Neetel Inside ニートノベル
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 隣の部屋にマーがいて、野中さんと談笑していた。不愉快だった。この女も、それ以外も。
「おはよう」
 声を掛けると、マーは慌てたように会話を止めた。
「よ、よう、おはよう」
「…………」
 無言で睨まれる。僕は一瞥してからもう一度言った。
「おはようございます」
「……ホント、何なのよあんた」
「はぁ……それしか言わないんですね、あなた」
「っ! うるさい!」
 わからないことがあるたびに「何なのよ」。自分では何も考えないし、見付けようとしない。記者のくせに、ただ愚鈍に答えを求めるだけだ。
「気持ち悪いのよあんた。マー君はあんたの言いなりだし、他の子達もあんたの奴隷みたい。丁寧な口調でしゃべるかと思えば、馬鹿にしたみたいに見下す。何様なのよ、あんた」
「気持ち悪いならもう構わないでください。僕はあなたに興味がないし、むしろ邪魔だと思っています。僕は僕様だし、あなたを見下しています」
 パンッと、小気味よい音がした。涙目になった野中の手が、僕の頬に手形を付ける。
「こんな侮辱、受けたことが無いわ」
「そうか、良かったじゃないか。貴重な体験ができてさ」
「このっ……」
「おい、花音さん、やめろ」
 マーが振り上げた手首を握るが、野中は振りほどいた。
「触らないで!」
「喧嘩はよせ。ユタカもそれ以上煽るなよ。今はそんなことしてる場合じゃないだろ?」
 マーの目はきつく釣り上がり、男としての物に近かった。
「まあ、ね……言い過ぎたよ」
「私は謝らないわよ」
「いらないよ。意味がない」
「くっ!」
 野中はまた手を振り上げた。その手を掴む。
「世間知らずだな。お前も、僕も」
「一緒にしないでよ、あんたみたいな異常者と!」
「異常者? 僕はただの世間知らずだ。世の中うまく渡れやしない。それはお前も一緒だろ? 僕もお前も、世界が思い通りにならなきゃ気が済まない世間知らずなんだ」
 そうだ。僕は世界の全てが思い通りでなきゃ嫌だ。そうならなければ癇癪を起こすし、ちやほやしてくれる世界に逃げ込む。その世界を創ることがどれだけのことか。
「人間なんて、みんなそうだろう? 人間は自分が心地好い空間を求める。その形はそれぞれ違う。僕は異常者じゃない。僕はただ我が儘で、理想が高い。それだけのことだ」
「異常よ! なにが僕を殺して死ねばいいよ! 異常者にしか言えない台詞だわ! 異じょっ……!」
 咄嗟に、僕は野中の首を掴んでいた。
「お前がさ、お前ごときがさ、僕とメイの何を知ってるって? 何も知らない部外者がさぁ、偉そうに口出しするなよな」
「ぐっ……ぶごっ」
「ユタカっ! やめろっ!」
 マーが僕を羽交い締めにする。
「何、マーはこいつの味方なの? 僕よりこの女のほうが大事? そっかぁ」
 僕は首から手を離した。野中は倒れ込み、ゴホゴホと汚い咳をする。
「大丈夫か? ……ユタカ、そうじゃない。そうじゃないんだ。俺は……」
「マー、僕のことあんまり好きじゃないもんね。だからそうやって他人と関わろうとするし、僕を、僕らを変えようとする」
「そうじゃない。ユタカ、違うよ。俺はただ、ユタカに幸せになってほしくて……」
「そんなの、僕は望んでないんだよ!」
 勘違いもいいところだ。甚だしく、著しい。でもそれが、埒外では常識なのだ。世間一般では、間違っているのは僕のほう。そんなこと誰だってわかる。だからなんだっていうんだ?
「お友達が多ければ幸せってかい? そんなのはさ、本当に大事なものがないから言ってるだけだ。大切なものが一つでもあればそれだけで幸せだろう。僕はそんな、幸せもどきを外部からしか見付けられないやつらとは違う。大切なカケラがいる。守りたい世界がある。それ以上は何もいらない!」
「違う、ユタカ……俺はっ!」
「僕の世界は僕を愛している。だから、僕は僕の世界を愛している。マー、僕のこと好きじゃないだろ。丸ごと好きなら、変えようなんて思わないもんな」
「違う! 好きだから、愛しているから変えたいんだ!」
 そう叫ぶようにしたマーは、映画のワンシーンのようで素敵だった。こんないい場面を見ることができたのは思い出になる。
 昔から、マーは危うかった。僕に惚れているのは本当だろう。理由? そんなものは知らない。マーが僕を愛していないなんて思っていない。ただマーは、僕の世界になるにはまともすぎたのだ。
 同性愛。
 そんなもの、欠陥ですらない。ただ人間だったということだ。一途に僕を愛する乙女のような姿は、僕の心にクるものがあったけど、それが仇になることもあるのだろう。決定的に愛し方が違うのだ。マーは僕にまともになることを望むけど、僕はマーの言うまともになんかなりたくない。
 まとも。
 なんて素敵で、まるで意味がなく、独善的なのだろう!
「そうだね、好きなものは思い通りにしたいさ。でも、君のはそれと違うだろう?」
「……俺は、ただ、ユタカを幸せにしたいだけなんだ」
「うん、じゃあ、ここまでだね」
 こんなにも愛し方が違う。ならもう、愛し合うのは不可能だ。
 そして今、一つ、大切なものが無くなった。
「お前、もういいや」
「え?」
「じゃあね、愛していたよ」
 そう言うと、僕はマーを世界から切り離す。
 自分でも感情的になっているのがわかる。しかし、根拠の無い怒りではない。これは前からあったことだ。状況次第だけど、こうなる可能性は感じていた。積極的にそう望むのではないけれど、いつだってあり得たことだ。
 世界は、僕の世界はマーを必要としない。僕を愛さない世界は、僕の世界じゃない。
 だから、もうさようなら。
 告げた瞬間、伊佐々の顔が青ざめるのがわかった。僕の声音から、その意思を感じ取ったのだろう。
「ユタカ、おい……」
「聞こえなかった? もういいって言ったんだよ」
「ユタカっ!」
 伊佐々が僕の肩を掴む。目に涙が浮かんでいた。ああ、少し惜しいな。でも、関係性はもう壊れた。取り返しはつかない。誤解したわけでもない。吟味を重ねた結果のことだから、もう二度と覆らない。
「なぁ、嘘だろ? 冗談だよな? 違う、違う! 俺はユタカの世界だ!」
「触らないで」
「ユタカっ! そういうのじゃない! なあ、やめろよ! 俺の何が気に入らないんだよ? 悪いことは全部直すから! ユタカの言うこと何でも聞く! できることなら何でもする、何でもするからっ!」
「もう一度言うけど、触らないでよ」
 手を跳ね除けた。力もロクに篭っていない手。男の手だ。無骨で、今となっては汚らわしい。
「あ……あ……」
 ふらふらと二歩下がり、尻から床に座り込む。
「ああああああああああ! あ……あ……あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ! ああっ!」
 狂乱するように、伊佐々は悲鳴を上げた。映画で見るような雄叫びではない。ひゃあともきゃあともつかない、甲高い、喉から搾り出すような悲鳴。たまらず耳を塞いだ。あまりにも耳障りだ。
 やがて、長い悲鳴が途切れる。最後のほうはもう悲鳴なのか泣き声なのかもわからない有様だった。恐らくは両方だろう。床に倒れ伏し、滂沱と涙を流す。汚らしい。
「おいおい、なんの騒ぎだ?」
 騒ぎを聞き付けたのだろう、エティクスが入口に立っていて、呆れたように僕らを見ていた。
「人間は割に合わないことをする」
 エティクスはやはり表情を変えずに言った。
「そんなに数がいないのだろう? 数少ない仲間をいじめるのは、不利益しか生まない」
「いじめている訳ではないさ」
 僕は肩をすくめた。倒れ臥した伊佐々の背中を野中がさする。
「まぁ、いいけどな。食事の時間だ」
 部屋にはエティクス、僕、マチ、ミア、メイ、それに忌広さんと三人の給仕がいる。給仕は男が一人と女が二人で、いずれもろくな衣服を身につけていない。エティクスと同じく布と首輪とサンダルだけで、女のほうは簡素な貫頭衣を見に着けていた。軽装とすら言えない格好だった。
 そして、その誰もがエティクス……ゼノに似ていた。肌や髪の色は様々だが、共通するのは雰囲気と……その美しい赤い目。目の赤さ以外は、驚く程に特徴がない。何の特徴もないことが美人の条件というが、彼らはその最たるものだった。
 伊佐々は今、隣の部屋で眠っている。叫ぶだけ叫ぶと、糸が切れたように気を失った。野中はその介抱をしている。
「いやはや……君達は面白いね」
 忌広さんはスープを口に運んだ。薄茶色の澄んだスープで、良く言えば素材の味を生かした、悪く言えば薄味だった。スープの他には、パンが一つ、果物と、何かの葉っぱを茹でて和えたものだけ。
「世界、とは、君の領域ということかな」
「まあ、そのようなものです」
 悲鳴に起きたメイ達に、僕は一言、「こいつはもう、僕の世界じゃない」と告げた。メイは「ふうん」と頷き、マチは何も言わなかった。ミアは何度か「どうして」と訊ねたが、僕が答えないことを悟ると、やがて黙った。
 世界を切り離したのは、これが初めてじゃない。何年ぶりだろうか……そう、ミアの幼馴染みだったあの男以来だ。名前はなんと言ったっけ。聡明で、公平で、許される我が儘はいくらでも押し通す、今思えばに近いタイプの男だった。あいつは僕らの世界を知って、それを是正しようとした。それはその男にとって初めての、許されない我が儘だった。僕らの世界に、大人を介入させようとしたのだ。僕は直ちに処理をして、その事件を未然に防いだ。
 それから、そいつの顔は見ていない。
「ここらで別行動といきませんか」
 僕はそう提案した。
「こうして町も見付かったことだし、もともと、僕はあなた方を快く思っていません。これ以上の同行は、それこそ不利益しか生まないでしょう」
「ふむ? まあ、私はそれでもいいのだけどね」
 忌広さんは身体を揺すった。
「つまり、こういうことだろう? 彼をこちらで引き受けろと」
「平たく言えば、そうです」
 世界から切り離したのに、これからも行動を共にすることはできない。不快だし、不愉快だ。
「私はね、状況がわからない以上、あまり別れるのに賛成はできないんだが……まあ仕方なかろう、こう仲違いしていては。もともとの原因はこちらにあるのだからね」
「助かります」
 ただでさえ野中の世話をするのは大変だろうに、押し付ける形になってしまった。そのことについては申し訳なく思う。彼は僕にとって積極的な不利益ではないし、他人に迷惑を掛けるのはあまり好きじゃない。それは干渉を生む。
「では、僕らはここを発ちます。あいつが目を覚ます前に」
「うん、気をつけて。もし何かあれば、ここに伝言なり残してくれないか」
「はい。時々はここに戻ってくることにします。めぼしい情報は共有しましょう」
 戻る気はなかった。エティクスから色々と聞く機会を失っても、僕はここを離れたかった。またいつかそんな機会はあるだろうし、情報は他の町で仕入れることにすればいい。
 喪失感はなかった。むしろ晴れ晴れとした気分だ。これから世界はより僕の理想に近づいていくだろう。そうなるためにも、この糞みたいな場所を脱出しなければならない。それは大変なことなのかもしれないが、あれがいるよりマシというものだ。ああ、それにしてもすっきりした。邪魔なものはもう無くなったのだから。
 もう障害は排除した。
















       

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