Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 生の果物と野菜ばかりの食事を終えると、体力は幾分回復した。歩いてみて、血糖値が上がったのを実感する。
 シロはおぼんを持って立ち上がると、歩いていって壁を触った。すると壁がへこんで穴が現れた。ダストシュートか何かなのだろうが、皮や芯なんかの食べかすを壁の穴に放り込む。おぼんには果汁やらなにやらが付着していたが、一向に気にする様子もなく机の上に置いた。
 それだけ終えると、シロはどこかそわそわとした様子で腰を下ろした。僕はシロの求めていることを察した。なんのことはない。褒められるのを待っているのだ。
「自分のことができるっていうのは、本当みたいだね」
 僕が言うと、シロは取り澄ました顔で目を閉じる。
「当たり前じゃないの」
「そうだね、ごめん」
 僕はシロについていくつかのことを推測した。
 シロは褒められることに慣れていないか、日常的に褒められているかのどちらかだろう。表面を取り繕うあたり、前者の可能性が高いか。軽いものではあるが、プライドというか、虚栄心というか、そういったものを満たされたがっている。
 どちらにせよ、まるっきり子供だ。
「それじゃあ」
「ええ、行きましょう。そうする約束だもの」
 皆まで言わなくても、こちらの意図を察する。世間知らずにしろ頭はいい。言葉の言い回しからも独特の知性を感じた。
「メイ、マチ、行こう」
「うん」
 二人は僕が観察しているのに気付いているから口を挟まない。場合によっては僕以外の誰かが対応したほうが事を運びやすいこともあるけど、今回は僕が適任だ。
 まだ、シロの世界を今ひとつ理解できていない。気分はすっかりその気だけれど、シロを僕の世界にするには、もう少し時間が掛かりそうだった。
 部屋から出ると、環状の廊下だった。ちょうどあの研究所のような。しかしあちらよりは装飾的で、扉や壁には彫り物があるし、照明は生きていた。センサー式で、蛍光灯や電球ではなく、空と同じモニター照明だった。本当に三十年も前の施設なのかと疑いたくなる。
 廊下を歩く。シロを先頭に、僕、メイ、マチの順。いくらか歩くごとに扉があった。シロはそれらに目もくれない。
「ねえ、まずどこに行くつもり?」
「え? みんなに会うんでしょう?」
「うん、まあ」
「一番近い人で、三つ上の階よ。エレベーターを使う?」
「いや、任せるよ」
「わたし、エレベーターは嫌いなの」
 ここはシロに任せたほうがいいだろう。下手に口を出すと機嫌を損ねる。案内に関してはもう何も言わないことにして、別の質問をする。
「シロはさ、いつも何をしているの?」
「何をって?」
「今は僕らの案内をしてるだろ? 僕らの案内をしていない時はさ」
「そうね……本を読んだりしているわ」
「へえ、どんな本?」
「学術書よ。研究とかの。古いものばかりだから、古典のようなものね」
「その手の本は、今はほとんど電子書だからね」
 劣化しない、場所を取らない、整理が簡単で探しやすい。娯楽以外のデータは、電子化されるのが一般的だ。持ち出しは容易で、だからこそ対策、セキュリティは必要なのだけど。
 研究所を思い出す。あそこのデータ管理は徹底していた。外部からの接続が無ければ、あとは内部の犯行しか考えられない。
 研究の世界は日進月歩だ。研究者には、常に最新の情報が求められる。だというのに、紙媒体の古い資料? 役に立つのか?
 無意味じゃない。でも、有用でもないはずだ。だからやっぱり、それらは娯楽のようなものなんだろう。
 少なくとも、そんな趣味を持つ輩がいるのは間違いない。紙媒体を捨てられない愛好家は数多い。僕やマチもその一人。
 その感性も好ましい。


 シロと会話をすることで、情報がいくつも得られた。これは、思ったより有用かもしれない。僕が話題を振ると、丁寧に答えてくれる。言葉足らずなうえ独特の世界観を持っているから要領を得ないことも多いけれど、コントロールは追い追いできるようになるだろう。
 当たり前のように出る言葉の端々に、僕の常識からすると理解できない内容がある。
「本を読む以外には?」
「うーん……改めて言われると、よくわからないわ。ずっと同じことをしているわけではないもの」
 シロは眉をハの字にした。行進するように手足を大きく動かす。
「でも、そうね。あえてしていたという言い方をするのなら、なんでもないことをしていたわ。お絵かきとか。誰にも見せない落書きだけれど。あとは、古い美術品を見たり、楽器を触ってみたり、そんなところ」
 この理想郷の中にいて、やっていることはそんなものなのか? 新しい情報に触れることもなく、暇を持て余すことが幸せなのか? 小山真世の理想は、そんなものなのか?
「つまらないな」
「ええ。やるべき事が無いのは辛いわ。無為に過ごす時間を楽しむことはできるけれど、無意味に時間を過ごすのは、終わらない苦痛でしかないもの」
 僕はシロに奇妙な人間臭さを感じた。見た目は間違いなくあいつらだ。でも、本当に中身までそうなのか? 記憶の移植が出来るのなら、適合できる脳さえあれば見た目は別人になれるのではないかなんて、そんなことを考えた。
 考えたって厄体も無い。それを肯定するのなら、全部が全部怪しいじゃないか。
「何をしてもいいってのは、裏を返せば何もしなくてもいいってことだもんな。行動しないのも自由だ。結果として何も残らないけど」
「何もしなかったわけじゃないわよ。知識を蓄えて、ずっと考えていた。でも、あなたの言うように、何かに対して結果を残すことが『行動』なら、わたしは何もしていなかったわ」
「結果を残すことができるやつなんてほんの一握りだよ。少なくとも、僕は何も残せていない」
 僕は世界を構築して、その中で排他的に暮らしてきた。何かに影響を与えたとすれば、それは世界の中身とその周りにだけ。
 どれだけ多く見積もっても、結果らしい結果なんて無い。
 一つの宗教組織、一人の死、五人とその家族の生活、そんなものだけだ。
 そしてそれは僕の都合ではなく、誰かがそう望んだか、望まなかった結果でしかない。僕の都合と誰かの都合が合致してこそ、僕の世界になる為の行動がある。
 僕の世界の中で、僕の都合だけでそこにいるものはいない。少なくとも、全員がそう思っていると僕は思っている。
 僕はメイの信者で、マチの物語の主役で、ミアの最期を見届けた。ミアの望みは、今は叶えられないけれど……。
 そして、僕はシロの導き手になる。
 多分に恣意的に、僕の好みに偏向させるにしても、僕はシロを世界にしたい。シロには本来、僕の世界になる資格が無い。それでも無条件でそう思わされたのは、やはりあの紅い目のせいだ。見た目が内面に勝ったのは、僕の経験に無いことだった。
 世界は僕を必要としなくてはならない。僕を必要としない世界は世界ではない。その意味で、シロは非常に微妙な立場にいる。必要とするか否かは、これからの僕にかかってくるだろう。
「結果なんて、一側面だけから見てもわからないものさ。もしかしたら、僕らをこうして案内する為に生まれたのかもしれないよ」
「ちっぽけな理由ね」
「例えばの話だよ。目的なんて、一つだけとは限らないんだから」
 シロの中に僕の居場所を作る。僕の隣にシロの居場所を作る。
 簡単なことだ。必要とされるには、自分も必要とすればいい。
「結果的にだけど、君の生まれた意味の一つ。僕らは君が必要だ。君は僕を理由に生まれた意味を作ればいい」
「……つまんないわ」
 そう言った顔は、否定的とは言えなかった。
 役割を与えることで成長する人がいるが、シロはきっとその類だった。
 シロは大手を振り、足取りも軽く僕らを先導する。その様子は、端的に言って浮かれているように見えた。なにせ話の通りなら、シロは生まれて初めて役割を与えられたのだ。
 そんなシロを、メイが興味津々といった様子で見ていた。僕の態度を見て、自分が応対しても大丈夫だと判断したのだろう。もう僕の探りは終わったから、メイにも交流してもらいたい。メイは話したくてウズウズしているのだが、シロはずっと前を見ているから、それに気付かない。
「うう~……」
 廊下を進む。階段を上がる。踊り場に絵が飾ってあった。有名な絵のレプリカだ。タイトルも作者も知らないが、どこかで見たことがある。横目に通り過ぎた時。
「ねえっ」
「え?」
 メイは意を決したのか、シロに話し掛けた。
「なに?」
「んー」
 シロは振り返って立ち止まる。メイはその目をじっと見詰めた。
「綺麗だねっ」
 メイは僕と同じ感想を漏らす。あんな近距離でじっと眺めたことはない。さぞや美しいのだろう。僕の美的感覚では(概ねイカレてると思うが)、形状は思想、色彩は感情だ。僕の見た目に関する嗜好は、その姿形よりも、色に対する依存が強い。鮮烈な色や、淡い色、要素は様々だが、僕は色で造形を捉える。調和とは違う、その色が他の色の中で映えているのを、僕は好む。数ある僕の嗜好の中では、割と一般的な部類に入るだろう。
「そうかしら」
「うん、綺麗だよー」
「まあ、そうでしょうね。お姉様から譲られた大切な目ですもの」
「舐めてもいい?」
 同じ感想と言ったけど、前言撤回。そんな感想は抱いていない。
「駄目よ」
「ええー」
 にべもなく拒絶され、不満げな声を出した。
「いいでしょー」
「ねえ、なんなのこいつ?」
 シロが僕に助けを求めた。僕はにこりと笑って何も言わない。
「……行くわ」
 前に向き直り、歩みを再開する。
 いつもなら、ミアがメイのフォローをしていた。ミアさえ居れば、もう少し違う反応を引き出せていたのかもしれないと思うと……いや、意味の無いことを考えるのはやめよう。今ここにあるのは、メイとマチと僕、シロだけだ。
 シロは努めて前を向いていた。僕らの目に見えぬ距離にある場所を狙うように頑なだった。
 シロの足が止まる。ほんの少したたらを踏み、かかとを合わせた。
「ここよ」
「え、どこ?」
「この中には、アカサカがいるの」
 アカサカ……赤坂、だろうか。名前からすると人間だ。おそらくこの場所を作った一人。それは一体どんな人物なのだろう。当時既にそれなりの――選ばれるくらいの――地位にいたのなら、今は七十か八十か、そんなところだろう。真新しい白衣を着た、科学者然とした男を思い浮かべる。細身で眼鏡をかけた男だ。赤坂は想像の中で白髪頭を揺らし、フラスコやビーカーを揺らしていた。
 扉はどこも同じだった。さっきまでいた部屋と同じ、彫り物のある扉。洋館の一部のようでいて、恐らくは木製ではない。よく見れば無機質なのがわかる。木目の硬化プラスチックだろう。ちょっと見では木製に見える。ドアノブがあって、その下にカードを入れるソケットがある。
 シロが扉をトントンとノックした。
「アカサカ、入るよ」
 返事を待たず、シロはノブを握った。鍵は掛かっていないようで、軋むこともなく扉は開く。僕は軽く身構えた。またフラベティの時のようなことは御免だ。マチと目を合わせる。マチは小さく頷いてメイの前に立った。
 扉の中は暗かった。シロが入ると同時に薄い電気が点く。蝋燭に似た淡い光。センサー式の自動照明。簡素な部屋。ホテルの一室のような、十畳くらいの部屋の中に、ソファとテーブル、執務机、本棚とベッドが見える。薄暗くてよく見えないが、部屋の中には何の気配もない。
 一歩中に踏み入ると、微かな匂いがした。
「……留守なんじゃないか?」
「いるよ」
 僕が言うと、シロは執務机を指差した。
 視線をそちらにやる。薄暗い部屋に目が慣れていく。ぼんやりとした輪郭しか見えなかった室内が、徐々に鮮明になっていった。
 そこには確かに人がいる。
 まず輪郭。それで誰かがそこにいることが知れる。目を凝らすと、その誰かが椅子に座り、頭をもたげているのがわかった。
 僕は息を飲む。
「これがアカサカよ。アカサカ、こっちはユタカ。お客様よ」
 シロが紹介する声は、耳に入ることもなくすり抜けた。
 二つの目が、僕を見ている。
 空洞だ。真っ暗な二つの穴が、呆けたように僕を見ていた。
 あれは――あれは、……じゃないか。
 カラカラに乾いた、頭蓋の形になった顔。骨に皮膚が張り付いただけの、地面のような色をした身体。ぼろきれのように薄汚れた衣服が絡み付いた身体。両手を手摺りに乗せ、まっすぐ前を向き、来訪者を出迎えるような姿勢で固まっている。
 そこにいたのは、確かに人間だった。
 いや……人間だったものだった。
「ユタカに、アカサカ」
 シロが嬉しそうに言う。案内役としての職務だとでもいうように、そうするのが当然のように。
「ああ……」
「アカサカはね、遺伝工学のエキスパートなのよ」
 自分の手柄を自慢するように、シロは胸を反らせた。
「ほら、挨拶して」
「うん」
 僕は赤坂に近付く。メイとマチも続いた。シロは執務机に両手を着いて、ピョンピョンと身体を浮かせる。
「シロ」
「なにかしら?」
「赤坂さんはいつから動かない?」
「え?」
「どのくらい前に、赤坂さんは動かなくなった?」
「ずっとよ」
 シロは言った。
「会話をしたことは無いわ。でも、いつも会っているのよ」
「そう……」
 とどのつまり、そういうことだ。シロには、シロにとっては、これも人間なんだ。
 生きていても、死んでいても、シロにとっては同じ人間。
 僕はそのあまりに無垢な存在に、畏怖にも似た感情を抱いた。
 シロは決して無知ではない。会話の端々に知性と教養を窺わせる。基本的には子供のようだが、そうすることがより人間らしいということは知っている。
 ただ、決定的に、シロは知らない。教える者がいなかったのか、教えなかったのかはわからないが、多分、後者だろう。シロはごく当たり前のことを知らない。
 人間は、死ぬのだということを。
「シロ、これはね」
「ん?」
「アカサカさんじゃない。これはアカサカさんだったものだ」
「…………?」
 よくわからないといった様子で首を傾げた。
「アカサカはアカサカでしょう?」
「そうだよ。でも、これは……」
 そこまで言って言葉を切った。それから僕は想像する。この無垢な存在は、きっと人為的なものだ。その身体から有り様、全てに至るまで。シロ。真っ白。真っさらで、何にも染まっていない。知識だけを詰め込まれ、それを活かす術を持たない。自分で何一つ考えない。考えることを教わっていないから。だから、死体を死体と認識できない。目の前にあるものの正体を知っているのに、それがそうだと解らない。
 赤子か、コンピュータのように作られた。
 何のためにこんなものを作った? 決まってる。怖いからだ。思考を与えては。指向を与えては。嗜好を与えては。
 趣味が悪い。
 死が、その絶対的な暴君が、あまりにも遠い。
 死ぬことの意味を言葉で知っていても、死ぬことがどういうことだかは知らない。それがどんなに変わっても疑問を持たない。変化に対して考える事を放棄する。
 奇妙なバランス。綱渡りのような価値観。
 汚いものを根こそぎ排除した、あまりにもあまりにも綺麗な存在。
 壊したいと、そう思った。
 下卑た妄想。単純に純潔を踏みにじるのとはまた違う。真っ白な壁に落書きをするような、澄んだ水に不純物を溶かすような……違う。それをしたらどうなるのか、知っていてもしたくなる。そんな気分が近いだろうか。
世界にひとつしかないものを破壊したり、夢を語る子供に、その不可能性を説くように。
 見せ付けてやれば、シロの価値観は変わるのだろうか。命とは何なのか、死とは何なのか。
 でもきっと、それをするのは僕の役割ではない。方向性を誘導したり僕の都合を押し付けることはあっても、その人の根幹に関わる物まで変えることはしない。しないし、出来る限りはしたくない。
「いや、なんでもない」
「そう……?」
「それよかさ、できれば会話のできる相手がいいんだけど」
 死体と会っても意味がない。ミアがいれば別だったかもしれないけど。死体は何も言わない。
 いや、臭わせることはするだろう。死体の匂いということではない。情報を残す、いや、遺すことはある。例えばこの死体ならば、目立つ外傷も血の跡もなく椅子に座って死んでいることから、病気か何かの突発的な死であることが解る。またはここではない場所で死に、誰かがわざわざここに運んだかだけど……死者を生前と同じ環境に置く埋葬方法があるらしいが、それくらいしかこんなことをする理由が浮かばない。恐らく前者だろう。あくまで推測でしかないが。
 え?
 ふと、疑問がよぎる。
 何故、死体をそのままにしておく?
 クローン技術があるのだ。このアカサカとは違っても、アカサカはきっとどこかで生きているだろう。
 例えばアカサカがクローン技術で生き返ったとして、自分の死体を保管したいと思うだろうか? 一般的には否定。限定的に肯定。自分の死体を眺めたいとは思わないだろうけど、処分するとして、自分の身体が焼却なりゴミになるというのに忌避感があってもおかしくないし、何かを保管しておくコレクションのような趣味は有り得ないでもない。
 どちらでも有り得るのだから、この考察は意味がない。
 それよりも、そうじゃない場合だ。
 そもそも、片付ける人がいないとしたら?
「いないわ」
「え?」
 僕の推測を読んだわけじゃないだろうけれど、絶妙のタイミングでシロが言った。
「会話できる人は、いない。お姉様だけよ」
 …………。
 会話できる人は、いない。
 勿論、死体を片付ける者も。
「なら……」
 クローンはどうしたっていうんだ? 死んだ人間を再生する、あのクローンは? こんな場所を作っておいて、漫然と、ただ死んでいったっていうのか?
何百年も生きた後なら分かる。生きるのに飽いたというのなら、死んでしまっても。でも、まだほんの三十年だ。三十年で生きるのに飽きたとでも言うのか?
 有り得ない。
 そんなやつが、こんな場所を作るものか!
 なら、やはり何かあったのだ。クローンを作り、命を長らえることもできないようなこと。
 例えば……クローン技術を扱える技術者全員が、同時に命を落とすような……そんな決定的な何かが。
「全員が」
「え?」
「全員が、アカサカさんみたいな……つまり、会話のできない状態なのか?」
「ええ」
「会話できるのは、お姉様だけ?」
「そうよ」
 宮殿――この塔に、生きている人はいない。
 お姉様とはゼノのこと。どう会話するかも知らない。ゼノがいるのは遥か高みだ。シロはどうやらここで暮らしている。どうやって会話をするというんだ?
 決まってる。通信方法があるんだ。
 何故、誰が殺した? 理由は?
 そんなもの、もういい。どうでもいい。僕の疑問は一つだけ。
 今この場所で、クローン技術は使えるのか?
 それだけ解ればそれでいい。
「シロ」
「なに?」
「ゼノとは、どうやって話す?」
 ゼノという言葉に、シロは反応した。
「お姉様、お名前を、あなたに?」
「ああ」
「ふぅん……」
「それで、どうすればいい?」
 シロは含みのある目をして、くるりと僕に背を向けた。
「あなたには無理よ」
「どうして?」
「人間だもの」
「はぁ?」
「あなたは人間だもの。人間ではお姉様と繋がれないわ」
 意味がよくわからなかった。人間……つまり僕らだ。ここに死体がある以上、人間は僕ら三人……ああ、あとは記者達がいるか。でもたぶん他にはいない。
 人間ではない者……つまり、あいつらだ。それは種族として考えていいのだろうか? つまり人種や文化圏の違いだとか、そういうことでなく、DNAからして人間ではない、いわば新しい生き物だと。
 だとしたら、何かしら名前のようなものがあるはず。この種族についての情報はほとんど無かったから、今が訊くにはいい機会だろう。他にもいくつか訊きたいことがある。
「……人間には無理、か。なら、何になら可能なんだ?」
「わたし達よ」
 シロは右手を胸に当てた。
 あいつら。わたし達。この場合のわたし達は、個人ではなく全体を指すのだろう。複数形の時も単数形の時も同じ言葉を使うからややこしい。
「僕らは人間。では、君達は?」
「わたし達はわたし達よ。人間じゃないもの。人間でもないし、他の生き物でもないもの。それ以上の意味はないでしょう?」
「この空間には人間がいる。牛もいる。豚も鶏もいるね。区別の必要はあるんじゃないかな」
「羊もいる。犬や猫、ネズミや猿もいるし、全ての生き物には名前がある。空だって渡り鳥だって、そのくらいは知っているわ。そして、それ以外がわたし達なの」
「全部の、他の全ての生き物以外?」
「それがわたし達。全部とそれ以外よ」
「だから、名前はないと?」
「必要がないのよ」
 シロは人差し指を唇に当てて言った。
「何にどんな名前が付いているとしても、その名前を呼ぶのはわたし達だけだから。人間はもう、どんな名前も呼ばないわ」
 人間はもう呼ばない。
 人間はもうここにはいないから。
 人間はもう……シロや、他の動物を呼ばない。
 だからって……それでも。
「それでも、かつては必要だったはずだ」
 人間が生きていた頃。そう遠くない昔。言葉は人間のものだから、一人称は人間のみを指したはずだ。人間以外を指す言葉として『私達』は相応しくない。何か呼称があったはずだ。
「無いわ」
 シロが言う。
「だってわたし達が知らないんだから」
「それは君が知らないだけだ」
「君、達」
「君達が知らないだけ」
 人間が人間の尺度で話す時に『我々』と言えば、それは人間を指す。自分と、自分以外のもの。世界は大雑把に分けると、この二つしかない。僕らの言葉は、人間本意のものだ。だから、一人称とはあくまで人間のみを指す。そうでない場合は擬人化したものだ。
 人間を自分達ということはあれど、人間以外をそう呼ぶことはない。言葉とは、そういう不自由さを抱えている。
 つまり、一人称を使うのは、生き物全ての代表と同じ意味を持つ。人間は全ての生き物の代表であり中心。あくまで価値観の中でのことに過ぎないが。
 支配者、責任者である人間が死んだ今、生き物の代表はこいつらになったのだろう。
 しかし。
「不便だな」
「そうかしら。必要なら必要と言うでしょう?」
「ゼノと話ができるなら、自分達の名前を訊いてみれば?」
 僕は挑発するように言った。
「僕らには無理でも、君達はできるんだろ?」
「二つの理由で無理よ」
 シロがツンとすました顔で言う。
「一つ、わたし達には本当に名前なんか無いわ。名前があるのは名前が必要なものだけよ。二つ、わたし達は確かに繋がっている。でも、そこに用いるのは言葉じゃないわ。あなたに伝わるとも思えないけれど、強いて言うなら、映像、波長、匂い、それに体温。その中間にある感覚が行き来するようなものなの。黄色と赤の真ん中で、石のように熱くて、甘くて苦い香りがするの。時々、冷たい光が走るのよ」
 理解不能。僕にはさっぱりわからない。テレパシーのようなものを想像していたが、言っていることが正しいとするなら、もっと漠然とした大雑把な感覚なのだろう。おそらく、虫の知らせか胸騒ぎのような。
 伝えたいことを全て伝えられたら、それはどんなに良いだろう。そして、どんなに残酷だろう。どんな手段を用いても、全てを伝えるのは不可能だ。それは時に救いでもある。
 もう駄目だろう。頭にそんな言葉が浮かんだ。
 今のは知らない話でもないから、新しい情報が増えたとは言えない。新たな情報か、新たな展開が望ましい。望ましいだって?
 僕は突き動かされるように質問を考えた。
「シロ、クローン製造はどこでやるんだ?」
 クローン。ミアの髪は僕が持っている。DNA配列さえあれば再生はできるはずだ。
 生まれてくるそれが、本当にミアなのかはわからないけれど。SFなんかでよくあるじゃないか。身体は同じでも中身が違うだとか、クローンには同じ魂が宿らないだとか。
「んー……たしか、培養装置は上に七つ行った階にあるけど、制御をするのはその上よ」
 シロは面倒臭そうに言った。
「でもわたしは使い方を知らないわ。使ったことがないから」
「そうかい」
 僕にはマチがいる。マチなら大抵の機械は操作できるだろう。マニュアルがあればいいのだけど……問題は機械が生きているか、生きているとして、素材があるかだ。
「じゃあ、そこに向かうとしよう。案内してくれる?」
「ええ、いいわよ」
 嬉しそうな顔。きっと頼られるのが嬉しいのだろう。
「マチ、いけるか?」
「大丈夫、だと、思う。操作履歴は、探れる。でも、アナログな部分は、自信がない」
「マチならできるさ」
 頭をぽんと叩くと、マチはこそばゆそうに首をすくめた。
「ごめんな、いっぱい働かせて」
 マチの理想は、第三者なのに。
「平気」
「うん、さんきゅ」
「ミア、が、いないのは、やっぱり寂しいから」
 そう言ったマチは、いつになく登場人物で、その理由はやはり読者だった。

       

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Neetsha