Neetel Inside ニートノベル
表紙

脳内アリス
Hope-1:美涼花々(みすずみはなか)

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 今朝の妹騒動は些細なことだった。……今の状況に比べれば。
『ちょっと待てよ! 無理! コレ無理!』
 銃声音が一つ。着弾点は僕の背後。立ち止まっていたら当たっていただろう。現在も絶賛疾走中である。
 息があがる。呼吸も途切れ途切れ。でもここで止まったら人生が途切れてしまうので、ならばまだ今の方がマシだ。
『っていうかマシもへったくれもない!』
『ぴーぴーうるさい! 良いから走りなさいよ!』
『わかってるわ! ちきしょう!』
 とある学校の中。時刻は夜の9時を回っているので僕らとあいつ以外は誰もいない。他に助けの求めようがないので仕方ないところ。逃げられないと言うのがまた痛い。別に昇降口を封鎖されているわけではないがとにかくできない。これは依頼なのだ。
 教室に入って逆側の出口から出たり、階段を頻繁に上り下りしたりして振り切ろうとする。ここはそれなりの敷地を有しているみたいなので一旦姿をくらませられればこちらのものだ。相手も人間、体力は永久と言うわけではないだろう。それに例え相手がフルマラソンランナーだとしても疲労はあるのだからくらましようはあるはず。もちろん今の敵はそんな体力は有していないだろうから二進も三進もいかないなんて状況ではない。
 戦略的撤退、みたいなやつだ。
「待てえええええええええええええええええああああああああああああ!」
「うわぁ」
 大の大人とは思えない甲高い声が後ろから聞こえる。靴底を叩きつけるような音とともにこちらに向かってくる。ストックを持っているのだろうか、惜しまず発砲、銃声が続く。
『くそくそくそ! 僕はこんな地獄のランニングトレーニングを受けに来たわけじゃない! 平和的解決に来たはずなのに!』
 アリスが居なかったらとっくに死んでる。標準が定まらないように長距離真っ直ぐ走らないでいるものの、最終的に我が身に当たらないで居られるのは悔しいがアリスのおかげだ。どうやら人形に憑依させない状態で来て正解だったみたいだった。一応人形もリュックに入れて持ってきてはいるが、今回の出番はなさそうだ。というか出そうとすれば僕がやられるに違いない。
『いいから走りなさい! 今はまだ逃げるのよ!』
『解ってる!』
『大丈夫、相手はおっさんよ。体力上は勝ってるわ』
『お前僕のひ弱さしらねぇだろ』
『火事場のなんちゃらで頑張りなさい』
『無茶苦茶だ!』
 脳内では叫べるが、既に言葉としては発せない。酸素を取り込むのに必死で余裕はない。腕も足も次第に鉛を入れられたかのように動きが鈍っていく。それでも気力を振り絞り校舎を駆け回る。
『ここに一旦隠れよう』
 廊下の角を曲がった所。声が遠くから聞こえたにもかかわらず足音がしなかった。
 少し止まって隠れつつ、曲った角から来た道を見る。するとどうやら見失ったらしく階段のあるところで立ち止まっていた。しめたと、僕らは2-Aと書かれた札が入口についた教室へと駆け込んだ。
「はぁはぁ」
『ザコキャラもいいところね』
『うるさい……だったらお前が走れよ』
『いやよ。全く、なんで貴方がよりによってパートナーなのかしら』
 こんな時まで減らず口。全くたまったもんじゃないな。
 教壇の裏へと入り息を整え落ち着かせる。
 何と言ってもリュックが重い。人形の他にはストリングスを数組と軍手しか持ってきていないので、原因は明らかだ。それを考えてみればよく走ったものだ。
『くそ、全くあのカラフル女……とんだ奴に絡まれてんじゃないか』
 なんて悪態をついても、あの人には何の罪もないのだが。
『このままではジリ貧よ』
『どうするか』
『知らないわよ』
『ああ……そう』
 どうせこの場で少し息をひそめなければならない。時間つぶしがてら今朝のことを、今回の依頼人カラフル女こと美涼花々(みすずみはなか)のことを思い出してみよう。

     

「人は幸せになった分だけ不幸になるの。分相応が大事」
「だから対価を貰う……か。漫画みたいな話だな」
 アリスが水乃に見つかったという事件が朝も早々に起きた今日。その昼前の時刻。僕たちは家を出て町を歩いていた。水乃は家を出るときに難しい顔をしつつも見送ってくれたのだが、きっとそのうちに受け入れてくれるだろう。順応性の高い方ではあるから。
 学校に行く途中でもある見慣れた風景。いくら都心ではないとはいえ現代ではどこもかしこもコンクリートだらけ。個人でやっている店もあるし、コンビニもある。駅に近い通りなので人も多少は歩いている場所だ。
「それで、今日は?」
「そろそろ来るはずだと思うわ」
「ふうん」
 ポケットに手を伸ばし携帯電話を出す。これは何かの比喩でもなく普通の一般的な携帯電話。昨今流行りのスマートフォンに変えたいが、変えられるほどのお金はない。
 ぶるぶると震えだした。赤いランプが点滅しメールの着信を伝える。
「来たわよ」
「ああ、分かってる」
「で、今日は?」
「えっと、茶色のブーツ緑のパンツに青のパーカー、紫のシャツ赤のマフラーに金髪の10代後半の女……? いやいやいや、こんな奴いないだろ。今夏だぞ」
 サウナスーツレベルじゃないかと思った。
「あれね」
 アリスが指を指す。人差し指の先を見ると……居たんだよ本当に。
 今立っている道をまっすぐ行くと信号の付いた十字路がある。その角の建物に寄りかかって空を眺めている人物がいた。もちろん遠目からでは顔などの仔細は見えないが、他の人が決して着ないカラフルな服装ならば勘違いなく断定できる。
「解りやすいのはいいことだけどさ……」
「この前は依頼人探すのすら大変だったんだからいいじゃない」
「ややこしいのは一人だけにしてほしいんだよ」
「うるさい。いいから行くわよ」
「はいはい」
 わかってるなら少しは自重してくれよ。朝っぱらの妹襲撃事件で精神的にはもうくたくたなんだから。僕はそうぼやきつつ、姿勢美しく歩いている後ろ姿について行った。
 近づくにつれて、カラフル女のディティールが見えてくる。肌は白く蒼白と言ってもいいほどで、汗は一切かいていない。目はうつろだ。緩めの服装なのではっきりとしないが、身体の起伏には乏しいらしい。赤いマフラーにはファンシーなウサギの刺繍がついており、可愛いもの好きかもしれないと思った。
「あ、どうも」
 観察していると目があった。そういう時に思わずお辞儀をしてしまうのが僕。
「初めまして。夢見商会のものですが。依頼人の方でしょうか?」
「ああ……。初めまして美涼花々です」
「私はアリスよ」
「僕は兎宮(とみや)と言います。では美涼さん、詳しいお話を聞かせていただきたいので場所を移しましょう。喫茶店か、絶対に誰にも聞かれたくないとのことでしたら一応そういった場所も用意することはできますがどうしますか?」
「できれば……聞かれたくないので……」
 息を吐きながらのような声だがコミュニケーションが取れたのは幸いだった。思考回路がしっかりしていてくれればいくらでも意思の疎通はできる。窮地に陥っている人間の中には頭の中がこんがらがっているケースも少なくないのだ。
「解りました。それでは少々お待ちください」
 僕は携帯を取り出して、さっきのメールに返信を出した。
≪依頼人が絶対に他者に話を聞かれない場所を希望しています。至急用意お願いします≫
 送信。
「えっと、じゃあ少し時間がかかると思うのでちょっと本人確認だけさせてもらっていいですか?」
「……学生証でもいいんですよね?」
「はい」
 そういうと、財布から一枚のカードを渡してきた。そこには天之ヶ丘(あまのがおか)学園高等部と書いてあった。いわゆるお嬢様校の一つ。
 美涼花々、高等部二年。顔写真も本物と確認。流石に写真の中は制服だが、こうしてみるとそう悪くない顔立ちだった。けれど、目の下のクマで何よりも陰鬱さが先立っているので決してモテるタイプではないだろう。化粧で隠すつもりもないらしい。
「ありがとうございました」
 返却と同時に僕の携帯が鳴った。
≪早住ホテル 401号室≫
「場所の準備ができたみたいです。行きましょう」
 返信が来ると早速場所を移した。
「わぁ、すごいな」
 そこは市内でも指折りの高級ホテル。一体このメールの相手が誰なのか、実は僕もよく知らない。だが察するに資産は潤沢なのだろう。
「……すごい」
 美涼もどうやら感心していたようだった。
 ちなみに僕ら一行は周りのびしっとしたスーツやドレスと相反した格好で、特に約一名の色とりどりさが視線を集めていた。アリスだけは比較的なじめそうな格好だったけれど、やはりここは日本なので目立っている。
「さぁ、いきましょう」
 人々の目から逃れるようにそそくさと401号室に向かうと、既に中に一人。
「兎宮様ですね、お待ちしておりました。これが部屋のカードキーになります」
 いかにも美男子と言った風体の男は僕の手のひらにカードを握らせると背広を羽織って帰って行った。
「本当何者なんだ」
「そんなことはどうでもいいのよ」
 まず勇んで部屋に入ったのはアリス。待ちきれないというようだ。
「さぁ、さっさと話しなさい」
「……はい」
 美涼も部屋に入ったので、僕はドアを閉めた。

     

「――ええと、つまり先生から性的な嫌がらせを受けているということでいいですか?」
 聞いた話を整頓し、確認していく。美涼はコクリと頷いた。
「そして、貴女の望みは二つ。その嫌がらせを止めさせること。そして、今まで受けた身体の穢れの一切を無かったことにすること」
 再び首肯。
 その話はドラマじゃあよくある話で、だが犯罪そのものだった。
「……テストが終わった後、先生に呼び出されて。このままじゃあ大学に上がれないって……」
「それで?」
「……俺が何とかしてやる。その代りわかっているよな、と」
「ドラマか小説か、とにかく三流が描きそうなお話まんまね。つまんない」
「おい、アリス! ……すいません、続けてください」
「……初めは、食事を一緒にする程度だったんですけどその内……」
「身体も求められたってわけね」
「……はい」
「全く、成績のためにってとんだ腐れビッチだこと」
「お前はちょっと黙っておけ」
「……私には父親が居なくて、でもお母さんが子供には苦労かけさせたくないって寝る間も惜しんで働いていて。……なのに大学に上がれないなんてことになったら」
「ねぇ、本当、テレビドラマの見すぎなんじゃないの? あほらしい。それこそ申し訳ないって思わないの?」
「……その通りだと思います。だからお願いします」
「そう、対価を払う覚悟はできているのね?」
「……ここで何もしなかったらそれこそ……お母さんへの裏切りだと思うから……」
「ならいいわ。貴方も、いいわよね?」
「解りました。引き受けます」
「よろしく……お願いします」
 そんなわけで現在、望みのうち一つセクハラを止めさせるために僕たちは今天之ヶ丘学園にてセクハラ教師と交戦中とあいなったという話だ。
 昼に学校を訪ね職員室にて「美涼さんのことで」とターゲットの男に言うと、「夜9時ごろにまたここに来てください」と言った。そして言われた通りに向かった所、拳銃をもったセクハラ教師さんがいたわけ。
「悪いがここで消えてくれ。今ここで学校側にバレるわけにはいかない」
 と、銃口ををこちらに向けて立っていた。
『さて、そろそろいいんじゃない?』
『そうだな』
 アリスの呼びかけに、僕は想起を停止する。
 回想終了。既に足音も銃声もない。あれから10分ほど経ったので相手が完全に見失ったらしいことが確定する。呼吸も回復した。
 さて、反撃の準備だ。

     

 カツカツと、廊下と靴底の接触音が響く。腕時計を眺めると既に10時を回っていた。闇は一層深くなっており電気は付いていない。目が慣れてくるので眼前に何かがあるくらいは見えるものの、お互い文字通り手さぐり状態である。
『準備はいいか?』
『私は常に大丈夫よ。貴方がミスしなければね』
『言ってろ』
『しかし一教師が拳銃を持っているなんてね。一体どういうつもりだか』
『お嬢様学校教師たる者、常に守れる体制はとってあるってことか』
『生徒を襲って自分を守るって本末転倒じゃない』
『冗談だっての。そんな武装学校御免こうむる。元から危ないところに手を出してたやつなんだろ』
『ふぅん』
『足音が近い。そろそろ集中するぞ』
『はいはい』
 曲がり角に位置する教室、2-Aに僕たちはまだ居座っている。ただし教壇の下にはいない。
 もうすでにすべての準備は完了している。一番気づかれてはならない部分はクリアー済。あとははまるかどうかだけだ。
 持参したストリングスの先を輪っかにし、人形を噛ませて不安定にした教壇の足の一つに引っ掛けてある。僕は教壇のある方とは反対の壁際で軍手をはめた手でストリングスを握る。
 仕掛けは単純。子供レベルのブービートラップ。この暗闇でどこまで誤魔化せるかが勝負だ。
 カツンカツン。
 同期するように心臓の音も大きくなる気がした。耳を澄ませる。
 まだ、まだ。
 奴が角を曲がって、教壇側の扉に近づくまで――。
 そう。
『ここだ!』
 僕は全力でストリングスを引っ張った。
 教壇が派手な音を立てて前へ倒れる。
「なんだ?!」
 ドアの向こうから声がする。よし、反応した。ステップ1クリア。
「そこか? そこにいるんだろう!」
 ああ居ますとも。
「くくく。どうやらここまでだな。あーっはははははははははは!」
 まだ捕まえたわけでもないのに高らかな笑い声が聞こえる。とんだ皮算用だ。
『うるさいったらないわ』
『もうすぐ終わるから』
 今度はもう一つのドアの方へと移動する。できるだけ、奴が入ってくる所から死角になるところへと。
「はははは! 行くぞ!」
 勢いよくドアが開く。
「うおっ?!」
 すると、奴が入り口に張ってあった糸に躓いた。ステップ2クリア。冷静でない相手はやりやすい。
『行くぞ!』
 僕はとびかかった。最低でも拳銃を奪えさえすれば逆転。前のめりにつんのめった体勢へ向かって全力で体当たりをくらわす。
「が……あっ」
 壁へと衝突。同時に男は呻いた。僕は人一人を緩衝剤にしているでダメージは少ない。
 さっさと拳銃を――。
「え……?」
 しかし、さっきまで拳銃を持っていた右手には何もない。落としたのか? 
 いや、違う!
「さて、チェックメイトだ」
 僕の頭にひんやりとした鉄の獣が押し付けられる。ずしりと重厚さが伝わってきた。こんなん使ったら頭蓋骨の耐久力なんてあってもなくても同じこと。
 成程、ギリギリで狙いに気付いて持ち替えたのか。流石お嬢様校の教師、機転がきくじゃないか。いっそ自衛隊にでも入ったらどうかと思う。
「はははは」
 空笑いしてみる。最後の最後で失敗だ。やはり僕の体格ではそれほどダメージは無いか。武器さえ取り上げられればと思ったけれどそこまでは上手く行かなかったな。
「さて、何か言い残すことはあるか?」
 ステップ3は失敗か。ああ、しょうがない。
「あー、それでは一つだけ」
「なんだ?」
 僕は腕を伸ばし、すばやく人差し指を男の額に当てた。
「チェックメイト」

     

「うああああああああああ!」
「さてと。後はお前の仕事だけど、あんまやりすぎるなよ」
「ああああああああああああああ!」
「聞こえてるー? まぁいいか」
 男は頭を抱えるようにしてうずくまる。可愛そうなことだとは思うけれど、ステップ3を甘んじて受け入れてくれていればこんなことにはならなかったあんたが悪い。
 あえて言うならこれは、そうだな、スッテプ3´(ダッシュ)と言った所かな。いくら先頭のプロではない僕だって、たった一本の策だけに頼るなんて甘い考え方はしないさ。
「なんで……なんで急に」
 さて今回はどんなふうに見えてるのかな。
 僕は立ち上がり近寄ってみた。
「寄るな! 近寄るなあああああああああああ!」
 こちらを見るなり彼は後ずさる。
 もちろん現実には僕は僕でしかないのだけれど、彼には違うように見えている。見させている、と言った方が良いのかもしれない。反応からして彼にとって僕は今おそらくものすごく怖い化けものの類なのだろう。
「くそくそくそ!」
 銃声が一つ。やけくそだ。そんな目じゃあもう的には当たらない。
 続けて三つ、四つ、五つ、六つ。いくら弾丸が発射されようとすべてあらぬ方を向いて飛んでいく。
「まぁ落ち着いてくださいよ。その危なっかしいものを渡したら、手荒な真似はしませんて」
「い、嫌だ!」
「全く頑固な人だなぁ。アリス、もっとやっちゃっていいよ」
 僕がそういうと、男はまた呻きだした。するともう拳銃を握りしめる余裕もなくし、黒光りする凶器は床に転がる。
「さて失礼」
 回収。これでもう彼には手立てがない。例え弾丸をまだ所持していようとこれで関係ない。後は処理だけだ。
「よし、じゃあ先生。美涼花々さんのことでお話があるんですよ。セクハラ、もうやめていただけますか?」
「な……何を言って」
「もうネタは上がってんだよ!」
 男はびくりと身体を縮こまらせた。僕はにこやかに返す。
「……って一回言ってみたいセリフですよね。ともかくそんな感じです。しらばっくれても止める気がなくてもいいんですが、その場合あなたの精神は保証しかねます。よろしいですか?」
「わか、わかった……」
 ぜいぜいという息の間にそう言った。これでミッション半分コンプリートだ。
「了解です。破ったらどうなるかっていうのは重々わかっていると思うのであえて言いませんが、覚悟はしておいてくださいね」
 僕は男の額を触る。
「ひっ?!」
「さて、じゃあ帰ります。ではでは」
 手についた気持ちの悪い汗をぬぐいつつ立ち上がり、怯える男に目もくれずドアを開けた。リュックを背負い直し、教室を出る。
 廊下をゆっくり歩く。けれど、追いかけてくる気配はない。どうやら上手くいったみたいだな。これでもう大丈夫だろう。
『全く、人間と言うのはひ弱ね』
 学校を出ると頭から声がする。さっき男の頭から返してもらった彼女が話しているのだ。 
 もう声を潜める必要はない。
「お前が怖すぎるんだよ。何お前、コンピューターウイルス?」
『何てこと言うの。本来なら貴方の頭も知っちゃかめっちゃかにしてやりたいところなのに、本当、残念極まりないわ』
「すいませんね」
『全くね』
「でもさ、あながち間違いでもなかったりするんだぜ。不思議の国のアリス症候群ってウイルスでも起きるんだってさ」
 アリスの起こす症状、それに酷似した病の名前がアリス症候群。いや、違うか。元々そういう病気があって後から僕がなぞらわせてもらっただけだから。本当にその病が発症しているかは分からないし、厳密には症状は違う。
『何が何でも私をウイルスにしたいみたいね。大体、私はこの力をそんな名前で呼んだことはないのだけれど』
「だってさ、書いてあったことと割と合ってるんだもん」
 要するに視覚や感覚の高度な錯覚なのだが、アリスは他者の脳に入り込むことでそれを起こすのだ。……僕を除いて。
『何調べよ』
「ウェケペディア」
『あてになりそうもない名前ね』
「何を言う、世界が誇る辞書だぞ」
『貴方が調べた時点で何もあてにならないの』
「なにそれひどい」
 僕はため息を一つ吐いた。これが僕らの人助け。
 その後の彼の行く末など知らない。神ではないのだから双方のいいように決着をつけるなんてことはできないもの。仕方ない。僕は大して器用じゃないのだ。
「んじゃ明日は頑張ってね」
『まずは私の苦労を労うのが先でしょう』
「はいはい、お疲れさん」
『ええ、貴方も。ご苦労様』

     

「本当に……ありがとうございました」
 美涼は僕らに頭を下げた。
「いえいえ。仕事ですから」
「それでも、ありがとうございます」
 今日はアリスを人形に憑依させてはいない。
『少し明るくなったようだけれど、まだ陰鬱としてるわね』
 などと、僕の頭で嫌味を垂れているのだった。
 先生との死闘を演じた翌日、僕らは報告に来た。美涼は相変わらずカラフルで、金色のブーツこげ茶色のパンツに緑のパーカー、青のシャツ紫のマフラーに赤毛だった。前見た時は茶色のブーツ緑のパンツに青のパーカー、紫のシャツ赤のマフラーに金髪だったから……ああ、一個ずつ順番にずれてるのか? じゃ明日は赤色のブーツ金色のパンツに茶色のパーカー、緑のシャツ青のマフラーに紫色の髪になるのか? いや、いくらなんでもそれはねぇよな……。つかどういう色の取り合わせだよ。混乱するわ。
「これでもう、あの人からの嫌がらせはなくなると思います。もしまた発生した場合はこちらの不手際だったということになりますから、無償にて対処いたします。遠慮なくご相談ください」
「はい」
 美涼は微笑した。アリスみたいに陰鬱とは感じないが、幸薄さが伝わってくる。今回のもめごとはこれで終わりだろうけど、これからも何かしら巻き込まれそうな人だなぁ。
 でも、いちいち干渉していられない。
『ええ、賢明ね。それは貴方のためにもなるわ』
『うるさい黙れ』
 聞こえないように心の中で言う
『なによ、犬のくせに』
『いつお前の下僕になった!』
『契約なんて必要ないわ。なぜなら私こそが生まれながらの女お――』
「ああ、美涼さん。それでですね」
 頭の中のワガママ娘を放置して、話を進めることにした。こいつに付き合ってたらあと一時間は話し続けるもの。
「もう一つの件、ですよね?」
「はい。貴方が今まで受けた身体の穢れの一切を無かったことにします。そのために今日と明日は空けてもらいたいと係りの方から連絡が言っているとは思いますが、大丈夫ですか?」
 当然ながら、係りの者が誰かは分からない。アリスが知ってるのかもしれないけれど、夢見商会について聞こうとするとどうにもはぐらかされる。「乙女の秘密を覗く男はモテないわよ。だからいつまでたっても童貞なのよ」と、さらりと心を抉ってくるので深入りはできなかった。
「今日と明日、ですよね? 大丈夫です。明日も終日空けて有ります」
「それは重畳では、はじめましょうか」
 一つ、呼吸を入れる。
「アリス、出番だぞ」
 そうして、アリスに呼びかける。
『分かってるわよ』
 途中で話を無視したのが気に食わなかったのか、怒ったように言っているが、返事が返ってきたので準備ができたと判断する。仕事は仕事できちんとやってくれる奴だ。プライベートを仕事に持ち込みまくりなアリスだが、それでも大事なところは外さない。
 僕は手を突き出した。
「では、美涼さん。僕の指先に額を当ててから目を閉じてください」
「分かりました」
 彼女は言われたように指先へと頭を近づけた。ぴたり、と指先に感触を感じると少し気恥ずかしさを感じる。
だがすぐに冷やかしの声が頭に響き、すぐに赤くなりかけた顔も元に戻ってしまった。
『何照れてんの? チョーキモイんですけどー』
『お前は何年前のギャルだ。良いからさっさと済ませてくれよ』
『はいはい。じゃあ行ってくるわよ』
 そして、アリスは彼女の脳内へと入っていった。
 途端美涼さんが「あっ」と漏らしたかと思うと、全身が脱力したように崩れ落ちる。入り込んだ証明だ。今回のように本人に気付かれずに身体へ進入する場合、本体の魂をいったん眠らせる。魂というと胡散臭いが、脳機能を抑えて昏睡させると言った方が良いか。だが、魂を否定してしまうとアリスとは一体何なのか分からなくなってしまう。彼女はそれはもう人間のように喋る。皮肉と嫌味専攻という最悪っぷりだが。しかし、身体は無い。するとやっぱり魂なのだろうか?
 美涼さんの様子をながめつつそんなことを考えていると、とたん彼女の全身が痙攣しだした。がたがたがたと床の上で、およそ普通の人間が立てることはないデタラメな動作をしているのだ。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっああああああああああああああっあっあっあああああ!」
 叫ぶのでさえ、時折口の不随意的な動作でスタッカートを発音するようにつんのめったような発音に部分があった。当然ながらスタッカートの本来意味するような音楽性は微塵もなく、ただ人が苦しんでいるような様があらわれているだけだ。がちがちと歯の衝突する鈍い音もわずかに聞こえ、舌を噛まないか心配になった。
 正確には美涼は眠っているし、アリスは脳をおかしくしている側なので誰が苦しんでいるわけでもないのだけれど。身体が反応して叫んでいるだけだ。とはいえ分かっていても怖いものは怖い。特に、大声で喋りそうもない様子だった本人とのギャップを考えると一層である。
「あああああああああああああああっっあ……」
 やがて、絶叫も止む。同時に痙攣も収まる。全てが終わった証だ。僕は彼女の額に指先を付ける。何かが入ってくる感覚があった。
「お疲れ」
『全くだわ』
 アリスが、僕の中に帰ってきたのだ。一方、美涼はまだ眠っている。もちろん想定の範囲内。アリスが予定通りやっていれば明日の夕方に目覚めるはずだ。
 彼女はこれで今まであった苦しみの記憶はなくなったが、まだ物理的な身体の穢れの証は残っている。それを治すのだ。いや、隠ぺいするべく修復するといった方が正しいか。だから、すぐに目覚められてしまっては困る。また、記憶の一部を改変したストレスが脳にもあるのですぐに目覚めるのは危険という意味もある。
 もちろん治療など僕にできるはずもない。だから商会へとメールした。
≪こちらの作業は終了しましたので、次の段階へと進めてください。依頼人引き取りをよろしくお願いします≫
 送信。
「……っと。これで今回の仕事はおしまいか」
『そうなるわね。……暇だし、彼女が寝てる間に一発ヤらせてもらったら? 報酬替わりってことで。どうせ寝てんだし、後で痕跡消してもらえるのよ?』
「外道だなお前!」
『いいじゃない。痕跡は消えても彼女があの男に股を開いたことは変わりないのだから』
 アリスは吐き捨てるように言った。
「……きついなお前」
『現実が厳しいだけ。私は現実を見ているだけよ』
 誰よりも存在が現実的で無い奴が言う。
『確かに彼女の中では無かったことになるのでしょうし、知りうる人間の口は封じたわ。社会の中では握りつぶしたけれど、過去の事実までは握りつぶせはしない』
「でも、分かっててやる僕達も僕達だろ。無かったことにするっていう依頼を受けた以上、あろうことか自分たちが記憶し続けていたら元も子もない。騙したなら騙したで誠意ってものがあるだろ?」
『騙してないわ。ただ、彼女の本意と一致するかどうかは知らないけれどね』
「詐欺の常套句だよな。そういう言い方って」
『やることはやった、それ以上でも以下でもないわ。どうせ貴方は騙そうが何をしようがやらねばならないのだから仕方ないでしょう』
 僕は黙った。そこを出されてしまうとどうしても言いかえせなくなる。事実というのは怖いものだ。
 追撃をかけるようにアリスは続ける。
『自分の願いを叶えたいのなら、貴方は下らない倫理など無視しなければいけないの。止まってはいけないのよ』
「……わかってる。わかってるよ」
 やっとの思いで出た言葉はそれくらいだった。

       

表紙

近所の山田君 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha