Neetel Inside 文芸新都
表紙

ショッキングボーイ
ネオン街

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プロローグ


 壁は青い。
 空には桃色が広がっていて、窓の淵に花柄の鎧を持ったゴキブリが触覚を揺らしている。風が吹き込んでいる証拠だ。
 手も足もほとんどの感覚も失った私は、一つの目で把握できるだけの情報に浸るしかない。芋虫になってしまい、どうしてこうなったのか考えることすら放棄していた。朝目覚めたら、自然とこうした風景に収まっていて、途方にくれたまま目だけを動かし続ける。
 小さなノートパソコンと無数のメモ用紙に埋め尽くされていたはずの古い机は、白く真新しいものに変わっている。乗っているのは携帯電話だけだった。
 携帯電話が、短い間隔で震えている。
 着信があったのだ。私に電話をしてくる人間なんて、担当の編集者ぐらいしか思い浮かばない。
 昨夜、留守番電話に新作の設定が出来上がったのだとメッセージを入れておいたような気がする。用があるとすればそれに関わることだろう。
 出なくてもいいか。どうせ身をよじることさえできない。
 段々遠のいていく意識に身を任せて、私はゆっくりと視界を暗くしていった。


「……ユリカさん」
 再び目を覚ました時、部屋はオレンジ色の薄暗闇に包まれていた。私は人間の体で、朝起きたときに見た異質な部屋の風景はない。普段通りの汚い机、黄ばんだ壁紙。閉じた窓。夢物語のような映像世界は消え失せてそこには排気ガスのような現実が浮かんでいたのだ。
 少し名残惜しいのは、私が不思議な光景に慣れすぎているせいだろう。
 ベッドの横には薄い茶色のシャツを着た男が立っている。よく見知った男だが、このアパートの合鍵を渡していただろうか?
「寝てました。どうやって入ってきたんですか」
 ベッドから起き上がって男を見上げる。やや筋肉質な体型だが威圧感はなく、清潔感のある衣服に爽やかな青灰色の目がよく似合っている。
 だがその笑顔はどういうわけが気持ち悪い。生理的な嫌悪というべきか……。時折私が見る異質な光景とはまた別の、妙に現実味を帯びた嫌悪感なのだ。
 私はおかしなトラウマでも持っているのだろうか。この男が私に実際何かしてきたことは、今の今まで一度もない。
 あの着信の主、サイラス・ボガードがほっとしたようにため息を吐く。
「鍵がかかっていませんでした。ノックしても返事がないので、何かあったのかと……」
 手ぐしで髪を軽く整え、ぼやけた頭で思考する。
「鍵……締め忘れたんですかね。記憶にないです。別にトラブルはありませんでしたが」
 元々部屋は汚い。小説の試し書きに使ったメモ用紙やら、アイディアの書き溜められたノートが山積みになっていたり床に散らばっていたり、唯一それなりに片付いているのはベッドぐらいだ。何か盗られても困りはしないだろうし、よほど目立つもので無い限り一生わからないだろう。
 柔らかい金髪の髪を揺らして苦笑する彼の声を、私はタオルケットの感触を確かめながら聞いていた。指は普通に動く。結局、朝の出来事はなんだったのか。
「次からは、気をつけてください。僕もいつでも来られる訳ではないから……」
 気にしていても仕方がない。ベッドから降りた私は洗面所へと向かいながら詫びた。
「……そうですね。申し訳ありませんボガードさん。今何時ですか?」
 冷たい水を手のひらに受けている。向こうで彼がソファを軽く片付けているのが見えた。
 余計なことを。
「もうすぐ午後6時です」
「……随分眠っていたんですね」

 街の上を覆う高速道路に灯った光を見ながら、私は湯を沸かし始める。

     

ネオン街

 山の向こうは青い闇夜が包んでいる。対して私の頭上は薄汚れたオレンジに覆われていた。
 高速道路が蜘蛛の巣のように町を覆っているせいだ。過去の記憶を私が美化していたとしても、こんな真夜中なら星や群青色の空は見えていたはず。年々、光害が酷くなっている。
「よう坊ちゃん、こんな時間にどうしたんだい?」
「……」
 この薄暗闇に乗じて悪事を働くろくでなし共がいる。奴らは売春や窃盗、殺人など罪という汚物にまみれた家畜のような存在だ。切ってもミンチにしても買い手のつかないくず肉。
 そんな奴らが、この町にのさばっている。私が自立し作家として活動を始め、苦楽を共にした街がそんな奴らの手で蹂躙され汚されるのが我慢ならない。
 私と同じ心境であるものは少なくない。近年の目に余る凶悪犯罪に対抗するため、市民の自警活動が活発化している。
「あら、坊や。ショッキングピンクのヘルメットなんて言いシュミしてるわね。それにキスマークをつけたら、もっと素敵だと思わない?」
「……」
 くねくねとした不愉快な動きで話しかけてくる娼婦から視線を逸らすと、警察に指名手配されたヒーローの写真が目に入った。
 過激化する犯罪に対して自警活動(近年ではヒーロー活動とも呼ばれる)も同じく過激化する。やがて過激なヒーローたちは犯罪者と同列に扱われるようになってきて、かつての仲間たちに刑務所送りにされることも少なくはない。そんなイタチごっこばかりの自警活動でも、私は軸をずらすことなく3年間がんばって続けてきた。それは私の意地であり誇りである。
 無視されてばかりの娼婦が後ろで私を罵っていた。声帯の狂ったアヒルのような声だった。
 表通りを歩いていると、やはり娼婦や人身売買目的の商人などが話しかけてくる。そういったものに対しては基本的に無視を決め込んでいるわけだが、仕方ないとはいえここを歩くのは好きではない。
「恥知らずが……」
 湿った唇から不意に言葉が漏れた。
 ネオンが明るかった表通りから、目に映る景色は一転して路地裏の闇に変わった。
「ふう……」
 喧騒と異様な色彩から解放されて、思わずため息が出た。
 路地裏に荒く設置された水銀灯や蛍光灯たちは湿気のある冷たい暗さを演出する。感じる息苦しさは、満ちる悪臭や重い配色のせいだけではないはずだ。
 走り出すことを許さない足はやがてある場所へと導かれていく。照明の数も減り、やがて夜空のオレンジ色がはっきりと下水に映る。
「きゃあああっ!」
「……きたか」
 毎日2~3件はこうした事件に出くわす。娼婦がチンピラや性質の悪い客に襲われるのだ。
 はき捨てられたガムやネズミの糞が点々とするアスファルトをたどっていくと、複数のスニーカーと一足のハイヒールが見えた。
「いや……やめて! 放しなさいよ!」
「おっと、命が惜しいなら動かない方がいいぜ?」
 前方からは女の悲鳴と、下品な男の笑い声が聞こえる。笑い声は複数。強盗か? それとも…… 何はともあれ、悪事を働いているのなら私のすべきことは限られる。
 丁度、寿命が尽きかけた青緑の水銀灯の下に立った。この辺りで近くには他に目立った照明はなく、時々私の姿が暗さに紛れるので丁度良いと思ったのだ。私は時折闇に消えながら少しずつ近づく、さながら幽霊のように見えるだろう。
「おい」
 やや大きな声で呼びかける。
 まっさきに助けを求めるように目を向けてきたのは襲われた半裸の女だった。娼婦の雰囲気ではなかったが、普通の仕事はしてないだろう。黒いワンピース、ストロベリーブロンドの女。
 職業柄のいざこざかもしれないと思ったが、どうも会話や行動を見る限りそうではないようだ。万が一そうであったとしても私のすることは変わらないのだが。
「……おい、クズ共っ」
 再び声をかけると、流石に女が暴れだしたのもあって男達は気が付いたようだ。
「ショッキングボーイだ!」
「逃げた方がいいんじゃねえか?」
「でも大したことなさそうだな」
 一瞬の明かりに私を認めた一人が声を張り上げる。全員に一瞬の緊張が走ったが、その顔はすぐさま元の余裕を取り戻した。下品で醜悪なそれに吐き気を催す。私の心いっぱいに不快感があふれ、手は自然と背中に隠した武器へ伸びていた。
 背中に隠していたのは、全長1メートル弱のL形アンカーボルト。
 仰々しい武器を目にしてひるんだ男達だったが、それでも私から逃げようという気はないらしい。それもそのはず。地元新聞や噂が語る私の活動に対して、身長は大目に見ても160センチに届かない、やせ気味の子供じみた体型をしているからだ。
「その様子では、女が目的だったようだな」
 私はそれを無視して低く問う。
「だったらどうするっていうんだ?」
 男たちはニヤニヤとした笑みを浮かべ、それぞれナイフや鉄パイプなど思い思いの武器を手に取る。そうしてどちらも動かない状況が続いて、私は腹の底に石が溜まっていくような重いリラックスを感じていた。
「私の名前を知っているなら、わかるはずだ」
「……やっちまえ!」

     

 水銀灯の寿命が尽きた。
 気の抜けるような素人くささを漂わせる雄叫びと共にドタバタとした足音が近づく。真上の明かりは消えたが、くすんだオレンジの空が落とす光が水たまりに反射する。揺れる武器がその上を通れば、水たまりの音と一緒に武器が光って私に敵の場所を教えてくれた。
 心には相変わらず重いリラックスが満ちている。だがその中に揺れる激しい感情があった。それが熱を帯び、体を駆け巡り、指の先まで炎に包まれたかの如く熱さを帯びる。
「あぁ、そうだ、かかってこい」
 そう漏らした私の声に、汚い別の声が重なっていた。
 少しばかり後ずさって距離とタイミングを調整し、一人の男が飛びかかってきたところで横の箱に飛び移った。照明が消える前に箱の配置を記憶しておいたので薄暗闇でも問題なく飛び移れる。目が闇に慣れるまでの時間稼ぎだ。
 足元の箱を一つ蹴落とし、転んだ男の背中へ命中させた。酒の入った箱はけたたましい音を響かせて男の背中で砕け、その衝撃で骨が何本が折れたような背筋の凍る音がする。
 割れた酒瓶が水たまりを作り、それにまたオレンジの夜空が映った。男達は流れてくるオレンジの鏡に気づかず、そこに影を落として私に位置を知らせてくれる。
「ふっ」
 心苦しくなんかないはずだ。私は私の信じる正義と愛する町のために戦っている。だから、奴らをこんな目にあわせたらもっと清々しい満ち足りた気分になるはずだ。
 だが、どうしてか霧に包まれたかのような不快感を感じていた。相変わらず熱は私の体を焦がし、興奮は熟れた果実から滴る果汁のごとくにじみ出るというのに。
 水たまりの影を殴りつけると、二つ程度重たいものが倒れる音がした。
「大したことないのはどっちだ? お前たちも見かけによらず弱いんだな」
 うずくまる男達を見下げて、上手く手を出せずにいる残り二人の男に向き直る。足元の水たまりに私のショッキングピンクに塗られたフルフェイスヘルメットが映っていた。
 薄汚い連中の凄く汚い吐しゃ物で汚れた顔。正義感と満足感だけでいいはずなのに、その中には木から落ちる枯葉の空しさがある。何故だ。
 そして私はアンカーボルトを振りかぶって走り出した。
「待て!」
 背後からよく通る声が響いた。不思議なことに私は誰かが忍び寄っていたことに全く気付かず、私と対峙していたはずの男達も声がしてようやく気付いたようだ。走り出そうとしていた私は慌てて立ち止まったため転びかけ、靴のつま先に親指を強打したことを知った。
 痛む足をこらえながら振り向くと、そこには一人だけだが確実に誰かが仁王立ちで立っていた。
 身長180センチを超える程度のがっしりとした骨格と筋肉を持つ男だ。全身緑のいかにもアニメヒーローらしい全身タイツとマントを着ており、アクセントカラーになっている胸の赤い紋章は星を持った瞳を象っている。
 どうしてこの暗闇でこんなに詳細が解ったのかと聞かれれば、それは男が小さな懐中電灯を持っていたせいだ。
「まぶし……」
 懐中電灯から顔をそむけるため、必然的に反対側の男達に目を向けると、一人がかなり怯えた様子で悲鳴を上げた。
「ぐ、グリーンアイだ」
「マジかよ、やべぇ、逃げろ!」
 男達は慌てた様子で武器を捨て、気を失っている仲間はそのままに逃げ去ってしまった。襲われた女はとっくに逃げ出していたし、全ての音が遠ざかった路地裏に残されたのは気絶した男達とグリーンアイ、そして私だけになった。
 興奮が少しずつ消えて行って、後に残ったのは霧に覆われた不快感だけになった。きっと逃げた奴らを仕留めそこなったせいだ。
 苛立ちを感じて首回りが熱くなり、そんな様子を隠そうともせず私は再びグリーンアイに向き直った。
「なぜ邪魔をした。お前は何者だ」
「奴らはグリーンアイと呼んだ。それで正解さ。僕が君を止めたのは、君のような坊やがチンピラ狩りをするにはまだ早すぎると思ったから」
「……坊や?」
 怪訝な声で私が聞き返すと、グリーンアイは微笑を浮かべて頷いた。野心や驕った気持ちのない純粋な正義感を浮かべたその口元が尺に触る。口元以外を覆うマスクをしているせいで顔全体をうかがい知ることはできないが、どこかで見たような気がした。
 稀にそういう平均的な顔をした人間もいるから、おそらく私の気のせいだろう。こんな青臭い正義感を持った知り合いなんて私にはいない。
 だから私は遠慮なく、皮肉をこめた引きつる笑い声を漏らして答えた。必要ないと思って誰にも言わなかった、誰も知らない禁断の秘密を。
「皆勘違いするんだがな、私は女だよ。成人するまで後一か月も残ってない」
「えっ」
 胸の赤い瞳がまるで驚いたかのように目を大きくした。おそらくは彼が動いたせいでそう見えただけだろう。
「坊やじゃないってことだ」
 間抜けに口を半開きにしたグリーンアイにもう一度だけ念を押す。しばらくして彼はようやく正気に戻り、わずかなため息に苦笑を含ませて言った。
「君が女性だったなんて」
 申しわけなさと恥ずかしさがにじみ出ているその態度に同情したわけでもないが、「気にしていない」とだけ答える。そう言った時の私の感情に反応して、少しだけ手汗が滲むのを感じた。
 律儀にもう一度謝罪したグリーンアイに、私は「だがな、」と釘を刺す。
「私は同時に素人でもない。クズ共とのああした喧嘩には慣れている。お前のせいで結局奴らを仕留め損ねた」
 グリーンアイの顔がぱっと明るくなった。それは春の到着を待ちわびた大輪の花のようでもあったと思う。とにかく、彼は何かを閃いて私の手を取った。
「大丈夫だ。奴らのアジトを知っている。運の良いことに前回の顔見知りもいたから、間違いないはずだ」
 奴らがグリーンアイを一目見て逃げ出したのは、どうやら奴らと彼に面識があるからなようだ。なるほど、それなら私に立ち向かってきたのにすぐ逃げて行ったことも頷ける。
 握られた手に視線を向けると彼はすぐに頬を染めて手を放した。それを無視して話を戻す。
「グループで行動する奴らだったのか」
 自警団の活動も過激になった現在、特定されるとつぶされる可能性の高い組織的な活動をする連中は減っている。そんなことをするのは、強く権力のあるボスを持っているか、それともただの馬鹿共の集まりのどちらかだ。
 表通りへ向き直り私に背を向けたグリーンアイは、軽く手招きをした。
「あぁ、強力なボスがいるらしい。アジトはネオン街にある風俗店だ。依頼を受けて奴らを調査していたからね……場所もわかってる。君に償いをしなくちゃいけないね。案内しようショッキングボーイ」
「もちろんだ。そうしてもらわなくては困る」
 吐しゃ物や血の付いたアンカーボルトを背中に隠して、私はグリーンアイを追いかけた。
 後で気づいたが、もしかしたら彼は私に依頼の達成を手伝わせたかっただけかもしれない。名乗ってもいないのに、彼は私の名前を知っていたのだから。おそらく私が今まで何をしてきたのか知っていて、近づいてきたはずだ。性別は……素で間違えていただろう。
 表通りに出てからそのことに気づいた私は、静かに舌打ちをしてグリーンアイを睨んだ。

     

 私は、この三年間で大きく変わった。
 大人数相手に戦う術を学び、小説を書くようになり、そして……異様な光景を見るようになった。
 だがネオン街は変わらない。いつも、下品な色の照明がレンガを汚す。私の三年間は……何もしてこなかったのと同じだったのだろうか。
「グリーンアイ、いつ着く」
「もうすぐだな。後5分もかからないよ」
 全てを壊すべきなのだろうか?
 ネオン街が存在するのは、それだけ消費者が求めているからだ。だが、子供やそこで働きたくないものを無理やり連れてきて働かせるのは納得できない。またそこから抜け出そうとする者を押さえつけ、豊かになるための努力を踏みにじる行為も許せない。
 ネオン街を支配するのは悪人だ。一気に消し去ってしまいたい気持ちは強いが、そうすればここで働かざるを得なかった者たちはどうなる。ここで一番収入がいいのは、汚れた仕事だ。
 私がショッキングボーイであるとき、思考はいつもそこをぐるぐると回る。
 緑色の背中がネオンに紛れて歪んだ。視界の隅に無数の虫が這い、地面を覆い尽くしている。薄汚いモップの塊のような化物が街を歩いている。
 段差に足を踏み外し、転びかけた体勢を立て直す。目眩がする。視界が逆さまになって、ジワジワと黒いシミが大きく……。
 アンカーボルトが燃えるように熱くなった瞬間、幻覚のような光景は消え失せた。
 ショッキングボーイの時に見る光景は、しばしば体調不良を引き起こしている。
「着いたよ」
 グリーンアイが目の前の建物を見上げた。倉庫のような外見だ。錆びたパイプの向こうでゴキブリが走る音がし、それに驚いたネズミが散っていく。客に出すものと思われる酒や食物が積まれた箱は時々転がり落ちて中身をさらけ出していて、それを文句言いながら拾い集めている店のボーイがいた。ボーイは私達に気づくと、折角拾い集めた食品を落とし慌てて中に駆けこんでいく。
 私達のことは、すでに知られているらしい。
「バレちゃったな」
 グリーンアイが肩をすくめる。
「問題ない」
 看板のネオンはこの店が成人向けであることを表している。年齢的に言えば私は入ってはいけないのだろうが、今までも何度か風俗店に乗り込んだことはあった。
 思い出せるのは、むせ返るような香水の匂いと眩しいピンク色の明かりだ。
「君は未成年だっけか」
 グリーンアイは気まずそうな顔で振り返ったが、私は首を振って答えた。
「同じような店を襲撃したことはある」
 扉に手をかけ力を込める。しかし扉はやや震えただけで、それ以上開く気配がない。近づいてきたグリーンアイは、私の手元を覗き込んで首をかしげた。
「鍵が閉まっているのか?」
「……おそらく」」
 鍵がかかっていなかったとしても、鉄の扉を押し開けるのは私にとって難しい。
「まかせてくれ」
 そういったグリーンアイは激しく扉を動かし始めた。
「大丈夫なのか?」
「もちろん」
 一際激しく金属の悲鳴が聞こえた後、何かが砕けたような音がして扉が開け放たれた。
 カンヌキになっていたのは太い鉄パイプだ。それが引きちぎられたかのような断面を見せている。
「お前……」
「えーっと……すまない。何も聞かないでくれ」
 一息ついた彼は気まずそうな目で私を伺い見た。驚きはしたが、詮索する気はない。どうせ、もう会うことだってほとんどないだろうし。
「分かった」
「ありがとう」
 短くそんな会話をかわして、私達は中へ足を踏み入れた。
「中はどの店も変わらないな」
 店の中は不快な熱気で満ちている。卑猥な広告や落書きで埋め尽くされた壁、安っぽいソファーと油まみれなだけのジャンクフード。割れた酒瓶が転がっている。部屋の半分弱を占めるストリッパーのための舞台には、おそらくダンスに使うのであろう金属のポールが立っている。
 店に人はいなかった。先ほどのボーイが私達のことを知らせたため、逃げ出したか、そう見せかけて奇襲するつもりか。どちらにしても、私達はここを探索しなくてはならない。
「僕、こういう店は初めてなんだ」
「ついてこい」
 好奇心からかあたりを見回し、壁の広告に目を向けては顔を赤くしたり、青くしたりとグリーンアイは忙しい。かくいう私は、一つの広告に目を奪われていた。
 その写真に写る子供の背中には、おびただしいほどの穴が開いていて、写真だというのにウジ虫のような白い生物がひっきりなしに出入りしている。その下の写真でダブルピースをして微笑む少女の目は、ラズベリーのような粒で埋め尽くされていた。
 目眩がするようなショッキングピンクに覆われた室内のはずだ。ウジ虫の色がこんな鮮明な白になるはずがない。
 荒くなっていく呼吸だけがヘルメットを満たし、熱に目眩を起こしそうになると、ふと私はグリーンアイに支えられていた。緑色なはずのコスチュームが赤く見える。彼の色が反転していた。
「ひっ」
 嫌悪感に彼を突き飛ばし、勢いのままテーブルに背中を預ける。
「す、すまない」
 情けない声を出してしまった。彼は純粋な善意のみの心配で声をかけてきたはずだ。気持ちの悪い光景は消え失せている。
「何を見ていたんだい」
「……関係ない」
 低い声でそれだけ答えた。吐き気を抑えるのに必死だった。
 グリーンアイが壁を一心に見つめて私の示した広告を探しだすと、私は踵を返してホールの奥にある扉を叩いた。
 鍵は閉まっておらず、耳をすましたが向こう側に声は聞こえない。
 吐き気は続く。脳をやんわりと握られているような不気味な痛みを感じていたが、目をつむっていると少し落ち着いていく気がした。
 何がきっかけとなってあの光景が現れるのか見当もつかない。
 痛みと吐き気が少しづつ消え、冷静さが戻る。今は、私の体より優先すべきことがある。
「行くぞ」
「あ、あぁ」
 会場から裏方に入る扉に鍵はかかっていない。わざと誘い込んで迎え討つ気か、もしくはとうに逃げ出したのだろうか?
 思い切って扉を開け放つ。誰もいない。
「……追いかけた方がいいな」
「そうだね」
 濃い緑色の蛍光灯が光る廊下を駆け抜ける。会場の装飾は手の込んだものだったが、裏方は大抵、適当に作ってあるものだ。倉庫型の建物なら尚更。
 足止めなどの目的が人が残っているかと思ったが、案外そうではないようだ。しかしついさっきまで誰かがいた痕跡はあるし、化粧品が散乱している部屋もある。慌てて逃げていった様子だ。
「女達も連れているのか?」
 グリーンアイが意外そうにつぶやいた。確かに、ヒールを履いた女達を連れて逃げるのには苦労するはずだ。何か理由でもあるのだろうか?
「好都合だ。女がいれば、追いつける可能性も高い」
「人質にされたりしないかな?」
 心配そうにいう彼をしばらく見つめた。
 人質……今まで人質をとられるような状況になったことはない。運が良かったのだ。もし、今回の事件で人質をとられてしまったら?
 甘い考えでは戦っていけないことを、少なくとも私は知っている。
「なるべく商売道具に傷はつけたくないとは思うが。もし人質にされても、私は気にしない。人質を助けたければお前が助けろ」
 搾り出した答えは我ながら非情だった。私は空想世界のヒーローじゃない。
「……じゃあ、僕が人質を助けるから、君は犯人を頼むよ」
 グリーンアイはそう微笑む。彼は……スーパーマンになりたいのだろうか。
 私は何になるんだろう。

       

表紙

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Neetsha