷い目にあった。
 人の姿がなく、静寂に包まれており、清潔で、基本的に臭いもしない。おまけに他の学生に認知すらされていない十三号館のトイレは、僕の様な便所飯をする学生にとっては天国とも言えた。高確率で個室が開いているのだ。
 いつもの様に早歩きで階段を降り、廊下を歩く。四号館の廊下は十三号館と直通していて非常に便利だ。目的のトイレはすぐそこ。扉を開け、中に入る。よし、今日も個室は使用されていない。
 僕は個室に入ると鍵を閉めた。やれやれ、これでなんとか一息つけるな。安心して便器に向き直る。
 ぎょっとした。
 網タイツをはき、ガーターと女物の下着を身につけた、禿の太ったおじさんがそこにいた。顔には目元だけ隠れる仮面を着けている。仮面舞踏会で使われる様なやつだ。
「よう、今日も来たな」
 おじさんはよっこらせと立ち上がると、さぁ座れとばかりに脇にどいてくれた。腰に手を当て、得意げに僕を見る。
「喰えよ」
 僕は叫んだ。

 おじさんは自らの名前を『便所神』と名乗った。文字通り、便所に住まう神様と言うわけだ。古来、便所が出来た時から存在し、全国各地の便所情報を掌握しているらしい。
 僕はその様ないきさつを狭い個室の中で聞かされた。その時僕は個室の鍵を開けようと必死になっていたわけなのだが、不思議な事に鍵が開かなかったのである。
 彼はもがく僕を見て「便所の中なら俺は無敵だ」とのたまった。どうやら鍵が開かないのはおじさんの力らしい。
「便所の神様って言うのは生まれた時からそんな格好をしているんですか」
 その質問におじさんはどや顔で答えた。
「これはな、趣味だ」
 一瞬本当に神かと信じかけたが、やはりただの変態である。僕は再びドアの鍵を開けようと躍起になったが、やはり開かない。と、不意に下腹部に激痛が走った。まるで大きな爆弾が今にも爆発せんとするばかりである。下腹部の痛みは物凄い勢いで入り口まで迫ってきた。僕は隣の個室に移ろうともがく、しかし鍵は開かない。
「俺の能力についてお前に知っておいてもらおうと思ってな。俺は人の便意を自由に操ることが出来るんだ」
 どうやらこの急激な痛みもこのおじさんの仕業らしい。なんて事を。
「遠慮することはない。さぁ、どかんと一発便器にかましてやれ。俺が見守っていてやるから」
 お前が居るから我慢してんだよこっちは。
 おじさんは僕に早く用を足すよう促す。しかし僕は首を振った。
「今ここで出してしまうと臭いがでます。僕は、僕は昼飯をまだ食べていない」
 臭いの充満した個室で弁当などごめんである。それを聞いたおじさんはハッとした。
「そうか……そうだったな」
 おじさんは申し訳なさそうに視線を逸らす。すると下腹部の痛みは急激に引いていった。不思議に思っていると、おじさんは言った。
「さっきまで最高に大がしたかったのにいざ便所に入った途端引っ込んでしまう事あるだろ? それも俺の仕業だ」
 随分と迷惑な奴だ。そうは思うが、ここまでされてはこの目の前の変態が神様だと信じざるを得ない。
「……すまない、やっとこさお前と話せるとなって浮かれていたのかもしれないな」
「やっとこさって、おじさんは前から僕の事を知っていたんですか?」
「神様だからな。便所を使う奴のことは誰でも知っているさ。例え女子だろうとな」
 恐ろしい話だ。もしこの人の話が本当なら、世の女子達は毎日自分のトイレ姿をこの訳の分からないおじさんに見守られていると言うことになる。
 僕がドン引きしている事にも気付かず、おじさんは続ける。
「お前の事は前々から着目していたよ。全国各地で便所飯をするやつは少ない。便所で飯を食う行為だけでも割と印象に残るのに、お前と来たらその中でも群を抜いて飯の食い方が美しいからな。俺が見た中で、お前はベスト便所飯ニストだよ」
 ナンバーワン便所飯プレーヤーとして認められても微塵も嬉しくなかった。
「それで、どうして急に僕の目の前に現れたんですか」
「急にじゃない。俺は以前からお前が便所飯をする姿を見守っていた。お前なら俺の相方になれると、そう思ったわけだ」
「なんなんですか……相方って」僕は便所飯をしたことを心底後悔した。
「聞いたことはないか? ある日突然神様と名乗る女の子と出会ったりする話」
「うん? ……まぁアニメや小説の中ならありますけど」
「そうだろう。実はアレはな、神様協会と言うところに申請を出しているんだ」
「神様協会」
 その単語を繰り返すと、おじさんは頷いた。関係ないがこの人の姿はマウスボールを加えると完成する気がした。SMクラブにいそうだ。
「神様が様々な事柄を書類申請する場所、いわゆる神様の役所だ。突然目の前に神様と名乗る女の子が出てくる話は、全て神様協会の許可を得ているんだ」
「そんな許可いるんですか」随分事務的な話である。それにしても物語の中の話と現実を混同させているこのおじさんの理屈は理解不能である。
「もちろんだ。もし神が好き勝手に自信の能力を使い出したら世界の秩序と言うものが壊れてしまうからな。相方申請と言うのがあり、人と出会う女の神様は皆そこで申請しているという話だ」
「はぁ、そうなんですか」
 割とどうでもいい話だ。そもそもこんな変質的な格好をした人間が何を言おうと説得力なぞ存在し得ない。ただ、そこで先ほどの僕の質問に帰結することに気付いた。
「なるほど、つまりおじさんは僕を相方として書類申請したと」
「そう言うことになるな。相方申請をする神様は多くてな。二年前に申請したんだが順番待ちだったんだ。そして今日、ようやく書類が受理されたのさ」
 そして僕の目の前に姿を現した。
 ある日突然神様と名乗る美少女が目の前に現れたらテンションも上がるという物だが、こんな珍妙な格好をしたおじさんが出てきた日には人生最悪の日となることうけあいだ。そもそも二年前から目をつけられていたのが恐ろしい。丁度僕が便所飯を始めた頃じゃないか。
「まぁでもこうしてようやくお前と出会えたから、俺も便所の外に行けるというわけだな」
 僕は眉をひそめた。
「どういう事ですか」
「今日からお前は俺の相方だ。俺はお前の守護神のような物になったというわけだ。俺は便所を守る義務がある。それゆえに今まで便所しか移動が出来なかった。しかしお前が相方となることで、お前の傍にも移動出来るようになったのさ」
 どういうわけだ。理屈もその相方システムもよく分からない。
 ただ分かったことがあるとすれば、おじさんが移動できる媒体として僕を選んだと言う事と、もう一つ。
「つまり今日からお前は便所みたいな物になったと言うことだ」
 僕の人生がより一層最悪になったということだ。

     

 講義室で座っていた。一号館の大講義室。山際にある建物で、高低差のあるうちの大学の中では最も高い場所となる。その後ろの目立たない場所に僕はいた。横に、網タイツとガーター、女性物の下着を身につけている怪しげなおじさんも座っていた。
「しかし退屈な講義だな。せっかく外の世界を拝んだのにこれじゃあ意味がない」
 おじさんはフワリと浮かび上がると空中に寝転がった。この講義室に来るまでに分かったが、この人の姿は僕にしか見えないようだ。
「文句を言うならトイレに戻ったらどうですか」
 周りの人に悟られないように、僕は小声で言った。おじさんと話していても、周囲からは僕が独り言を言っているようにしか見えない。外での会話はなるべく避けたい。
「なんで午後の昼下がりに便器を前にしなければならないんだ。それは違うだろう」
 何が違うのかはまるで分からんが、なんだかんだ文句を言いながらもおじさんがはしゃいでいる事だけは分かった。
 黒板の前には年老いた老人が立っており、先ほどからなにやら眠くなる呪文を唱えている。この講義は出席も取らず、テストも簡単なので別に出なくても良い。だが四限が入っているためこの講義をサボってしまうと非常に暇になってしまう。
 寝てしまおうかな。そう思っていると前の席の後頭部に目が留まった。
 あれはそう、同じゼミの佐伯さんじゃないか。
 佐伯さんは黒髪ロングヘアーが眩しい美女だ。そのスタイルや良し、性格や良し、頭脳や良し、と正に良いところだけを凝縮したような人間である。
 僕と彼女は同じゼミだった。三年間キャンパス内に友達どころか知り合いすらいなかった僕に親しげに話しかけてくれる時点で彼女がいかに心の綺麗な女性か把握できる。彼女は僕の憧れだった。
 佐伯さんは学部の友人らしき女性と講義を受けていた。佐伯さんの友人なら彼女もさぞかし性格が良いに違いない。
 佐伯さんは一輪の花だと僕は思う。ただ、そこらにある花とは違う。普通の花は様々な虫にその蜜を吸われてしまうが、佐伯さんと言う花はなんと穢れなき蝶しかその蜜を吸う事ができない。それ以外の汚れた虫が近寄ると花のあまりの美しさに浄化され、存在が消えうせる。
 僕が佐伯さんに見惚れていると、不意に汚物が上空からフェードインしてきた。
「なんだ、あの女の子が好きなのか」
 汚物はその汚い視線を佐伯さんに向ける。やめろ。
「同じゼミの子です。好きとか、そう言うのじゃありませんよ」
「何を言う。そんな目をして見つめているのに特別な感情がないなど、誰が信じるんだ」
 さすが神様とだけあって観察眼が鋭い。僕はぐっと言葉に詰まった。
「恋か、いいな、俺も若い頃は恋をしたもんだ」
「便所に巣くう神様でも恋をするんですか」
「あたりまえだろう? 彼女の名前は花子と言ってな、それはそれは美しい女性なんだよ。あの子を見ていると思い出す」
「その花子さんってひょっとして女子トイレの三番目の個室にいませんでした?」
 おじさんは目を丸くした。
「よく分かったな。どうして知っているんだ?」
「それ自縛霊って言うんですよ」
 僕は溜息をついた。と、ふと佐伯さんがこちらを見ている事に気がつく。驚いて思わず姿勢を正した。佐伯さんは僕が気付くと軽く微笑んで手を振ってくれた。僕も手を振る。
「可憐だ……」
「お前とは不釣合いそうな良い子じゃないか」
「うるさいな!」
 思ったより大きな声が出て自分でも驚いた。周囲の視線が僕に集まる。教授も驚いて講義を中断した。
「どうしました?」
 マイク越しに教授がそう尋ねてくる。僕は顔が熱くなるのを感じた。佐伯さんも見ている。
 僕は意を決して立ち上がると、後ろの方にいるギャル三人組を指差した。
「お、おおおお前らがうるさいから講義に集中できないじゃないか。不愉快だ、帰る!」
 適当に言いがかりをつけた僕は筆記具を鞄の中に詰め込むと、逃げるように教室をでた。

「最悪だ……」
 教室を去った僕は学内にあるファミリーマート前の階段で頭を抱えた。
「まさか叫ぶとはな」
 僕はおじさんを睨みつけた。おじさんは僕の視線に気付くと「おぉ、こわ」と体を震わせる。ムカつく。
「佐伯さんにキモイって思われてしまった……」
「大丈夫だ、お前は俺よりはキモくないって」
 当たり前だ。女性物の下着をはいた中年男性より気持悪かったら僕がこの世界で生きることは至極困難となる。
「次の講義までまだ時間あるのに、これからどうしよう……」
「暇なら図書館に行ってくれないか? あるだろう? 大学内に図書館くらい」
「図書館? まぁあるにはありますが」
 訳が分からない。図書館など行ってどうするのだ。
「まぁ詳しくは行ってから話すよ」
 さっきの出来事があったばかりなので素直にこの変態の言うことを聞くのも癪だったが、いかんせん他にやることもない。嫌々ながら僕は図書館に向かうことにした。
 図書館は大学入り口の近くにある。大きくて、他の大学に比べ蔵書も多いとゼミの教授が言っていたのを思い出す。
「実は俺が相棒を必要としたのにはな、ちょっとした理由があるんだ」
 図書館の入り口を通った時におじさんは口を開いた。
「調べたいことがあったんだよ。そのために相棒を必要とした」
「調べたいこと?」
 便所の神様は全国各地のトイレの中しか動くことができない。相棒を選ぶことで初めて便所外へ移動が出来るとおじさんは言っていた。
 トイレの中では決して分かり得ないこと、それを調べたいとおじさんは言う。
「何なんですか、調べたいことって」
「この世界の歴史と、その意味についてだよ」
 おじさんはその格好に相応しからぬ事を口にした。
「世界の歴史?」
「俺は何年も長い間トイレにいた。その間この世界がどうやって移動してきたのか、断片的にだが知っている。もしかしたら普通の人間が知らないような機密まで知ってしまっているかもしれない。トイレと言うのは人間がもっとも油断する場所の一つだからな」
 おじさんはそこで少し胸を張る。着けたブラジャーがミチリと音を立てる。
「だがそんな機密は知っていても、俺が知っているのは所詮『断片』でしかないと言う事だ。俺は全てを知らない。どういう流れで世界が動いたのかが分からないんだ。それはさながら推理小説で事件の内容とトリックは知っているが犯人が分からない状態に似ている。非常に中途半端なんだ」
「だから歴史を知りたいと?」
「俺はまず自分の持つ莫大な情報を整理する必要がある。歴史上の出来事と、情報の整合性をはからねばならない」
「整合性ねぇ」
 なんだかよく分からない話だ。そもそもこんな変質的な格好をした人間に難解な表現は似合わない。とりあえずおじさんは自分の知っていることが歴史上のどの出来事に当てはまるのか、一つ一つ調べていきたいのだろう。
「それでおじさんの目的はその整合性とやらを調べたら全て達成するんですか?」
「いや、それは始まりに過ぎない。そこから俺は、自分が神としてどうあるべきか、この世界における俺の存在意義、お前らの言い方に直すと生きる意味とやらを見つけたいと思っている。何事も考えを得るには知識が要るからな。無知は悪いことではない。だが損ではある。同じ問題でも凡人は二時間かかるが全知全能は二秒とかからないかもしれない。つまり知識って言うのは多く持てば持つほど確実に近道になると言うわけだ」
 見た目に合わず随分と深い考えを持つ変態だ。しかしそこで気になった。
「でも、おじさんの目的が世界の事を良く知ると言うことであれば何で僕を選んだんですか? もっと歴史家の人とか、教授とか、貴重な資料を見ることが出来る人物とか、人選は色々あったでしょう」
「うん、それは俺も考えたさ。だがな、物事には相性と言うものが存在する。相性が良い人間と一緒にいる時ほど俺は力を出しやすい。それに変に権力を持つ人間だとしたら、もしかしたら俺の能力が悪用されるかもしれない。そこらへんも危惧した」
 便意を操る能力などさほど利用価値もない。しかしその事を言うと下痢にされるかもしれないので黙っておいた。
「俺にとって最も都合が良かったのは、暇で、こちらの言うことを聞きそうで、秘密をばらす友達もおらず、勉強もさほどしておらず、性格は心底大人しい、いわゆる陰キャラで、趣味もなく、便所と愛称が良く、便所飯がうまいやつ」
 おじさんは少し間を置いたあと、僕の肩にポンッと手を置いた。
「つまり総じて言えば存在が便所、お前だ」
 僕は振り返るとおじさんに向かって拳をふるった。しかしおじさんは天井近くを飛び、攻撃が届かない。きっと周囲には僕がシャドーボクシングしているように見えただろう。
「まぁそう怒るな、俺の目的を達成したらお前の願いを叶えてやるから」
「願いを?」僕は拳を緩めた。「それは何でも叶えてくれるって事ですか?」
「俺が出来る範囲でな」
 おじさんは頷いた。僕はそれを聞いて肩を落とす。
「どうした、どうしてそんな失望したような顔をしている」
「いくら神様と言えども所詮は便所。お通じをよくするとか、せいぜいその程度の願いしか出来ないと思って」
「失礼な、俺を誰だと思ってやがる」
 おじさんは怒ったように顔を歪めると鼻息をフンッと鳴らした。それと同時に鼻水が飛び散る。汚い。どうやら予想外の出来事だったらしく、おじさんは慌てて丸めたティッシュをブラジャーから取り出すと鼻をかんだ。詰め物をしていたのか、僕は震撼した。
「俺は神だ。全知全能とか不老不死とか死んだ人間を生き返らせるとかお前をお洒落でイケメンにするとか、そんな倫理に反したことはとても出来ないが、それでも結構色々出来るんだからな」
「なんで僕をイケメンにするのが倫理に反するんですか」
 僕はムッとした。おじさんは当然と言いたげに腕を組む。
「世の中には理ってものがあるんだよ。皆顔が良かったらイケメンの価値はなくなるだろ? 陰キャラで不細工な奴がいて始めて世界は回るんだ。つまりそんなスーパーに売ってそうな服装してないで、自分でどうにかしろってこった。まずはユニクロの服を使って、そこからレベルを上げて上手くお洒落になっていくんだよ」
「黙れ変態」
 こんな変態にまさか服装でダメだしを食らうとは。悲しみは海より深かった。
「とにかく俺に協力してくれるのであれば悪いようにはしないよ。今のうちに願いを決めておくんだな」
「まぁ、別にいいですけどね……」
 これだけ何も期待できないのは珍しい。

 四限が始まるまで、ずっと図書館で調べ物をしていた。まずは大雑把な世界の歴史から、アジア史、西洋史、日本史まで。僕はおじさんの命令通りにページをめくり、資料を運ばされ、読めない漢字を読んであげた。漢字くらい読めろよ。
「ふーむ」おじさんはアゴに手を当てて何やら考える。「ふーむむむ」
「あの、いいかげんにしてくれませんか。そろそろ僕も体力の限界です。次の講義も始まるし、今日はこれくらいにしましょう」
「うーむ」おじさんは首をひねる。まるで人の話を聞いていない。何を話しかけても反応がないので、仕方なく僕は取ってきた資料を全て棚に戻した。
 図書館を出て四限目の教室に行くと驚くことに誰もいなかった。もしやと思い確認すると掲示板に『休講』の文字。最悪だ。おじさんはその間も僕の頭上で呻きながらクルクル浮遊しており、鬱陶しい事この上なかった。
 自転車に乗り大学から五分の場所にある自宅へと向かう。小さな学生アパートの一室で、中はそれほど広くない。家に入ると乾いたドアの音と、妙に生活感のない我が家が僕を出迎えてくれた。
「ここがお前の部屋か、意外ときれいだな。神経質そうな男の部屋って感じだ」
 いつの間にか呻くのをやめたおじさんが天井付近を浮遊しながら言う。やはり鬱陶しい。
「なんか悩んでたみたいですけどもう大丈夫なんですか」
「悩んでた? 俺がか?」
「歴史書見てなんか難しそうな顔してましたよ」
 するとおじさんは「あぁ」と納得したように声を出した。
「あれはな、あの書物に書かれていた事が一切わからなかっただけなんだ」
「えっ? それって」
「ああ」
 おじさんは僕の隣に降りてきて僕の肩をぽんと叩いた。
「お前のやったことはまるで無駄だったと言うわけさ」
 僕は台所から包丁を取り出すと掃除機の筒にガムテープで固定し、簡易的な槍を作った。空に逃げてもこれなら刺せる。
「わかった、わかったからその物騒な物をしまってくれ。俺は神様だぞ」
「便所のな」僕は槍を持ってずいとおじさんに迫った。おじさんは一歩距離を置く。「人を下痢にする神様などこの世にいなくてもいいだろう」
「待て、それは違うぞお前、それは待て」
「代名詞が少し不自由なようですね、変態」
「しかたない、わかったよ。お前の願い、何でも一つ叶えてやろう」
「えっ?」
「だから振り回したお詫びだよ。お前の願いを叶えてやる」
「じゃあ出来れば今すぐこの契約とやらを破棄して僕の前から消えて欲しいんですが」
「それはちょっと出来ない相談だな」
「どうしてです? もう目的は果たしたでしょう。歴史を調べて神様としての存在がどうのと言いながら、あまりにも学がなさ過ぎたんですから。あと四百年は便所の中で勉強しやがってください」
「待て、待てよ。俺は初めて便所から外に出たんだ。嬉しいんだよ。外の世界を歩けたんだから。もう少しだけ俺に猶予をくれよ。他の願いなら叶えてやるから」
 必死なおじさんを見て、僕は少し哀れになった。考えてみたらこの人も今まであんな臭い場所に閉じ込められてきて辛い目にあったのだろう。ここで無下に追い返すのは人として失格かもしれない。
 僕は槍を地面に置いた。
「分かりましたよ。じゃあ、どんな願いなら叶えてくれるんです?」
 するとおじさんは「それはな」と口を開いた。その途端彼の口から唾が飛び、部屋のカーペットにかかる。おじさんはブラからティッシュを取り出すと慌てて唾を拭いた。
「さっきのゼミの子とかはどうだ?」
「佐伯さんですか?」ドキリとする。
「そうだ、その女子とお前をくっつけてやろう。どうだ? 文句ないだろ」
 確かに佐伯さんと付き合えたら最高だろう。生きていて良かった、そう思えるかもしれない。
「確かに文句はないですけど……遠慮しときます」
 僕の答えにおじさんは「えぇっ」と驚愕した。それと同時に彼の鼻水が飛び散る。おじさんはティッシュで拭く。お前は何なんだ。
「どうして断るんだ。最高の条件だろう」
 僕は肩をすくめた。
「確かに最高です。冴えない僕が佐伯さんと付き合えば、それだけで世界が変わると思います。でも違うんですよ。神様の力で佐伯さんと付き合ったところで、それは佐伯さんの本心とはまるで違うんです。偽りの心で付き合ってもらっても、僕は全くうれしくない」
 いくら魔法みたいな力で人の心を変えたって、所詮それはまがい物でしかない。好きな人の心を歪めてまで自分の私欲を満たしたいとは、僕は到底思えない。
「お前、意外と良い奴だったんだな」
「意外と、は余計です」僕は包丁を固定しているガムテープを剥がす。
「俺はてっきり、お前はただのピーピング男かと」
「誰がピーピング男だ。……まぁ、そんなわけで願いはまた今度に持ち越しますよ」
「まぁ、決まったらいつでも言えよ」
「わかりましたよ。今日のところは便所に戻ってください」
「わかった」
 おじさんが消えると、またいつもの静かな一人部屋に戻った。隣の住民が友人を連れてきているらしく、笑い声が聞こえる。最悪だ。
 便所の神と契約したことで、僕の人生も少しは変わるのだろうか。

     

 僕の横には、佐伯さんがいる。こっちを向いて微笑んでいる。まるで月だ。凛としていて、一等美しい。その輝きたるや、万丈だ。湿っぽい空虚な僕の生活スペースが、アルプスの広大な草原みたく輝く。世界を見渡せる丘から手のひらにも及ぶ大きな月を眺めているような、そんな心地よさが心を満たす。きらきらと優艶な光が僕をとりまく世界を包む。
「さ、佐伯さん……」
「どうしたの、久保君」
 どうしてここに、なんて言えない。そんな事を言って彼女が帰ってしまったら、そう思うと何も言葉が出なかった。僕の世界に、一分一秒でも長く彼女を引きとどめたかった。
 そんな折、電話の音が鳴った。
「電話だぞ」便所の神の声がする。
 はっと部屋の中を見渡すと、わけが分からないくらいたくさんの固定電話が置かれていた。壁に引っかかっていたり、天井からぶら下がっていたり、窓にくっついていたり、床にめり込んでいたり。
 僕は一つ電話の受話器をとった。しかし音は止まない。この電話じゃない。次の受話器、これでもない。次。駄目だ。一体どれだ、どの電話が鳴っているのだ。
「なんだアラームか。早くしろよ、さもないと学校に遅れるぞ」
「うるさいな、分かってるよ!」
 叫んだ自分の声で目が覚めた。急な場面転換に意識が覚束ない。視界が巡るなか、無意識のうちに枕元に手を伸ばした。鳴っているのは携帯の着信音だ。黒電話と同じ音が鳴るように設定してある。
「もう九時か……」
 一限は入れていない。二限目は確かゼミだ。僕が一週間で楽しみにしている日──佐伯さんに会える時間だ。サボるわけにはいかない。アラームを止めて天井を眺めているとにゅっと仮面を着けたおじさんが視界に入り込んできた。
「うわぁ」
「うわぁとは何だ。人がせっかく起こしてやったのに」
 おじさんはぷりぷりと怒りの声を出した。妙に愛くるしいので逆に殴りたくなる。
「起こしたって、いつ起こしたんですか」
「さっきから声かけてただろ。お前も返事したじゃないか」
「あー……」
 そういえば夢の中でおじさんの声が響いていた。時折現実の物音が夢の中に介入してくる事があるが、それにしても入り込んできたのがこんな変態の生声だと思うとげんなりする。
「確かに。どうもすいません」一応礼を言っておく。
「お前、すごい寝起き悪いんだな」
「いや、いつもはそんなことないんですけど」
 いい夢を見ていた時に介入されたのでついイラついた声が出てしまったのだ。僕は身体を起こすと、思い切り溜息を吐いた。
「朝一でそんな重たい溜息つくなよ。いい若者が」
「……」一々口うるさい神である。
 便所の神と過ごして五日が経った。相変わらず慣れることのない日常。
 軽くシャワーと朝食を済ませて学校へ向かった。水曜日はどの学部も二限目までしか講義がない。そのためこの日を休みにする学生も多く、朝の大学にはほとんど人の姿はなかった。春学期も中間を越え、サボりだす人がピークになる時期だ。当然だろう。
 キャンパス入り口から一番近い場所にあるくせに、妙に存在感のない法学部棟へと足を踏み入れる。二階奥の演習室が、毎週ゼミの教室として割り当てられていた。
 全部で二十人ほどのゼミ。女子と男子の人数はほぼ半々。いわゆる『リア充ゼミ』と言うやつだ。友達も多くて、日々楽しんでいる、私生活が充実している人間をリア充と呼ぶらしい。そんな人たちが固まったゼミだ。もっとも、僕にとってはまるで地獄なのだが。佐伯さんがいなければ恐らく離脱していた。
 ゼミのテーマが「ナショナリズム」だったので、興味を惹かれてつい入ってしまったのがきっかけだった。だが一部の学生の間では「楽なゼミ」として有名だったらしい。結果としてチャラチャラした学生が多いゼミになってしまった。純粋にゼミのテーマに興味があって入ってきたのは、僕と佐伯さんだけだった。
 過去数回、ゼミで飲み会があったらしい。らしい、と言うのも僕は誘われていないからだ。皆が仲睦ましげにディベートする中、僕はいつも黙っている。先生の出した真面目な議題はまるでおふざけみたく茶化され、変えられ、最近のどうでも良い芸能関係の話題へと移行させられる。先生はその様子をニコニコ笑って見ているだけだ。
 一度、グループ発表と言う形で二人一組になったことがある。高校時代のトラウマから二人一組など僕にとっては恐怖にも近い存在だったが、その時僕に声を掛けてきてくれたのが佐伯さんだった。他の男子からの誘いを全て断って、わざわざ彼女は僕に声を掛けてきてくれた。
「久保君、ちゃんとしたナショナリズムがやりたいんでしょ? 実は私もなの。だから、久保君とならいい発表が出来るかなって。迷惑かな?」
「うううううん、びょびょくもしょうだにゃって」
 あの時の僕は、ミステリ小説で犯人の名前を言おうとして死んでしまう人並に酷かった。早口でどもっていて何を言っているのか分からなかったはずだ。それでも佐伯さんはにこにこしていた。全く裏に含みのない笑みを浮かべて。
 彼女と一緒に課題を作ったのはたった一週間だったが、そのわずかな間でも佐伯さんと言う人が女神のように心美しい女性だと知る事が出来た。裏表のない、ただひたすら人を好きな人。そんな穢れない存在がこの世にあるなんて。
 彼女と付き合いたいとは思わない。彼女がどこか素敵な男性と恋仲に落ちて、幸せな家庭を築いてくれればいい。僕はその光景が見れたらそれだけで満足だ。自分の好きな人が幸せになってくれる。それ以上の喜びがあるだろうか。

 ゼミの教室は長机が会議室のように向き合っている部屋で、その一番奥の席に佐伯さんが座って本を読んでいた。他には誰もいない。壁にかかる時計を見ると、まだ一限目の講義が終わっていない。佐伯さんも水曜日はゼミしか入れていないのだ。
「おはよう、久保君」
 胸が高鳴った。一瞬で全身から汗がほとばしる。髪の毛が逆立つ感覚すらした。
「おおお、おは、おはおはおはおはよう、佐伯さん。ず、随分早いんだね」
「どもり過ぎだろ……。早口で声小さいし、これだからコミュ障は」後ろからおじさんが呟くが無視する。
「あら、私はいつもこの時間には教室にいるわよ? 久保君こそ、今日は随分早いんじゃない?」
「あ、ああ。なななんだか今日は目が冴えちゃって」
「俺のおかげでな」無視だ、無視。いまこの空間には僕と佐伯さんしか存在しない。
「そうなんだ」
「はは、うん」僕は入り口近くの席に腰掛ける。
「何でそんな微妙に間隔空けて座るんだ。どうせなら思い切って隣に腰掛けたら良いじゃないか」
 ぶぅぶぅ言うおじさんを何とか視界から外す。するとおじさんは空中を飛んで僕の視界に入り込んできた。
「人の話を聞いているのか、お前は。大体今、お前からすれば俺が話しているが、彼女からすれば漂っているのは沈黙だ、沈黙。無だ、無」
 おじさんは空中をふわふわ浮かんでいる。出来ればシャープペンシルで突き殺してやりたかったが、佐伯さんの手前そうもいかない。一体どうした物かと思っているとおじさんは「ぶぇくしょーい!」とでかいクシャミをした。鬱陶しい事この上ない。
 そうこうしているうちにチャイムが鳴り、他のゼミ生達が集まってきた。教室はいつも通りの活気を取り戻し、僕は相変わらず沈黙する。席譲ってくれるかなと言われ、どんどん端の方に追い込まれる。そうこうしているうちに居心地が悪くなり、僕は荷物だけ残してトイレへと立った。
「ふぅ……」個室で腰を落とし、ようやく落ち着く。目の前におじさんが仁王立ちしているのが分かった。
「お前はホンッとにヘタレだな。好きな女とマンツーマンで話も出来ないのか」
「出来ないですよ、普通」
「まぁ確かにそれが出来たら友達もいるってもんだな」
 わっはっはとおじさんは大声で笑う。一体どうやって殺してやろうかと考えているとトイレに誰かが入ってくる気配がした。僕はそこで息を殺す。
「今日の飲み会どうするよ?」
「いつもの場所でいいんじゃね?」
 ゼミの奴等だと気付く。
「誰誘う?」
「とりあえず全員。戻ったら声かければいいんじゃね?」
「だな。あ、でも久保どうすんの?」
 ドキリとした。どうやら個室に僕が居る事には気付いてないらしい。
「あいつ誘っても来ないしな。良いだろ、別に」
「まぁ来たところでだしな」
「……」
 ざぁっと小便器の水が流れる音がして、やがて二人は出て行った。僕はそっと息を吐き出す。ホッとした気持ちと、胸の痛みとが同時に襲ってきていた。おじさんは僕の傍に立っているだけで、何も言わない。
「個室にいると妙に安心するんですよね。便所飯を始めたのも、それがきっかけでした」
 誰にも見られない安堵感。この室内では、干渉されると言う事がおよそ全くと言っていいほどない。その絶対的に確立された空間は、いつしか僕にとって必要不可欠になっていた。
 一人でご飯を食べるのは平気だと思っていた。でも違う。誰もいない中一人でいるのと、周囲が楽しそうにしている中一人でいるのとでは格段に違ったのだ。
「お前、何で飲み会行かないんだ」
「苦手なんですよ。どれだけ無理して人と話したって気付いたらいつも一人になってるし。お酒もそんなに飲めなくて。帰ったら残るのがタバコ臭い服だけ。惨めになるんです」
「逃げてばっかりいたらずっと一人だぞ」
「逃げてるわけじゃないんです。ゼミの時は、頑張って行こうって思ってました。僕だって佐伯さんと仲良くなりたかったんだから。行かなかったんじゃないんです。誘われなかったんです」
 おじさんは拳をギュッと握り締める。震えていた。僕の為に、憤ってくれているのか。
「おじさん……」
「ぶふぅ」
 奴は笑っていた。
「ふふ、まさかこんな根っからの便所人間がいたとは。飲み会誘われないってお前、それ、ぶふっ、ぷふ。なまじそれをちょっとシリアス調に語ってるところが笑える。グヒィ」
 おじさんはとうとう我慢できなくなったのか空中を転げまわりながら爆笑しだした。
「殺す」
 僕が立ち上がるとおじさんはひぃひぃと息をつきながら口を開く。
「ま、待て。待ってくれ。お前に会わせたい人が出来た」
「往生際の悪い」
「その子ならお前の恋愛相談にも乗ってくれるだろうよ。お前変えたくないの? 今の自分を」
「変えたくないわけないでしょう!」
 僕が叫ぶとおじさんはビックリしたような顔を浮かべたあと、ニヤリと笑った。
「よし、じゃあ決まりだ。後でお前の部屋に連れて行ってやるよ」
「誰が来るんですか」
「俺の初恋の女性だ」
 やめろ。

     

 チャイムが鳴る。
 地獄のゼミの時間が終わった。
 先ほどの出来事があり、内心気落ちしながら資料を片付けていると「久保君」と声を掛けられた。
「さ、佐伯さん」
「今日みんなで飲み会するんだけど、久保君も来ない?」
 えっ、という顔を周りがする。たぶん僕もしていた。彼らからすれば『呼んだら駄目な奴カテゴリー』に僕が入っているし、僕も『呼ばれたら駄目な奴カテゴリー』に自身を入れている。
 たぶん佐伯さんはそう言うのをキチンと理解している。そしてわざと気付いていないフリをして僕を誘っている。彼女はそういう賢しさ(さかしさ)と優しさを兼ね備えている人間なんだ。
 でもこの視線の中「行く」なんてとてもじゃないが言えない。僕の選ぶべき選択肢は把握している。それくらい自分をわきまえているつもりだし、空気だって読めるつもりだ。
「いや、いい、いいいいいい」
 首と手を振りながら答える。我ながら断り方が下手すぎる。
「何か用事とかあるの?」
「の、飲み会とか苦手なんだ。お酒飲めないし」
「飲まなくてもご飯とかあるよ。もっと久保君と話してみたいしさ。行こうよ」
 一瞬心が揺れ動いたが、すぐにハッとする。分かってる。佐伯さんは僕を仲間はずれにしたくないだけなんだ。
「ま、まあとにかく今回はやめとくよ。じゃあ」
 僕は鞄を持つとそそくさとその場を去った。早足で教室から離れ、講義棟から出て、足早に駐輪場へ向かう。構内にはお昼の放送が流れていた。最近よく流れている曲だ。古い曲だからか、耳障りで仕方がない。自転車にまたがり、学校を後にする。
 脳内では色んな後悔が浮き出ていた。
 せめて誘ってもらった御礼くらい言うべきだった。断るにしたってもっとやんわりと言えたはずだ。千載一遇のチャンスだったのに。嫌われただろうか。そもそも好かれてなんかいなかったはずだ。それに今のやりとりでいい印象を与えるわけがない。不快にしてしまっただろうか。
 たった一分足らずのやり取りで浮かぶ後悔はじりじりと心を占めていく。小骨の様に引っかかってなかなか取れない。
「お前今のは駄目だよ。零点。キモオタ度は満点だけどな」
「黙れ変態」
 横からおじさんがちくちく刺してくるのを余計重荷に感じながら家へと到着した。僕は今日何度目かになる溜息を吐くと鍵を開き、ドアを開ける。
 奇妙なことに部屋の空気に違和感を感じた。何だか肌寒い。それと何故だかトイレのドアが開いている。
「お、もう来ているみたいだな。喜べ相棒」おじさんは顔をちょっと赤くしてトイレのドアを指差す。僕は唾をゴクリと飲み込んだ。
 中から見たことのない女子高生が姿を見せた。セーラー服で、前髪を切りそろえている。異様なほど肌が白く、目に涙黒子があった。
「俺の初恋の女性、花子さんだ」
「花子です、よろしく」
 僕は気絶した。

 目が覚めると玄関先で僕は倒れていた。横にあるトイレをそっと覗いてみる。誰もいない。おじさんも、花子さんも。今までのは全部夢だったのか。人生があまりに楽しくなさ過ぎて、見てしまった虚構。
「疲れてるのかな……ハハッ」
 乾いた笑みを浮かべながらリビングに入ると、机を囲んで女性物の下着を着た変態とセーラー服の女子が談笑していた。僕は吉本芸人ばりに飛び込み前転して机もろとも吹っ飛んだ。
「相棒、いまのリアクションは良いな。結構うけるよ。ぷーくすくす」
「何やってんですか、あんた」
「何って、お前が余りにヘタレだから恋愛アドバイザーとして講師を呼んだんじゃないか」
 ムンと胸を張っておじさんは花子さんを手で指し示す。目が合った彼女は照れたように頭を下げた。確かに可愛い。
「どうやって連れてきたんですか」
「相方契約の延長だよ。俺の協力者として花子さんを申請した。お前の行くところならどこへだって行けるぜ」
 その辺の謎設定はもう聞くのもうんざりだ。
「僕は別に恋愛アドバイザーなんて求めてませんけど」
「でも、変わりたいのは事実なんでしょう?」
 花子さんが首を傾げながら僕を覗き込んでくる。そんなつぶらな瞳で見ないでほしい。僕はどぎまぎして視線を逸らした。
「花子さん、こいつ陰キャラだから女の子に話しかけられたら言葉に詰まるんだよ」
「ま、初心(うぶ)なんですね」
 クスクスと花子さんは笑う。ムカつくが事実なので返す言葉がない。それにしてもこの二人、一緒にいるとまるで援交カップルである。
「それで、あなたは佐伯さんと言う女の子と仲良くなりたいのよね?」
「な、なな何でそれを」
「お前が気絶している間に俺が話しておいた。包み隠さずな」
 余計な事を。
「詳しい話は神様から聞きました。便所飯なんて、したくないんでしょう?」
「それは……まぁ」あんなもんしたくてする奴はいない。
「一人でご飯を食べることはそんなに苦痛ですか?」
「そうじゃないですけど」

 大学にいると、どこにいても心が落ち着かなかった。
 スタートで出遅れて、部活やサークルにも入りそびれて、気付いたら周囲にはもうグループが出来ていて。
 一人で講義を受けるたび、なんだか妙に惨めな気分になる事があった。大講義室では僕と同じ様に一人で昼食を取る人もいる。でも友達と一緒に楽しそうに食事する人もたくさんいた。そういう人たちを見るたびに、心がざわめくのがわかった。自分が笑われているような、そんな気さえした。
 個室は、この学校で唯一の、安寧の地だった。

「人が変わるには長い時間が必要です。一日二日で、あなたが急に友達と充実したキャンパスライフを送れるようになるのは難しい」
 そこで花子さんは「でも」と強く発音する。
「きっかけがあれば、人は変われるんです。どんな惨めな一歩でも、その最初さえ歩めれば始まるんです。あなたにはもう、それが訪れているんじゃないですか?」
「そんなもの……」
 あった。たくさん。気付かないふりをしていただけだ。自分にだってチャンスがあれば。考えなかった訳じゃない。なかったのはチャンスじゃなかった。勇気だ。
「踏み出さないと始まらないんです」
 花子さんは僕の手をそっと握った。思わず息を呑む。女の人に手を握られるのは生まれて初めてだ。
「あなたは変わりたいって思ってるじゃないですか。現状に諦めを抱くんじゃなくて、変わりたいって。その理由が何だか、思い出せませんか?」
 理由。
 便所飯を始めたのが理由?
 便所の神と出会った事が理由?
 それとも──。
 僕の中にあったのは、佐伯さんと課題作りに勤しんだあの一週間だった。
 付き合いたいとかそんな物ではない。少しでも傍で、彼女がこれから歩んでいくであろう幸せをそっと眺めていたいと思うようになったのだ。
「実は花子さんもな、便所飯をしていたんだよ」
「えっ」
 おじさんの言葉に、花子さんは少し悲しげに笑った。
「虐められていたんです。トイレでしかご飯、食べさせてもらえなくて」
 こんな可愛い人でも便所飯を? 信じられない。
「あなたを見ていると、昔の私を思い出します」
「勝手に思い出さないで下さい」
「大学はもういいやとか、高校は諦めようとか、今までそうやって生きてきたんじゃないんですか? 変わろうとしない自分を正当化しようとしてましたよね」
 何もいえなかった。図星だった。
「捨てたものは帰ってきません。取り返しもききません。楽にもなりません。私がそうだったから」
 知っている。そんなこといつも分かっていた。感じていたのだ。
「相棒」
「何ですか」
「難解な壁は、ぶち当たってみると意外と薄かったりするぞ」
 おじさんは真っ直ぐ僕を見つめてくる。
 僕は「はぁ」とわざとらしい溜息を吐いた。
「花子さん」
「はい」
「もし今このおじさんが付き合おうって言ったら、その申し出を受けますか」
「お前、急に何を……」
「いいからおじさんは黙っていてください。僕にとって重要なことなんです。どうなんですか、花子さん」
 僕は彼女を真っ直ぐ見据え、おじさんは恐る恐る振り返る。
 やがて花子さんはにっこり笑った。
「絶対嫌です」
「え……」おじさんは力ない声を出した。ショックが体からあふれ出ている。
 その様子に花子さんは呆れ顔で付け加えた。
「女性物の下着に仮面被った中年男性と付き合う女子なんていないと思いますけど」
「ですよね。キモイし」思わず賛同した。その言葉がとどめになったのか、おじさんは倒れた。
「気持悪い奴はやっぱり気持悪い。おじさんだけでなく、ゼミのみんなが僕に抱く印象って言うのもやっぱり同じなんだと思います。一度ついた悪印象って言うのは拭い去るのはかなり難しいんじゃないでしょうか」
「まぁ、それは、確かに」
 花子さんは曖昧に頷く。僕が何を言いたいのか分かりかねている感じだ。
「つまり」
「つまり?」
「もう僕には何も失う物なんてないって事なんですよね」
 僕は携帯を取り出した。かける相手なんてもう決まっている。僕がゼミで連絡先を知っているのなんて一人しかいない。手が震える。
 謝って、それから……。
「花子さん」
「はい?」
「本番の前に、練習してもらって良いですか」
「練習?」
「佐伯さんとうまく会話する練習です」
 電話と、それから飲み会で。

     

 友達が多くて、人生を楽しんでいるやつほど人間関係において上の立場になるのだと思っていた。僕みたいに底辺の人間は「あいつおもんない」とか言われてもぐっと堪えなければならないと思っていた。
 だが、今なら思う。
 何様だよ、と。
「おい、相棒。起きろ、相棒」
 目を覚ますと不愉快な格好をした変態が空を浮遊していた。
「もうすぐゼミの時間になるぞ」
 ガーターに、女性物の下着を身につけ、ブラの中にティッシュを詰め込み、謎の仮面を被るおっさんに起こされると言う最悪の目覚めをした。僕は勢いをつけて上体を起こす。
「お前が飲み会でやらかしてから最初のゼミだな」
「……言わないで下さいよ」
 きっかけがどうのと諭され、調子に乗ってゼミの飲み会に参加してから一週間が経った。
 飲み会では僕の登場に異質な空気が漂い、佐伯さんは終始僕に気を遣うと言う最悪の状況の中しこたまビールを飲み、記憶を飛ばしたあの日のことは思い出したくないしほとんど思い出せない。
「はぁ、ゼミ、行きたくないなぁ」
「一度与えた悪印象はなかなか拭いされないもんな? 俺みたいに」
 どうやら花子さんに辛辣な発言をさせたのをまだ恨みに思っているらしい。チクリチクリと刺し込んでくる。
「花子さん、今日は来てないんですね」
「長野の小学校にあるトイレで呼び出しくらったから出張だ」
 あの日以来花子さんは時折我が家にやってくるようになった。おじさんが契約の拡張などした為である。我が家はゴーストハウスと化した。この間は便器の蓋を上げるとそこに彼女の顔があって悲鳴を上げた。たまったものではない。
「どうした? あの子から花子さんに鞍替えか? 言うとくけどやらんぞ」
「いらん。と言うかなんで一々あんたに許可もらわんと駄目なんですか。ふられたくせに」
「ぐふっ」おじさんは倒れた。

 自転車に乗って重い足取りで学校へと向かう。遅れて登場するとかえって目立ちそうな気がして、早めに教室に入る事にした。
 ドアを開くと一番奥、いつもの定位置に、佐伯さんがいた。
「おはよう、久保君」
「お、おはよう。今日も早いね」
「久保君こそ」
「ぼ、僕はほら。前の飲み会でやらかしちゃったから。あんまり遅く来たくないなって」
「やらかすって?」
「記憶飛ばしたり、とか」
 すると佐伯さんはフフッと笑った。
「大丈夫よ、久保君。そんなのやらかしたうちに入らないから」
「そうなの?」
「そうだよ。あ、でもそうか。記憶飛んだのなら覚えてないんだよね」
「何を?」
「私に言ったこと」
「えっ? 僕何か言ったの?」
 彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「なーいしょ」
 今の『なーいしょ』が可愛すぎて今夜は眠れそうにない。
「ねぇ、久保君、そんな離れた場所じゃなくてこっちに来ようよ」
「えっ、いいの?」
「そのほうが話しやすいでしょ?」
「でも僕見たいなのが横に座って、嫌じゃない?」
「嫌な訳ないじゃない」
 僕は以前ほど違和感なく佐伯さんと会話出来るようになっていた。おじさんが花子さんを連れてきてくれたおかげだろうか。あの不気味な美人と会話するようになってから多少なりとも女性に対する耐性はついた気がする。
 始業のチャイムが鳴った。奇妙なことに他のゼミ生がこない。一体どうしたのだろうか。僕は佐伯さんと顔を見合わせた。そうしているうちに教室のドアを開けて教授が姿を現した。そして僕ら二人の姿を見てにっこり笑う。
「今日は他の皆さんから体調不良でお休みと言う連絡をいただきましたので、ゼミの参加者は佐伯さんと久保君だけになります」
 何だそれは。全員休みとは、奇妙なこともあるものである。サボりだろうか。不思議に思っていると佐伯さんが「じゃあ今日は何をするんですか?」と発言した。
「三人でディベートをしましょうか。ナショナリズムについて、とか」
 教授はそう言って笑みを浮かべる。
 僕は佐伯さんを見た。
 目が合う。
 意見は一緒だった。
 僕達は、二人揃ってゆっくり頷いた。

 高校の頃も、中学の頃も、昔からずっと相手の機嫌を考えて生きていた。不快にならないだろうか、目を合わせると怒らないだろうか。そしていつしか人といても落ち着くことはなくなり、まともに会話することすら出来なくなっていた。
 でもこうやって、再び話す事が楽しいと思えるようになっている。
 それはたぶん。
 この僕の真横で鼻くそをほじっている便所神のおかげではないだろうか。
 考えてみればこの人くらいだ、僕と何の違和感もなく話せたのは。認めたくはないけどな。
「みんなを下痢にしたの、おじさんでしょ?」
 ゼミの終了後、教室を出た僕はおじさんに言った。
「何のことかな」
「ゼミのメンバーが佐伯さん以外全員体調不良なんてありえません。でも、おじさんは確か便意を操作出来るんですよね? 教室に入ろうとしたゼミ生達を過度の下痢にすることなんて容易いんじゃないですか」
「なんで俺がそんなことするんだよ。お前のためにしたってか?」
「だから朝わざわざ僕を起こしてゼミに行くよう言ったんでしょう?」
「考えすぎだろ」
 おじさんはわざとらしく肩をすくめるとそっぽを向いた。どうでもよいがブラの肩紐が外れているのが気になる。
「……まぁ、相棒の門出を祝してやるのは神として当然の事だ」
「えっ?」
「何でもない」
 何だこのおっさんは。不可解である。
「そういえばおじさん」
「何だ?」
「以前言っていた願いを叶えてくれるって話なんですけども」
「あれはもう叶えただろ?」
「はっ?」
「俺たちが初めて会った日だよ。『とりあえず今日のところは便所に戻ってください』ってお前言ったじゃないか。んで俺は戻った。願い成就だ」
 やっぱりこいつ殺そう。
 僕がどうやってこの変態を亡き者にするか思案していると「久保君」と背後から声を掛けられた。
 振り向いて思わず体が硬くなる。
「さ、佐伯さん」
「よかったぁ、追いついて。あのさ、久保君このあと用事ある?」
「え? 暇だけど……」
「一緒に昼ごはん食べない? 今日これで講義終わりでしょ? 私、家にご飯用意してなくって」
 驚きのあまり声が出なかった。パクパクと金魚みたいに口を開閉していると「あはは、何それ」と彼女が笑う。
 便所飯が僕の日課だ。
 まだまだ教室で食事をする日々には遠い。
 でも、とりあえず今日のところは、美味しいご飯が食べられそうだ。

 校内にお昼の放送が流れる。

 皆さんこんにちは。今日も始まりましたお昼の放送。
 今月は懐メロ月間。それではさっそくこの曲から。
 渡辺美里で『マイレボリューション』。

「行ってこいよ。このベスト便所飯ニスト!」
 バンッ! と強く背中を叩かれる。
 いつか本当に自分が変わったと思える日が来るかもしれない。
 それまで、この奇妙な相棒と共に生きるのも悪くないと思えた。


 ──了

       

表紙

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Neetsha