Neetel Inside 文芸新都
表紙

見開き   最大化      

 怒りがあるかどうか、自分では分からなかった。ただ、漠然と多くのものを失った、という思いだけがある。左目を失い、父を失い、一時は誇りさえも失った。そして、今では副官のジャミルや、兵を失った。
 天下という一つの夢を追い続け、戦を重ねてきた。しかし、その戦が、俺の大切なもの達を奪っていた。それなのに、未だ天下は定まっていない。いくら戦を重ねても、決定的な勝敗が無ければ、それは無意味なのだ。
 戦の性質が変わった。昔は一戦、一戦が重要な意味を持っていたはずだ。メッサーナは寡兵であり、国は強大すぎる程に強大だった。だから、単純に軍の力が戦の勝敗を分けた。そして、その勝敗は、さらなる展望の足掛かりにもなった。
 しかし、今はどうなのか。一戦の重要度は、昔よりも確実に低い。軍の力も同じ事が言える。戦に勝つ事、軍が精強である事に越したことはないが、昔ほど重要では無くなっている。それは、国と国の勝負になったからだ。すなわち、国力である。
 国力と国力の勝負になったから、簡単に決着がつかない。一戦を制した程度で、天下が揺らぐことは無くなったのだ。現に、ハルトレインはこのアビス原野の戦いで連勝しているが、天下という単位で見れば、大きい勝利とは言えない。
 ただ、多くの者が死んだ。ジャミルが、アクトがこの戦いで命を散らせた。そして、戦が続く限り、命を散らせる者は後を絶たないだろう。次は俺かもしれないし、シオンやニールかもしれない。最悪の事を言えば、バロンであるかもしれないのだ。
 決定的な何かが必要だった。すなわち、ハルトレインの首である。ハルトレインさえ討てば、天下は定まる。そして、父の、バロンの大志も完遂される。
 もはや、仇だとか、宿敵だとか、そういう事はどうでも良くなっていた。とにかく、この乱世を終息させたい。もう、人が死んでいくのを見るのは御免だ、という思いが強い。強すぎる程に強い。ある種の枷とでも言うべきなのか。戦がある限り、決して断ち切れない鎖が、人の死だった。
 死で心が動くことはない。戦場では、動かすべきものでもないだろう。もう、単純に終わりにしたかった。それだけの話だ。
「兄上、兵が兄上を心配しています」
 シオンだった。スズメバチも熊殺しも、多くの兵を失ったせいで、もはや単独の部隊として動くのは難しくなっていた。要となる戦では、常に前線で戦い、劣勢時でも殿(しんがり)を務めた。だから、損害の割合で言えば、俺達の部隊が最も大きい。兵数で言えば、今は亡きアクトの槍兵隊だろう。ほぼ無傷なのは、バロンの弓騎兵ぐらいなもので、残りの軍はみな何らかの損害を受けていた。
「俺の何が心配なのだ?」
「口数が減った、と」
「喋る事が無ければ、喋らないさ。それに、色々と思う事もあるのだ」
「俺も戦がないと、色々と考えてしまいます」
 たぶん、お前の考えている事とは違う。そう言いそうになった。シオンは、まだ熱い何かを持っている。そして、それは俺も持っていたものだ。
「兄上、次の戦では共に動きませんか?」
「何故だ?」
「もはや、単独で動くには兵力が無さ過ぎます。官軍にしてみれば、それこそ羽虫のようなものではないでしょうか」
「そうかもしれないな」
「共に動きます」
「分かった」
 どの道、シオンはそうするしかないだろう。スズメバチの兵力は二百、熊殺しは三百である。合わせても五百でしかない。五百で対する事が出来るのは、せいぜい五千から七千という所だ。そして、やれる事は極端に少なくなる。かく乱と本陣の急襲。これぐらいなものだろう。真っ直ぐに敵陣を断ち割るだとか、縦横無尽に敵陣を駆け回る、という事は不可能に近い。
 だから、シオンの言っている事は間違いではない。
「シオン、早くピドナに帰りたいな」
「戦中です、兄上」
「エレナがお前の帰りを待っているのではないのか?」
 シオンの妻である。女にはひどく疎いと思っていたシオンが、俺よりも先に結婚した。そして、俺はまだ結婚の申し入れをしていない。
「それとこれとは、話が別です。兄上、この戦は天下を決する戦なのです」
 そう言ったシオンの目を、俺はじっと見つめた。確かな志を持っている。そして、どこまでも澄んでいる。そういう目だった。
「シオン」
「はい」
 この男だけには、弟だけには、苦しい思いをして欲しくない。共に戦で、死線を掻い潜ってきた。しかし、その先をまだ知らないのだ。人の死。それが積み重なった時、そして、その積み重なったものが何かに変わった時、シオンは何を想うのか。
 いや、そんな経験をさせる必要などない。
「戦を終わらせよう。この戦で、全てを」
「兄上?」
「共に血で汚れたな」
「どうかされたのですか?」
「いや」
 全てを語れる気分では無かった。弟であるシオンにさえ、俺は語れるものを持っていないのか。
 ハルトレインは孤独。誰かがそう言っていた。しかし、その気持ちが今の俺にも分かるという気がする。ハルトレインは生まれながらにして孤独であり、俺は戦を続けることで孤独になった。
 それが良いのかどうかは分からない。ただ、戦を終わらせるためには、戦を続けるしかないという皮肉が、さらに孤独を際立たせていた。
「ハルトレインを、俺は討てるのかな」
 言葉にしていた。討たない限り、戦は終わらない。だから、討たなくてはならない。しかし、一線を越えた俺のハルトレインに対する想いは、憎しみだとか怒りだとか、そういうものではなくなっている。
 上手く表現はできないが、次に対する時が最後であり、何らかの決着はつくだろう。これは予感ではなく、確信である。
「討てます。兄上ならば、討てます」
 そう言ったシオンに対して、俺はただ頷いた。
 今の俺は、剣の切っ先だ。鋭く、ハルトレインだけを見据えている。そこには、憎しみも怒りも無い。
 澄んだ心。明鏡止水の心だけが、今の俺にはある。

       

表紙
Tweet

Neetsha