Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 黛は、あんたは学校に来ているだけマシ、という。あんたの姉貴は半分も来ちゃあいなかった、と。確かにそれはそうだ、俺は知っている、姉貴は高校時代からすでに引きこもりがちで、夏休みが五月から十月まであった。よく卒業できたものだと思う。だが、俺は本当はもうちょっとまともに学校ってものに通いたいと思っていたし、このままいけばタダでは済むまい――と感じてもいた。そのタダで済まない、というのがどういうことなのか具体的なイメージは浮かんでこなかったが、とにかくまずいと思ってはいたのだ。
 そしてそう思えば思うほど、逃げ出したくなるのが人情である。
 クラスメイトが数学の飯塚の禿頭を見つめているであろう時、俺は『エコーズ』に着ていた。カラオケ屋である。俺の高校のそばにはカラオケはなく、俺はわざわざ鳥ノ塚の駅前通りにまで足繁く通っている。大抵の場合はチャリンコで来るが、今日は生憎の曇天、降水確率60%オーバー。電車を使った。
 そう、何を隠そう俺の趣味は一人でカラオケ、『ヒトカラ』なのである。
 恥ずかしいのは最初だけである。
 新規アニメのポスターぺたぺた貼られた雑居ビルの階段を登って、『エコーズ』の自動ドアを潜る。俯いて歩いていたので、声をかけられるまで気づかなかった。
 受付の前に立っている女の踵が、俺の方を向いて、ぴくっと止まった。
「……ケンケン?」
「あ?」
 顔をあげると、そこには知ったばかりの顔があった。


「なんか食べる?」
「いらねえ」
「あそ」
 奇妙なことになった。
 俺は、花子とガラステーブルを挟んで向かい合っている。設置されたテレビは今週のオリコンチャートについての情報を吐き出し続け、花子はデンモクをぴっぴといじり、可哀想に動揺しきった俺は膝を手で掴んで石になっていた。覚悟していたならいい、だが不意打ちでこの展開は処理しきれない。自分で自分を他人扱いしたくもなる。
 花子はデンモクに目を落としたまま、
「入れないの?」
「ふぇ?」
「歌いにきたんでしょ?」
「あ、ああ」一人のつもりだったけどな。
 花子はデンモクをテレビに向けてぴっと送信した。そして立ち上がり、テレビ横に刺さったビニルで封されたマイクを二本取ると、一本を俺に放り投げてきた。俺は慌ててそれを受け取る。
 花子はにいっと笑った。イントロが流れ始める。
「デュエット入れた」
 マジかよ。ええい、くそ。
 俺はマイクのスイッチを入れて立ち上がった。花子がにやにや笑ってやがる。どうせ知らん曲を前にして慌てふためくさまでも拝もうと言うのだろう。そうはいくか。
 俺は息を吸った。
 知ってる曲だった。


 爆笑だった。
 花子はふかふかの座席に終わらない右フックを繰り返し、左手でボディを喰らったように身をくの字に折っている。俺は顔に手をやった。これが仏頂面の感触らしい。覚えておこう。むかつくので花子が入れていたほかの曲をキャンセルして俺の十八番を三つほど入れてやった。こうなったらヒトカラと変わらない。あそこで無礼を働いている女はジャガイモか何かだ。
 息を整え、テレビを親の仇のように睨み、歌った。
「あー……」花子が起き上がって目尻に浮かんだ涙を拭った。笑い泣きしやすいタチらしい。
「いやあ笑った笑った。あんた誘って正解するとは思わなかったなあ」
 そりゃよかったな。俺はぎろっと睨みながら深夜放送された魔法少女モノのEDを恨みがましく歌い続けた。花子はへらへら笑って、
「悪かったって、でもこれは好意的な笑いだからさ、ありがたく受け取っといてよ」
 傲慢なやつめ。
 だがまあ、悪い気はしない。もちろん。いいさ、釣られてやろう。釣ってくれるだけいくらかマシだ。
 俺と花子は交互に歌った。五時間ほどお互いに日頃のストレスを発散し、『エコーズ』を後にした。外に出るともうすっかり暗くなっていた。
 俺がぼーっとその場に突っ立って濃い紫色の空を見上げていると、花子が脇を肘で小突いてきた。
「どーする? なんか食べてく? あたしはどっちでもいいけど」
 やけに積極的である。これはフラグが立ったというやつだろうか。
 悩むのも馬鹿らしいので素直に聞いてみた。すると花子はアスファルトに打ち上げられた魚を見たような顔になった。
「へー。……やっぱ期待しちゃうもんなの、男子とゆーものは?」
「おう」俺は素直に頷いた。
「それは悪いことしたなあ」
 どういう意味だよ。
 花子はにやにや笑ったまま先をいく。結局なし崩しに駅前のファミレスに決まった。
 席に座って俺たちはカルボナーラとナポリタンを頼んだ。それにしても花子のこの動じなさときたらこれはもう幻滅もいいところだった。メニューを取るときに指同士がぶつかったにも関わらず眉一つ動かさない。あ、ごめん、そう言ってくれるだけまだマシだが、なんというかこう、もっと何かないのだろうか? こういうところに、男子と来るのが珍しくないのとか?
 探りを入れてみた。
「おまえさ、このあたりって顔見知りとかいるんじゃねえの。彼氏とかに出くわしても俺は知らんぞ」
 花子はお冷をストローで飲みながら目を見開いた。
「彼氏なんかいないよ。いても邪魔だし」
 よっ……しゃあ?
「それに通ってる高校は織城の方だし。地元にはあんまり友達いないから問題ない」
 さらっと言う。
 こうして二人きりで会ってみると、なんだか花子が別人のように思える。さざんかと実況しているときのようにはしゃいだりしないし、三人だったこの間とも雰囲気が違う。なんというか、落ち着いている。なにかが取りついているのかもしれない。やはりあれはヤバイゲームだったのか――俺が悶々と考えているうちに、注文した料理がきた。
「さざんかがさ」
 それは、俺がフォークでカルボナーラをどれだけ巻き取れるかに挑んでいたときだった。
「あんたのこと気に入ったみたいで」
 俺は白濁した麺の中にフォークを落とした。ぽかん、と口がまぬけよろしく開いた。
 なんだって?
「だから」自分のことでもないのに花子が照れたように頭をかいて、
「まだ、あたしもちらっとしか聞いてないんだけど、でもなんか、あんたのこと悪くないって言ってて……」
 ええ?
 嘘だろ?
 いやいやいや。
 いやいやいやいや。
 それはさすがに――
「釣り乙」
「や、あたしも最初はそう思ったんだけどさ?」失礼なやつだ。
「でもなんか、あの子自身にもよくわかってなさそうっていうか……あの子、恋愛とか昔から奥手でさ。たぶん初恋とかもまだだと思うんだよね」
 降って湧いたスイーツな話題に胸焼けがしてきた。俺は自棄になったように水をなみなみ注いで飲み干した。花子をやぶ睨みして、
「それで?」
「うん、それで、いやでも、たぶん、ありえないだろう、と」
 花子は俺を上目に見やって、
「一目ぼれってないわけじゃない、と思うけど、控えめに言ってあんたにあの子がいかれちゃう理由はたぶんない、じゃん? 失礼なこと言ってるとは、思うんだけどさ」
「だから?」
「それでまあ、今日は偶然、出くわしたわけなんだけど、まあつまり」
「ああ、試したのか?」
 花子は髪を数本引きちぎられたような顔をした。
「ごめん」
 俺はふう、とため息をつく。
 まあ、わからなくもない。
 そもそもネットでの出会いなんてものは、なんの保証も担保もない、夢とキボーに溢れている代わりにすべて自己責任、まずいことに巻き込まれたって逃げ切るまでは助からない――そういうものだ。だから、今まで身内でほくほく動画の実況やってた花子が、相棒のゆらぎに神経質になるもの無理はない。たとえばこうだ、やつら二人の実況が花子の誘いから始まったとしたら(たぶんそうだろうが)、その実況から派生したさざんかへのトラブルに花子は責任を感じなければならない、己の良心に素直でいたいなら。そのためなら、カラオケボックスで出くわした『トラブル候補』と一日デートしてみることぐらいは朝飯前というわけだ。自分を試金石にして、最悪すべての災厄は、自分の線で止めればいいと。
 まあ、そうだよな。
 そうでもなければ、なにか裏でもなければ、こんな風にとんとん拍子で話が進むわけがない。
「なあ」
「…………」
 花子は見下ろしていたナポリタンの空き皿から顔をあげた。猫目に初めて見る色合いが浮かんでいた。
 俺は意味もなくフォークを手の中で弄びながら、言った。
「今日のこと、さざんかには黙っておけよ。俺も言わない」
「ケン……」
 ケン?
 いや、いまはいいか。
 確かにあまり気分はよくないが、それでもひとのためにやったっていうなら救いがあると俺は思う。それぐらいに他人のために何かをする、というのは、いまの時代とても珍しいことなんだ。
 俺はなんとなく沈んだ空気を打破すべく、話題を変えた。
「あんたらって、どこで知り合ったんだ? まさかネットじゃないよな」
「なんで?」花子は不思議そうに聞き返してきた。
「ネットだよ。チャットで喋ったら気が合ってさ。もう五年くらい前だけど、あたしが書いてた日記サイトにさざんかが来て、それで」
「ほー」
 五年前? その頃は、たしか俺も日記サイトをやっていた頃だ。まだブログなんてものはそれほどなくて、すでにテンプレートが組まれた無料サイトに日記という名の愚痴を書いていた。すると、その系列のサイトから足跡などを経由して誰かがやってきてくれたりした。まだnixiもなかった頃だ。
「サイトの名前はなんて――」
 問いかけたところに、花子が追加で頼んだ特大ピザがやってきて、話はそれで終わってしまった。
 花子はピザを切らないで丸めて喰うことがわかった。どうかしてると思う。


       

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