Neetel Inside 文芸新都
表紙

かくも遅咲き短篇集
零下お手紙/観点室

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 白で統一された病院の壁が私にはどうにも無愛想に思える。色に対して無愛想などと訴えるのは奇特と思われるかもしれない。ともすれば病院という言葉から私が精神的に患っていることを邪推する輩もいるだろう。だがしかし待って欲しい。白というのは疾病と共にある人間にはよろしくない、というのはどことなく温かみがない印象を与えるからだ。その無愛想さを強いて例えるなら、生活に疲れたラーメン屋のオヤジである。立ち寄り麺をすする程度の時間ならば気にならないだろうが、一日中一緒というのは気が滅入る。そういうわけで白は良くない。私はラーメン屋のオヤジと始終一緒にいたくない。実際いくつかの病院では、壁の色に暖色をいれるところもあると聞き及ぶ(明日も使えぬこの無駄知識はインターネットで見かけたもので信憑性は定かではない)。なるほど、それは実に良い試みではないか。桜花に似た薄桃色など一笑千金の美女とったところ。青春を謳うには過ぎた年齢だが、油くさいオヤジといるよりはお姉さんと一緒にいたい。いやいや病院には情緒纏綿なるナースさんがいるだろうと思われる方もおられるかもしれないが、現実はそれほどに甘やかでない。日々激務をこなす看護師の肉体は筋骨共に鍛えられ、その風体は雲間之鶴に程遠く林間之ゴリラとでも言いかえた方が適切である。ベテランのふてぶてしい看護婦の態度に接しようものなら、身体は復調するどころかむしろ疲弊する。かくして担当の医師に私の部屋の色を塗り替えるように懇切丁寧に伝えたのだが、温泉街の古ぼけた狸像のような顔をした彼は苦い笑いを浮かべただけであった。

 さて仕事にも人生にも疲れていた私は、当初入院という事態を実に肯定的に考えていた。それはもう肯定的に考えていた。会社公認のサボリである。仕事をしなくてもいいのである。半年前に妻の不倫が発覚し離婚した上司の前田に、ここ数ヶ月4時間分のサービス残業をしてまで成し遂げた成果を、その残業は私の仕事が遅いだけだ、しかも丁寧じゃない、資料の言い回しが煩わしいなどと言われたりしなくてもいいのである。自分の判断ミスはそっと隠すくせに、私の失敗には桃太郎が鬼を討つかのごとく罵詈雑言の限りを尽くし殴り飛ばす、といった凶行に黙って苦汁を飲まずに済むのである。合コンの豹変っぷりは奈良の大仏なみに見ごたえがあると噂される新入社員の大島に、休憩室で「柏木さんって最近髪薄くなってません?」などと陰口を言われたり、私の後ろにあるコピー機で「あれ? またカミなくなっちゃってる……? あ、柏木さんの髪のことじゃないです、コピー機の紙です」などと苦笑混じりに言われたりしなくても良いのだ。灼熱の砂漠でオアシスを見つけたように晴れやかな気持ちだった。二年間連れ添った恋人に、ぬるくなった夏場の炭酸飲料の如くあっさりと捨てられ、自棄酒の末に階段から転がり落ちて全治三ヶ月の大怪我を負った甲斐があるというものだ。
 そういったわけで、折れて不自由になった左腕右足もなんのその、私は外傷の割には意気揚々といった面持ちであった。もっともそれは束の間の話である。病室でクリスマス商戦に向けてなぜか30%増量されたプリングルスを貪り、greeから退会するゲームを満喫し、白衣を着たゴリラにリハビリと称して拷問的運動を強制され、友人はおろか会社の同僚、家族さえも見舞いに来ないことに絶望し、病院屋上にて冬枯れの味気ない景色に紫煙を燻らせ黄昏ているところをゴリラに咎められ、味気ない病院食を一つの文句も垂れずモヒモヒと咀嚼嚥下しては日々を浪費していた私の前に、霧が晴れるように現れたのは現実という無情な壁だった。生活に疲れて爆発したヤケクソの激情、怠惰な日々を過ごすワクワク感はもはや消え失せ、私の脳裏に過ぎるのは将来への不安だけになった。泥酔の末全治三ヶ月の怪我、早めに見積もっても一ヶ月は出勤できない。もう会社に来なくて良いよと言われても不思議ではない。数日の内にみるみる元気をなくしていく姿をさすがに見かねたのか、若い一人の看護婦が話しかけてきたが、不幸なことに彼女の浅い同情を受け止める心の余裕はなく、口の中をもごもごさせて不明瞭な返事をした。無論不幸というのはうら若き白衣の天使との歓談の時を無にしてしまった私である。などと自己憐憫ゲームを始めてはもはや同情の余地もない。
 ところが私の予想とは裏腹に、その若い看護婦との縁はそこで終わらなかった。いつもピタリ定時に病院食を持って訪れては、生気をなくした私に小言を吐いていくゴリラ(不可思議なことにその小言を聞くと少しだけ元気が湧いた)を驚かせるべく、私は悪戯めいたものを敢行しようと思っていた。もっとも大したものではない。冷凍庫でペットボトルの水を予め0℃以下に冷やしておき、それに衝撃を与えて瞬時に凍結させるという無害なものだ。過冷却という現象を利用した子供騙しの悪戯だったが、液体が一瞬で凍りつく様は、原理を知っている私さえ仄かな感動を味わえる。四十過ぎの脳まで筋肉でできていそうな猛々しい中年看護婦に驚愕の表情をさせるには十分な代物であるように思われた。
 いつもの時刻になっても現れないゴリラ系看護師も、いよいよ私の存在を無視するようになったかなどと妄想を膨らませて意味のない感慨に耽っていると、代わりに現れたのはその若い看護婦であった。彼女の名前を篠田さんという。仙姿玉質の容貌とはいかないまでも清楚かつ淑やかな印象を与える若きナースである。ジャングルの屈強な類人猿にも近しい看護婦に慣れていた私が彼女は天使かと見間違うのも無理はなかろう。その微笑みの神々しさたるや二十七年の日々に堆積した心の鬱屈を塵芥のように吹き飛ばすほどで、誠に遺憾ながら精神がほぼ鬱屈で構成されていた私は瞬時に心中のほとんどを浄化によって一掃され、結果として茫然自失に至った。もっとも、いかにも人生を楽しんでおられるような他人様(俗にいうリア充)を前にすると、呼吸が乱れ鼓動が異常になり発汗量が常軌を逸し最悪呼吸困難になって失禁するコミュショウという重篤な疾患を私は先天的に患っており、従って彼女との思わぬ邂逅は初期における人間関係において致命的でありえたから、天使一瞥の後に自我崩壊を招いたのは幸いであったかもしれない。
「あの……? 大丈夫ですか?」
「ふぁい! 大丈夫です!」
 真剣に心配する天使を安心させるため、勇気元気を振り絞り声を出したが力が入りすぎた。急に大声で返事をした患者に篠田さんがビクりと身を引いて怯えたので、「はははは」と爽やかに微笑を返して取り繕うつもりが口から出たのは「ふ、ふひぃっ」という奇怪極まりない啼き声で、ペットボトルの水が氷つくよりも先に場の空気が凍結した。
「お食事、おいておきますね……」
 どうにかそれだけ言い残して去っていこうとする彼女に、
「ま……待ってください!」
 半ば夢中で呼び止めてしまった。これを逃したらもう彼女と接点を持つ好機はないかもしれない、もうゴリラはこりごりなのだ、心中に芽生えた脅迫観念が私に衝動的行動を促したことを後になって理解する。
「こ、ここに水があります!」
 ベッドに備え付けられた台の上にペットボトルを印籠でも見せつけるかのようにどんと置く。彼女は意図不明といった様子でキョトンと私を見ていた。
「これが突然氷になったらびっくりしますか!?」
「……ええ、まぁ」
 無駄に力の入った私の問いと彼女の曖昧な頷きとの温度差は、今と氷河期ほどには開いていたように思う。
「ではお見せしましょう!」
 自分から話を無理矢理振っておいて、随分と勿体ぶった言い回しであることはどうかご容赦願いたい。清楚可憐なるナースさんとお友達になれるかどうかの瀬戸際なのである。これは私にとっての悲願であり、一世一代の賭けなのである。力んでしまうものも愚夫の性とご理解頂きたいのである。
 私はペットボトルを振った。驚くなかれ、0℃以下にした水はなんと衝撃を与えただけで一瞬にして氷へと相転移するのだ! ばしゃりと中の水が音を立てる。そして私の手に持つペットボトルの水は、
「…………」
「…………」
 水のまま……だと……?
 ばしゃりばしゃり。私は再度手の中のペットボトルを振った。
「…………」
 蓋を開けて中身を見る。水のままである。呆然となった。
 ナースは遅れて登場した、私はキョドっていた、台の上のペットボトルはその間病室の室温に晒されていた。断片的な情報が整理されきる前に結論にたどり着く。単純な話である。時間が経ちすぎた結果、凍るか凍らないかのぎりぎり0℃を下回る程度の水の温度がわずかに上昇してまったのである。凝固点を上回った水が凍るはずもない。
 いや今となってはそんなことはどうでもよろしい。失敗した。失敗したのだ。我が白衣の天使、篠田さんにとって私は嘘つき人以外の何者でもなかろう。
 私はすがるような気持ちで彼女を見た。“するとどうだろう? 彼女は可笑しそうに笑っているではないか! 失敗した時の私の顔がよほど面白かったのだろう。彼女は堪えきれなかった笑いを漏らして涙目になりながら抱腹していた。「おかしい人ですね、柏木さんって」ひとしきり笑った後、彼女はそう言って柔らかく笑んだ。あれほどあった二人の温度差も今この瞬間に0℃になったのだ。私はその時、二人の恋が始まるのを感じたのだ”ああ、もちろんダブルクォーテーション内は全て妄想だから忘却の彼方に追いやってくれて構わない。
 さて読者諸賢はご存知のことだろうが、現実とはかくも甘美なるものではない。むしろ死後にあるはずの地獄というのは、よもや現世のことではあるまいかと思わされることも多々あるほどだ。私の視線を受けた篠田さんはそっと目を逸らし、「後でお食事回収に来ますね……」と言い残すや否やそそくさと部屋を後にした。残されたのは質素な病院食と哀れな男一人である。ああ、やたら冷たい水もある。自身が凍る代わりに私の精神の温度を氷点下まで奪っていった水が。
 モヒモヒとやるせなく食事を運ぶうち、回収も篠田さんが来ると言っていたことが頭に浮かんだ。今更挽回はできないと思いながらも、私はそっと水を冷凍庫に入れた。0℃を下回る水を用意すれば、いつでもできることなのだ。私は自分がその瞬間を見ることができ、それを一緒に見てくれる人がそこに居てくれば良いくらいに考えた。別に篠田さんでもなくとも良いのである。これはほんの些細な遊びなのだ。観客がいるならば楽しいというもの。
 今度は時間通りに訪れた篠田さんを前に、私は懲りもせずに提案を投げかけた。
「篠田さん、さっきのもう一回見てみませんか?」
「え? ああ、ええと……はい」
 断ろうとして咄嗟に断る理由が思いつかず、なし崩し的に承諾したような返事だったが、私は特に気にしなかった。まともに相手をされないことには慣れている。
 冷凍庫からまだ凍っていない水を取り出し、それを慎重に傾けた。中身は液体なので当然傾くに従って柔軟に形を変える。
「どこから見てもただの水でしょう?」
「ええ、たしかに」
「それをこうするとですね」
 ペットボトルを振る。ばしゃっと音を立てた瞬間、中の水はほとんど残らず氷と化した。
「……おお」
 非常に地味な歓声があがった。篠田さんの表情がかすかな驚きとくすぐられた好奇心で柔らかくなる。猫のようで可愛らしい。
「ね? 面白いでしょう」
「テレビで見たことありましたけど、こうして目の前で見るとまた不思議ですねー」
 以前に見たことがあると感動は半減してしまうのだが、彼女は思いのほか興味津々の様子であった。
「不思議です」
 彼女は再度呟いた。こちらを見もせずにしきりにペットボトルを眺めているあたり、きっと自然に零れた言葉なのだろう。
「氷点下の水に衝撃を与えるとそうなるんですよ、さっき振ったみたいに」
「氷点下の水? それじゃあもう氷になってしまうんじゃないですか?」
「ゆっくり冷やしていくと水は0℃では氷にならないんですよ。過冷却と言います」
「ほー……かれいきゃく……」
 彼女は小首を傾げてしばし溶け始めたペットボトルの氷を眺め、再度私に問う。
「それはなぜ起こるのでしょうか? 私には水は0℃で凍ると教えられたような記憶が朧気にあるんですが、あれは間違いなんですか?」
 正直私は驚いた。それは突っ込んだ質問であったし、その問いには意味の深いところがあるからだ。すぐ手の届く日常の範囲に散在する数え切れない現象へ疑問を抱くこと。これは科学の分野にあって最も必要な素養である。現代物理学の祖であるアインシュタインはそれを『聖なる好奇心』と呼んだ。私は彼女の目に宿っているものがそれのように思えたのだ。私は無意識に感心していた。
「いえ、間違いじゃありません。水は0℃で凍ります。というより、水が凍る温度が0℃と決められたのです。正確には違いますが、とにかく0℃というのは水に境界された温度であることに間違いありません」
 そこまで答えて、続く説明が途切れた。過冷却の原理に熱力学の用語を使って解説しても徒労に終わることは目に見えている。中途半端に学術的知識を身に付けたばかりに却って説明に不自由だ。
「うーんと……なぜ水は0℃で氷になるのに、0℃では凍り始めないか……」
 説明するべきことを口に出してみる。思考は発話によって整理されたりするものだ。
「簡単に言うと、水が氷になるには、ある程度エネルギーが必要なんです。0℃以下であってもその付近の水ではその『凍るためのエネルギー』が不足しています。しばらく温度が下がると、さらに『凍るためのエネルギー』が蓄積されて凍りやすい状態になります。この状態であれば何かのきっかけがあれば凍ることができます。先程は衝撃でしたし、他には0℃の氷の粒をこの状態の水に入れても、全てが氷になります。過冷却と呼ばれる状態ですね。さらに温度を下げると、水は自発的に氷になるわけです。水が氷になるには『凍るためのエネルギー』が必要ですから、氷になる瞬間にエネルギー、つまり熱が放出されて、それまで0℃以下であった水の温度は上昇し、水が氷に転じる温度は0℃で一定になります。なので凍り始める温度と実際に氷になった時の温度は違うというわけです。と言った説明でわかるでしょうか?」
 じゃあなぜ水が氷に変化する間、温度は0℃で一定なの? と聞かれたらどうしようかと私は怯えたが、彼女はどうやら私の説明を飲み込むのに必死なようだ。不明瞭な部分を聞き返す彼女に似たような説明を繰り返し、どうにか彼女を納得させるに至った。
「なるほど、一つ賢くなりました」
 篠田さんは満足気に微笑んだ後、
「あ、やば……! 長居しすぎました、婦長に怒られます」
 とイタズラな笑みを浮かべて去って言った。その弾むような笑顔に、私はあっさりと心を奪われたのである。

 以来、篠田さんとは見かければ挨拶を交わす程度の仲になった。類人猿としか交流がなかった以前とは比べ物にならない文明的な進化である。またちょくちょくと学術的な話もするようになった。父親が科学者らしく、子供のときには自分も同じように科学の道に進もうと思っていたのだそうだ。私の話はどうやら彼女に童心の熱を思い起こさせるものであるようだった。
 瑣末なことを以下に記す。彼女の父親が科学者であることを聞いた時に、私はようやくその左手の薬指に輝く円環を視界に入れた。先述したように重度のコミュショウを患う私には彼女をまともに見ることは叶わず、挨拶や自分の得意分野の話をする時さえかろうじて表情がわかる程度に焦点をぼかし、感覚の殆どを会話に集中していたのだ。気づくはずもなかったのである。そんな余裕はなかったのである。だがそれがなんだというのだろう。その事実は我がエンジェル的存在である篠田さんの笑顔を微塵も曇らせるものではないのだ、が正直に言うとまあ泣いたゴリラの前でも泣いていた一晩中ずっと泣こうと思ったがいつのまにか寝てしまい起きて決心の不甲斐なさに泣いた。密かに書いた恋文は行く宛もなく私の病室の引き出しに仕舞われている。冒頭に書いたが瑣末なことである。負け惜しみではない。
 
 ところでクリスマスというものを知っているだろうか? 全国各地で恋人同士がデモ行進し、迂闊な非リアが街に繰り出すやいなや、手を繋いだカップルに無言で生物としての存在意義を問いただされ、イルミネーションという光学精神攻撃機器よって発狂させられてしまう世にも恐ろしい一日である。なお非リアというのは先天的、後天的にコミュショウを発症した者の総称で、全国に百万人ほど存在すると統計されている。クリスマスでの外は非リアにとってまさにバイオハザードの様相を呈し、街行くカップルを見るなりリア充ウィルスに感染し、しかるのちに「彼女欲しい」衝動が炸裂して耐性のない非リアは過剰免疫反応によって死ぬ。稀に非リアがリア充へと変貌を遂げるが、各地で暗躍する非リア戦線なる組織によって消息は断たれる。そんな非リアハザードが二週間ほど先に迫ったある日、私の住む街では積雪が観測された。
 屋上である。不自由な足の代わりに松葉杖に体重を預けて、私は垂直に空を見上げていた。不規則に揺らめく雪が、見上げた天上から落ちてくるのをじっと観察していたのだ。鈍色の空から落ちてくる雪花を見るたび、私はその美しい幾何学形状に感動を抱く。雪の結晶は必ず平面構造を取り、そして中心は六角形である。にも関わらず樹枝の枝分かれは千差万別となって、これはまさに神秘である。このような自然が作り出す複雑怪奇な形状を、極めて単純な数学的処理の繰り返しによって得ようとする学問がある。フラクタルという。自然の中に潜む相似性を数式によって記述せんとする学問である。それがなんの役に立つのか、私は知らない。もしかしたらなんの役にも立たないのかもしれない。だが私はそれを美しいと思う。自然界にあまねく幾多の幾何学模様はやはり美しいが、激賛する理由はむしろ数学演算処理の繰り返しによりそれを詳らかにしようとした精神に心惹かれるからだ。まさに聖なる好奇心の産物ではないだろうか。
 見上げすぎて首が疲れた。一服でもするかとタバコを取り出し、即座にポケットに隠した。篠田さんが屋上に現れたからだ。この病院は屋上といえども禁煙である。
「雪ですね」
 私は素知らぬ顔で話しかけた。
「そうですね。分かっていると思いますが全館禁煙ですよ」
 見られていたようだ。私は首を竦めた。
「すぐタバコを吸いたがるんですから」
「敷地内完全喫煙はいかがなものかと思うのですが」
「今はそういう病院の方が多いんですよ」
「世知辛い世の中だ」
「屋上に来てはタバコ吸ってるから目を付けられるんです。まったく、不良学生ってお歳でもないでしょう?」
「今日は一服しに来たわけじゃないんですよ」
 彼女は私のポケットのふくらみに視線を置いて無言の抗議をした。
「いやいやいやこれは違うんです手違いです、手癖だけにね、ついね、つい」
「さようで。では何をしに来たんです?」
「雪を見ていました」
「またそんなことをおっしゃって」
「あ! 信じてませんね! 本当なんですよ! 雪の結晶がいかに美しいかご存知ないんですか!?」
「知ってますよ。あなたがそれほど子供でもない……こともないか……」
「え? 私は立派な大人ですよ?」
「あなたの聞き分けのなさといったら小学生でも呆れますよ」
「少年の心をいつまでも、」
「早々に大人になりなさい!」
「はい」
 一喝に怯むなり即座にYESを打ち返した。その従順さといったらかの忠犬ハチ公に比肩する勢いである。それに篠田さんは見た目こそたおやかな女性であるが、病院の激務をこなすだけあって性格は苛烈なところがあるのだ。一を口ごたえなどしようものなら、百の諫言がたちまちに飛来する。
「分かっていただけたようでなによりです」
 そう言って篠田さんは満足そうに笑った。この人は自分の謀事が上手くいくと、こうしてとても気持ちの良い笑顔を零すのだ。とんだ男泣かせである。
「こんなところにいると風邪をひきますよ。あんまり長居しないでくださいね」
「お心遣いはありがたいのですが、もうしばらくここにいますよ。あんまり良く見てないんです」
 私はまた空を垂直に見上げた。まだ少し見ていたかった。
「あら、本当に雪が好きなんですね」
「言ったじゃないですか」
 私はちょっと笑って答えた。
「私は美しいものが好きなんです。今は花といえば桜ですが、かつては梅を指すものでした。梅の枝についた雪を平安の貴人は花のようだと詠んだそうです。雪花って言葉もあるくらいでして。雪の結晶って綺麗でしょう?」
 彼女は意外そうに私を見ていた。続いて肩に落ちた雪に視線を落とす。彼女はまるで未知のものを見るような瞳でそれを見ていた。
「柏木さん」
 そういえば名前を呼んでもらったのは初めてだな、とぼんやり思った。
「はいはい」
「雪の結晶がどうしてこういう形なのか、ご存知ですか?」
 彼女の目にはいつしかあの好奇心の色が宿っていた。
「もちろん」
 得意気に答える。彼女とこういう話をするのが好きになっていた。
 手の平に落ちた雪が瞬く間に融けていく。水が氷になる間、その時の温度は常に0℃で一定なのだという。掌の0℃の境界を握って、話し出すのを待っている彼女の方を向いた。まるで昔話を待つ子供のようでたまらなくいじらしい。
「ちょっと長くなるかもしれませんけど、大丈夫ですか?」
「短くまとめてください」
「善処します。でもさすが寒くなりそうなんで、やっぱり中に戻りましょうか」
「ですね」
 ふと暖かいコーヒーでも飲みたいなと思った。一階の売店に着くまでに話を終えることができるだろうか。松葉杖を付いた私の歩行速度の遅さに頼るとしよう。
「まず雪を構成する水について話さないといけません。水というのは日常で最も接する機会の多い液体ですからついつい液体の代表のように思われますが、この水というのは実に曲者なんです。水の分子は水素二つに酸素一つで構成される非常に軽いものです。一般的な物質であれば、こんな軽い分子が僕らの生活する環境下で液体として存在することはありえません。というのは分子同士が引き合う力は万有引力、つまり重ければ重いほど大きくなる力によって引き合わされ、この引き合う力が大きいほど、物体は液体に、あるいは固体になりやすいんです。ではなぜ水は液体で存在するのかといえば、それは万有引力以外に引き合う力が存在しているからです。水素結合と呼ばれる電気的な力ですね。その力による性質を極性と呼びます。この特異な性質が水を正六角形に凍りつかせます。水が凍る過程で、極性によって分子が規則的に整列するためですね。これはとても小さな氷の話ですが」
 一息つく。一気にしゃべったので口が乾いた。
「ここまでわかります?」
「水はなんか力が働いていて六角形に凍る」
「さようです」
 思わず笑いそうになって、失礼かと思い直し噛み殺した。余裕のなさそうな顔で告げられた端的な理解が、私にはなんだかとても愉快なものに思えたのだ。
「さて雲の中には先日お話した過冷却状態のごく小さな水滴が無数に存在します。その時の水滴の温度はマイナス四十度というくらいですから、ほんのわずかな刺激で簡単に凍ります。たとえばその水滴が空を漂う塵などにぶつかった場合などですね。こうして六角形に凍った小さな小さな氷の粒はさらに空気中の水蒸気を吸収して成長し、やがて自重での落下を開始します。水蒸気は氷の六角形の尖った部分に優先的に流れ込んで瞬時に凍結し、角部分がどんどん氷として成長していきます。これがやがてはあの雪の結晶の樹枝形状を作り出すんですね」
「ふーむむ、最初からあのような形に凍るわけじゃないんですか」
 彼女は感慨深そうに頷いた。なるほど、そう言われてみれば、そんな風に考えるのが当然かもしれない。私は始めにどのように凍るのかを知識として知ってしまってから、そんなことを思いもしなかった。
「そうですね。落下速度、空気中の水蒸気量、風向など様々な条件によって雪の結晶は千差万別に形を変えます。結晶の形状はそれが空から地上までどのように成長してきたのか、その軌跡を忠実に表しているわけです。雪が『天から送られた手紙』などと呼ばれる所以はこのようなところにあるんですね」
 我ながらおよそコミュショウ患者とは思えぬ饒舌っぷりである。しかしこれはオタクが自分の好きな作品のことになると途端に口が軽くなる現象に近いもので、どうして日常会話に応用が効かないのか、それは神もしくは真のオタクしか知り得ないことなのだろう。
「なるほど。そうやってあの複雑な形が。それにしても空からの手紙なんて、科学者も随分と詩的なことを言うんですね」
「科学者にはなったことはないのでわかりませんが、友人はロマンチストでなければやってられないと言っていましたね。現代物理学が魔法めいていると散々語られました」
「あら、楽しそうじゃないですか」
「奴は楽しそうでしたよ。何を言ってるのか分からない私はさっぱりです」
 眉根を寄せて答えたのに、彼女は愉快そうに笑うだけだった。
 話を終えたのはちょうど売店の前であった。彼女とはそこで別れ、缶コーヒーを一本買った。この手の売店の加温された商品は、手に持つには熱すぎるくせに、飲んでみると意外と温く感じるのは気のせいか。釈然としない気持ちで缶をゴミ箱に投げ捨て、病室に戻る足であと三日もすれば退院するのだと思い出して、なんだか急に寂しくなった。
 その夜少し前に書いた彼女への恋文を捨てた。その場の勢いだけで書いたにしても、我ながらアホなものだと思った。それから、話を面白そうに聞いていただけて、かえってこちらが元気をいただいた旨に、短い感謝の言葉を添えて手紙を書いた。

 退院当日、朝食を持って来てくれた篠田さんに「ちょっといいですか?」と声をかけた。
「なんでしょう?」
 私は冷凍庫の中からシンプルなデザインの封書を取り出した。例の手紙である。
「これを」
「……なんですかこれ?」
「入院生活でお世話になったので、感謝の言葉を一筆したためました」
「ええ!?」
「そんなに驚くことでしょうか!」
「柏木さんがそんな律儀な方とは思いませんでした」
「よく言われます」
「それにしてもなぜ冷凍庫から?」
「他に人目につかない適当な置き場所もなかったので」
 朗らかに笑うと、彼女は呆れた様子で視線を寄越した。
「おかげでやたらめったら冷たいじゃないですか! そういう無頓着なところがあるから、さっきみたいに驚かれるんですよ」
「それも悪い気はしませんね」
「まったくあなたって人は……」
 彼女は溜息一つついてちょっとだけ微笑んだ。
「とにかくこれはありがたくいただいておきますよ。では朝は忙しいので」
「ええ。今日もお仕事頑張ってくださいね」
 彼女が病室を去った後、ようやく私に今までの非日常が終わるのだなという実感が舞い降りた。明日には不自由な足で会社に顔を出さねばならない。途端に憂鬱な気分になったが、いつまでも病院に住むわけにはいかないのである。
 その日、ゴリラと主治医、それから篠田さんに見送られて私は病院を後にした。ここ最近は連日雪が降っている。積雪の中、松葉杖をついたまま帰ることなど出来るはずもなく、私は仕方なしにタクシーに乗って家に帰った。約一ヶ月ぶりの我が家にも、不思議と懐かしいとは思わなかった。それほどにここは住み慣れた場所であったのだと今更ながらに気付いた。
 玄関で鍵を開けていると、手の甲に吹き込んだ雪が舞い落ちた。雪の結晶は融けた水と混じって透明になっていく。
 体温に融けて氷混じりの水滴になれば、空からの手紙の内容なんて分からない。それが雪の到来を告げても、もはや生成の軌跡は失われているから。雫に浮いた雪の欠片も、やがて0℃の境界を跨いで水に溶け落ちる。彼女に渡した手紙もそんなものであれば良いなと思った。

       

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