Neetel Inside 文芸新都
表紙

かくも遅咲き短篇集
融点付近/白い犬

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 廣塚博之に白浜慎二、そして赤司直太。この三名の男たちは一体ナニモノであるか。出自は。どこから湧いて出た。その程度の疑問は大した問題ではないと前置かせていただこう。その実、単なる優良健康男子、サカリのついた真剣十代である。
 彼らは三人揃って同じ高校に通う某先輩に恋心を抱き、しばらくの後、また揃って三人とも片思いに敗れたという、ただそれだけの話である。
「二度目か、――」
 白浜慎二と赤司直太が全身を駆使し、それぞれの失恋を嘆いているのを見て、廣塚博之は過去にも似たような経験があったことを思い出していた。それは彼が中学二年生だった頃の出来事である。目の前の哀れな紅白二人組を眺めていると、俄かに封印されていた記憶が蘇ってきた。
 感傷に浸っている廣塚に詰め寄るのは、目を血走らせた先程のふたり。
「お前からは落胆、悲観、無念、その他負の感情に類する気配が微塵も感じられぬ。あの日、共に誓った先輩を敬う気持ちは、よもや偽りでありはすまいな」
 とかなんとか、廣塚はそんな風な意味合いのことを問い質された。
 彼は戸惑った。目の前で悲愴の情を露わにして涙にむせび、あるいは憤怒と後悔を一緒くたにしたような気焔を吐くふたりは、確かに見ていて気分がいいくらいに失恋を謳歌している。それと比べれば廣塚は淡白だ。彼自身、そのふたりと同列に自分の恋愛不成就が語られるべきではないような気もしている。
「まてまて、困惑してるのは俺も一緒だ。まあ確かにお前らを見てると、先輩に片思いをしていたと言う資格すらないような気も、しないではない。俺は先輩のことなど、どうとも思っていなかったのかもしれない」
 しかしそれは漠然とした印象に留まるばかりで、明確に言葉にしようとすればするほど、答えは茫洋たる記憶の海の底に沈んでいくばかりなのであった。
 自分の感情に素直すぎて頭の堅い廣塚はそう返答せざるを得なかった。この返事を聞いて怒り心頭に発し、憤怒の拳を握り固めたのは他でもない、気の早いメガネこと、赤司直太である。
「見損なったぜ、廣塚。まさか、――まさかお前がっ、そんなことを言うなんてなあっ」
「おい赤司っ」
「このばかやろうがっ」
 空しくも白浜慎二の制止が一瞬遅かった。失恋の戸惑いに我を忘れた赤司は後先考えず廣塚に飛びかかる。――そして先に申し上げておくが、廣塚博之は幼い頃から中学三年まで精勤したカラテ・スクールにおいて、それは優秀な門下生として一部では有名であり、それこそマッチ棒に毛が生えたようなヘナチョコ赤司など、たとえクローン製造し束になってかかったところで、撃退することなど造作もないことなのである。従って掴み合いのケンカには発展しない。それ以前の問題である。
「ぐえぅ」
 赤司の断末魔である。かの突撃をひらりとかわした廣塚は、その顎めがけて軽く拳を振るった。すると首振り人形のばね仕掛けの如く赤司の頭蓋がカクリと傾き、腰砕けになった彼はたちまち崩れ落ち、その途中で机の角に側頭部をぶつけて昏倒する。不様な喘ぎ声はその時に聞こえたものだ。
「あーあ。――」
 白目むいてるぜ。などと言いながら赤司のムクロをつつく白浜は、持ち前の楽天主義をひけらかし、未だに目は充血したままであるが、先ほどよりは随分と落ち着きを取り戻したようだった。おおよそ、赤司の頓狂を目の当たりにして自らを顧みたのであろう。
「すまない。こうするしかなかった」
「いいんじゃないの」
 白浜はあっけらかんと言い放った。
「こいつ、こういうときは殴って黙らせた方が早いし」
 それより、さっきの話。と言って白浜は廣塚を一瞥する。
「ありゃどういうわけだ。詳しく聞かせろ」
「大した話じゃない。俺とお前らと、温度差があるってだけさ。それに、――」
 前にもこんなことがあったんだよ、と言って廣塚が語りだす。

 ○

 それは廣塚博之が中学二年生だった時分。始まりの季節は初夏、空と緑が色鮮やかに彼らの街を包み込む頃に、廣塚の記憶は遡る。

 当時廣塚の担任を務めていた榊原教諭が転入予定の女子生徒の話をしたのは、その予定の前日のことであった。男子生徒は熱狂し、まだ見もしない美少女転校生を良いように妄想した。
「しかし唐突すぎるね」
「指輪が間に合わないよ」
「先生、早退します。せめて床屋に行かせてください」
「俺にも心の準備ってやつが」
 そして妄想の隣に自分の姿を描き足し、桃色の恋人気分を先取りした。
「バッカじゃないの」
 それに対し不快感も露わに強烈な嫉妬の炎を燃え上がらせたのは女子生徒たちである。
「どうして転校生が可愛いって前提でしか考えないかな」
「たとえ可愛かったとしても、それに自分が釣り合うとでも思ってんのかしら」
「まったく、鏡見てからもの言えっていう」
 歯に衣着せぬもの言いに、男子生徒たちはたじろぎ、身を寄せ合っておののいた。
「あいつらこんなに怖かったっけ」
「敵に回すべきじゃねーな」
「隠忍自重に努めよう」
 盛り上がってるところ、悪いんだがな。年配、定年間近の禿頭痩身、しかしその眼光未だに衰えぬ榊原教諭は騒ぎが一段落したところを見計らい、声を張った。
「言っとかなきゃならんことがある。従ってお前らは聞いとかなきゃならない。いいか」

 ――そして、榊原教諭は教室中の生徒を呆然とさせるようなことを言った。

「榊原先生」
 仏頂面で口を結んだ担任教師と、四十人弱の思春期真っ盛りの生徒たちが無言で睨み合う中、スックと右腕を伸ばして質問の声を上げたのは、その口の軽さは随一、男子生徒の林健吾である。
「モーロクするにはまだ早いんじゃないですか」
 彼の問いは返答の代わりに脳天への拳骨を見舞われて終わる。
 周囲の生徒たちが後に語ることを聞けば、「中身が入ってないのか、熟練の技なのかは知らんけど、なんとなく乾いた音がしたね。はっきり聞こえたよ」顎を撫でながら、そう証言する生徒もいるほどの、素晴らしいお仕置きだったようで。
「以上。質問には答えられん。というのも、先生もそれだけしか聞かされとらんのだからな。校長直々に生徒たちに伝えろと言われたからそうしたまでだ。あとは明日、自分たちの目で確かめるなり、なんなり好きなようにしろ。では解散」
 実直な彼らの担任にしては珍しく、どこか投げやりにそう言い残すと、榊原教諭はすたすたと教室を後にした。足取りも確かで、中背のうえ禿頭だが背すじはしゃんと伸び、後姿はいかにも頼りがいのある、経験を積んだベテラン教師のそれである。帰りのホームルームはいつも手短にまとめて終わる。
 教え子たちはやり場のない期待を持て余し、しかもそれが不安と懐疑の入り混じったものに変貌した今となっては、はいさようならと言って家路につく気にもなれず、その日に限っては平時よりも教室にわだかまっている生徒たちが多かった。
 廣塚博之はその一団からいち早く抜け出そうとした。彼はホームルームの間じゅう、文庫小説を隠れ読みしていたのを見つかってしまい、転入生のための机と椅子を用意する役目を課されてしまったのである。榊原教諭から放課後、職員室に来るよう言い置かれていた。それを引き止めるのは林健吾。
「おい、廣塚。お前もう帰るのか」
 帰るも何も林健吾が余計なことを言って殴られてしまうから、廣塚の小説隠れ読みも芋づる式にバレてしまったのである。廣塚と林健吾の席は前後に並んでいるのだった。
「これから机と椅子を運んでこなきゃならんのだ」
「ああ、そうだったな。お前も運悪いよな」
 お前みたいなバカにだけは言われたくない、そう心の中で呟く。
「だからって、わざわざ行かなくたって、ほっとけばいいのになあ。律儀なやつ」
 林健吾はせせら笑った。
「いたずらってのは、バレた後に叱られる覚悟のあるやつだけがしていいものだと漱石先生に教わった。俺は今からけじめをつけに行くのさ」
「ばかだな。夏目の漱石はもういないぜ。今は野口英世が幅を利かせてるんだ」
 普段おちゃらけた林健吾に、意外にも『坊ちゃん』が通じたことに鼻持ちならない廣塚は、無言で教室を後にする。
 廊下は誰が開錠したのか、大窓が口を大きく開いていて、日一日と陽気を熱気に上書きしようとする、昼間の太陽の残滓が夕方の風に乗って彼の首筋を撫でた。彼はこの頃十三歳。まさに思春期の盛りであった。



 廣塚博之がそこまで話をしたところで、放課後の教室に夕暮れの気配が漂ってきた。吸血鬼は朝日に当たると干からびて灰になってしまうらしいが、床にのびっぱなしだった赤司直太は西日を受けて目を覚まし、むっくりと起き上がるらしい。遠く窓の向こうには一日の仕事を終えようとするお天道様があかあかと沈みかけている。遠くまでよく伸びた晩秋の夕焼けだった。
 サマー・オブ・カリフォルニア’73。廣塚は夕日を眺めるたび、彼の耳にその金属質のギターの音がよみがえってくる。表題からは陽気と陽射しと砂浜が思い浮かぶこの曲に、薄ら寒い秋のしかも日本にいながらも、廣塚は哀愁を感じる。
「おれは一体なにを、……いやいい。聞かせないでくれ」
 赤司は上半身だけ起こしたまま周囲を見回し、友人ふたりの見慣れた顔を確認したあと、手で顔を覆い、うわごとのようにそう呟いた。
「まあそんなことより続きをはやく」白浜は廣塚を急きたてた。「お前の話、日が暮れるまでに終わるんだろうな」
 さあな。廣塚は気を取り直し、勿体つけて言った。
「榊原先生はさっきも言ったが、昔かたぎの手が早い先生で、そりゃもう若い頃は生徒たちから鬼の榊原と尊ばれ畏れられていた通り、曲がったことを嫌い、人道を奉じ、不確かなことやあやふやなことなど考えもしなければ口にもしないような、まあ平たく言えば頭の堅い先生であってだな。そのとき俺のクラスの全員が先生の言葉を聞いて戸惑ってしまったのさ。林健吾の野次も、本当はその場の誰もが思っていたことと言っても過言ではない」
「だから、その調子じゃお前の話は日が暮れても終わりそうにないって言ってるだろ。もうちょいはしょれないのか」
 白浜はどうやら時計を気にしているようだった。そこへ赤司が割って入る。
「あれ、面白い話してるんなら、俺も混ぜてよ」
 先ほどまでぼんやりとふたりを眺めていた彼は何かを感じ取ったらしい。白浜はというと、先ほどから校長の訓示の如く長口舌である廣塚の話し振りにやきもきして、いらいらし始めていた。
「だまれっ。お前はもう少しのびてろ」
 ネットコミュニケーションにおける「半年ROMってろ」というやつと同義である。赤司は心外そうな顔をして、文句を言おうとしたが、しかし白浜のどこかただならぬ気迫に圧され、その衝動を押しとどめた。痛い目を見た先ほどの記憶が無意識に袖を引いたのかもしれない。
「いいかげん、その担任のじいさんがどんなことを言ったのか教えろ。話を進めてくれ。六時までに家に帰りつけなかったら、恨むぞ。今日は『阪大単位戦記』の放送日なのだ」
 阪大単位戦記とは文藝新都(新都社)に連載中の小説を原作としたアニメ作品である。根がオタク趣味である白浜は鼻息荒くまくし立てた。白浜が今日、神経質にも時間を気にするのは、いちファンとして生放送を見守るべしという使命感に燃えてからのことであり、共に実況を楽しむ仲間たちがネットの海の向こうに彼を待っているからであった。
「くだらねえ、……」
 赤司は鼻を鳴らした。赤司も廣塚もそのアニメの話は白浜からさんざん聞かされていたから、彼がなにを主張したいのかは充分に理解できていた。しかし、白浜を突き動かしている殺気だった気迫の正体がそれだと知らされたいま、先ほど身をすくめた赤司としてはいい気分がしない。そうであれば悪態もつこうというもの。
「くだらないだと。きさま、アニメスタッフの尽力も顧みずに、くだらないだと」
 白浜は赤司の言った「くだらない」の矛先を曲解して憤慨し、髪の毛を逆立てた。
「急がなくていいから廣塚、今までの流れを簡単に俺に教えてくれ」
 赤司は慣れた様子で白浜を受け流し、廣塚に向き直った。
「中学のときに転校生が来たときの話だ。もちろん女のな」
 ――そもそもアニメは低俗幼稚な文化だという先入観が未だ巷にはびこっているのが理解できない、とかなんとか白浜は愚痴っている。小太りの白い肌に赤みが差してピンク色に変わろうとしている。額にはうっすらと汗が浮かんできた。
「落ち着けデブ。どうせ録画もしてるくせに、そこまで生で見たいんなら先に帰ればいいじゃねえか」
「ふん、そういうわけにもいかん。この話、今日聞き逃すとこの男のことだ。再び語られることはないと俺は踏んだ」
 白浜は再度頭のスイッチを切り替え、廣塚に向き直る。
「で、廣塚。そいつはいったい、どんな転校生だったんだ」
 ようやく前置きの長い話が先に進みだしたころ、彼らの教室はほとんど夕闇に呑まれかけていた。晩秋、夕日はつるべ落としである。すきま風は鋭く冷たい。
「転校生は、そうだな。とりあえず人間じゃない様子だった」
 廣塚は言葉を選び選び、語りだす。白浜がうんざりしたような顔になった。
「だから、簡潔に言えよ」



 ――転入生は北陸地方の古い妖怪、雪女を先祖に持つ生徒だから、体質やその他諸々の勝手が若干、我々人間と比べて食い違いがある。従って各自そのつもりで迎えるように。――
 先日、榊原教諭は担任する教え子たちに向かい、教諭自身が校長に前置かれた言葉をそっくりそのまま伝言した。それが校長の意向でもあった。
 榊原教諭とて『そのつもり』とは一体どのような心づもりなのか、見当もつかぬ状態であったのは言うまでもない。平々凡々と人生を送ってきた年配教師である。半世紀以上酷使され続け、常識で凝り固まった思考回路に「はいそうですか」と聞き入れられる状況とはいえない。
 しかし、こんなことで慌てふためくほど脆弱な神経では、思春期まっ盛り、精気溢れる現役中学生の相手など、とてもじゃないが務まるわけもない。
「自分の目で見たものだけを信じよう」
 榊原教諭は通勤車を運転しながら考えをまとめると、それきりその問題についてあれこれと悩むのをやめてしまった。カー・ステレオからはフレディ・マーキュリーが熱くさけび、年配教師を励ましていた。

 生徒たちも全く同じ心構えであったから、例の生徒が転入してくる当日も、――つまり担任から転入生の話を聞かされた翌朝である。――とくべつ浮き足立った様子はなく、教室内はわりあい落ち着いていた。まあ、そんな中にも想像力たくましく、気焔を吐き、目を血走らせるような生徒も、いるにはいた。
 男子生徒のひとり、林健吾は言って曰く。
「妖怪だろうがなんだろうが、転校生が女だってことは、じいさんが昨日言ってたから間違いない」
「しかも、伝承において雪女は美女として伝えられることがほとんどだろ」
「その遺伝子を引き継ぐという転校生が美少女でないわけがない」
「従って転校生と自分はたちまち恋に落ちる」
「雪女との恋も悪くないと思うよ、おれは」
 林健吾の転校生方程式の試算はそんなところで、どこか的を外していた。しかし彼の世界では美少女との恋愛が生きる目的の全てであった。転入生が妖怪だろうが魔物だろうが、幽霊だろうがはたまた神仏であろうが、美少女であればこそ、恋愛において種族の違いなど意味を成さなくなる。美少女であれば恋愛対象として何の問題も生まれることはないのだ。そう考える彼はむしろ、妖怪転校生を待ち構えていた。
 廣塚は林健吾の妄言に辟易していた。毎朝のホームルーム直前、席に着いて文庫小説を読む彼と、その前の席で椅子に横向きに腰掛けた林健吾のいつものやりとりである。廣塚は嫌味を言ってやった。
「期待が大きいほど裏切られたときのショックもでかいんだ。残念だったな」
 なんだよそれ、と林健吾が食い下がったのと同時に、榊原教諭がひとりの女子生徒を伴って教室に入ってくる。言うまでもなく転入生である。加えて予鈴が鳴り響き、林健吾の言葉はすっかりうやむやになった。転入生は腰まで伸びた長い髪をたおやかに揺らしながら、生徒たちの奇異の目線を背中に従わせつつ、全館放送の鐘の音が耳にやかましくこだまする教室を縦断する。その途中でちょうど廣塚の真横を通り過ぎた。転校生の後ろをひんやりした風が追いかけていった。

 予鈴が鳴り終わるのを待って、榊原教諭は咳払いひとつ、当番にホームルームの号令をかけさせた。ベテラン教師の耳には、教え子たちの挨拶の声量がいつもより少しばかり、控えめであるように感じられた。
「今日よりこのクラスに新しく加わるお前たちの学友を紹介する。郡山ひさめ君だ。引っ越してきたばかりで不慣れなことも多いだろう。皆で協力して、彼女を支えてあげてくれ。――それじゃあすまんが、自己紹介でもしてやってくれんか」
 ひと言でいい、と付け足して、榊原教諭は半ば有無を言わさぬような態度で隅の方に寄ってしまった。たった一人で数十人分の視線に絶える、線の細い女子生徒。

 ――転入生は北陸地方の古い妖怪、雪女を先祖に持つ生徒だから ――

「雪女、」
 確かに、白く透き通る肌は儚げな印象を抱かせるだろう。作り物くさいほど艶めいた黒髪はまぶたの上で切りそろえられており、切れ長の目に射止められてしまうと背すじがぞっとしてしまいそうだ。きゅっと結ばれた唇の赤には視線を惹きつけられ、そのまま目をそらせなくなってしまいそうな魅力がある。それぞれが見る者に濃い印象を残す、体内に血液が脈打つ(であろう)生き物の色は、鮮烈すぎるくらいに主張が強く、このまま彼女が成長してしまうと、それこそ妖艶極まる美女に化けてしまうのは目に見えることのように思われるのだった。
「雪女ねぇ、……」
 そんな転入生にぼうっと見とれる級友たちを横目に見ながら、廣塚は一歩身を引いた視点でこの状況を俯瞰しようと努めていた。 
「いいや、どう見たって人間と変わらないじゃないか」
 それとも、雪女とは、はた目にはそう見えるものなのだろうか。



「北陸に限らず、雪女伝説は積雪地域に昔から数多く語り継がれてきた。その地方によって子供を連れていたり、一本足だったり、婆さんだったり、姿を様々に変えている。同時多発的に発生したであろう自然信仰の伝承に初出を求めるのも愚かな話だが、誰もが知ってるようなステロタイプの、いわゆる雪女伝説といえば、――そうだな」
 あくびを掻いた拍子に涙目になった赤司と、笑っているようで怒っているような表情のまま硬直している白浜を前に、廣塚は得意な顔をして、話をグイと横道に逸らした。
「ある父子が山に狩りに出かけた。慣れているはずのふたりは天候を読み違えたか、悪天候のなか雪山から下りられなくなった。そのとき、冷気を身に纏って雪女が現れ、遭難しかけた父子のうち、年かさの片割れを凍死させる。雪女は他言無用の約束を息子にとりつけて去る。息子は寒さと恐怖に震えながら、夜が明けるのをひたすらに待ち、翌朝になって辛うじて村に帰ることが出来た。時が経ち、父親の弔いも済ませたころ、あの日見た雪女のことも、朦朧としながら生死の境をさまよった、自分の無意識が作り出した夢の中の出来事かもしれない、そんな風に考えるようになる。そして日々を暮らしているうちに、そんなことは男の頭の中からすっかり忘れ去られてしまった。
 さらに時が経ち、雪の降る夜に、ある女がその男の家の戸口を訪ねた。色白の儚げな美人で、しかもその女は、自分を嫁にもらってくれという。男は戸惑ったことだろうが、なんだかんだで最終的にその女を妻に娶った。それ以降は他人にも羨まれるほどの幸せな生活。夫婦は子宝にも恵まれ、このまま円満な暮らしがずっと続くのだと思われた。
 ある冬のこと。男の脳裏に封印されていた記憶が俄かに蘇る。その夜、雨戸を打つ雪の勢いは強く、骨に染み入るような寒気が村々を包んでいた。昔、男が年老いた父と狩りに出かけ、山で遭難しかけたのは、そんな夜のことだったと俄かに思い出された。そして父は、身も凍る寒さに体力を奪われて死んだのではなく、なにものかの妖気に中てられて命を落としたのではなかったか。いま男は全てを思い出した。父は雪女に殺されたのだ。そして雪女の面影は、どことなく男の妻にそっくりのような気がしてならない。
 男はそこまで思い出してはいたものの、そのとき雪女と交わした、――というか一方的な口約束だったんだろうが、――他言無用の約束のことは忘れていたんだな。妻に向かって、父の死の話と雪女の話を、愚かにもぺらぺらと打ち明けてしまったんだ。
 察しの通り妻こそがそのときの雪女に他ならないから、他言無用の禁を破った男は、本性を現した我が妻に、危うく殺されかけてしまう。男は結局死ななかったんだ。一緒に暮らして、子供まで儲けた間柄だし、雪女の情がすっかり男に移ってしまったから、なんて一般には言われているが、ほんとのところはどうなんだろうな。そして雪女は男の前から去っていってしまう。――怪談にしては少しだけ切ない後味。名作と聞こえ高いおとぎ話だよ。日本むかし話の脚本はそっくりこれだ」
 黒板の上に張り付いた丸時計がカチコチと音を立て続ける。白浜の恨みがましい眼力が指針の速度を遅らせるようになるには、まだまだ彼は修行が足りない。
「よくもまあ」白浜は苦虫を噛み潰したような顔をする。「立て板に水を流すようだよ。すらすらと出てくるもんだな」
「お前、時間良いのか」
 アニメ間に合わないぞ。赤司が白浜に尋ねても、彼は肩を落とし、ため息を吐いて首を横に振るばかりだった。表情はどこか満足げに見えなくもない。勢いづいた彼の感情は半回転し、喜怒哀楽があべこべになったように感じられる。
「大丈夫か、お前」
「いたって好調だよ。さあ廣塚、こうなりゃ時間はたっぷりあるぜ。何度でも脇道に逸れたって良い。話を続けてもらおうか」
 一見、晴れ晴れとした笑顔で白浜は言った。
「その有名すぎるむかし話が今後どういう繋がりをみせるのか、楽しみに聴かせてもらう」
「いや実はなんの関連も無い」即座に廣塚が断言する。「白浜の制限時間が過ぎたみたいだから速度を上げて話そう」
「なにっ」白浜は血相を変える。「廣塚、きさまっ」
「まあまあ」赤司がそれを羽交い絞めにする。
「雪女は郡山ひさめの血筋。ただ、おとぎ話の昔から現代まで時が移ろえば、当然伝承にも変化はある。ましてや彼女自身が歩くおとぎ話だから、行動全てがそのまま伝説になりうる」
 廣塚の口調をうけ、赤司がぼそりと呟いた。
「――なんだ、本当に雪女だったのか」
「その転入生は雪女というより、――まあ本人の口から出た言葉をそっくりここで繰り返すとだな。――」
 


 転入生の郡山ひさめの自己紹介である。
「こおりやま、ひさめです。おっとうの仕事のあんばいで、こっちさ引っ越してくることになったんです。よろしゅうおねがいしますいね」
(……力いっぱい訛ってんなー)
 迎える生徒たちは自身の筑後訛りを顧みることなく、皆々胸裏で同じことを考えていた。程度の差こそあれ、彼らも他郷へ足を延ばすことがあれば、現地人から言葉の通じない異人として扱われても文句は言えないというのに。
 転入生は涼しげな笑みを湛え、見るともなく全体を見渡す視線の移し方もさながら、堂々として自信に満ち溢れているようであったが、口をつくことばがそのイメージをすっかり塗り替えてしまう。人形のように均整の取れた造形に、声そのものも凛としてよく通る。ただひとつ、ことばだけが彼女の引き締まった外見の印象を牧歌的にぼやけさせてしまう。意志が宿っているように見えた目の奥の光は、単純な好奇心と、新たな修業環境への期待に浮き足立っている田舎娘の純朴さへ印象を変えた。
 そして、実際もほとんどその通りだった。彼女の微笑は、さながら訓練された令嬢が計算高く表情筋を動かして作るようなそれではなく、初対面で、しかも大勢の同世代の前に立つという緊張が高じたぎこちなさの現れであった。
 その後、榊原教諭の善意で設けられた、転入生郡山ひさめに対する質問応答の時間。生徒たちは当たり障りのない質問をぽつぽつと投げかけ、転入生はこれまたどこに放っても差し支えない返答をひと言ふた言投げ返した。
 おざなりな時間。それもそうだろう。お互いに初顔合わせで気を遣っているのである。初対面で「あなたのこと、妖怪らしいって聞いてるんですけど、実際どうなんです」なんて訊けるほどず太い神経を持った生徒は、――安心してもらおう。この学級にはいないらしい。――ただ、別の意味で神経の太い生徒がひとり、いるのだが。
 榊原教諭の想定する中で最悪の事態は、やはり現実となった。満を持した林健吾がスックと挙手。榊原教諭はそれを無視して、今までじっと閉じていた口を開く。
「それじゃこの辺で。あとは各自、懇親を深めるなり、仲良くするように」
「ちょっと先生、俺が手を挙げてるじゃないですか」
「あ、……すまん。見えなかった」
 ため息混じりに返事をする教諭。横暴だ、と囃し立てる数人の生徒たち。彼らは一様にニヤニヤと薄気味悪い表情を浮かべており、林健吾がなにかをやらかすことを期待しているに違いなかった。よく見ると普段から林健吾と親しい顔ぶれである。
 教育者らしからぬことだが榊原教諭は誰にも聞こえないように舌打ちした。
「じゃあ、すまんが、郡山。もうひとつだけ答えてやってくれ」
 転入生のほうも断る理由などない。林健吾は呼吸を整え、息を吸って声を大に思いのたけを告白した。
「惚れました。俺と付き合ってください!」
 教室の一部から歓声が上がる。あるものは拳を握り締め、興奮した様子で鼻息も荒い。
「おお」
「やった」
「ちっ、大損だよ」などとぼやく生徒は一握り設けていたに違いない。誰かがそれを慰めている。廣塚だった。
「お前は林という男をまだまだ知らんのだ。甘かったな」
 反して女子からは壮絶なしかめ面と共に非難を浴びる。
「またやってるし」
「ばっかみたい」
「ありえないわー」
 教室はたちまち騒然となる。榊原教諭は片手で顔を覆い、がっくりと肩を落とした。もはや怒る気力もない。わかっていてこの事態を防ぐことが出来なかった自分が心底情けなく思われた。
 やがて教室は徐々に静まってゆく。再び転入生に視線が集中する。今この状況を進展させることが出来るのは、転入生の返答か、あるいは榊原教諭による軍事的ともいえる介入をおいて、他になかった。
 教諭は壁面の連絡板に鋲留めされたカレンダーを見やり、自分の年齢を数えなおしている最中であった。転入生はといえば、表情に微笑を湛えたままきょとんとしており、生徒たちの期待の眼差しが自分に何を求めているのか、うまく呑みこめていない様子だ。
 ゴクリとのどを鳴らす林健吾。行き詰まった雰囲気の中、廣塚は助け舟のつもりで転入生に声をかける。
「要はこいつが、どうか自分と仲良くしてくれませんかとお願いしてるわけだよ。その返事を皆が期待して待ってるんだ」
 廣塚は断られるに決まっていると高をくくっていたから、転入生に対し、なんとも失礼な言い方をしているのにも気付かなかった。転入生の返事はこうである。
「こちらこそ、お友達からよろしゅう、どうかおねがいします」
 こうして、林健吾の一度目の告白は玉砕に終わる。一区切りついたところで我に返った榊原教諭は、今度こそ質問応答を締め切り、教科連絡に移ろうとした。
「あ、あのう、」
 そこで転入生が、教諭の言葉を遮った。
「ひとつだけ、言っとかねば。……」



「雪女じゃなくて、氷女なんだと」
 こおりおんな、赤司と白浜は一音一音、噛みしめるように口に出してみる。
「正しく彼女の発音をなぞるなら『こおりめ』、氷の女と書く」
「なんだそりゃ」と白浜。
「いや、まんまだろ」赤司は横目で白浜を見やる。「空想の知識に長けるはずのオタクが形無しやね」
「安直な連想なら誰にだって出来るさ。氷女のネタ自体は、最近で言うならヤンジャン増刊アオハル0,5号で既出だ。偶然だろうが苗字まで同姓なのが気にはなるがな。俺はその実際が肝心と見た。この話は一応、廣塚の実体験なのだろう」
「まあ、そうだ」
 白浜の試すような目つきに、廣塚はどこか歯切れが悪い。
「その、氷女のゆきめちゃんは一体どんな妖怪だったんだよ」
「ゆきめじゃない、ひさめだ。たとえばな、――」



 二週間と経たないうちに、ひさめは廣塚のクラスに馴染んでいた。自己紹介の最後に付け加えた、氷女という不穏なキーワードは、誰にも深く検証されることなく、彼女はよくいる『不思議ちゃん』としてあしらわれて終わりそうな気配であった。
「雪女はうちのおっかあなんでよ、おとうはただの人間だすけ、半分妖怪半分人間ってことになんだに」
「おお、ハーフ」
「半妖、……だと。こいつ、侮れない、っ」
「うちの曾ばあさまのころくらいまでは、ふうッと息を吹っかけただけで、そのひとを凍死させてしまうくらいはあったみたいでね」
 生徒たちは転入生の話をはははと笑い飛ばし、本気になって聴こうとする者など皆無であった。
 郡山ひさめは実際のところ、言葉の訛りさえあるものの、それ以外では単なる美少女転校生としてしか見られていないのであった。妖怪だ雪女だと大人たちから聞かされていても、また本人の口から氷女などという単語が出てきたとしても、主観的には愉快なニュー・フェイス、それ以外のなにものでもないのである。
 そのころは、まだそんな調子であった。

 それからまたしばらく経ったころ。
 空の青に深みが増し、入道雲の陰影のコントラストがはっきり強くなって、真夏の空である。蝉の声にそそのかされて気温はいよいよ高く、全身から噴き出す汗はとめどなく、うだるような暑さである。特にその日は格別で、窓の外の陽炎にさえ、手を伸ばせばすぐ届くように感じられた。
「お前らねえ。……」
 榊原教諭は教科書の古文を黒板に書き写し、生徒たちのほうに向き直った。一息ついて禿頭に浮かんだ汗をハンカチで拭う。
「いくら暑いからといって、道路の上に干からびたミミズのような真似なんかするな。だらしがない。シャキッとせえ」
「いや、先生。違うんです」と声を上げるのは我らが林健吾である。
「ひさめちゃんの下着が透けて、気になって集中できないんです」
 教室にみんみんと蝉の声が響く。計測すれば一瞬の蝉時雨であろう。しかしその一瞬は随分と長く感じられた。
「ちっ」
「いやお前、それは引くわ」
「こんだけあちーのに、お前のセクハラにそう毎度構ってらんねーよ」
「ゴミクズ失せろ」
「もげちまえ」
 男女から非難の声が相次ぐ。榊原教諭も呆れてものが言えない。しかし男どもの目線は、そう言いながらもひさめの後ろ姿に釘付けである。
「いやいや、ちょっと待てよお前ら。まじで誰も気付かんのか」
 林は椅子から立ち上がり、教室を見渡した。
「ひさめちゃん、大変なことになってんだって!」
「だからお前はセクハラ発言を慎めと」
「違うッつうの」
「あ、」
 そんな中、廣塚ただひとりが、ようやく林健吾の言わんとしていることに気がついた。
「郡山、……汗か、それ」
「ほへ?」
 当のひさめは呑気な顔で目を白黒させる。彼女は、――ぎょっとした表情の廣塚に見据えられた彼女は、まるで制服のままプールにでも飛び込んだかのように、全身ずぶ濡れの有様であった。当然、先ほどまでは、何事も変わりがなかったはずである。
 濡れそぼった髪は、砂浜に打ち揚げられたワカメの如く。肌が露出している部分はことごとく濡れ、光を反射してきらめいている。彼女の机といわず、椅子といわず、水滴が滴り落ち、木の板を敷いた床には水を撒いたような染みが浮き、じっとりと濡れている。
「郡山、具合が悪いのか」榊原教諭は些か切迫した顔になる。
「え、――いや、あの」
 反して、ひさめは生来とろくさいらしい。このときもヘドモドと口ごもり、言語回路の立ち上がりが抜群に悪かった。その様子をみて慌てたのは周囲の生徒たちである。
「やばいんじゃねえの」
「ひさめちゃん、ぼーっとしてるじゃん」
「ああ、屋内でも熱中症になるっていうね、それじゃね」
 女子たちも口々に不安を囁きあう。席の近い生徒は背中をさすろうと手を伸ばす。席を離れる生徒がひとり、ふたりと増えていく。
「通信班直ちにコーリンッ。ダイヤルは一一九、急げッ」
「救急車呼びましょうか先生」
「あ、俺もう電話かけてますけど」
「いますぐ切らんかバカタレッ!」
 榊原教諭が声を張る。教室はなお騒然としている。
「大丈夫、ひさめちゃん」
「気分悪いの?」
「だめだよ、無理しちゃ」
 体調を案ずる言葉を口々に、女子生徒たちが人垣を成す。これには榊原教諭も身動きが取れない。
「どかんか、お前らっ」
「先生乱暴です、ひさめちゃん具合悪いのにっ」
 混乱のさ中、ひさめは具合が悪いことになってしまっていた。本人の見に覚えはない。
「あの、みなさんどうか、落ち着いて……」
 しかしひさめの声は誰にも届かない。
「保健委員っ、担架もってこい」
「うわぁ、あれで運ばれるのは恥ずかしいぞう。おれ、経験あるんだ」
「お前ら少しおとなしくせえっ」
「あの。あのぅ、――」
 一体なにがどうなってここまでの混乱に発展したのか。誰のせい、それはあれだ、全部夏のせい。このままではらちが明かない。
 決心したひさめは手を胸の前で組む。静かに息を吸い、一気に吐きだす。さけぶ。
「おちついてえっ!」
 その瞬間、廣塚ははっきりと覚えている。廣塚だけではない。他の生徒たちも、ある違和感を同時に抱いたのだ。たしかに一瞬、教室の真夏の空気が、豪雪地帯さながらの吹雪に見舞われたかのような、肉を裂き骨に突き刺さるほどの寒気に摩り替わってしまったような気がしたのだ。しかしそれも一瞬の錯覚。そして教室は静かになった。誰もが口を閉ざし、言葉を凍りつかせたのだ。そして教室は夢から覚めたように落ち着きを取り戻した。
「あの、うちは氷女だすけ、こうあっちぇえと融けちまうんだよ。だからつって具合が悪いわけでもねえんでけ、心配いらねんです」
 だからお気になさらず、といって頭を下げるひさめ。本人がこうも冷静に、はきはきと喋るものだから(とはいえ奇妙にも屋内の濡れねずみであるが)、周りの者は無理矢理にでも納得しないわけにはいかない。
 三々五々、生徒たちはそれぞれの席に戻りはじめた。ここで動いたのはまたしても林健吾。
「本当にそうなの」
 と言ってひさめの額に手を当ててみる。もう片方の手の平は己が額に貼り付けており、検温の真似であるが、それは唐突すぎて彼女を随分と驚かせた。目をぱちくりさせ、ついでに妙な喘ぎ声がこぼれ落ちる。
「あ、ほんとだ。冷たくて気持ちいい。――あ、イテッ」
 林健吾の手の平は、ひさめを取り巻いていた女子生徒に即座に払い落とされた。「触れんじゃないわよ、けがらわしい」とは酷い言い草である。
「あ、でもホント。ひさめちゃん、ひんやりしてる」
「ひさめちゃんの傍にいると涼しいなって思ってたけど」
 キャッキャと姦しい女子生徒たち。
「氷女ってホントにそうだったのね」
 それを羨むような目つきで眺めるのは愛すべき男ども。そして林健吾には呪いの視線が投げかけられている。曰く「お前だけは許さん」。
 榊原教諭は難しい顔をして腕を組んでいたが、静かに息を吐き出して、ポツリと呟いた。
「どうしたもんかな。……」

 かくして郡山ひさめは机と椅子ごと巨大な金ダライの上で座学に励むこととなったのである。融け落ちる彼女の滴は全てタライが集めておいてくれるというわけだ。
 しかしながら、彼女がノートにペンを走らせる度、金タライはぐらぐらとうなり、消しゴムを使おうものならがらんがらんと喧しいだろうとは、当初から容易に想像できていた。それは愛嬌で済まされる範囲のぎりぎりアウトサイドであるだろう。さらには女子たちから「かわいくない」との猛抗議を受け、榊原教諭の禿頭を悩ませたが、本人たっての希望もあり退けられた。「いぃ考えです。どいだらか今まで、思いつかなかったんらね」最終的に榊原教諭の表情は晴れ渡った。
「そうと決まれば廣塚、たしか体育館横の倉庫に一番デカイのが投げ込まれていたはずだから、取って来てくれ。鍵は職員室に行って、用務の先生に言えば渡してもらえる」
「なんで俺ですか」本人は不服そうな顔である。
「お前、さっきまた隠れて本読んでただろ。今は古文の授業中だ」
「読んでたのは徒然草です。ちゃんと古文してますよ」
「原文なら見逃したがな。お前のは口語訳だった。――ついでに言うが、『双六の上手』を三度は読んどけよ」
 はいはいと言って、廣塚はため息混じりに教室を出て行った。

 廣塚が金ダライを背負って教室に戻ったとき、またもや人だかりが出来ていた。まだ各教室は授業の真っ最中であるが、隣のクラスの物見高い生徒も窓から顔を覗かせているほどである。廊下には事務員のおばさんが遠巻きに、不安げな顔をしてそれを眺めていた。
「一体どうしたんです」廣塚は声をかけた。
「三組の生徒ね、あなた。びっくりしちゃったわよ。救急隊のひとが急に駆け込んできて、あなたのクラスで病人が発作を起こしたと通報があったからって言うんですもの。私はそれを案内してきたんだけど、……」
 先ほどの騒ぎでは単なる冗談だと思われていた通報に違いない。
「はあ、そうですか」
 廣塚は榊原教諭の説教部屋行きとなる生徒の身を案じ、心の中で手を合わせた。南無。



 いつの間にか、とっぷりと日が暮れていた。教室はすでに夕闇の底。もうお互いの顔すらはっきり見ることは出来ない。冬に足をかけた寒暖の落差が激しい季節。暗闇の視覚的な印象も相まって、制服と肌のすきまから入り込んでくる寒気が少年たちを身震いさせる。
「そろそろ帰ろうぜ」
 赤司は鼻をすすり上げながら提案した。廣塚も白浜も嫌だとは言わない。
「続きは俺んちでやるか」
 下駄箱で靴を放り投げつつ、白浜は言うが、廣塚はにべもない。
「いや、もうすぐ終わるよ」



 教室にタライのある風景にも慣れた頃。郡山ひさめの、氷女としての生態は徐々に明らかになりつつあった。
 氷女の体温は0℃に保たれている。彼女の周囲はひんやりと涼しい。気温が三十度を越すと女子たちは彼女に体をすり寄せ、男どもはそれを眺めて鼻の下を伸ばす。
 氷女は室温で徐々に融け出す。融けると体が縮む。その際、見た目はどんどん幼くなってゆく。ただし、ファミレスのウエイトレスが突き出すような、お冷の中に浮かんでいる業務用製氷程度には融けにくい。本人曰く「まじりけない氷だすけ」。
 氷女は日陰を歩き、日差しを避ける。体育は見学、走るとずぶ濡れ。そうでなくとも、気がついたときはすでに服が湿っている。
 ひさめ専用の制服として、特別に撥水素材を裏地に縫い付けたものが考案され、試作品が教室に届けられたが、着てみるとなんだかゴワゴワしている。またも女子たちによる「かわいくない」の猛反発に見舞われ、あえなく試作品は製作を請け負った地元洋裁店に送り返されることになった。それからこっち、第二弾が来る、もうすぐ届くと聞こえるばかり、いまだにオハラ洋裁店の営業車が校門を跨ぐことはない。
 縮んだ体の回復法。氷点近くまで冷たく、水分を多く含んだものを食べると氷女はみるみる元通りに戻る。ただしアイスクリームなど、糖分を含むものは横方向にも伸びるから「でえ好きでけっとがまんしなきゃなんねえだて」。ひさめによると、氷が最も復元に適しているらしい。
 夏場は融解速度が加速する。ひさめで涼を取りたい女子生徒は、従って氷を持ち寄って彼女に与えなければならない、というローカルルールができた。
 夏休みの直前には、ひさめは巨大な登山バッグに魔法瓶をいっぱいに詰め込んで登校し(もちろんその中は氷ばかりが詰め込まれている)、学校中の注目を集めた。朝のホームルーム前にはすでに小学生くらいにまで身長が縮んでおり、制服もぶかぶかである。「郡山、いいからお前は氷を口に含んでなさい」。教師たちの理解、協力がなければ、彼女は盛夏の陽炎の神隠しにあって文字通り消え失せていたかもしれない。
 ひさめのいる教室では授業中、ガリガリと奇妙な音がとめどなく聞こえ続けていたが、級友たちの耳にはすっかり日常の音として馴染んでおり、廣塚に関してはこういう証言が残っている「蝉の声よりは涼しげでいい」。ちなみに、塩分の多いものを食べると融解に拍車が掛かるので、注意が必要。氷女の夏に塩飴は厳禁。スイカに塩も振ることができないとは、少しばかり気の毒である。



 男子三人が横一列。
「彼女の体温は0℃だったんだよ。体温計あてたからね、確かだ」
「林健吾、だっけ。そいつがその氷女の額に手をあてたとき、よく張り付かなかったな。――ん、いや。それでいいのか」
「あ、氷を素手で触ると引っ付いちゃうんだよな。女の子の額に手をあてて張りつこうもんなら、そりゃちょっとした笑い話だけど」
「いや、郡山はずぶ濡れだったしな。それに、冷凍庫から出したばかりの氷は0℃じゃないぞ、赤司。マイナス10~20度はある。それが肌に張り付くのは、肌に浮いた水分が四十度近くの温度差に触れて、瞬時に凍りつくからなんだ。ぴったり0℃だと、濡れてなくてもそうはいかんよ」
「そうなの」
「0℃ってのは、もっとぎりぎりのバランス。――ちょうど、水に浮かべた氷が融けていく最中、その温度だよ」



 転校生がいかに妙な体質をしていようと、彼女が美少女であることに変わりはない。教室ではこのところ、誰が最も郡山ひさめに相応しい男であるかという議論が白熱していた。名乗りを上げたのはもちろん、林健吾。彼を筆頭に、数名の優良健康男子たちが口角あわを飛ばしていた。
「お前は下心が見え透いているからだめだ」
 当然のように、廣塚もその議論に加わっていた。
「なにおう、お前みたいなムッツリ野郎に言われたくないね」
 現実的な話をすれば、もともと席も近く、話す機会も殊更に多かった林健吾と廣塚の両名には、少なからずの可能性が見出せていた。ふたりはこれでも有力候補として、教室中の男どもから一目置かれていたのである。言ってみれば他の生徒たちは、妄想の段階で満足してしまっているふぬけでもあった。
「さらにお前は第一印象の時点ですでにマイナス評価を喰らっているはずだ。万にひとつも勝機はないと考えていたほうがいいぜ」
「ふん、お前もお前で、クールぶってあまり話しかけないから、印象は悪くもなければ、良くもない。席が近いってだけで顔と名前を覚えられているってことを、ゆめ忘れないようにすることだ」
 熱く燃え盛る炎を背景に、睨み合った二人の男は低く笑う。竜虎相まみえるといえば聞こえも良いが、彼らはせいぜい、ヘビとマングース。そう喩えるのもはばかられる程度の因縁であった。
「ククク……」
「フフ……」
 遠巻きに眺める女子たちは「あいつら気持ち悪いよね」とささめきあった。
「放課後、白黒つけてやろうじゃねえか」
「ふん、ほえづらかくなよ」
 このとき、当のひさめは校内放送で職員室に呼び出されており不在、教室にその姿は見えなかった。
 やがてひさめが戻ってくる。
 林健吾と廣塚は示し合わせたように立ち上がると、席に着いたひさめの前に腕を組んで立ちはだかった。さながら阿吽の仁王像の如く。――重ね重ね言うが、彼らはせいぜい、カッパとヒヒが胸を張って立っている程度、そういう風に客観視されていることを夢にも思っていない。自分だけはカッコいいと思っている。中学生だからそういうものなのである。
「郡山」
「ひさめちゃん」
 廣塚と林健吾はそれぞれ違う呼び方でひさめに声をかけると、一度お互いに目配せをして、また同時に口を開いた。
「放課後、少しだけ時間をくれないか」
「放課後、ちょっとだけ話があるんだけど」
 周囲には口笛を吹いて冷やかす男たちと、「またかよ」とうんざりしたようなため息をつく女子たち。「どうせ叶わないよ」との下馬評。
 ひさめはというと雰囲気に花を咲かせて呑気な顔をしている。
「うちもお話があるんでけ、ちょうどよかったんだて」
 この返事に教室中がどよめいた。ひさめはにこにこしてそれきり何も教えてくれない。



「郡山はまたしても転校してゆくことが決まっていた。その日のホームルームで、俺たちは榊原先生からそう聞かされたんだ」
「来るのが唐突なら去るのもまた唐突だな。まあた『おっとうの仕事のあんばいで』か。どんな仕事してんだろうな」
「さあな、今となっては手がかりすらなくなった。――俺は、その日の放課後、郡山に交際の申し込みをするつもりだったんだが、やめた。転校してゆく女とどうやって付き合えばいいのか、――いや、取り繕うのはよそう。手の触れられない場所に行かんとする彼女を見て、気持ちが冷めたんだよ」
「ほんとお前って、薄情なところがあるよな」赤司が心底不思議そうに言う。「俺が一番理解できない部分だ」
「変わってないんだな、俺は。――林健吾が言った通り、おれはただのムッツリスケベだったんだよ。林健吾は違った。あいつは見上げたやつで、情熱の塊のようだったよ。短い間でしたがありがとうございました、と別れを告げる郡山に、――教室の生徒たち全員を前に、ここでお前らに言うのも恥ずかしくなるような愛の告白をする。しかしそれは、聞く者の誰もが同情してしまうような、切なる感情のほとばしりだったのさ。泣いてたしな、あいつ」
 ここで白浜は手を打ち、
「ようは、先手を打たれたってことだな」
 廣塚は歯切れ悪く応えた。
「言い訳がましいがそう言うことも出来る」
 ふたりはお互いの目を見ないままに言葉を交わす。
「そして林健吾の暑苦しい思いに呑まれて、自分の感情をないがしろに蔑んだってわけだ」
「まあ、――そういうことだよ」
 三人の男は街灯の灯った田舎町を並んで歩く。それからしばらくの間、黙って歩く。
「なあ、それで結局、氷女は誰とくっついたんだよ」
「赤司、お前には想像力ってものが足りねえよ。察しろよ。鈍感。亀。クズ」
「なんだよ、わかんねーんだよ」
「まあなんだ、廣塚。月並みだが出会いはまだまだある。気を落とすな」
「気にしてないさ。もう三年も前の話だよ」
「よし。それじゃあ、ちょっとこれから付き合えよ。俺の行きつけのレンタルショップに、果敢にもセーラー服にエプロンでバイトしてる可愛い子がいるんだ。ちょうど今日、――水曜六時は彼女がインする時間のはずだから、これから見に行こうぜ目の保養だ」
「わかった。付き合おう」
 ふたりの男は意気投合し、赤司を置いて歩く足を速めてゆく。
 まあもちろん、――ほとんどウソなんだけどな。廣塚は胸の中だけでそう呟いた。
「おい、待てって」
 白浜が廣塚の首に腕を回した。そのふたりに追いすがる赤司。


〈オワリ〉

       

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Neetsha