うおのひと


 昔々あるところに、大層顔立ちの整った人魚の男がいました。男はひれを足に、鰓を肺に変える魔法でたびたび人間の世界に遊びに出かけておりました。それはとても愉快でしたが、男はいつもどこか物足りなさを感じておりました。ある時、男がいつものように人間の街へ出かけて行くとそれはそれは素敵な人間の女性に出会いました。可憐な印象の目鼻立ち、華奢な陶器を思わせる白く滑らかな手足、薄桃色の薔薇がそっと花開くような笑み、話をしてすぐにそれと知れる心根の上品さと繊細さ。男はしばし自分が人魚であることも忘れて夢中になりました。海に帰っても男は女性のことが忘れられず頻繁に会いに行く内、やがて二人は恋におちました。
 そうして男は女性に会いに行くためだけに魔法を使うようになり、女性もまた男といつも一緒に居ることを望みました。しかし、男の魔法には限りがあり、あまり長い間人間の世界に留まることはできません。また、彼の肺も地上では長くは保ちません。
 そこで、男は彼の母でもある高名な魔女を訪ねることにしました。
「母様、私の足を人間のそれにしてください。この鰓の代わりに人間の肺をください」
「よろしい。お前を失うのは心苦しいが、お前の幸せを祈っている」
 二つの新月が満ちる頃、人間の足と肺を手に入れた男は真っ先に女の元へ向かいました。女は男の再訪をとても喜びましたが、何故かすぐに浮かない表情を見せるのです。男がどうしたのかと気になって女に尋ねると、女はこう言いました。
「あなた様の気持ちは嬉しいが、私には今、あなたとは別に恋人がいるのです」
 男が海へ帰っている間にいくらかの時が流れていましたが、それは決して長い時間ではなかったものですから、男は当惑しながらそれでもこう答えました。
「それでもあなたの傍に在りたい」
 それを聞いた女は、浮かない顔をぱっと輝かせて、あの花のような笑みで頷くのでした。

 月日は尚も流れます。男は幸せと不幸せの境界でいつも揺れていました。ある陽の高い日に男が浜を歩いていると、遠くに女とその恋人が海辺の品のいいレストランで食事をしているのが見えました。男は深い悲しみにうちひしがれ、そのままレストランが見えなくなるまで浜をずっと歩いて行きました。
 男が浜の端の岩場で茫と時間を過ごしている内にそろそろ帰らなくてはと思い始めたころ、海の方から男の名を呼ぶ声がしました。そちらを見ると、どうやら人魚がいるようです。それは男が海で過ごしていた頃の友人で、半身を水に漬けて彼を呼んでいるようでした。友人はこんなことを男に言いました。
「君のお母様から預かったこの短刀であの人間の女を刺せば、君の魔法は解けてまた海に帰れる。君のことだ、すぐには出来ないだろうから今すぐ刺せとは言わないが、どうかこれを持って行ってはくれないだろうか」
 男は断ったものの、ついに根負けしてその短刀を受け取りました。

 友人が去った岩場で、男は考えます。
(あの人との日々は幸せだが、そこに未来はないようだ。恋人と別れて私の傍へ行くと言ってくださったのはいつだったろうか。ああ、そんな約束も、あの様子では覚えていないと見える。一番に愛される日はきっとこないが、それでも私はあの人を愛してしまっているのだ)
 女は昼間は恋人と会い、夜は男と一緒に過ごします。男は献身的に女に尽くしましたが、反対に女はだんだんと横柄な態度を取るようになりました。男は胸の痛みを常に感じていましたが、隣で眠る女の横顔を眺めている時だけは深い幸福で満たされ、それ以上を望みませんでした。
 憎らしい太陽が昇り、また沈むのを何度か繰り返したある日。男が女との約束までの時間を潰していると、女とその恋人が街を歩いているのを見かけました。男は慌てて隠れましたが、こっそりその姿を見ていると沸々と厭な感情がこみ上げるのを感じました。
(ああ、何故私は隠れているのだろう。いや、もはやそんなことに意味はない。あの人は私を見てなどいない。あの人が見ているのは、私の目に映ったあの人自身に他ならない)
 男はこの時、全て終わってしまったと感じ、表情をなくしました。その晩、女は男の様子を見て大層心配しましたが、男はただ「なんでもない」と言って、小さく笑うのみでした。
 女が寝静まったのを見計らって、男はそっとベッドを抜け出しました。そうして、ベッドの下に大切にしまってあった短刀を取り出すと、男は女の髪をそれは愛おしそうに撫でながら、さめざめと涙を流しました。心優しい男には、女の心臓を刺し貫くことなどできませんでした。まして、男は女を愛していましたから、その相手を傷つけることは自分の身を刺すことよりも酷でした。
 悩んだ果てに、男は女の手を取ると短刀を軽く当てて、すっと薄く、優しく滑らせました。じんわりと女の手の甲に、ほんの少しだけ血が滲みます。女はまるで気づかない様子ですやすやと可愛らしい寝息を立てていましたが、その時にはもう男の足には鱗が生え始めていたのです。女の家の玄関を出る時、戸に足が引っかかって鱗が剥がれました。しかしそれには目もくれず、男はだんだんと重くなる足を引きずるようにして、あの浜辺まで走りました。やっとの思いで岩場にたどり着いた時、男の足は完全に魚のそれになり、水の中に倒れこんでいきました。



 男はその後、暗く冷たい海の底で生涯を孤独に過ごしました。男の居場所は誰も知りません。時折あの岩場の底からすすり泣くような声が聞こえるそうですが、それが男と関係があるのかどうかもまた、誰にもわかりません。
 女はと言うと、それから恋人と二人で幸せに暮らしましたが、男が残した鱗は首飾りにして、その所以こそ誰にも話さなかったものの、いつも大切に身に着けているそうです。

おしまい。