Neetel Inside 文芸新都
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 ようやく、俺もスズメバチ隊の調練に慣れてきた頃だった。以前は調練が終われば、そのまま帰って泥のように眠るのが常だったが、最近は調練後に方天画戟の素振りをやるようにしている。俺も、その程度の余裕は持てるようになったのだ。
 繁華街の飯屋の前で、俺は一人で突っ立っていた。周りは、どやどやと人の雑踏で溢れ返っているせいか、何かと騒々しい。
 ダウドが二人きりで話したい事がある、と言ってきた。内容を聞いたが、その場では教えようとせず、ニールやレンにも言わないように、と口止めもされた。
 ニールはともかく、レンにも言うな、というのは少し気掛かりであった。言ったダウドの表情も真剣だったので、無碍にする事もできず、俺も話を聞こうという気になったのだ。それで、繁華街の飯屋だった。
「そこのお兄さん、お暇?」
 ふと、雑踏の中から声が聞こえた。遊女が誰かを誘っているのだろう。声色に艶かしさが感じられる。
「ちょっと、そこの貴方よ」
 また声が聞こえた。そう思い、何となく声の方向に顔を向けると、すぐ傍に女が居た。
「? 俺か?」
「そうよ。お兄さん、貴方のこと」
「はぁ」
 どう反応すれば良いのか分からなかった。遊女に声を掛けられたのは、今回が初めての事である。というのも、遊女が声を掛けるのは大人の男ばかりだ。そうやって男を捕まえて館に引き込み、『遊び』をさせるのだ。
 そこまで考えて、俺は自分に声を掛けられた事の意味に気が付いた。
「いや、その」
「逞しい身体つき。どう?」
「どうもこうもない、です」
 女が近寄ってくる。嗅いだ事もないような、良い香りが鼻をくすぐった。何か、頭がぼーっとするような香りだ。
「すいません、勘弁してください」
「なぁに? 『まだ』なの?」
 言われて、俺は赤面するしかなかった。もう十九になったというのに、俺は女を抱いた経験がない。よく見ると、女は相当に露出の高い服を着ていた。歳も俺とそう変わらないように見える。
「人を待ってるんです」
「女の子?」
「いや、違います。それに、俺は銭も持ってないから」
 俺がそう言うと、女はニコリと笑って少し離れた。銭がないのは、本当の事である。財布の中には、飯代程度の銭しかないのだ。
「そう。じゃあ、また今度ね」
 そう言って女は微笑み、雑踏の中に消えていった。
 やけに諦めが早いな。もしかしたら、俺に近寄った時に、さりげなく財布の厚みを調べたのかもしれない。女が消えていった方を見ながら、俺はぼんやりとそんな事を考えていた。
「シオン兄」
 それから少し経ってから、ダウドは現れた。
「お前、人を呼び出しておいて遅刻とは無礼な奴だな」
「ごめん。ニールさんと剣の稽古をやってたんだ」
「それが遅刻の理由になるのか?」
「剣同士じゃ、勝負が付かなかったんだよ。それで、ニールさんが偃月刀でやるって事になって」
「ほう」
 ダウドは、着実に強くなろうとしている。相変わらず、身体は小さいままだが、剣術という能力の開花は始まったようだ。ここからの成長は早いだろう。芽さえ出れば、ある程度の所までは一気に行く。
 二人で、飯屋の中に入った。適当な料理を注文し、水の入った杯に手を伸ばす。本当は酒が飲みたいが、ダウドは下戸なので、一緒に飲む事はできない。
「で、話ってのは何だ? ダウド」
 料理が来てから、俺は切り出した。
「あ、あぁ。まぁ、その」
 急にダウドが落ち着きをなくし、顔を赤らめる。なよなよと身体を揺らしているのを見るのが何となく嫌で、俺は料理の方に目を移した。
「気持ちが悪いな。どうした?」
「シオン兄は、女を抱いた事はあるかい?」
 言われて、俺は思わずダウドの顔を見た。しかし、あまりにもだらしのない表情だったので、俺は再び料理の方に目を移した。
「なんでそんな事を聞く?」
「良いから答えてくれよ」
「もちろん、あるに決まってるだろう」
 嘘をついた、というより、口が勝手にそう言っていた。すると、ダウドは大きなため息をついた。
「やっぱりそうかぁ。なぁ、どんな感じ?」
「どんなって言われてもな」
「レン兄やニールさんも抱いた事あるのかな」
 そんな事、俺が知る訳がない。そもそもで、ダウドは何の話をしているのだ。
「お前の言っている意味がわからないぞ」
「俺、気になる女の子が居るんだ。でも、どうすれば良いか分からない」
 そう言って、ダウドは再びため息をついた。
 ダウドに好きな女ができた、という事だった。何故、抱くとかそういう話が出たのかは分からないが、ダウドにとっての男女の交際とは、そういうイメージのものなのかもしれない。
「シオン兄、俺はどうしたら良いんだろう。相手は商家の娘なんだ。つまり、金持ちなんだよ。それに比べて、俺なんて。せめて、スズメバチ隊の兵だったらな」
「なぁ、ダウド。それこそ、兄上やニールに話した方が良かったんじゃないか?」
「駄目だよ。特にニールさんに話したら、大変な事になる」
「なら、兄上は? 根拠はないが、俺などよりずっと良いアドバイスが貰えると思うがな」
「だからだよ。俺は、レン兄のおかげで女を抱けた、なんて思いたくないんだ。シオン兄じゃないと駄目なんだよ」
 それを聞いて、俺は何となく変な気持ちなった。ダウドの奴、さりげなく俺に対して失礼な事を言っていないか。
「しかし、俺からは何も言えん」
「どうして?」
「俺がその娘を知らないからだ。それに女という一つの括りにしてしまうのも、どうかと思うぞ。まずは、その娘をよく知る事から始めてみろ」
 我ながら、もっともらしい事を言えた。喋り終えて、俺はそう思った。ふと、ダウドの方に目を向けると、表情が輝いている。
「さすが、シオン兄。ありがとう。うん、そうしてみるよ」
「あぁ」
 そう言って、俺は腰にぶら下げている財布の方に手をやった。ちょうど料理を食い終えたので、会計の準備である。
 だが、財布の気配がない。両手を使って腰をまさぐるが、やはり見つからない。ここで、あの女の顔が浮かんできた。ダウドと会う前にやり取りをした、あの遊女だ。
「ダウド」
 すられた。財布をあの女にすられたのだ。
「どうしたの、シオン兄」
「飯を奢ってくれ」
 義弟にこんな頼み事をする羽目になるとは、俺は夢にも思わなかった。

       

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