Neetel Inside 文芸新都
表紙

かくも遅咲き短篇集
パンドラの箱に何も残らなかったら/53

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 生温く、カビ臭い空気が纏わり付く。中央管理室で調整されているエアコンは、ドライに設定しても温風を送り続ける。外気は数度しかないだろうが、窓一つ隔てた室内は異様に暖かい。もう次の手段は消すしかないな。
 ワイシャツの腕を巻くり上げ、ネクタイを外し、一人でキーボードから音を立てる。キーボードの横に置いてある携帯はメール受信を知らせる青いランプが点き続けている。彼女から、待ってる、先飲んでるねーというメールが届いてから一切見ていない。きっと彼女も俺からの返信なんて期待していないのはわかっているからね。今待ち合わせの居酒屋で一人、日本酒でも飲みながら刺身を摘んでいるだろうね。俺の予想では刺身盛り合わせだな。寒いからぬる燗かもしれないね。
 傍らにあるミンティアドライハードを四粒口に入れ、目にスーパークールと名の付いた目薬を注す。味覚、視覚に刺激を送り、常温の汚泥に沈んでいそうな脳を活性化させる。わかってるよ、もう少しペースを上げないと十時までに居酒屋に着けないことくらい。待ち合わせを八時になんかしなければ良かったな。
「っ、くそっ!」
 ガコン、とデスク備え付けの引き出しが振動する。その振動が終われば静かだ、何の音もしない。どうして俺はこんな場所に一人取り残されているのだろう。無機物の中でただ一人の生体反応、これで残業代が一定分しか出ないって理不尽だ。
 煙草が吸いたい。
 立ち上がって、この階の東端にある喫煙ルームに向かう。廊下は流石にワイシャツ一枚では肌寒かった。扉を開けると真っ暗で、紫煙の残り香が俺を包んだところで電気を点ける。
 空気洗浄機の傍で煙草を取り出し、火を点けた。大きく吸い込むと先端の赤が一気に広がり、こっちに前進してくる。口、喉、肺を通し、煙を吐き出す。ヤニに汚れた黄色の壁が視界に広がる。就職してから吸い始めた煙草は、今では一日にかなりの本数を消費することになっている。
 ついでに持ってきた携帯を確認すると、新着メールが十三件届いていた。流石にちょっと怖いな。その内一件がメルマガで、十二件が彼女からだった。予想通りの内容に笑いが零れる。そうだよね、悪かったね、一人で一時間以上放置して。
 二本目の煙草を途中で灰皿に押し付けると、喫煙ルームを出た。電気を消すと、俺の後ろから闇が忍び寄ってきた。扉を閉めると闇は断たれる。
 部署に戻って、再びキーボードを打つ。かたかたと音が響いて、資料は仕上がっていく。出来上がった資料を上書き保存し、数部プリントアウトして左上を留めると、引き出しの中に入れた。パソコンを消し、コートを着て、部署を暗中に戻して出た。タイムカードを押すと時間は十時まで十六分しかない。
 会社を出てすぐ近くにある地下鉄の階段を降り、目の前に現れた電車に乗って一駅ですぐ降りた。時間があれば歩く距離だが、生憎時間は無い。彼女がかなり拗ねているだろうから。俺だって拗ねるかもね、二時間近く待たされたらね。
 駅の階段を早足で上がり、大通りに出て裏路地に入る。小汚い暖簾が掛かった居酒屋に入ると、カウンターに彼女は居た。変な男二人が彼女に声をかけていた。
「可愛いねー」
「可愛くないー」
「え、可愛いって。ずっと一人だよね?一緒に飲まない?」
「飲まないー」
 こんな小汚い居酒屋でよくナンパなんて出来るなと感心しながら、彼女に近づいた。
「ごめん、お待たせ」
「待った!!ちょーーーー待った!!遅すぎるんだけど!!そのせいで私今ナンパされてるんですけど!!」
「あ、ごめんね」
 彼女に声をかけていた男に謝る。男二人は睨むようにして消えた。彼女の隣でコートを脱いで椅子の背もたれにかける。近寄ってきた店員におしぼりを貰って、生ビールを頼んだ。
 目の前にはエイヒレと茄子の漬物があった。その横に日本酒の枡とグラスが見える。生ビールと共にお通しのきんぴらごぼうが来た。
 彼女はきんぴらごぼうの美味しさを語りながら、日本酒を飲んだ。俺もビールをぐっと喉に流し込むと、横から茄子を摘んだ。メニューと調味料類の横に鎮座していた灰皿を掴んで、煙草に火を点ける。酒と煙草を同時に嗜むのは甘美な気がするのは俺だけだろうか。
 彼女の左側に座ったので、煙草は左手に持つ。特に文句は言わないけれど、吸わない彼女に煙を向けるのは憚られる。波線を描いて立ち上がる紫煙は、カウンターの内、調理場近くに消えていく。彼女はグラスの日本酒を空け、枡に口を付けていた。そしてメニューを取り、俺に差し出す。
「タケル君何か頼みなよ、すきっ腹にお酒は悪いよ」
「うーん、何食べた?それ以外頼むよ」
「メールで書いたじゃん!てか何だっけ」
 そう言って彼女は携帯を取り出した。送信ボックスを見ているみたいだ。酔うと結構記憶飛ぶんだよね、この子は。記憶飛ぶというのは、良い面と悪い面があるんだろう。俺はそんなに酒に強くないし、いつも介抱係だからわからないけれど。ただ、酔っ払って理性を失うなんて恥ずかしくないんだろうかと思う。
 串を幾つかとおでんを数種類頼む。ビールも空いたのでハイボールと彼女にぬる燗を。目の前で、頼んだ串を焼く煙が上がって俺の煙と合流した。
 彼女が大分酔っ払ってきたから居酒屋には結局一時間ほどしか居なかった。会計をするとレシートはそこそこ長く、一時間余り食べずに酒ばかり飲んでいた彼女の無尽蔵の胃袋と肝臓を尊敬した。泥酔に近い彼女はレジの横でありがとーと言いながら外に出た。急いでそれを追う。
 少し先を歩く彼女の腕を掴む。支払をしろとは言わないが、待ってぐらいくれないものかな。腕を掴まれた彼女はその手を払い落として、逆に腕を組んできた。足元がおぼつかなく、ふらふらとしながら駅に向かう。
「階段気をつけて」
「わーかってる!だからタケル君と腕組んでんじゃん、煙草臭いけど!」
「それはそれは失礼しましたね」
 小汚い階段を茶色の短いブーツが踏む。ヒールが音を立てて、不規則に足を出す。俺はその横で革靴で階段を踏みしめる。コートが皺になるんじゃないかってくらいの力で腕を組むのは正直辞めて欲しいよね。胸は当たるけど。
 何とか一席空いて、彼女を座らせた電車は、暗闇を走る。デートで次の日が休みの時はどちらかの家に行く。今日は俺の家だ。今朝それなりに片付けをして出て来たのはそのためだ。最近抜け毛が増えて汚らしかったから掃除は頻繁にしているのだが、今朝も結構落ちていた。夏から冬にかけてって抜け毛は増えるって美容師も言っていたしね。その家に、彼女を吸収する。
 彼女をかかえるような形でエレベーターに乗り、部屋のベッドに転がした。彼女はお部屋煙草臭くなってきたね、と笑う。
「コート脱ぎなよ、皺になるから」
「うーん。確かにー」
「いや、それより先に顔洗ってよ、化粧布団に付くから」
「確かにー」
 そう言いながら彼女は布団に潜り込む。お風呂にお湯を溜め、テレビとエアコンをつけて、コートを脱ぐと、彼女が包まっている布団を剥ぎ取った。寒い室内はエアコンで急速に暖かい空気を増やされていく。彼女は寒い、凍死すると言いながら起き上がった。
 冷たい指先が俺の身体を引き寄せる。一緒にベッドに寝転ぶと布団が無くても暖かかった。唇がぶつかる。何度も触れた後に舌が侵入して来た。酒臭い。粘度と温度を持った舌は俺の口内を蹂躙してきた。
 一息ついた後に俺も彼女の口内に侵入した。上の奥歯の横辺り、皮が剥がれかかっている。舌で何度も突いて皮を剥ぎ取った。口を離して指に取ると、白い薄い膜のような皮が指に付いた。再度舌に乗せて飲む込む。気持ち悪いけれど彼女の破片だ、捨て辛い。
「火傷したの?」
「熱燗でね。やっぱぬる燗最高。てか皮飲むとかキモー」
「精液飲むとかキモー」
 売り言葉に買い言葉で笑い合う。彼女からもう一度口を付けられて、笑いながら舌を交ぜた。舌も、身体も熱いのに、指先や先端部分は熱くならないと、彼女は再び、凍死する、タケル君暖めてと言った。指を絡める。冷たい。
 キスをしながら凍死は体温二十七度以下で起きるんだよ、だからリョウコは大丈夫と笑う。三十三度で幻覚発生、三十度で意識不明。例え人間は死んでも極寒の地なんかじゃない限り体温零度になんかならないんだ。冷蔵庫だって温度があるんだからね。二人とも三十五度以上はある身体で、指先に体温を伝導していく。
 舌で遊んだ後、彼女が俺のワイシャツを割ろうとしたから、跳ね起きた。湯船が溢れると言って、立ち上がって風呂場に向かう。お湯は丁度いい具合に溜っていて、蛇口を捻ってお湯を止める。
 歩いてみて再度確認するが性器が反応をしていない。彼女と触れあっても俺の性器は反応しなくなった。彼女だけじゃない、朝も、エロ動画を見ても、何を見ても、就職してしばらくしてから俺の性器は勃起しなくなった。原因はストレスだ、絶対。この年でまさか機能不全になるとは思ってもみなかった。この点はどうしようもなく情けない。
 彼女には色んな言い訳をしている、酔っているから、そういう気分じゃないから、明日早いから。その度にじゃあ仕方ないねと彼女は笑って眠った。 
 キスはする、でもセックスはしない。いや、出来ない。極稀にストレスから解放されて勃起出来る時があって、そういう時はする。でも一回が限度だ。何とか彼女に感づかれないようにするので精一杯だ。
 部屋に戻って、彼女にお風呂先どうぞと声をかける。
「お風呂より、いちゃいちゃしたい……一緒に入ろうよ」
「いや、先入りなよ、お湯冷めるから」
「……タケル君また痩せたよね?」
「まぁ……」
 ストレスのせいか俺の身体は食べ物を受け付けにくくなって、体重は右肩下がりだ。彼女と居る時は多少食べれるけど。この前風呂に入ろうとして自分の身体を鏡で見るとあばらが浮いていた。確かに、こんな身体を彼女の前に晒したくないというのもあるね。
「仕事、大変なの?話聞くよ?」
「そりゃ大変だけどさ、何ていうか、せっかくリョウコと会っている時に嫌な話はしたくないじゃん」
 笑うと、彼女は溜息をついた。そしてぐしゃりと顔を歪めた。両目から涙が落ちる。俺は驚いて駆け寄り、ベッドの隣に座った。大きな瞳から大きな水滴が溢れる。
 何だ、何が起きているんだ。何でこの子は泣いているんだ。
 一頻り彼女は涙を流すと、手で荒く頬を拭って俺を見つめた。
「タケル君はそう言うけどわかんないよ、私は。何で隠し事ばっかりするの?タケル君を支えたいけど支えられないよ、だってわかんないんだもん、タケル君が何で悩んでいて何でストレスを抱えて何でそんな状態になっちゃったのか」
 涙を拭こうと触れた頬も涙も熱かった。熱湯、それに近い水が目から溢れている。
 酔っているから感情が高ぶってしまったのだろうか。エアコンが効き始めた室内で、彼女が一番熱く、俺はその熱量に付いていけなくなっている。彼女が三十九度で俺が三十五度くらいだろうか。
 そもそもどうして泣いているのかがよくわからない。仕事の煩雑さも、同僚や上司との人間関係も、どうして全部吐露しないといけないのだ。何が解決するんだ。ああ、もしかして欲求不満か。もう二ヶ月近くセックスレスだもんな。女性って年上がるごとに性欲増すとか言うしね。
「ごめんね」
 そう言って彼女を抱く。彼女は思い切り俺を押し返した。悔しそうな顔が鼻水をすする。テレビを点けたはずなのに、その音だけがいやに響いた。
 彼女は立ち上がってバッグを取った。出て行こうとしているのがわかる。急いで部屋とキッチンを繋ぐ入り口に立ち塞がる。謝っているじゃないか、許してくれればいいのに。
「どうして帰るの?」
「だってタケル君は私に弱い所何も見せないもん、そんなの切ないよ。もう……カッコつけてんじゃねーよ。……ずっと考えてた、どうしたらタケル君痩せなくなるんだろう、やつれなくなるんだろうって。私は黙って傍に居るしかないなって思ってた、でも好きな人が辛い事何も言ってくれないってこっちが困惑するだけだよ。もう限界。私はタケル君好きだけど、私は私も大事なの。もう耐えられない。こっちこそごめんね、私はもう支えられない」
「は?何?低体温で幻覚でも見えてきたのかな?」
「誤魔化さないでよ!私はタケル君の弱い所全部受け止めるつもりだよ、でも見せなくて済む彼女なら私じゃなくてもいいよね?」
「何、言ってるの?」
 小さい子供みたいに幾重にも涙の路を作って彼女が顔を濡らす。化粧が剥げて崩れてきている。俺は両手で出口を塞いだまま固まった。何を言っているんだろう、本当に。もし俺を支える気なら捨てるなんて選択肢はまず出てこないだろ、辻褄が合わないじゃないか。
 でもこんなに泣かれるとどうしようも出来ない。どうして女性ってこんな卑怯な方法使うかな、面倒くさい。宥めるように抱きしめても撥ねつけられ、話を聞いても筋が通っていない。泣いた女は地球外生命体みたいだ、俺の知能では理解出来ない思考回路。右手を壁から外して彼女の頭を撫でる。滑らかで少しだけ油っぽい髪に触れる。
「好きだけど別れるってこういう事を言うんだね。初めて知ったよ。私は痩せ細っても、老けても、禿げても、煙草臭くても、……不能でも好きだよ。でも、下手な嘘で隠し続けられるのは我慢できない」
 酷すぎる言葉の羅列に固まった。そんな俺の横を彼女はすり抜けて玄関から出て行った。
 そのままその場に崩れ落ちる。何にショックを受けたのかもわからない。彼女が出て行ったことか、彼女に言われた言葉か、そんな言葉に過敏に反応する自分か。フローリングの床はまだ冷たく、足から冷えが伝わってきた。
 正気を取り戻して、今から追いかけようかとも思ったが、もう間に合わないとベランダに出た。ベランダからすぐエントランスが見える。彼女が出て来た、手を上げてタクシーを停める、それに乗る。タクシーは走り出した。俺はそれを見ながら煙草に火を点けた。
 彼女が部屋から去って、彼女の温もりは一度、一度と消えていく。エレベーターに乗ってマイナス一度、エントランスを出てマイナス一度、タクシーに乗ってマイナス一度、その先の交差点を右折してマイナス一度。そうして、いつか彼女の温もりはこの部屋から零度になる。死体であれば残る体温も、手が届かなければ残らない。
「そっちこそ、もう年なんだからこのインポで痩せ細ったハゲで我慢しろよ淫乱が」
 独り言を呟いて煙を吐いた。ああ、こう言えば良かったのか。本音を見せろってこういう事だろ。煙が目にしみた。いや、泣けた。
 俺は俺自身を騙すのを止めるべきなのかもしれない、かっこつけてんじゃねーよ、きっと俺の本心を融解すべきなんだろうね。
 でも、それは今の現状を生きるには辛すぎるから。客観的に見てしまったら生きる希望は消え失せるから。だから、やはり、融解は止める。

       

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