僕らは太宰ルームで夜を明かした。明かしたと言っても、どうせここは真っ暗だから、寝て過ごしたというほうが正確だろう。
目を覚ました時、明かりの無さに少し戸惑った。それからここがどこなのか思い出し、背中の辺りに置いたはずの懐中電灯をまさぐる。
「ふがっ……」
そこにあったのはマーの顔面だった。ちょうど僕の腰あたりにマーの顔がある。僕は寝相がよろしくないので、寝ている間に移動したのかもしれない。マーは確か、僕とは離れて寝ていたはずだ。
眠る前の位置関係を思い出す。マーの位置があそこなら、僕の枕元は……当たりをつけて手を伸ばす。
「んっ」
何か柔らかい物に触れた。なんだこれ。とりあえずまさぐる。
弾力があるというか、枕というか……。位置をずらすと、柔らかい下に固い部分。
…………。
ゆやゆよん。
…………。
ああ、これは胸だ。
柔らかいのは胸で、固いのは肋骨。胸と脇腹の境目だ。
サイズから見て、ミアのものか……そこまで考えて、我に返る。
「…………っ!」
僕は何をしているんだ。
「んぅ……」
ミアが唸る。幸い、目を覚ます気配はない。僕はゆっくりと手を離した。
うるさい黙れ。これは男の、朝の生理現象だ。
とりあえず僕は、トイレに行くことにする。
懐中電灯片手におっかなびっくりトイレまで行くと、そこは確かに水の匂いがした。小便器はなく、全てが洋式便座だった。マーはボットンと言っていたが、どちらかと言えば飛行機のトイレのような形式が近い。
トイレから戻ると、ランタンの明かりが点いていた。マチとミアが起きている。メイは寝袋に頭まで入っていて不明、マーはまだ豪快に寝ていた。
「おはよう」
「うん、おはよう」
「何処行ってたの?」
「ああ、うん、ちょっとトイレに」
真っ暗闇の中を一人で、それも懐中電灯一つで歩くのは多少心細かったが、トイレが太宰ルームから近いのが幸いだった。
さすがに紙はなかったが、確かに水が出た。僕は持参のウェットティッシュがあったけど、マーはどうしたのだろう。ティッシュを持ち歩くようなやつじゃない。
それは考えないほうが良さそうだった。大丈夫、きっとティッシュを持っていたのだろう。そう思うことにした。
「マーの言う通りだったよ。水が出た」
水道から出た水は、最初から綺麗だった。腐った水は、あらかたマーが出したのだろう。
「ん、じゃああたしもトイレ」
「あ、メイもぉ……」
懐中電灯を携えてミアが立ち上がると、寝ていると思っていたメイが起きてきた。
「水道、一応しばらく出してから使いな」
「りょーかーい」
二人は連れ立って太宰ルームを出た。
さっきのこと、ミアは気付いていないようで、僕はほっとして溜め息を吐いた。
「どうか、した?」
太宰さんの本を読んでいたマチが、顔を上げて僕を見た。
「いや、何でもないよ」
「そう」
また本の続きへ。読んだことあるって言ってなかったっけ。まあ二度読んだって悪かないけど。
朝の支度を済ませようと、荷物から食料を出す。それから、まだ寝ているマーを起こそうとした。
「マー、そろそろ……」
その時だった。
男には不可能な、空気を劈く音。
甲高い悲鳴が僕の耳に届いた。
ミア!? メイ!?
僕は懐中電灯を掴むと、太宰ルームを飛び出した。声がした方向へ走る。階段付近に、床に転がる明かりが見えた。
急いで階段まで駆ける。不思議と暗闇なのに全力疾走できた。床に転がる懐中電灯が見える。ミアとメイが、廊下の片隅で抱き合うようにしてへたり込んでいた。
「ミアっ! メイっ!」
「あ……ユタカ……」
「どうしたっ!」
メイはミアの胸に顔を押し付け、目をつむっていた。ミアはメイの頭を抱いたまま階段を指差す。
視線を追わせるが、何も無い。
「そこに……だれか」
「えっ?」
ここに人が!? そんな馬鹿なっ! 三十年前の施設だぞ!?
「どんなやつだ? どっちに行った?」
「下りてった……」
震えた声で階段を示す。見間違い……ではないだろう。暗闇とは言え、ここにはあまりに気配がない。誰かがいれば気付くだろうし、誰もいない場所に誰かを見ることもないだろう。
「とにかく、太宰ルームへっ! 立てるか?」
「う、うん」
ミアを起こして、メイを抱き上げる。ミアの手を引いて太宰ルームへ向かった。
「ミア、大丈夫か?」
「だ、だ、大丈夫」
転がるようにして太宰ルームへ。扉を勢い良く閉める。
「はあっ、はあっ」
ミアは息を弾ませ、床にへたり込んだ。僕はメイをベッドに置く。
「どうしたの」
「誰かがいた……らしい」
言うと、マチが本から顔を上げた。僕はミアを引っ張り上げ、部屋の中程まで運ぶ。
「へえ」
マチは目を見張った。メイに歩み寄り、頭を撫でる。
「よし、よし、怖くない」
「んーっ」
メイがマチに勢いよくしがみつく。マチは押し倒されて壁に頭を打った。それでもメイを撫で続けていた。
「ふぁー……なに、どした?」
マーがのんきに目をこすって言った。
メイの怯え様がひどく、近付いた僕も引き寄せてしがみついたまま離れず、マチと二人で拘束されてしまった。こうなると、時間を置かなければどうしようもない。
ミアはしばらくすると少し落ち着き、状況を語った。
トイレで用を足して外に出ると、階段のほうに光が見えた。それは懐中電灯かなにかの明かりで、持ち主はミア達を見ると、慌てたように逃げ出したのだという。姿はほとんど見えなかったが、それは確かに人間だったそうだ。
そして、人影は二人だったとミアは言った。一人が見えて、その後方にまた一人。
「どう思う?」
一通り聞き終えた僕らは、車座になって話し合う。中心は僕とマチ。メイが放してくれないのでベッドから降りられなかったから、ベッドを囲むようにして集まった。
「見間違いってことはなさそうだね。気配とか音じゃなくて、懐中電灯の明かりを見ているんだ」
「うん」
真っ暗闇の中で誰かがいた、気配を感じたというのならともかく、真っ暗闇の中で明かりを見たのだ。疑心暗鬼とは読んで字のごとく違う。
「勘違いじゃないとしたら……何者だ、そいつら」
マーがどこか楽しそうに言った。施設見学に飽きていたところにこの事件だ。祭男としてはむしろ望むところなのだろう。
「可能性、としては、みっつ」
マチが小指から中指までの三本を立てる。
「一つ、私達の前に入り込んだ、誰か」
「うん」
マチは中指を折った。マチの特殊な技術があったとは言え、僕らはここにいる。僕らがここ入ることができたということ自体、ここに入れるという証拠となる。
「二つ、私達の後に入り込んだ、誰か」
また一つ指を折る。
僕らが開けた扉から誰かが入り込んだという可能性は、確かにある。
「三つ」
「最初からここにいた誰か、だろ」
先回りをするように、マーが言った。
「そう」
マチが肯定する。マーはニヤリと笑った。
三十年もの長い間、この施設で暮らしていた……? 可能性として無い訳ではないが、にわかには信じ難い。
「この三つ……で、いい?」
マチが僕を見る。
他の可能性としては……やっぱり見間違いか、あくまで可能性だが、ミア達が僕らをからかっている、というのもある。しかし、ミアはそんなことで楽しむやつじゃないし、メイにこんな演技は無理だろう。考慮の必要はない。
「うん」
僕が頷くと、マチも頷き返して、それから全員を見渡した。
「一つ目、だとしたら」
「うん」
マチが中指をひょこひょこと動かした。
「何か目的が、あるはず。私達みたいな、物見遊山なら、いい。でも」
「逃げたってことは、見られたらまずいってことになるね。物見遊山なら、むしろこんな所で誰かに会ったら声を掛けてくるんじゃないかな」
「そう」
「よしんば、ミア達がそうだったように、相手もこっちを見て驚いたっていうなら、何にも問題はないけど」
その場合が一番穏当だ。でも。
「あんまりそうは思えないな」
「いつ来たのか、何故まだいるのか、目的、とかは、わからないけど」
マチはそこて言葉を切った。わかってる。その人達は見られたくなくて、何かを探している。
見られたくないものがその人達自身なのか、探しているものなのかはわからないが……危険があるかもしれない。人里離れた山奥で、第三者のいない空間。邪魔物に何かあっても不思議じゃない。
つまり……口封じ、とか。わかっているが言わない。言えばミアとメイが不安がる。
「二つ目、だとしたら」
マチは中指を折り、薬指を動かした。
「私達の後、を、つけてきた可能性が、高い」
「うん」
偶然というにはタイミングが良すぎる。三十年も前の施設を、偶然同じ日に、二組が訪れるなんてことは考えづらい。
「突発的、じゃない。懐中電灯とか、準備してきてる。私達の目的地を知ってて、後をつけてきた」
それもまた怖い話だ。もしこの可能性が正しいとしたら、何の目的で? 何故僕らがここに来ることを知っている?
「あとは、私達が、ここに入るのを見て、懐中電灯、を、調達してきた、って可能性も、ある」
マチはそう付け加えた。だとしたら、やはり目的は僕ら……ということになるのか?
「例えばよ、この施設の管理人的なやつが俺らを見て、慌ててついてきたってことはないのか?」
「こんな古い施設に管理人がいるかは別として、なくはない。でもそれなら、逃げた理由がわからないだろ?」
「ふん」
マーが鼻を鳴らす。
「最後に」
マチが小指を折った。
「三つ目の場合」
最初からいた誰か……。三十年も前からここに棲み着く、廃墟の主。そんなものがいるとしたら……それはもう――
化け物だ。
「はんっ、上等じゃねえか」
マーが拳を合わせる。
「そんなのがいるなら、是非とも会ってみてえ。だろ?」
「まあ、興味はあるね。なんでこんな所にいるのか、どうやって暮らしてきたのか。でもさ」
僕はそう楽しみにはできない。メイもいる。その相手が危険じゃないとは限らない。
僕の腕をつかんで、マチの胸元に顔を埋めるメイを見た。いつの間にか眠ったようで、すーすーと寝息が聞こえた。
「ああ、もちろん、メイを危ない目には合わせねえよ。俺が守る」
マーはそう言い、握りこぶしを誇示した。なんと男前なことか。
「僕が女なら惚れてるよ」
「……そうかよ」
「私も、女だったら、惚れてる」
「いやお前は女だろ!」
マーは勢いよくマチの軽口にツッコむ。
「そうだっけ?」
マチはしれっと言った。僕は笑う。釣られてミアも笑った。
「マー、誰かいても守ってね」
「おう、任せろ」
そうだ。僕らに暗い雰囲気は似合わない。
マーがいる。マチもいる。頼りにならないけど僕もいる。
ミアは僕らを見て、安心したように微笑んだ。