Neetel Inside 文芸新都
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 神様がもしそこにおいでになるなら僕の罪を糺して下さい。僕の手をとりどれだけ汚れているのか開いた手をまじまじと見つめて下さい。それから僕の顔にぺっと唾を吐き、杖でもなんでもいいから僕の頭を殴りつけて下さい。僕の罪を丸々明らかにした上で、何一つ今までこの世界に実在した痕跡がなかったように消し去って下さい。あらゆる僕についての記録を取り消してほしいのです。僕は悪いことをしました。その上僕は嘘つきです。僕という男はひどい男なのでした。嗚呼神様!彼女を殺したのは僕なのです!

 知っています、知っていますとも、神様は何もかも知っておられる、もちろんですとも!悪人は人から悪事を隠し通せたとしても神様には全部お見通しのことなのです。騙したことはおろか騙そうと魔が差した瞬間でさえ。けれども自分から告白し自分の心に一つひとつ形を与え言葉にしないとどうにも気が済みません。悪人には悪人なりの言い分というものがあるのです。


 全てお話しましょう。罪人の半生を。
 僕は貿易商を営む家に生まれました。兄妹は二つ下に妹がおりました。しかし彼女は十五歳の時、事故に巻き込まれて死んでしまいました。信号を無視したトラックが交差点を渡っている車の左横に衝突し、弾き飛ばる格好でその車は勢いのまま道に乗り上げ、信号の前で待っていた僕の妹を轢いたのです。トラックのドライバーは居眠り運転だったそうです。目撃者が幾人もいる広い通りでしたので、すぐに救急車が手配され病院に迅速に運び込まれたましたがそこで息を引き取りました。失血死でした。

 僕は彼女を誇りに思っていましたが、両親は僕以上に彼女のことをそう考えていたかもしれません。
 妹は利発というか一種の天才だったと思います。ノートをメモのようにして取ると授業の後にそれを見ながらだと先生の一言一句がほとんど思い出せると言っていました。家で参考書をパラパラとめくっているところは見たことがありましたが、僕みたいに試験前日まで机に向かい睡眠時間を削って勉強していることはなかったと思います。それで大体学年十位以内を争っていました。十位というのは手を抜くからです。勉強にまるで興味がない時があると言っていました。これは親しい者ならみんな知ってる嘘ですね。彼女は目立つのが嫌だったのであえてそう言っていたんです。わざと手を抜いてしなかったとみるべきでしょう。やれば一位なんて簡単だったと思います。運動も手本をみせれば大体できたようです。ただ彼女はどちらかというと文科系だったので、あまりスポーツには興味を持ってないようでした。子供の時から水泳とテニスをやってましたが、中学に入ると帰宅部同然の卓球部に入り、友達と話したり、本を読んでいたようです。好きなことはボードゲームでこれは父の趣味だったんですが、家にあるものはなんでもやってました。家族皆を敵に回してボードゲームをやったのを憶えています。初めは僕たちが勝つのですが、次第に彼女が優位になり回数を重ねるごとにもう3対1でも勝てなくなりました。そんな風だから家族や周囲は将来のことが気になります。それを尋ねられると決まって妹は同時通訳をやってみたいと答えてました。僕にだけそれは方便だと教えてくれました。友達にも言ってないようでした。彼女は実のところ女優になりたかったんです。ニューヨークに行って演劇の分野で成功したいと僕に語っていましたから。

 僕はというと能力は平凡で性格は人一倍内気で暗い兄でした。学校で友達は数人いたのですが、どいつも僕を馬鹿にしてましたね。本番前になるとお腹が痛くなったし、授業であてられて本を読んでも詰まるんです。吃音とかじゃありません。皆に見られていると思うと不安になり顔が熱くなって舌がやけに乾くんです。それだけじゃない。なにせ妹が輝き過ぎていたんです。なぜか母は僕と同じ学校にあいつと入れたがって。周りは妹はああなのに兄貴がアレだなと言う。僕は意識して余計おかしくなる。母さんからは私は二人の味方よとよく言われました。それもどこまで本当だったかわかりません。

 父ははっきりした性格でした。僕は憶えています。中学二年の終わり、不甲斐ない成績表を家に持ち帰り、居間でソファに深く座っていた父に恐る恐る見せた時のことです。父はじっとそれを睨み内容がわかるや「馬鹿は勉強しても馬鹿だな」とため息をつきながら、僕に返し、腰を上げて部屋を出て行く際に独り言のように呟いていました。「兄貴が妹よりできないはずがない。兄妹が逆だったら丁度なのになぁ」と。

 父は外では男女平等な紳士を演じていましたが家では男性中心で物事を考える昔の人でした。そんな父を知っていたから母は僕を守るのです。この子を責めないでってね。でもそれは違う。別の理由があったんです。母はリベラルな家で育ったから息子の批判に夫の女性蔑視の視点が重なってみえそれで憤っていたんです。あたかも自分が女性の代表であるかのように。でも父にしてみれば何をやってもできる賢しげな兄と、出来は凡庸だが努力家で真面目な妹といった構成だったならそれはきっと理想的だったのでしょう。

 妹を讃えてばかりいると胸が疼いてきます。僕の中に住む悪魔の棘が刺してくるのです。妹のことを名誉だと思うほど僕の額に刻まされた劣等種の烙印から血が滴り落ちてくるような気がします。手で額をなぞって血が出てやしないかと確認したくなります。僕はそんな卑しい人間だったのです。

 それはしかし僕ではありません。兄想いの愛しい妹を憎む兄がこの世界いると思いますか? 憎いんでいたのは兄ではない僕の中にいる化け物なのです。それは幼稚で姑息で人の物を妬んで欲しがります。聞き分けの悪いひどい万能感をもった無邪気な幼児です。


 妹が死んだ時、僕は鏡を見てぞっとしました。事故の報を聞き、妹が運び込まれた病院で死の宣告を受けた母は顔を伏せ父も母を庇いつつ深い衝撃に沈んでいました。僕も同様に家族の前で呆然としていましたが、悲しみに耐え切れなくなり、ただ無性に一人になりたくなってトイレへ駆け出し、そこの洗面台の前に立つとふわっとタガが外れ嗚咽しました。泣いて泣いて泣きまくったら、ふとストンと世界から音が消え去り、目の前の鏡を覗くとそこにもう一人の自分が映りこんでいたのです。

「よしなよ、白々しいなぁ」「なんで泣くの?誰もいないのに」「兄ちゃんの涙は不潔だな」「一つも本当なものが含まれてないものね。どれも嘘の涙だ」「僕は知っているけど兄ちゃんは死を告げられた時悲しむのをためらった。あの空白は一体何?」「兄ちゃんが戸惑ったのは兄ちゃんに心がないせいだ」「ほら、今ですら心から悲しんでなんかいない、疑っている」「どうしていいかわからなくて、親や看護師さんといった他人が泣いたり、悲しんでいるところを見てその表情を真似てみた、さっきの涙はそれだけでしょう?」「こういう場面ではきっと泣くものだ、そう思って泣いてやがるんだ」「僕はね、兄ちゃんとは違うよ!」「僕は嬉しくて清清しい、心からそう思っている」「邪魔者だったんだよ、あいつ」「なんであいつは全てを持っていて僕たちは何も持っていないんだ?」「あいつは運が良かったんだ。そうだろ?あいつはたまたま天才に生まれてきた。だから努力や挫折を生まれつき免除されていた」「それがどうだ。あっ気なく死んだ。あいつ自ら羽目を外したわけじゃないのに」「喜べよ兄さん、なんで無理して悲しもうとするんだ、神様って人は平等だったのにさ!」「運良く特権を得てこの世に生まれ、最期は運に見放されてあの世行き」「本当にこんなことがあるなんて!こんなことがあるなんて!神様っているんだね!ははは」「――兄ちゃんは笑わないの?僕は笑ったよ――、さあ真似てごらんよ!」

 やめろと言いました。鏡に叫んだんです。洗面台を拳で殴りました。痛みで我に帰ると、今自分はどんな顔をしているか確かめてみたくなりました。それがいけなかったんです。その表情がどんなだったか今でもわかります。顔が憶えているんです。笑っていました。顔中の筋肉がゴムのようにしなって。咄嗟にいけないと思って泣いているように表情を直そうとしました。するとゴムのようにまた元の禍々しい笑顔に引っ張られて戻るのでした。

 これが僕です。僕の胸の中には僕と似た幼い僕、いわば弟がいるんです。そうです、この悪魔が人を殺したんです。

       

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Neetsha