Neetel Inside ニートノベル
表紙

ゲーム脳
ゴーイング・アンダー

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 手探りで触れたマチの身体の感触で、僕はどうしようもなく安堵していた。
 ここはどこだろう。僕はそう思った。何故、僕は床に転がっているのだろう。目だけを動かす。だんだんと目が慣れてきて、真っ黒だった視界に少し光が差す。ぼやけていたが、近くにマチが見える。マーもいる。メイも、ミアもいた。僕らは全員が床に寝転がっていて、布団や毛布は見当たらない。
 青緑色の淡い光が、僕の顔を照らしている。こんな近い光源にも気付かない程、僕の目は麻痺していたのだろうか。この、目の前の光景に。
 首を持ち上げる。光を発する円柱状の物を見て、ようやく思い出した。
 ここは葉桐製薬の研究所だ。
「大丈夫かい」
 誰かの声がした。回線越しのような、ほんの少しエフェクトの掛かった声。
「……うん、平気」
「そうか。なら良かった」
 僕は身体を起こす。痛みが走った。
「いたた……」
 身体が痛い。ずっと同じ姿勢でいたみたいに、動かした場所がペキペキと鳴った。
「無理はしないほうがいい」
「ありがとう、大丈夫」
 なんとか座り、手をついて身体を支え、天井を仰ぐ。
「っ――くっ」
 伸びをする。それでなんとかひと心地ついた。
 視線を前に戻す。
目が合う。赤い、赤い宝石が見える。
 ガラスの円柱の中で、彼女が僕を見ていた。
「は……え?」
「蝿? 僕達が? 失礼だな、君は」
 ――――な!?
 死体が……ホルマリンに浸かった真っ白な女が……まるで生きているように、僕を見ている。
見ているだって?
 そんな……馬鹿な!
「あ……かっ」
「なんだい、落ち着いて。深呼吸深呼吸。僕達はしたことがないけどね」
「……君は」
「ん?」
 小首を傾げる、その仕種。
 ガラスに手をつけ、浮かぶように僕を見る、赤い瞳。
 玉のように透き通った、一対の目。
 美しくカッティングされた宝石も、太陽の落ちる姿も、今まで見た全てのものが、虚しく色褪せるような、鮮烈な赤。緋色、濃い炎のような、揺らめく色。
 一目で僕は、それを世界に組み込んだ。
「どうかしたかな?」
「……どうもしない」
 ああ、なんということか。僕はまだ、彼女を何も知らないというのに。
 今までの世界を裏切る、暴力のような、許されない感情だ。衝動と言ってもいい。有り様をこそ愛する僕だ。見た目なんかを愛するはずがない。ないのに。
「家に帰りたい」
「ホームシックにはまだ早いんじゃないかな」
 彼女が笑う。細められた目から覗く、赤。
 僕は頭を振る。
「駄目だ、目を閉じて。君の目は見たくないんだ」
「そうかい。でも、嫌だね。目を開けるも閉じるも僕達の勝手さ。そうじゃないかな」
「違う。僕の世界では、君は罪人だ」
 僕の世界を作り替えるのは、僕の世界だけだ。
「君達はいつだって勝手だね。それが許されるのは、それこそ君の世界だけだっていうのに」
 そこで僕は、彼女の口が動かないのに気付く。
「ああ、そうだ。だから君は、僕にとって最悪なんだ。災厄なんだ。害悪なんだ」
 僕は目を逸らす。拳を地面に叩き付けた。
 僕は這うようにしてマーもほうに向かった。
「マー、マー、起きて。マー」
「なんだ、僕達に興味はないのかい?」
 背後から聞こえる声。涼やかな、雪景色のような声。
 僕はマーの肩を揺する。
「マー、起きて。マー、マー……マー!」
「乱暴はよしなよ。頭は揺すらないほうがいい」
「マー、マー! 起きて! ……助けて!」
 悲鳴のような声。自分の喉から出たとは思えないような、泣き声。
「んん……」
 マーが呻いた。僕は涙を流しそうになる。
「ん、ユタカ……?」
「マー!」
 僕はマーにしがみつく。
「なっ、おい、ちょっと!」
「マー……助けて、マー……あの女がっ!」
「女ぁ……?」
 マーは僕の頭の向こう、彼女に視線を向けた。
「やあ、おはよう」
「なっ……」
 マーはパクパクと口を動かす。
「ユタカくんは、僕達の話を聞いてくれないんで困ってたんだ。君は聞いてくれるね?」
「は……? なに、なんなんだよお前」
「僕達かい? 困ったな、僕達に名前はないんだ。それ以外の質問になら、なんだって答えよう」
 女は愉快そうな声で言った。
「でも、そうだな。話をする前に、皆を起こすといいんじゃないか」



 僕はマーに引きずられ、部屋の隅っこに移動した。マーはその場の全員を順番に揺り起こす。取り乱したのが恥ずかしくて、僕はそれを黙って見ていた。
「え? えっ!?」
 ミアは驚き、僕の傍へ逃げた。
「……」
 マチは目を丸くして、何も言わなかった。
「わー、きれーい」
「綺麗? ありがとう」
 メイは円柱に駆け寄り、女と話しだした。
「驚いたな、こりゃあ……」
 忌広さんは、メイと女の観察を始めた。
 最後に、野中さん。
「なに、なんなの、なんなのよ……!?」
 後ずさりし、ヒステリックに怒鳴る。
「あっ、カメラ! カメラは!?」
「無いよ。君が置いてきたんだろ。荷物になるとか言って」
「う、うる、うるさいわね!」
 野中さんは手の平で円柱を示した。
「こんなもの、忘れようがないわよ! いくらでも克明に記録してみせるわ! 写真はまた改めて撮ればいいじゃない」
「こんなものっていうのは、ちょっと傷付くね。僕達は物じゃない」
「ひっ……」
 喉から出たような、小さな悲鳴を上げる。
「あ、あんた、何者なのよ?」
「僕達かい? 僕達はただの実験動物だよ。物ではないけどね」
 女はにやにやと笑いながら言う。
 気付けば、全員が二人の話に耳を傾けていた。
「実験動物、葉桐製薬の? 葉桐は人体実験をしていたとでも言うの?」
「人体実験……それは違う。僕達は人間ではないからね。人間とは、出生記録があって、教育を受けて知恵を持ち、初めて人間になるのだろう?」
「赤ちゃんは人間じゃないっていうの?」
「ああ。赤ん坊は人間じゃない。そのままでは動物さ。人間と動物の境目は知性にある。アマラとカマラは、人間に発見されて人間になったのさ。野生にいれば動物として一生を終えただろうね」
 アマラとカマラ……狼に育てられた少女、だったか。
「だったら、あんたは何なの? 見たところ、それなりに知性はあるみたいだけど」
「僕達のこれは知性じゃない、データさ。ただの情報だよ。僕達はインプットされたことを吐き出しているに過ぎない。コンピュータと変わらない」
「人間だって、学習……インプットされた情報を吐き出して生きているわ」
「人間はインプットされた情報を基に思考するのさ。僕達は思考しない。取捨選択するだけだ」
「人間だってそうよ」
「君は人工知能を人間だって言うのかい?」
 女がそう言うと、野中さんは言おうとした言葉を飲んだ。
「……じゃあ、あんたは自分が人工知能だって言うの?」
「少し違うが、まあその認識でも構わないよ。僕達が人工なのに間違いはないしね」
「……」
 野中さんは黙る。
 人工……実験動物。クローン? まさか、零からの人工生物?
「あー、少しいいかな」
 それまで黙って聞いていた、忌広さんが話し掛ける。
「ん、ああ。何でも聞いてくれ」
 メイが興味を無くしたように、僕の隣に来て座った。
「君は、人工の人間……いや、動物なのかな」
「ああ、そうだよ」
「それは、クローンのような物?」
「いいや。クローンではないよ」
「零から動物を創りだした? その、人間以外の材料からという意味だけれど」
「無……それは違うね。僕達は人間を基にしているよ」
「それは、所謂男女の交わりからではなく、細胞のコピーからでもなく、創られたと言う意味でいいのかな」
「ああ。それで間違いないよ」
「ふむ……」
 忌広さんは顎に手を当てた。
「わかった。では、次の質問だ。僕達、といったね。君以外にも、君のような子はいるのかい?」
「僕達は僕達だ。他にはいないし、ここにいる僕達が全てだよ」
「どういう意味かわからないのだけど、なぜ『僕達』なのかな? それは複数に使う言葉だろう」
「それは僕達が複数だからだよ。単一ではないんだ」
 ここにいるのが全てで、なのに複数……? 誰かがいるのか? ここには誰かが隠れるスペースなんかありはしない。
 忌広さんはあっさりと矛先を変える。
「ふむ? わかりにくいね。オーケー、質問を変えよう」
「どうぞ。何でも訊いてくれ」
「君はその、液体の中から出てこないのかな?」
「ああ……僕達はここから動けない」
「そうか。では次。ここは電気が生きているようだが……」
「ああ。自家発電装置が作動しているよ。地下水を利用した水力発電、太陽電池発電、あとは核融合発電。全て機械制御で、オートメイション。無人で機能するように造られている。装置が止まれば、僕達は死ぬだろうね」
 無人で? コンピュータ制御など珍しくもないが、そうする意味は? 誰もいない廃棄された研究所で、それでも電気を……いや、この女を生かし続ける意味は?
 僕の疑問をよそに、忌広さんは質問を続ける。
「そうか、わかった。では、さっきまで……目を覚ますまでの記憶が曖昧なのだけど、私がここに入って来た時、君は眠っているように見えたが、間違いないかな?」
「ああ。誰もいなければ、僕達は対外的に機能する必要はないからね」
「ふむ、なるほど。それでは、重要な質問だけれど……君を創ったのは誰かな? それは、どんな目的で?」
 忌広さんは核心に近いことを訊く。女は端正な顔をにんまりと歪めた。
「僕達を創ったのは、厳密に言えば研究者だけど……求めている答はそうじゃないだろう? 君の想像はきっと正しい。目的は、簡単に言えば知的好奇心。理想と夢の追求だ」
「想像ね。では、難しく言うと?」
「難易度の話じゃないさ。簡潔に、という意味だよ。でも、そうだね……永遠、というのはどうだい」
「永遠?」
「そう。人間はいつか必ず朽ちる。いつの時も、老人は継続を望むものさ」
 永遠、継続、終わらない世界、終わる夢。いつか朽ちる身体。くるくると渦巻く、螺旋。終わりのない楽園。可能? 不可能。でも、追うだろう。
 世界の継続。それは、僕の望みそのものだった。
「まさか……不老不死、だと言うのかな?」
「まさか。人間は死ぬ。だから人間なんだ。死なないとなれば、それは人間なんかじゃない。僕達さ」
 女はよくわからないことを言った。もっとも、最初から不明瞭であるのだけど。
 忌広さんは右手で胸ポケットをまさぐり、何かに気付いたように女を見た。
「……いや、ありがとう。いい記事が書けそうだ。……あれ、ボールペンが……まあいい、とにかく、記事にさせてもらうけど、構わないね?」
「いいさ。他にも何かあれば遠慮なく訊いてくれ。僕達に出来ることなら協力するよ……。どちらにせよ、記事には出来ないがね」
「はあ?」
 野中さんが間の抜けた声を出す。
「僕達を真実として記事にするっていうのなら、それは無理だ。理由は三つある。一つ、荒景無統がすぎる。君達の記事が載る媒体がなんなのかは知らないけれど、自分で言うのもなんだが、誰も信じやしないんだよ」
「そ、そんなの、わからないじゃない!」
「わかるんだよ。僕達にはね」
 何を言い争っているんだ。いいから、その女をどこかにやってくれ。
 僕は頭を掻きむしる。
「理由の二つ目、君達が僕達のことを記事にしようとしても、待ったが掛かるだろう」
「はあ……?」
「だから、そもそも記事にすることはできない」
「どういう意味よ? あんた、自分が権力持ちだとでも言うつもり? 私はね――」
「天下の御厨社社長令嬢、だからなんだい?」
「っ……!」
 野中さんが息を飲む。
 御厨社と言えば、日本最大手の新聞社。彼女がその社長令嬢だっていうのか?
 僕はそっと忌広さんを窺う。彼は何も言わない。ただじっと観察している。
「なんで……」
「なんで知っているのか、かい? ははっ、造作もないよ。君達のことは、この敷地に入った時からずっと見ていたんだからね」
 この言葉に、全員が目を見張った。
 ずっと見ていた……ずっと見張られていた。僕らの会話を聞き、勝手に覗き見ていた。
 それは、僕の尺度では許し難いことだった。
 でも、僕は何も言わない。この女と会話をしたくない。
「そう、だったらわかるでしょう。私は御厨社の社長令嬢、野中花音よ。圧力になんか屈しないんですからね」
「そうかい。まあいいよ。どうせ無駄なんだ」
 女は愉快そうに身体を丸める。
「理由のその三、君達は、ここから出られはしないのさ」
 瞬間……弾かれたように、僕の身体は動いていた。一目散に、僕らが入って来たはずの扉へ。
「くっ……」
 扉は、押しても引いてもびくともしない。固定されたみたいに、根が生えたように動かない。
 扉と壁の、ほんの僅かな隙間に爪を差し込む。動かない。金属の扉は、僕の爪を折った。爪が割れ、血が滲む。
「くそっ! 開けっ! 開けよっ!」
 ガンガンと蹴りつける。足首が嫌な音を立てた。僕はみっともなく後ろに転がる。立ち上がり、体当たりをした。
「ふざけっ……なっ! 開けよっ!」
「ユタカ、やめろっ!」
 マーが僕の身体にしがみついた。
「離せっ!」
「駄目だ! ユタカ、落ち着けっ!」
 なんだよこいつ。僕の世界のくせに、僕の邪魔をするのかっ!?
「離せよっ!」
「駄目だって!」
「いい加減に……しろよっ!」
 頭が真っ白になった。気付くこともなく……僕の身体はマーを振りほどき……蹴り飛ばした。
「ぐっ……」
 無様に床を転がる。ざまあみろ! 僕の邪魔をするからだ! 僕は扉に向き直る。
 肩に手を置かれた。しつこい。何様のつもりだ!
「いい加減にっ……」
 振り向きざま、顔の位置に手を振り回す。
 ぴたりと、僕の手が止まる。止めた訳じゃなかった。
 僕の右手は、細い指に掴まれていた。
「えっ……」
 マーではない。マーはまだ床に転がっている。
 頬に衝撃。不意打ちに足がもつれ、扉に身体をぶつける。呆然とした。頬がじんじんと痛む。扉に寄り掛かったまま、僕は相手を見た。
「マチ……」
 マチの目が、怒りに揺れていた。
 マチは僕を殴った姿勢のままの手を見て、それから僕の目を睨む。
「ユタカ」
 その一言で、僕は我に返った。
 マチの愛を、僕は邪魔してしまった。そのことに気付いた時、冷水でも浴びたみたいに目が覚めた。
 僕は……なんてことを!
「ご、ごめん……」
「うん、もうしちゃ、駄目、だよ」
「うん」
 それだけ言って、マチはまた壁に寄り掛かった。
 僕はマーに歩み寄ると、手を貸した。マーは僕の手を握って立ち上がる。
「ごめん」
「おう」
 マーは僕の頭に手を乗せ、わしわしと髪を掻いた。
「さてと」
 立ち上がったマーは、女に向き直る。
「そんで、これはどういう理由だ? 何故、扉が閉まっているんだ?」
「くふっ……」
 水中で、女は笑いを漏らす。
「面白いね、君達は。何度見ても飽きないよ」
「あーそうかい。覗き見なんて趣味悪ぃぜ。いいから答えろ。俺達をここに閉じ込めたのはお前か?」
「あは、そう怒るなよ。質問に答えよう。答えはイエス。扉をロックしたのは僕達だ。しかし、その理由は僕達ではない」
「ああん?」
 マーはチンピラのように顔を歪めた。
「意味がわかんねえ。閉じ込めたのはお前だが、それはお前の意思じゃない、ってことか?」
「ああ。その通りだよ」
 女は水中でくるりと回った。
「出せ」
「嫌だね」
「殺すぞテメェ」
「出来るものなら」
 女はガラスをコンコンと叩いた。
「強化ガラスだ。銃弾でも割れないよ」
 マーは舌打ちした。
「何故、出さない?」
「出さないんじゃない。出せないんだ」
「お前が閉じたんだろ? ならお前なら開けられるはずだ」
「無理なものは無理だ」
「……はあ」
 深い呼吸をひとつ。
「なあ、頼むからさ」
 マーは態度を変え、女に言った。
「ここはユタカの世界じゃない。ユタカはここに居られないんだ」
「へえ?」
「さっきの見ただろ? 早く帰らないと、ユタカがどうなるかわからない」
「どういう意味かな?」
 マーは僕を見た。確認の意味だったのだろう。僕は頷き、言葉を継いだ。
「僕は一種のパニック障害持ちだ。他人と同じ空間に長くいられない。こうしてお前と話しているのだって、本当は気が狂いそうなんだ」
 え? と、ミアが呟いた。
「へえ……」
 にやけた顔で女が言う。
「だから、早く出してくれ。お前のことは誰にも言わない」
「パニック障害、ね。その割には、そっちの記者二人と会話できていたようだけど。まあ、後で怒ってはいたがね」
「少しの会話くらいはできる。軽い付き合いなら平気だ。ただ、干渉されるのが我慢ならない」
 こんなもの、癇癪持ちと何も変わらないのだけど。金の力で診断書を取った。世間的には、僕は一種の障害者ということになっている。
「そうかい。それで?」
 僕の告白を聞いた女は、事もなげに言った。
「それで、って……」
「勘違いしているようだね。言っただろ。僕達の意思じゃないんだ」
「じゃあ、なんで!」
「危険なんだよ」
 女はその赤い目を細めた。
「外で何かが起きた」
「はあっ!?」
「それこそ、核爆発みたいな何かがね」
「核爆発……?」
「まさか。そんなことは有り得ない」
 僕は反論した。
「この国に爆弾を落として得をする国はない。損はあっても」
「いや、そうとも言い切れないさ」
 忌広さんが言った。
「この国さえ無ければ、という程度ならば、それに該当する組織はいくらでもある。それでなくても、武力の誇示や要求を飲ませる為の脅し、宗教に則った行為など……テロリズム。理解できる理由はいらない。当人が納得できればいいのさ。そんなことなら、いくらだって理由や相手が思い付く」
 どこか興奮しているようですらあった。
 ああ……成る程。変な物の取材をするわ、変な人のパートナーだわ、最初はマトモだと思ったこの人もまた、どこかおかしいんだ。
 誇大妄想狂か何かのような。
 うきうきと弾んだ声で、忌広さんはもはや独り言になったことを呟く。
「可能性の筆頭としては、北の某国か。うむ、そんな小説があったな。北と南が手を組んで、我が国に核爆弾を落とすという……他には、米軍基地を狙った反米勢力の線もある。今や核なんて楽に作れるからな。おっと、事故の可能性も忘れてはいかんな。しかし、メルトダウンで爆発は起きたかな?」
「はは、楽しそうでなによりだ。しかしね、僕達は核爆発級の何か、といっただけだよ。大地震かもしれないし、隕石の衝突かもしれないよ」
「隕石! しかし、そんな発表はなかった。そうか、映画なんかで、事前に発表するのはおかしいと思っていたんだ。そんなことをしてもパニックが起こるだけだからな。対策を講じたが間に合わず、衝突は防げなかったと」
 なにがそんなに楽しいのだろう。全部、意味するのは世界の破滅だ。
 核爆弾、大地震、隕石の衝突……もしそんなことが起きたとしたら、僕の家も、僕の場所も、全部全部消し飛んだだろう。少なくとも、まるっきり無事ではいられない。
 ならば、僕の世界がここにいるというのは、むしろ幸いなのかもしれない。
 待て、そんなこと、確証はないだろう。核爆弾なんて、それこそこいつの嘘かもしれないのだから。
 しかし、どうすればいい? ここから出られないことに変わりはない。
「おい」
 僕は女を呼んだ。顔は、目は見ないように。視線を下へ。やせ細った身体ばかりが目に入る。絵の具で塗り潰したような白。まるでそうあるのが正しいというように、その細さと白さは、誂えたように似合っていた。
「監視カメラあるだろう。見せろ」
「無理だね」
 女は即答した。
「申し訳ないが、外部のカメラは、はじめから電源が切れている。施設内のものは、僕達にしか把握できない。そもそもが映像じゃないんだ」
 女の言葉は、言葉とは裏腹に申し訳ばかりだった。
「外はどうなっている」
「把握しきれない。情報が雑多すぎる。そんな中に君達を出すことはできないよ。ただ」
 女は言葉を切った。数秒、沈黙が流れる。僕は息を飲んで続きを待った。
「僕達の感覚では、外はまさしく地獄だ」
 その言葉に、僕は想像する。核の光に包まれ、焼け爛れた世界。大地震に見舞われ、崩れ落ちた世界。隕石の落下で、えぐれた巨大なクレーター。
 地獄絵図。虚無。文明の傷痕。
 泣き叫ぶ人々。いや、全てが焼け、誰ひとりいない町並み。
 誰もいない地獄なのか、生き残ったことが地獄なのか。
 僕は身震いし、切り替える。
「それなら、僕らはこれからどうなる」
 外が危険だというのなら、僕らはここから出られない。先が無いというのなら、この狭い部屋に閉じ込められるのも同じことだ。食糧は? 水はあるかもしれない……僕の世界は?
「好きにしなよ」
 女はあっさりと切り捨てた。
「はあ?」
「行けばいい。どの道、いつまでもここにはいられない。一期一会、さよならさ。つまらない出会いで恐縮だがね」
「だから、外に出せよ! どうしろって言うんだ、こんな行き止まりの小部屋で!」
「文句を言う前に行動したらどうだい」
 そして、にやけた顔でこう言った。
「この部屋が終点だと、誰が言ったんだい?」
 一瞬、女の言った意味が解らなかった。理解が及んだ瞬間、僕はまた弾かれたように動いた。
「おい、ユタカ?」
「探せ! 何をボサッとしてる!」
「あ、ああ?」
 僕はそれ以上構わず、部屋を探る。
 そうだ、ここは地下なんだ。まだ下があってもおかしくない!
 部屋の隅を、壁を、僕は這うようにして探った。遅れて、何人かが続く。
「おいっ! どこにある!?」
「何が?」
「階下への入口だ!」
 探り回るうち、踏んだ床に違和感を覚える。足に伝わる感触。中に空洞?
「ここかっ!」
 部屋の端、薄暗いその床に手をやる。タイルの淵に爪を掛けた。割れた爪が痛む。
 ばりばりと、軽い粘着。床が剥がれる。
 そこには、マンホール程の穴があった。中には梯子が設えられている。
 覗き込んだそこには……小さな明かりが見えた。
「あった!」
 その声に、全員が僕のところに集まった。当然、女を除いて。
「なんだよ、中、何があるんだ?」
「……明るい?」
 ほんの小さな光。女のいるガラスの円柱のものとは違う。とても小さな、その光。穴を通り越して部屋を照らす程ではない。それでも。
 その光は、まさしく救いだった。
「おい、この下には何がある?」
「さてね。地獄か、楽園か……それをどう捉えるかは、僕達にはわからないさ。行き止まりよりはマシだと思うがね」
「ふざけるな。哲学の授業ならたくさんだ」
「ここに救いはない。なれば、進むしかないだろう? 旅路は新鮮だからこそ面白い。月夜も闇の烏のように。行く先を知るのは野暮というものさ」
 教えるつもりはない、らしい。
「そら、行けよ。君達の旅は今始まるのさ」
 芝居がかった言い方。それこそゲームかなにかのような、ふざけた物言い。
 僕は穴を眺めた。
 行かなければどうしようもないというのは解っている。いつまでもここにいる訳にはいかない。ここを下りれば、少なくとも状況は変わる。でも、好転するとは限らない。もっと悪い状況とは想像がつかないが、そうなる可能性はあった。
 例えば、ここに留まることを選択したならば、いつか必ず僕らは死ぬ。食べ物も飲み物もないのだ。眠るように死んでいけるだろうか。餓死は苦しいと聞いたことがある。それは御免だ。いや、そんなことよりも。
 最初に死ぬとしたら、まずはミアか、そうでなければマチだろう。それは、僕の世界の崩壊を意味する。僕が最初に死ねるのならその選択もあったかもしれないが、相手が飢えではどうしようもない。自ら世界を壊す行為……自殺は、最初から選択肢に無い。
 変わらない世界こそ、僕が望んだことだ。しかし、世界は容易に塗り替えられた。痛みに似た感覚。胸がちりちりして、吐き気がした。ハァと息を吐く。
 ここにはあの女がいる。決して世界の一部にしてはいけない。こんな空間に、僕は長く居られない。餓死するより前に、胸を掻きむしって死ぬだろう。
 そうだ、空気は? ここは地下だ。酸素は有限。いつか尽きるのではないか? それならば、皆ほとんど同時に死ねる。辺りを見回す。駄目だ、通気孔がある。通気孔? もしかしたら、そこを通って……いや、それも駄目だ。通気孔はある。しかし、丸い小さな穴でしかない。とても人間が通れるとは思えない。
 結局……ここから下りる選択以外はできそうもなかった。
「なあ、行こうぜ」
 マーが誰にともなく言った。
「ここにいても始まらねえよ」
「そうね。行くしかないわ」
 野中さんが追従する。
 僕の世界は、全員が僕を見た。
「どうかな……マチ、どう思う?」
「下りないと、始まらない。けど、終わらない、かも。下りたら、終わり、かもしれない」
 マチがそう言うと、野中さんはキッと睨んだ。
「どうしようもないじゃない! ここにいたらいつか死ぬわ。私はそんなの嫌よ!」
 ヒステリックに喚き立てる。五月蝿い。
「ちょっと黙って」
「はあ? 何様の」
「黙れよ」
 僕が言うと、野中さんは一瞬怯えたような顔をして、それからまた睨んでみせた。
「どこにいたっていつかは死ぬ。早いか遅いかの違いだ。なら、最後に満足できるように行動するしかないだろ」
 異物め。決定権はお前なんかに無い。
「メイ、おいで」
「んー」
 僕は腰掛けると、メイを呼んだ。脚の上にメイが座る。その腰に手を回しギュッと抱く。それから頭に口元を埋めた。こそばゆく、柔らかい髪の匂いを嗅ぐ。丸一日風呂に入っていないのに、優しく甘い匂いがした。
「ねえメイ、お願いがあるんだけど」
「なーにー?」
 メイは首を捻り、僕を見ようとする。しかし僕の顔はメイの頭頂部にあるため、メイから見ることはできない。少しジタバタしたが、諦めたように前を向いた。
「僕を殺してくれないかな?」
「んー、いいけどー。ユタカが死んだら、メイはどうなるのー?」
「死ねばいいよ」
「そっかー」
 頭皮の匂い。濃い匂い。不快感はない。癖になるような、包み込むような。
「何言ってるのよ!」
 野中さんが叫ぶ。耳を塞ぎたくなるような雑音。不快感。
「あんたらどっかおかしいんじゃないの!? マトモじゃないわよ!」
「黙れって言ったろ」
 僕がマトモじゃないだなんて、とっくに承知している。
「ユタカ、駄目、だよ」
 マチが、僕の腕を掴んだ。
 その声音は固く、有無を言わせない迫力があった。
 この視聴者がこうまで怒ったのは、いつ以来だろう。
「ああー……うん」
 僕が死ぬことも、マチは許してくれない。ならば、選択肢はもうないのだろう。
 頭が一気に醒める。言葉遣いも、態度も、僕らしくないものを見せてしまった。
「ごめん。じゃあ、行こう」
 メイを離し、尻を叩いて立ち上がる。
「皆もそれでいい?」
「おう」
 否が上がるはずもなく、全員が頷いた。野中さんだけは不満そうにしていたが……僕の世界以外のことに頓着している余裕はない。
「ねえ、君」
 振り向き、僕は女を呼んだ。
「君は……」
「君じゃない。君達だ。僕達はいつまでもここにいる。また会うこともあるかもね。じゃあ、いってらっしゃい」
 虚構でも現実でもなく、彼女はそこにいた。嘘臭いまでの存在感。拭えない違和感。蜃気楼のようにそこにいて、映像のようにそこにいない。
 最後に、その双眸を見る。赤い紅い朱いそれは、くり抜いてしまいたい程に美しい。しかし、先程のような激情は涌かない。もう平気だ。感情は儚い。劣情にも似た焦燥は、マチの言葉で溶けた。
「相応しいかはわからないけど、一応言っておくよ。さようなら、いってきます」
 一番乗りにマーが下りていく。次いで野中さん、忌広さん、マチ、ミア、メイと続いた。
「本当は、何があったか知っているんでしょ?」
「もちろんさ。僕達は誰かが知っていることなら、なんだって知っているんだからね。宇宙の答えは四十二だ」
 古い時代の話を。
 当人に教える気がないのだ。これ以上はどうしようもない。
「もう一度訊くよ。外には出られないんだね?」
「外は、地獄さ」
 舌を出す。それもまた、鮮烈な赤をしていた。
「そっか」
「そうさ」
 白、赤、灰色、それから青緑。
 この空間は、僕には刺激が強すぎる。
「じゃあね」
「頑張って」
 女は手を振った。僕は梯子に足を掛ける。かなり下にメイがいた。
「君達は人間で、僕達はゼノだ」
 頭上で何か聞こえた気がした。僕はそれに無視をする。

     

 穴の中にはまず小部屋があって、そこから更に梯子が伸びている。トンネルか煙突の内部のような、長い長い梯子。下を見る余裕はない。横を見れば、同じくらい長い鉄柱があった。ついている溝からみて、恐らくは昇降機だろう。しかし、今は機能していない。
 ひたすらに梯子を下る。手を離せば死ぬかもしれない。緊張が僕の背中を支えた。
 どれだけ下っただろうか。日頃から運動不足の僕は、ぜいぜいと息を切らしていた。指が痛み、腕が攣りそうだ。
 徐々に、明るさが増していく。薄闇に差し込む光の量が増えた。
「おーい」
 マーの声がする。
「あと少しだ!」
 僕は首を捻り、下を見た。それだけのことで、指が悲鳴を上げた。冷や汗が舞う。
 トンネルの終点が見える。横穴のようになった場所から、マーの顔が見上げていた。
 あとほんの少しだ。
「あっ……」
 油断したか、汗で指が滑る。バランスを崩し、梯子から落ちた。
「あっ馬鹿っ! よっ――と」
 僕はマーの腕に受け止められた。マーは勢い余って転び、床に頭を打つ。
「痛っ……」
「マー! 大丈夫?」
「おう……」
 僕は起き上がり、マーの頭を見た。血は出ていない。ホッとした。
「マー泣いてるー」
「うっせえ! 反射だ反射」
 メイのからかいに、涙目のマーは怒った。大丈夫そうで安心する。
 忌広さんに野中さん、ミアとマチは、そんな僕らに目もくれない。呆気に取られたように、光の差し込む方を見ている。
 光……そう、光だ。気付けば、そこは明るさで満ちていた。
 僕は辺りを見る。長い長いトンネルを抜けたそこは、何かの施設だった。四方を壁に覆われ、一面は開いていた。天井はなく、青く透き通った空が見える。有り得ない。
 そんな馬鹿なことがあるか。ここは地下だ。地下も地下、正確にはわからないが、地下数百メートルの空間だ。なんだってそこに空が――太陽があるんだ!?
「なによこれ……」
「参ったね、こりゃあ……」
 呟きの通りだ。なんだこれ。
「スクリーン、だね」
 マチが言った。
「映像。リアルだけど、よく見ると、わかる」
 ……そう、それは、青と白の組み合わせ。空と雲。光の色。映画か、ビジョンスクリーンのような……途徹もなく、途方もなく巨大なシアターだった。
 言われるまで気付けない程に、精巧で、緻密な。
「こんな大きい……」
「あっ!」
 メイが空を……スクリーンを指差す。空と見紛う精巧な映像を映し出す、巨大なスクリーン。
 雲と雲の隙間を縫うように、鳥の群れが飛んでいた。
 鳥が……?
 地下施設の下の下に、空があれば、鳥がいる。そんな当たり前の光景が広がっていた。
 種類まではわからないが、間違いない。本物の鳥だ。数羽の鳥が泳ぐように、舞うように飛んでいく。
 言葉を失い、小さな点になり、やがて見えなくなるまで、僕らはそれを見ていた。
 鳥が見えなくなって、はっと気付いた。僕は慌てて壁を見る。扉があった。ごく普通の、ノブの付いた扉。僕は飛び付き、ノブを捻り開ける。
 その光景に、僕は目を見張った。
 どこまでも続く、青々とした草原。所々に木々があり、見渡せない程に広がっていた。空の青と、草原の緑。コントラストのように混ざり合い、どこまでもどこまでも伸びていく。大地の丸みを感じることはない。地平線という指標のない、切れ目の見えない、ただただ巨大な空間。目を凝らしても何も見当たらない。眩暈がして、頭を振った。どこまでも続くはずがない。どこかからはスクリーン。映像の仕業に過ぎない。
 目の前には水の流れる川がある。小さな橋が掛かっていて、石畳の道がある。まるで公園かなにかのように見えた。振り向けばそこにあるのは、公衆トイレのような小さな建物だ。屋根の無い、四角い囲い。そこから天に向かい、梯子の通った煙突のようなものが伸びている。
 断崖絶壁。行き止まり。無限とも思える程に広い空間の端っこ。高く高く、煙突は伸びて、見えないくらい小さくなった。あそこがあの女……ゼノのいた部屋だろう。またあそこまで戻るのは不可能に思えた。
「えっ――」
 遅れて出てきたマー達も僕と同じように驚き、見渡し、見回し、煙突を振り仰いだ。
 口をぽかんと開き、目を真ん丸にして――
 白痴のように、まったく間抜けた顔をして。
 僕らはそこに降り立った。

 僕らが歩き出してから、もう何時間経ったのか定かではない。時計の類を持っていない僕には、時間を知る術がない。感覚で言うならば三、四時間といったところか。僕らは二度目の休憩をとっていた。
 草原には道の跡が見受けられたが、しばらくは使われていない様子だった。とにもかくにも、僕らはそれを辿るしかない。
「はあー、疲れた」
「わっ」
 マーが背負っていたメイを下ろす。疲れて歩けないとわがままを言ったメイは、こんな状況でもおんぶを楽しんでいた。
「腹減った……」
 もうしばらく食事をしていない。水は出発の時、涌き水と思える川の始点で飲んだきりだ。川はすぐそこに流れているので、雑菌を気にしなければ飲むのに問題はないだろう。
「なあ、どこまで歩くんだ?」
「さあ……僕だって知らないよ。言えるのは、ここにいても仕方ないってこと」
 あの屋根の無い施設、あそこに留まるという選択肢は、誰も提案しなかった。流れは忘れたけど、当然のように出発することになったし、誰も反対しなかった。
 目的地? 知らない。
 理由? わからない。
「…………」
 マチの疲労が濃いように見える。一言も喋らないし、座ってずっと足元を見ていた。見ていたが、おもむろに足元の雑草を引き抜くと、泥を拭ってその根を食べた。
「おいっ!?」
「大丈夫、食べられる」
「えっ?」
 むぐむぐと口を動かす。渋みでも感じたのか、少し顔を歪めた。
「これは、セリ。他にも、小松菜、ルッコラ、とか。どうみても意図的、に」
 僕には雑草にしか見えないが、草原になっているそれらは、食べられる草だったようだ。
「食用、の、ものばっかり」
「そうなのか?」
 マーがそのへんの草を引き抜き、食べた。
「苦っ」
 ぺっと吐き出す。
「や、火、通さないと……」
 まさか葉っぱをそのままバリバリいくとは思わなかったようで、珍しくマチが慌てていた。
 マチが言うには、知らないものもあるが、ここにある植物はほとんどが食用、または蔓草のように、人間にとって利用価値が高いものだそうだ。
 普通は畑を作っても、不要な雑草が生える。これは当然だ。畑は土が耕され、植物にとって住み良いのだから。逆に言えば、そんな住み良い環境でしか野菜は育たない。比べて、雑草はどこにでも生える。生命力が強いのだ。生存競争で雑草が負けることはまずない。そんな雑草がここには無い。
 明らかに人工的な、人為的な空間だった。
「つまり、どういうこと?」
 野中さんはそのへんに生っていたヒメリンゴをかじる。
「酸っぱ!」
「……植物を、管理する誰かがいる、か、いた、ってこと」
 マチは答えた。
「どう違うのよ?」
「現在、か、過去、か」
 今、誰かが僕らを見ているのか。
「誰かがいるなら、外と連絡ができるかもしれないね」
 そうでなくても、人間の暮らせる場所はあるということだ。
「三十年もここに暮らしているっていうの? 有り得ないわ」
「三十年もここを維持する理由はなんですか」
 質問に質問で返す。少しは自分で考えられないのか、こいつは。
「機械的に維持されてるだけかもしれないじゃない」
「まあ……無くはないですが。やっぱり同じです。そんなものを作る理由は?」
「知らないわよ、そんなの」
「…………」
 バッサリと議論を切る。考えることを放棄していた。
「……とにかく、当面の目標は、外部と連絡をとること。ひいては、何らかの施設を発見することです。異存は?」
 誰も答えない。僕は皆を見回した。
「普通なら川沿いに行けば町があるでしょう。しかし、ここではあまり意味がないと思う。水道があればいいんだからね」
 エジプトはナイルの賜物というやつだ。適用されるのかはわからないが。
「しかし、他に指針もない。どう行くのも同じなら、君に任せるさ」
 忌広さんは枝を噛んでいた。
「何か気になることでも?」
「いいや、ないよ」
 くわえた枝を上下させ、指でポキッと折って投げ捨てる。
「ただね、こんな場所を作ったのは、どんなやつかということを考えていたのさ」
 誇大妄想狂気味の男だ。さぞかし素敵な妄想を聞かせてくれるだろう。
「そういえば葉桐の会長は、倒産と同時に行方不明になったな……」
「…………」
 意外と現実的な事を言う。
「葉桐の会長、小山真世は、当時から変わり者として有名だった。奇人変人の類だな。天才的な経営手腕の持ち主であり、驚異的な発想を持つ科学者でもあった。葉桐は彼の開発した薬の特許で成り上がったようなものさ。倒産した当時にもう八十近かったはずだから、もうさすがに生きてはいないだろうが……」
「その人がここを作ったと?」
「いいや、そうだとしてもおかしくはないというだけだよ」
 忌広さんは肩を竦めて両手を広げる。
「さて、そろそろ行こう。推論をしていても仕方ないだろう?」
「ええ、ですね……」
 僕らはまた、果ての見えない道を歩き出した。
 少しずつ空が暗くなっているのに気付いたのは、それからさらに二時間程歩いた頃だった。太陽は沈まず、徐々に暗くなっていき、いつの間にか姿を消した。かわりに、月と星とが、プラネタリウムのように瞬きだした。
 空といっても、この場合はただの天井だ。スクリーンの映像が切り替わり、光量が落ちた。それだけのこと。
 歩けない程ではないにしろ、あまり足元の見えない状態では危険かもしれない。それでも、ここで夜を明かすことを望む声は出なかった。意地を張るように、全員が前に進む。既にどちらが前かもわからなくなっていた。
 歩き出してまた数時間……僕らの間には嫌な空気が漂っていた。
「はぁ、はぁ、疲れたよぅ……」
「皆、そう、だよ」
「施設なんて、本当に、あるのかな」
 歩き疲れたからか、皆マチのような喋り方になっている。
「ん?」
「どうかした?」
 マーが立ち止まり、鼻をひくつかせた。
「何か匂う」
「え?」
 何かを思う間もなく、マーが駆け出した。どこにそんな元気があるのかというような、平時と変わらぬ速さ。
「町だっ!」
「え?」
 木々が重なり見えなくなった場所で、マーが叫ぶ。マチがキョトンとして答えた。
「マチじゃねえよ! 町だっ! タウン!」
 僕らは慌てて駆け寄る。木々が連なり、生け垣のようになった奥。その向こうは小さな崖になっていた。三メートル程の段差の下には平らな地面があり、川はそこを流れている。川沿いに一つ、小屋があった。久しぶりに見た人工物。いや、全てが人工なんだったか。そこから更に視線を伸ばす。暗くてよく見えないが、確かにそこには何かがある。
 町だ!
 小屋の遥か向こうに、いくつかの建築物が見えた。一つや二つじゃない。いくらかの規模を持った町。村か? とにかく、人の住む施設には違いない。
 僕らは段差を飛び降りる。僕とマーでメイとミアを受け止めた。マチは普通に着地していた。
 河原を踏み締め、ざぶざぶと川に入る。水深は浅く、流れはあまり強くない。水は撫でるようにすり抜け、踝に強く纏わり付いた。
 川岸にある小屋。僕らはまずそこを覗き込む。
「小屋、か」
 小屋はひどくオンボロで、中には誰もいなかった。網や紐の類がいくつかと、用途のわからない棒がある。
 とりあえず、ここには何もないようだ。小屋の観察は中止して町に向かう。
「あ、あれ!」
 柵だ。芝の生えたながらかな勾配に、ぐるりと一周、木製の柵がある。建物が二つ、その中にあった。牧場だろうか。その更に奥には、町のような建築の群れがある。
「さっきの匂いはこれか」
 獣の匂い。田舎町の雨上がりのような、漂う糞の匂い。僕らは柵を回り込み、こわごわ近寄る。建物の一つは豚の厩舎だった。マーが感じた匂いはこれだろう。もう一つの建物には牛がいた。僕らが近寄っても騒がない。間違いなく誰かに管理された牧場だった。
「奥に行こう」
 牧場を通り過ぎ、居住区と見える方へ急ぐ。
 舗装はされていないが、道がある。それを辿ると、いくつかの家が立ち並ぶ通りだった。家と家との間隔は奇妙に狭く、整然としている。
「ん?」
「どうかした?」
「いや、なんかよ……」
 マーが辺りを見回す。
「視線を感じたような」
「ん……」
 月明かり程度の視界。ここに誰かがいるとして、僕らからは見えなくても、僕らの姿は見えるだろう。注意深くいかなければ。
 と思った瞬間だ。
「誰かいませんか!」
 突然、野中さんが声を張り上げた。
 何をこいつは……そんな無防備なっ!
「ちょっと! 誰もいないの!?」
「野中さんっ! 待って!」
「なによっ!」
 僕らは異邦人だ。ここにいる誰かが、必ずしも僕らに友好的だとは限らない。もっと慎重にならなければ……。
「そんないきなり大声を出したら……」
「じゃあどうしろっていうのよ!」
「もっと静かな方法もあるでしょう!」
 何なんだ、こいつ。考え無しにも程がある。
「相手を刺激してどうなるんです!」
「あーもううっさい! 大体あんた気持ち悪いのよ! 喋り方そんなコロコロ変わって!」
「はあっ? 今はそんなこと関係ないでしょう!」
「あのー、君達」
「っ!」
 突然の声に、僕も野中さんも振り向く。冷静さを無くし、また僕は周りを見失っていた。
「他所でやってくれないか。僕達は朝早いんだ」
 言いながら、男が歩み寄ってくる。
「キャッ!」
 ミアが小さく悲鳴を上げた。一拍遅れて、僕も理解する。
「えーと、君達は……人間? だよね。すると、宮殿から? 見覚えはないけど」
 人間? 宮殿? 何のことを言っているのか、さっぱり解らなかった。
 その男……おそらく男だ。そいつは細い木に肩を預け、ほとんど斜めになるように立っている。
 細い身体。体勢はともかく姿勢は良い。モデルのように均整が取れている。細身ではあるが、引き締まっているというのか、首から肩、腕、胸、腹、太股から脛、足首まで、一つの流れのように筋肉がついている。精緻な彫刻のような、動いていることがもう不自然に感じるような肢体。
 無造作に伸ばしたであろう髪は癖一つ無く、長さはてんでんばらばらなのに、枯れ山水のように不規則に整っていた。
 何より、その目だ。目鼻立ちは整っていて、人形のようだで、その中にあって、一際目立つ切れ長の目。小さな明かりの中、鮮烈な朱色が浮かぶ。呼吸さえ止めたくなるような、息を飲む美しさ。
 似ている。そう思った。あの女、僕の心を掻き乱す、紅い瞳のあのゼノに。
 男はろくな衣服を身につけていなかった。ただ二つ、首に飾りがあるのと、サンダルのような靴。それに、身体を巻く布だけだ。
「人間ならお客様だ。こんな遅くにとは普通じゃないが、とにかく歓迎しよう。こちらへ」
 男は踵を返した。引き締まった尻が僕らに向く。誰も何も言わず、その奇妙な光景に見惚れるようについていく。
「あ……」
 薄明かりの中に、たくさんの誰かがいた。一人や二人ではない。その全員が僕らを見ている。
 赤、朱、紅。朱、赤、紅、紅、朱、赤、紅、赤い紅い朱い瞳の数々。
 紅い瞳がいくつも浮かぶのを見て、僕は驚くよりも感激に気を失いそうになる。



 案内されたのは、家々の中で一番大きな場所だった。木造の平屋。内装も主に木ばかりで、木目のテーブルが一つと、切り株のような椅子がいくつか。
 切り株に座り、一人ずつに水が配られる。配り終えると、男も座った。
「君達、ヘロンの方から来たね。何故だい?」
「ヘロン? それは」
「ヘロンはヘロンだ。あちらには何も無い。御柱と平原ばかりのはずだ。知性とは反対だし、健全とも遠い。君達はケガレか?」
「ケガレ……?」
 言っている意味が理解できない。顔を見合わせようとするが、全員が僕を見ている。メイが僕に近付き、膝に座った。
「ええと……」
「ああ、自己紹介をするのか。知らない人間に会うのは随分と久しぶりだからね。忘れていた」
 口ごもると、男はそう言って頭を叩いた。
「僕達はエティクス。営みの管理人だ。はじめまして、御主人様方」
 エティクスと名乗った男は、端正な顔を歪めて笑顔を作る。
 営み? 管理人? わからないことだらけだ。
「ねえ、あなた……とりあえず服をきちんと着なさいよ」
 野中さんはちらちらと気恥ずかしそうにエティクスを見た。エティクスの服は妙にはだけていて、ローマ神話に描かれるような布を巻いた姿だった。
「服を着るのは人間だけだろう? だから君達は服を着るし、僕達は服など必要としない。作業中に傷がつかないようにするのは必要なことだが」
 エティクスは不思議そうにそう返した。
「君達、本当に人間か? 御主人様はそんなことを言わない」
「人間のつもりだけどね、一応。君の言う人間とは少し違うかもしれない」
「君じゃない、君達と言ってくれ。単一は単一たりえない。全体が単一だ」
 僕達という一人称といい、やはりエティクスはあの女と何かしらの関わりがあるのだろう。そうとしか思えない。それ程に、あの女と似ていた。顔立ちではない。存在が、その有り様が。
「そう。じゃあ、君達。僕は外に連絡したいんだ。通信設備はあるかい?」
「外? 知性か健全に連絡するのなら、まず……」
「いや、そうじゃない。この空間の外、ええと、研究所の外に連絡したいんだ」
「言っている意味がわからない。空間とは何を指す? 外にあるのは知性と健全、それに宮殿だけだ」
「それ以外のことは知らないのか? ケガレっていうのは」
「ケガレは外だ。ここにある全て以外の何か。その何かから来るものはケガレだ。それしか知らない。僕達は教育を受けない。だから、知らないことばかりだ」
 埒があかない。認識に齟齬が有りすぎる。なんにせよ、ここに通信設備の類は無いのだろう。質問の矛先を変える。
「君達は、営みの管理人と言ったね。営みとはどういう意味なんだ? あと知性と健全、それに宮殿か」
「営みは生きる糧を得ること。食糧を生産し、知性と健全、宮殿に供給する。知性は生きる意味を得ること。考えること。考えを共有する。健全は生きる手段を得ること。身体を鍛えること。生きる為に必要な物を作る」
 それぞれが町の名前だろう。営みは生産。知性は思索。健全は鍛練。そんなところか。それぞれが分業し、それぞれが役割に応じているのだろうか。
「宮殿は?」
「宮殿は人間のいる所。君達は宮殿から来たのではないのか?」
「そうだ。僕らは人間。今日初めて宮殿を出たんだ。少し道に迷ってね。ヘロンのほうまで行ってしまったのさ」
 すらすらと嘘が出た。驚いたように皆が僕を見る。僕はメイの頭を抱いた。バレるかと思ったが、エティクスは特に怪しむ様子もない。
「驚いた。宮殿でも生産をするのか」
「人間の場合は生産とは言わない。生殖と言うんだよ」
「そうなのか」
 エティクスは興味深そうに頷いた。
「それで、営みに何の用事だ? 僕達はきちんと義務を果たしているはずだ」
「ああ、視察とか催促じゃないよ。社会見学さ。百聞は一見にしかずと言うだろう?」
「百聞は? どういう意味だ?」
「百回聞くよりも一回見たほうが早いってこと」
「ああ、なるほど」
「だから、色々と教えてほしいんだけど」
「お安い御用だ。人間の役に立つのが僕達の価値なんだからな」
 エティクスは胸を叩いた。
「とは言っても、僕達には役割がある。今日はもう遅い。明日は近い。もう休まなくてはならない」
「ああ、そうなんだ」
 僕らも疲れきっている。話を聞くにしても、一度休んでからのほうがいいかもしれない。
「すまない。寝床を用意しよう」
「ありがとう、助かる」
 エティクスは立ち上がり、外に向かう。
「ああ、伽は必要か?」
「伽……」
「必要なら何人か起こしてくる。牡が四、牝が三か? 僕達だけでいいのなら……」
「いや、必要ない……」
「そうか」
 エティクスは小屋から出て行った。
 伽?
 要するに、性行為の相手。
 牡が四、牝が三。僕らの性別の反対。
 全部が全部、悪趣味だ。
 つまり、そういうことが許される空間だということ。
 なんてことだ。奴隷の扱いを自ら許容している。
 いや、それが当たり前の空間なんだ。
 あまりに整いすぎていて、違和感すら覚えるような。いや、嘘だ。あまりに都合の良い存在に、僕は純粋に驚いているのだ。人間でないというのなら、尚更のこと。
 なんてこった。これじゃあんまりにも。
 理想的じゃあないか。

     

「で、だ」
 エティクスがいなくなったのを見計らい、マーが言った。
「何なんだ、ここ。研究所の地下に、なんだってこんな場所があるんだ? あいつらは何なんだ?」
「多分だけど、ここは誰かの作った支配空間で、彼らは奴隷みたいなものじゃないかな」
「奴隷……?」
「あの女も言ってたけど、彼らは人間じゃないんだ。少なくともそう扱われている。生産し、技術を磨き、身体を鍛える。そうして人間……宮殿にいるっていう奴らの下働きをする」
「何だよ、それ。あいつらだって人間だろう。おかしいだろ、そんなの。何でそんなものを……」
「知らないよ、こんな場所を作るやつの考えなんて。そんなやつら、支配者気取りの理想狂だ」
 頭がついていかない。情報を整理しようとしても、うまく頭が働かなかった。
「あー、ちょっといいかな」
 忌広さんは手を挙げた。
「少し整理してみよう。誰かが研究所の地下にこんな場所を作った。それはおそらく、小山真世か、葉桐の人間だ。下働きは彼らに任せ、自分達は楽に暮らす。そんな理想郷。そういうことかな」
「多分、そうです」
「なら、宮殿とやらに向かうのがとりあえずの方針、ってことでいいのかな」
「はい。そうなるでしょうね。外部と連絡を取るにはそうするしかないでしょう」
「ふむ……果たして通信設備があるのかな」
「え?」
 忌広さんは爪を噛んだ。
「ここが理想郷だというのなら、外部と連絡を取る必要はないだろう?」
 まるで当然のことだとばかりに。
「何故ですか?」
「トマス・モアのユートピアを読んだことはあるかい?」
 概要くらいは知っているが、読んだことはない。マチは知っているかもしれないけど……。
 僕の表情を見て、忌広さんが説明をする。
「理想郷というと桃源郷や天国のような場所を思い浮かべるかもしれないが、本来のユートピアは、理想の社会形態のことを指すんだ。その中で、ユートピアは基本的に外部と接触のない国として描かれている。世界が丸ごと平和というのは不可能だからね。自分達の手の届く範囲を理想とする。だからユートピアにおける理想郷という概念は、あくまで閉じているんだ」
「ということは……」
「閉じ込められたかもしれないってことさ」
 何がおかしいのか、忌広さんはくっくと笑った。
「彼らを見ただろう? あのガラスの中の女にそっくりだ。彼らは作り物なんだと思うよ。作り物の空間に、作り物の人間。ここは作り物の理想郷だ。誰かの妄想を具現化した、自己中心的なパラダイスさ。あの変人なら考えかねない」
「…………」
 僕らは何も言えず、ただ黙って忌広さんの妄想を聞いた。いや、妄想ではないのかもしれない。本当のところは僕らにはまだわからない。情報が不足している。
 忌広さんは楽しそうに、いつまでも含み笑いを続けていた。エティクスが用意した寝床に案内されるまで、彼はにやにやと笑い続けた。ずっと。やっぱり彼も、どこかおかしい。
 簡素な寝床だった。木の床に人数分の敷布団、それに一枚ずつの毛布。寒くはないからそれで十分だ。寝転がり、目を閉じる。考えが頭をグルグルと回って眠れそうになかった。
 記憶を遡ると、どうやっても思い出せない壁に当たる。ずっと昔ではない。つい最近のことでも、辿れない場所が必ずある。脳が全てを記憶しているというが、あれは嘘だと思う。必要のない記憶は、次々に消去されていく。当然のことではないか。メモリは無限ではないのだ
 大切なことを忘れている気がした。しかし、忘れるということは、それが大切な記憶ではないということだ。したがって僕の記憶は大いなる矛盾を抱えることになる。
 大切なことは、忘れたという事実。それだけだ。




 僕は窓から覗く光を朝日と誤認する。目を覚ましたのは、ビジョンスクリーンから垂れ流される光が眩しかったからだ。あれは断じて朝日なんかじゃない。
 僕は忌ま忌ましい光を睨んでから、腕の中のメイを見た。メイはすうすうと寝息を立てている。僕は再び目を閉じた。
 メイの美しさは、偽物の光の中でも変わらなかった。エティクスやゼノのような、完全で精緻な美ではない。もっと生々しく、肉らしい、躍動的な美。精力的で、目を逸らせない。かつて一目で僕は、メイを世界の一部と認識した。容姿だけではない、その有り様をこそ、僕は愛した。
 寝返りを打つと服がはだけて、メイの脚や腕がちらと見える。そこにはこの世で最も汚らわしく、この世で最も純粋な願いが刻まれている。
 メイは神様だ。いや、かつて神様だった。鰯の頭よりはそれらしく、柳の葉よりはしかつめらしく、それまで見た何よりいやらしい、世俗に塗れた、人工の神。
 メイは神であり、神子であり、現人神だった。
 宗教は欲望だ。こうありたいと願い、こうあるものだと決め付け、それ以外の全てを否定する。崇高な理念も、低俗な願いも、全て等しく欲望だ。願い全てが宗教ではないが、願いの数よりも多く宗教がある。
 中でも、メイが受け負ったのは最低の部類。欲望と、歪んだ美意識と、諦観の神。
 メイの身体には入れ墨が入っている。手足の伸び切らないうちに彫られた、欲望の形。成長と共に皮膚が伸び、それは歪んだ欲望の象徴のように、メイの身体を縛っている。催淫術のように心を引き付ける、魅惑の模様。
 メイが身体をくねらせるたび、信者達は歓喜の声を上げる。メイの手が自身をまさぐるたび、信者達は雄叫びにも似た声を漏らす。信者達は神に倣い、穢れを吐き出す。全ての穢れは、メイがその身に受け止める。そうすることで、信者の穢れは浄化される。
 イカレた大人、イカレた信者の、イカレた儀式。僕の埒外にはこれだけの汚い大人がいて、これだけの小児性愛者がいる。
 そんなものは僕の世界じゃない。
 メイが八つの時から十二になるまで、そのイカレた儀式は続いた。僕がこの手で終わらせた。
 あの時のメイの痴態は、今も脳裏に焼き付いている。ひどく純粋で、ひどく浅ましく、可憐で、妖艶で、あどけなく、いやらしい。二律背反の塊のような、奇跡の具現化。
 監禁に近い環境で育ったメイにとって、世界とは信者達であり、信者とはメイを愛する者のことだった。無償の愛ではない。愛欲を注ぐ人間だけが、メイの信者足り得る。
 今はもう、メイの信者は僕だけだ。だから、メイが受け入れるのは僕だけ、僕と僕の世界だけだ。それ以外の全ては、メイにとって等しく無価値だ。
 皮膚は入れ替えることもできる。しかし、メイはそれを望まない。それが自分を構成する重要な要素であると思っているからだ。それが僕との絆だと。
 入れ墨が歪んだ今もなお、週に一度の儀式は続けられている。それがメイの世界をほとんど壊した僕にできる、唯一の償いだった。
 目を瞑って、もう一度腕の中にいるメイを抱きしめる。安心感がそこにはあった。まどろみはすぐに訪れる。



 もう一度目を覚ました時、偽物の太陽はもう高く昇っていて、自分がどれだけ疲れていたのかを自覚した。腕の中の神様はまだ眠っていた。起こさないように身体を起こす。それでもメイは気配を察して起き上がり、僕について部屋を出た。そこにはエティクスと、忌広さんがいた。
「それで」
 これは社会見学だ。僕はそう思い込もうとしながら、そう振舞うように心掛ける。
「君達の仕事って、どういうことなの?」
 うまく言えただろうか。さりげない風を装えただろうか。エティクスは慣れた様子で僕を見た。
「仕事……仕事ね。そう、仕事か」
 エティクスは、まるで初めてその言葉を声に出したかのように反芻する。
「僕達はエティクス。この生業の管理責任者をしている」
「管理責任者……それは、この町で一番偉いってこと?」
「偉いというと語弊がある。統括をしているだけのことだ」
「それを偉いというんじゃないかな」
「そうなのか。だとしても、与えられた権力にすぎない。権力を与える者にこそ、偉いという言葉は使うんじゃないか」
 至言ではあるが、その認識はどこか奇妙だった。知識は無いが知性はある。怖いくらいに。
 人間とは知性のあるものだと、あの女は言っていた。
「それで、君達が統括している業務内容は?」
「僕達の仕事は、生活必需品の生産。食料、衣服、建材など。生きていくのに必要な物は僕達が作っている。種を撒き、肥料を撒き、牛や豚や鶏を育て、卵や乳を採り、加工し、それらを運ぶこと」
「要するに、農業を?」
「農業……畜産も、だが」
「なるほどね」
 第一次産業の町。オートメイションされた現代の農業とは違う、人……彼らの手による生産。どうせ、土から肥料から徹底管理されているのだろう。
「それに、移動の際に手筈を整えることか」
「移動?」
「三ヶ月に一度、宮殿にいる僕達も入れ替わるだろう? それをつつがなく完了するために責任者は働く。だから、責任者だけは移動しない」
 宮殿、健全、知性、それに生業。四つの町があり、そこにいる彼らは四半年ごとに入れ替わる、ということか。
 健全で精神と身体を鍛え、知性で学び、生業で働き、宮殿で暮らす。一年という概念があるのかはわからないが、そうして暮らしているらしい。ただし、責任者であるエティクスを除いて。
「ここについてはわかった。それじゃあ、知性、それと健全について教えて」
「それなら、僕達じゃなくて実際に現地で聞いたほうがいいんじゃないか?」
 確かに、そうだ。どう返す?
「客観的な、君の意見を聞きたいんだ」
 忌広さんが言った。うまいフォローだ。伊達に記者を名乗っていない。誰かも見習え。
「そういうものか」
 エティクスはあまり難しく考えないようだった。
「ふむ……健全はここから歩いて半日の場所にある。石の町で、身体を鍛え、精神を鍛え、僕達の身体のメンテナンスをする。欠陥のある固体は宮殿に送られ、再生産される」
「再生産?」
「ああ」
「それはどういう意味?」
「詳しくは知らない。液体に浸かって目を閉じると、何もかも新しくなっているんだ。身体も、頭も」
 クローンの生産ともまた違うのだろうか。詳しくは知らないと言った。なら、仕組みを理解はしていないのだろう。仕方なく質問の方向を変える。
「じゃあ、健全の代表はどんな奴?」
「代表……統括しているという意味でなら、ソルスという名の牝がそれに当たる」
「ソルス、ね」
「じゃあ、知性っていうのはどんな場所?」
「悪いがそれも知らない。僕達は知性に行かない。たまにメンテナンスで健全に行くことはあるが、知性に行く機会がない。僕達は長く生業を離れるわけにいかないからな」
「じゃあ、君達以外に誰か知っている人はいないの?」
「いるさ。僕達以外の僕達は知性に行くから。呼ぶかい?」
「いや……」
 エティクスの語る健全と同程度の情報しかないのなら、あまり意味が無い。予備知識程度にしかならない。実際に行って見るしかないのかもしれない。
「他に何か質問はあるかい」
 エティクスの声に、僕は首を振った。




















     


 隣の部屋にマーがいて、野中さんと談笑していた。不愉快だった。この女も、それ以外も。
「おはよう」
 声を掛けると、マーは慌てたように会話を止めた。
「よ、よう、おはよう」
「…………」
 無言で睨まれる。僕は一瞥してからもう一度言った。
「おはようございます」
「……ホント、何なのよあんた」
「はぁ……それしか言わないんですね、あなた」
「っ! うるさい!」
 わからないことがあるたびに「何なのよ」。自分では何も考えないし、見付けようとしない。記者のくせに、ただ愚鈍に答えを求めるだけだ。
「気持ち悪いのよあんた。マー君はあんたの言いなりだし、他の子達もあんたの奴隷みたい。丁寧な口調でしゃべるかと思えば、馬鹿にしたみたいに見下す。何様なのよ、あんた」
「気持ち悪いならもう構わないでください。僕はあなたに興味がないし、むしろ邪魔だと思っています。僕は僕様だし、あなたを見下しています」
 パンッと、小気味よい音がした。涙目になった野中の手が、僕の頬に手形を付ける。
「こんな侮辱、受けたことが無いわ」
「そうか、良かったじゃないか。貴重な体験ができてさ」
「このっ……」
「おい、花音さん、やめろ」
 マーが振り上げた手首を握るが、野中は振りほどいた。
「触らないで!」
「喧嘩はよせ。ユタカもそれ以上煽るなよ。今はそんなことしてる場合じゃないだろ?」
 マーの目はきつく釣り上がり、男としての物に近かった。
「まあ、ね……言い過ぎたよ」
「私は謝らないわよ」
「いらないよ。意味がない」
「くっ!」
 野中はまた手を振り上げた。その手を掴む。
「世間知らずだな。お前も、僕も」
「一緒にしないでよ、あんたみたいな異常者と!」
「異常者? 僕はただの世間知らずだ。世の中うまく渡れやしない。それはお前も一緒だろ? 僕もお前も、世界が思い通りにならなきゃ気が済まない世間知らずなんだ」
 そうだ。僕は世界の全てが思い通りでなきゃ嫌だ。そうならなければ癇癪を起こすし、ちやほやしてくれる世界に逃げ込む。その世界を創ることがどれだけのことか。
「人間なんて、みんなそうだろう? 人間は自分が心地好い空間を求める。その形はそれぞれ違う。僕は異常者じゃない。僕はただ我が儘で、理想が高い。それだけのことだ」
「異常よ! なにが僕を殺して死ねばいいよ! 異常者にしか言えない台詞だわ! 異じょっ……!」
 咄嗟に、僕は野中の首を掴んでいた。
「お前がさ、お前ごときがさ、僕とメイの何を知ってるって? 何も知らない部外者がさぁ、偉そうに口出しするなよな」
「ぐっ……ぶごっ」
「ユタカっ! やめろっ!」
 マーが僕を羽交い締めにする。
「何、マーはこいつの味方なの? 僕よりこの女のほうが大事? そっかぁ」
 僕は首から手を離した。野中は倒れ込み、ゴホゴホと汚い咳をする。
「大丈夫か? ……ユタカ、そうじゃない。そうじゃないんだ。俺は……」
「マー、僕のことあんまり好きじゃないもんね。だからそうやって他人と関わろうとするし、僕を、僕らを変えようとする」
「そうじゃない。ユタカ、違うよ。俺はただ、ユタカに幸せになってほしくて……」
「そんなの、僕は望んでないんだよ!」
 勘違いもいいところだ。甚だしく、著しい。でもそれが、埒外では常識なのだ。世間一般では、間違っているのは僕のほう。そんなこと誰だってわかる。だからなんだっていうんだ?
「お友達が多ければ幸せってかい? そんなのはさ、本当に大事なものがないから言ってるだけだ。大切なものが一つでもあればそれだけで幸せだろう。僕はそんな、幸せもどきを外部からしか見付けられないやつらとは違う。大切なカケラがいる。守りたい世界がある。それ以上は何もいらない!」
「違う、ユタカ……俺はっ!」
「僕の世界は僕を愛している。だから、僕は僕の世界を愛している。マー、僕のこと好きじゃないだろ。丸ごと好きなら、変えようなんて思わないもんな」
「違う! 好きだから、愛しているから変えたいんだ!」
 そう叫ぶようにしたマーは、映画のワンシーンのようで素敵だった。こんないい場面を見ることができたのは思い出になる。
 昔から、マーは危うかった。僕に惚れているのは本当だろう。理由? そんなものは知らない。マーが僕を愛していないなんて思っていない。ただマーは、僕の世界になるにはまともすぎたのだ。
 同性愛。
 そんなもの、欠陥ですらない。ただ人間だったということだ。一途に僕を愛する乙女のような姿は、僕の心にクるものがあったけど、それが仇になることもあるのだろう。決定的に愛し方が違うのだ。マーは僕にまともになることを望むけど、僕はマーの言うまともになんかなりたくない。
 まとも。
 なんて素敵で、まるで意味がなく、独善的なのだろう!
「そうだね、好きなものは思い通りにしたいさ。でも、君のはそれと違うだろう?」
「……俺は、ただ、ユタカを幸せにしたいだけなんだ」
「うん、じゃあ、ここまでだね」
 こんなにも愛し方が違う。ならもう、愛し合うのは不可能だ。
 そして今、一つ、大切なものが無くなった。
「お前、もういいや」
「え?」
「じゃあね、愛していたよ」
 そう言うと、僕はマーを世界から切り離す。
 自分でも感情的になっているのがわかる。しかし、根拠の無い怒りではない。これは前からあったことだ。状況次第だけど、こうなる可能性は感じていた。積極的にそう望むのではないけれど、いつだってあり得たことだ。
 世界は、僕の世界はマーを必要としない。僕を愛さない世界は、僕の世界じゃない。
 だから、もうさようなら。
 告げた瞬間、伊佐々の顔が青ざめるのがわかった。僕の声音から、その意思を感じ取ったのだろう。
「ユタカ、おい……」
「聞こえなかった? もういいって言ったんだよ」
「ユタカっ!」
 伊佐々が僕の肩を掴む。目に涙が浮かんでいた。ああ、少し惜しいな。でも、関係性はもう壊れた。取り返しはつかない。誤解したわけでもない。吟味を重ねた結果のことだから、もう二度と覆らない。
「なぁ、嘘だろ? 冗談だよな? 違う、違う! 俺はユタカの世界だ!」
「触らないで」
「ユタカっ! そういうのじゃない! なあ、やめろよ! 俺の何が気に入らないんだよ? 悪いことは全部直すから! ユタカの言うこと何でも聞く! できることなら何でもする、何でもするからっ!」
「もう一度言うけど、触らないでよ」
 手を跳ね除けた。力もロクに篭っていない手。男の手だ。無骨で、今となっては汚らわしい。
「あ……あ……」
 ふらふらと二歩下がり、尻から床に座り込む。
「ああああああああああ! あ……あ……あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ! ああっ!」
 狂乱するように、伊佐々は悲鳴を上げた。映画で見るような雄叫びではない。ひゃあともきゃあともつかない、甲高い、喉から搾り出すような悲鳴。たまらず耳を塞いだ。あまりにも耳障りだ。
 やがて、長い悲鳴が途切れる。最後のほうはもう悲鳴なのか泣き声なのかもわからない有様だった。恐らくは両方だろう。床に倒れ伏し、滂沱と涙を流す。汚らしい。
「おいおい、なんの騒ぎだ?」
 騒ぎを聞き付けたのだろう、エティクスが入口に立っていて、呆れたように僕らを見ていた。
「人間は割に合わないことをする」
 エティクスはやはり表情を変えずに言った。
「そんなに数がいないのだろう? 数少ない仲間をいじめるのは、不利益しか生まない」
「いじめている訳ではないさ」
 僕は肩をすくめた。倒れ臥した伊佐々の背中を野中がさする。
「まぁ、いいけどな。食事の時間だ」
 部屋にはエティクス、僕、マチ、ミア、メイ、それに忌広さんと三人の給仕がいる。給仕は男が一人と女が二人で、いずれもろくな衣服を身につけていない。エティクスと同じく布と首輪とサンダルだけで、女のほうは簡素な貫頭衣を見に着けていた。軽装とすら言えない格好だった。
 そして、その誰もがエティクス……ゼノに似ていた。肌や髪の色は様々だが、共通するのは雰囲気と……その美しい赤い目。目の赤さ以外は、驚く程に特徴がない。何の特徴もないことが美人の条件というが、彼らはその最たるものだった。
 伊佐々は今、隣の部屋で眠っている。叫ぶだけ叫ぶと、糸が切れたように気を失った。野中はその介抱をしている。
「いやはや……君達は面白いね」
 忌広さんはスープを口に運んだ。薄茶色の澄んだスープで、良く言えば素材の味を生かした、悪く言えば薄味だった。スープの他には、パンが一つ、果物と、何かの葉っぱを茹でて和えたものだけ。
「世界、とは、君の領域ということかな」
「まあ、そのようなものです」
 悲鳴に起きたメイ達に、僕は一言、「こいつはもう、僕の世界じゃない」と告げた。メイは「ふうん」と頷き、マチは何も言わなかった。ミアは何度か「どうして」と訊ねたが、僕が答えないことを悟ると、やがて黙った。
 世界を切り離したのは、これが初めてじゃない。何年ぶりだろうか……そう、ミアの幼馴染みだったあの男以来だ。名前はなんと言ったっけ。聡明で、公平で、許される我が儘はいくらでも押し通す、今思えばに近いタイプの男だった。あいつは僕らの世界を知って、それを是正しようとした。それはその男にとって初めての、許されない我が儘だった。僕らの世界に、大人を介入させようとしたのだ。僕は直ちに処理をして、その事件を未然に防いだ。
 それから、そいつの顔は見ていない。
「ここらで別行動といきませんか」
 僕はそう提案した。
「こうして町も見付かったことだし、もともと、僕はあなた方を快く思っていません。これ以上の同行は、それこそ不利益しか生まないでしょう」
「ふむ? まあ、私はそれでもいいのだけどね」
 忌広さんは身体を揺すった。
「つまり、こういうことだろう? 彼をこちらで引き受けろと」
「平たく言えば、そうです」
 世界から切り離したのに、これからも行動を共にすることはできない。不快だし、不愉快だ。
「私はね、状況がわからない以上、あまり別れるのに賛成はできないんだが……まあ仕方なかろう、こう仲違いしていては。もともとの原因はこちらにあるのだからね」
「助かります」
 ただでさえ野中の世話をするのは大変だろうに、押し付ける形になってしまった。そのことについては申し訳なく思う。彼は僕にとって積極的な不利益ではないし、他人に迷惑を掛けるのはあまり好きじゃない。それは干渉を生む。
「では、僕らはここを発ちます。あいつが目を覚ます前に」
「うん、気をつけて。もし何かあれば、ここに伝言なり残してくれないか」
「はい。時々はここに戻ってくることにします。めぼしい情報は共有しましょう」
 戻る気はなかった。エティクスから色々と聞く機会を失っても、僕はここを離れたかった。またいつかそんな機会はあるだろうし、情報は他の町で仕入れることにすればいい。
 喪失感はなかった。むしろ晴れ晴れとした気分だ。これから世界はより僕の理想に近づいていくだろう。そうなるためにも、この糞みたいな場所を脱出しなければならない。それは大変なことなのかもしれないが、あれがいるよりマシというものだ。ああ、それにしてもすっきりした。邪魔なものはもう無くなったのだから。
 もう障害は排除した。
















       

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Neetsha