Neetel Inside ニートノベル
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「で、だ」
 エティクスがいなくなったのを見計らい、マーが言った。
「何なんだ、ここ。研究所の地下に、なんだってこんな場所があるんだ? あいつらは何なんだ?」
「多分だけど、ここは誰かの作った支配空間で、彼らは奴隷みたいなものじゃないかな」
「奴隷……?」
「あの女も言ってたけど、彼らは人間じゃないんだ。少なくともそう扱われている。生産し、技術を磨き、身体を鍛える。そうして人間……宮殿にいるっていう奴らの下働きをする」
「何だよ、それ。あいつらだって人間だろう。おかしいだろ、そんなの。何でそんなものを……」
「知らないよ、こんな場所を作るやつの考えなんて。そんなやつら、支配者気取りの理想狂だ」
 頭がついていかない。情報を整理しようとしても、うまく頭が働かなかった。
「あー、ちょっといいかな」
 忌広さんは手を挙げた。
「少し整理してみよう。誰かが研究所の地下にこんな場所を作った。それはおそらく、小山真世か、葉桐の人間だ。下働きは彼らに任せ、自分達は楽に暮らす。そんな理想郷。そういうことかな」
「多分、そうです」
「なら、宮殿とやらに向かうのがとりあえずの方針、ってことでいいのかな」
「はい。そうなるでしょうね。外部と連絡を取るにはそうするしかないでしょう」
「ふむ……果たして通信設備があるのかな」
「え?」
 忌広さんは爪を噛んだ。
「ここが理想郷だというのなら、外部と連絡を取る必要はないだろう?」
 まるで当然のことだとばかりに。
「何故ですか?」
「トマス・モアのユートピアを読んだことはあるかい?」
 概要くらいは知っているが、読んだことはない。マチは知っているかもしれないけど……。
 僕の表情を見て、忌広さんが説明をする。
「理想郷というと桃源郷や天国のような場所を思い浮かべるかもしれないが、本来のユートピアは、理想の社会形態のことを指すんだ。その中で、ユートピアは基本的に外部と接触のない国として描かれている。世界が丸ごと平和というのは不可能だからね。自分達の手の届く範囲を理想とする。だからユートピアにおける理想郷という概念は、あくまで閉じているんだ」
「ということは……」
「閉じ込められたかもしれないってことさ」
 何がおかしいのか、忌広さんはくっくと笑った。
「彼らを見ただろう? あのガラスの中の女にそっくりだ。彼らは作り物なんだと思うよ。作り物の空間に、作り物の人間。ここは作り物の理想郷だ。誰かの妄想を具現化した、自己中心的なパラダイスさ。あの変人なら考えかねない」
「…………」
 僕らは何も言えず、ただ黙って忌広さんの妄想を聞いた。いや、妄想ではないのかもしれない。本当のところは僕らにはまだわからない。情報が不足している。
 忌広さんは楽しそうに、いつまでも含み笑いを続けていた。エティクスが用意した寝床に案内されるまで、彼はにやにやと笑い続けた。ずっと。やっぱり彼も、どこかおかしい。
 簡素な寝床だった。木の床に人数分の敷布団、それに一枚ずつの毛布。寒くはないからそれで十分だ。寝転がり、目を閉じる。考えが頭をグルグルと回って眠れそうになかった。
 記憶を遡ると、どうやっても思い出せない壁に当たる。ずっと昔ではない。つい最近のことでも、辿れない場所が必ずある。脳が全てを記憶しているというが、あれは嘘だと思う。必要のない記憶は、次々に消去されていく。当然のことではないか。メモリは無限ではないのだ
 大切なことを忘れている気がした。しかし、忘れるということは、それが大切な記憶ではないということだ。したがって僕の記憶は大いなる矛盾を抱えることになる。
 大切なことは、忘れたという事実。それだけだ。




 僕は窓から覗く光を朝日と誤認する。目を覚ましたのは、ビジョンスクリーンから垂れ流される光が眩しかったからだ。あれは断じて朝日なんかじゃない。
 僕は忌ま忌ましい光を睨んでから、腕の中のメイを見た。メイはすうすうと寝息を立てている。僕は再び目を閉じた。
 メイの美しさは、偽物の光の中でも変わらなかった。エティクスやゼノのような、完全で精緻な美ではない。もっと生々しく、肉らしい、躍動的な美。精力的で、目を逸らせない。かつて一目で僕は、メイを世界の一部と認識した。容姿だけではない、その有り様をこそ、僕は愛した。
 寝返りを打つと服がはだけて、メイの脚や腕がちらと見える。そこにはこの世で最も汚らわしく、この世で最も純粋な願いが刻まれている。
 メイは神様だ。いや、かつて神様だった。鰯の頭よりはそれらしく、柳の葉よりはしかつめらしく、それまで見た何よりいやらしい、世俗に塗れた、人工の神。
 メイは神であり、神子であり、現人神だった。
 宗教は欲望だ。こうありたいと願い、こうあるものだと決め付け、それ以外の全てを否定する。崇高な理念も、低俗な願いも、全て等しく欲望だ。願い全てが宗教ではないが、願いの数よりも多く宗教がある。
 中でも、メイが受け負ったのは最低の部類。欲望と、歪んだ美意識と、諦観の神。
 メイの身体には入れ墨が入っている。手足の伸び切らないうちに彫られた、欲望の形。成長と共に皮膚が伸び、それは歪んだ欲望の象徴のように、メイの身体を縛っている。催淫術のように心を引き付ける、魅惑の模様。
 メイが身体をくねらせるたび、信者達は歓喜の声を上げる。メイの手が自身をまさぐるたび、信者達は雄叫びにも似た声を漏らす。信者達は神に倣い、穢れを吐き出す。全ての穢れは、メイがその身に受け止める。そうすることで、信者の穢れは浄化される。
 イカレた大人、イカレた信者の、イカレた儀式。僕の埒外にはこれだけの汚い大人がいて、これだけの小児性愛者がいる。
 そんなものは僕の世界じゃない。
 メイが八つの時から十二になるまで、そのイカレた儀式は続いた。僕がこの手で終わらせた。
 あの時のメイの痴態は、今も脳裏に焼き付いている。ひどく純粋で、ひどく浅ましく、可憐で、妖艶で、あどけなく、いやらしい。二律背反の塊のような、奇跡の具現化。
 監禁に近い環境で育ったメイにとって、世界とは信者達であり、信者とはメイを愛する者のことだった。無償の愛ではない。愛欲を注ぐ人間だけが、メイの信者足り得る。
 今はもう、メイの信者は僕だけだ。だから、メイが受け入れるのは僕だけ、僕と僕の世界だけだ。それ以外の全ては、メイにとって等しく無価値だ。
 皮膚は入れ替えることもできる。しかし、メイはそれを望まない。それが自分を構成する重要な要素であると思っているからだ。それが僕との絆だと。
 入れ墨が歪んだ今もなお、週に一度の儀式は続けられている。それがメイの世界をほとんど壊した僕にできる、唯一の償いだった。
 目を瞑って、もう一度腕の中にいるメイを抱きしめる。安心感がそこにはあった。まどろみはすぐに訪れる。



 もう一度目を覚ました時、偽物の太陽はもう高く昇っていて、自分がどれだけ疲れていたのかを自覚した。腕の中の神様はまだ眠っていた。起こさないように身体を起こす。それでもメイは気配を察して起き上がり、僕について部屋を出た。そこにはエティクスと、忌広さんがいた。
「それで」
 これは社会見学だ。僕はそう思い込もうとしながら、そう振舞うように心掛ける。
「君達の仕事って、どういうことなの?」
 うまく言えただろうか。さりげない風を装えただろうか。エティクスは慣れた様子で僕を見た。
「仕事……仕事ね。そう、仕事か」
 エティクスは、まるで初めてその言葉を声に出したかのように反芻する。
「僕達はエティクス。この生業の管理責任者をしている」
「管理責任者……それは、この町で一番偉いってこと?」
「偉いというと語弊がある。統括をしているだけのことだ」
「それを偉いというんじゃないかな」
「そうなのか。だとしても、与えられた権力にすぎない。権力を与える者にこそ、偉いという言葉は使うんじゃないか」
 至言ではあるが、その認識はどこか奇妙だった。知識は無いが知性はある。怖いくらいに。
 人間とは知性のあるものだと、あの女は言っていた。
「それで、君達が統括している業務内容は?」
「僕達の仕事は、生活必需品の生産。食料、衣服、建材など。生きていくのに必要な物は僕達が作っている。種を撒き、肥料を撒き、牛や豚や鶏を育て、卵や乳を採り、加工し、それらを運ぶこと」
「要するに、農業を?」
「農業……畜産も、だが」
「なるほどね」
 第一次産業の町。オートメイションされた現代の農業とは違う、人……彼らの手による生産。どうせ、土から肥料から徹底管理されているのだろう。
「それに、移動の際に手筈を整えることか」
「移動?」
「三ヶ月に一度、宮殿にいる僕達も入れ替わるだろう? それをつつがなく完了するために責任者は働く。だから、責任者だけは移動しない」
 宮殿、健全、知性、それに生業。四つの町があり、そこにいる彼らは四半年ごとに入れ替わる、ということか。
 健全で精神と身体を鍛え、知性で学び、生業で働き、宮殿で暮らす。一年という概念があるのかはわからないが、そうして暮らしているらしい。ただし、責任者であるエティクスを除いて。
「ここについてはわかった。それじゃあ、知性、それと健全について教えて」
「それなら、僕達じゃなくて実際に現地で聞いたほうがいいんじゃないか?」
 確かに、そうだ。どう返す?
「客観的な、君の意見を聞きたいんだ」
 忌広さんが言った。うまいフォローだ。伊達に記者を名乗っていない。誰かも見習え。
「そういうものか」
 エティクスはあまり難しく考えないようだった。
「ふむ……健全はここから歩いて半日の場所にある。石の町で、身体を鍛え、精神を鍛え、僕達の身体のメンテナンスをする。欠陥のある固体は宮殿に送られ、再生産される」
「再生産?」
「ああ」
「それはどういう意味?」
「詳しくは知らない。液体に浸かって目を閉じると、何もかも新しくなっているんだ。身体も、頭も」
 クローンの生産ともまた違うのだろうか。詳しくは知らないと言った。なら、仕組みを理解はしていないのだろう。仕方なく質問の方向を変える。
「じゃあ、健全の代表はどんな奴?」
「代表……統括しているという意味でなら、ソルスという名の牝がそれに当たる」
「ソルス、ね」
「じゃあ、知性っていうのはどんな場所?」
「悪いがそれも知らない。僕達は知性に行かない。たまにメンテナンスで健全に行くことはあるが、知性に行く機会がない。僕達は長く生業を離れるわけにいかないからな」
「じゃあ、君達以外に誰か知っている人はいないの?」
「いるさ。僕達以外の僕達は知性に行くから。呼ぶかい?」
「いや……」
 エティクスの語る健全と同程度の情報しかないのなら、あまり意味が無い。予備知識程度にしかならない。実際に行って見るしかないのかもしれない。
「他に何か質問はあるかい」
 エティクスの声に、僕は首を振った。




















       

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