Neetel Inside 文芸新都
表紙

かくも遅咲き短篇集
袖に余るは霰なり/硬質アルマイト

見開き   最大化      

――ああ、私は神様の機嫌を損ねるようなことでもしたのでしょうか。
 
 そのような切り口でこの手記は始まっていた。
 俺はその文字から視線を上げ、目の前の死体を見る。これが彫刻であると言われて、そう錯覚してしまう者も何人かはいるのではないだろうか。
 少なくとも俺は「これ」を一つの芸術品のように感じた。感情がよく出ていて、まっすぐ下に伸びた氷柱が数本垂れ下がり、そのどれもが澄んでいて向こうがはっきりと見える。一つ一つが完璧なのだ。
「これはまた、奇怪な状態ですね」
 相方は紙上にペンを走らせながら、形容し難いこの状況を見て苦い顔をしている。
 何よりも奇怪なのが、男と女の手だけがっちりと固まっていること。互いに姿勢から何まで違えているが、それでも繋いだ手だけは決して離さなかったようなのだ。
「むしろ、ここだけ先に離れないように凍らせてから、という可能性も?」
「ふむ……」
 あり得る話だった。俺は周囲を見渡すが、全てが凍りついていること以外はなんらおかしい点はない。海外の風景を映したポスター、勉強机はよく整理されていて、棚にささった本もノート、教科書、辞書と律儀に並べられている。壁際に配置されたピアノの鍵盤を覗き込んでみるが、傷一つ見当たらない。
「とにかく、読んでみようじゃないか。でないとこの状況は私たちに理解できそうもない」
 相方にそう言うと、俺は再び手記に手を落とした。会話まで鮮明に書かれているこれは、どうやら自身の生涯について描かれているらしい。
 今回の事件の顛末が書かれている可能性は、高い。
「なんにせよ、外で読みません? この部屋、冷凍庫にいるみたいでとても寒い」
「全てが凍るくらいだからな、少なくとも水にとっては居心地の悪い場所だろうな」
 震える相方を横目に白い息を一度深く吐き出すと、本を閉じて外へと向かう。この本に込められたのは、一体どんな想いなのだろう。

   ―一枚目―

 ああ、私は神様の機嫌を損ねるようなことでもしたのでしょうか。
 そう問いかける度、事の発端である小学三年生の冬を思い出します。あの時まで、私は何の変哲もないただの女の子でした。好きなキャラや、可愛い動物のシールを、その時流行っていた日記帳に貼り付けたり、お気に入りを友人と交換したり、誰かの家にお邪魔して人形遊びをしたりと、至って平凡な日常を繰り返していたのです。
 冬になって、楽しみであったクリスマスが近くなっていたことで、私の気持ちは随分と高鳴っておりました。何をプレゼントに選ぼう、あれかしら、これかしら、と紙に書き、父母に嬉しい悩みを聞いてもらいながら、その日を待ち続けていました。
 クリスマス当日、ようやく望む物が決まり、枕元に靴下とサンタへの手紙を置いて、私は蒲団を被り、目を瞑りました。思いのほか寝つきが良かったことを覚えています。
 ふと眼を覚ました時、私の眼前には人が立っていました。いや、多分その気配によって起きてしまったのだろうと今では思っています。彼の口元には白い鬚が蓄えられ、頭には帽子を被っていました。色は違えど、きっとこれはサンタに違いない。当時の私はそう感じ、心を躍らせ目を輝かせました。
「貴方はサンタさんなの?」
 黒い人影は暫く黙りこんだ後、白い鬚を揺らしてふふふと笑うのです。
「君がそう思うのなら、そうなのだろうね」
 私は幸福で胸が一杯でした。サンタに会ったことがあると自慢をする友達をよく見るけれど、私は一度たりとも見たことがなかったから、これでやっと学校で彼らの話に加わることができる。それがとても嬉しかったのです。
「ああ、サンタに会えるなんて幸せ。冬は大好き。もっと貴方に会える機会があればいいのに」
 そう言うと、黒い人影は私の頭を撫でました。
「ずっと冬のままなら、嬉しいのかい?」
「ええ、雪もイルミネイションも、プレゼントもケーキも、もちろん貴方も、どれも大好きよ」
 そう私が言うと、人影は指で鬚を暫く撫でつけた後、何か閃いたようで、私の眼前で指を一本立てました。
「よし、良いだろう、君を冬に連れて行ってあげよう」
「素敵ね、そんな不思議なプレゼントが貰えるなんて、私は幸せ者だわ」
 その時、突如として訪れた強烈な眠気で、私の視界は歪み、最後には暗闇に閉ざされ、意識もその闇に溶けてなくなってしまいました。ああもっと来訪者とお話がしたかったのに、とその眠気に抗おうとしましたが、抵抗は空しく終わりました。

 目が覚めた時には、全てが終わっていました。

 瞼を開けると、すっかり氷漬けとなった母の姿があり、部屋も凍えるように寒くなっていました。何かに脅えた視線のまますっかり時の止まった母の手には、プレゼントを入れようとしていたのでしょう、靴下には入りきりそうもない赤と緑の包装の施された箱が握られておりました。
 私の甲高い悲鳴に気づきかけつけた父はその光景に絶句し、病院へと連絡を入れました。
 私と母は医者に診てもらうことになったのです。
 結果から言わせて頂くと、母の命はもうこの世には在りませんでした。じわじわと時間をかけて凍らされていったのだろう、と医師は言っておりました。
 肝心の私に関してですが、やはり母を殺害したのは私のようでした。搬送時に私の肌に触れたナースは凍傷で悲惨な状態となり、父が買ってくれたホットココアは温度を奪われ、氷の塊と化しました。
 医師にも判断し辛いこの病気。検査をしようにも触れれば凍ってしまうし触れなくても部屋の温度は少しづつ低下し、最後には水も凍るような温度と化してしまうため、結果何の手立てもなく私は追い出されるように家に帰されてしまいました。
 父も状況を悪く見たのか、私を恐れたのか、それとも残りの家族(私には弟と、父母と、祖父がおりました)を護るためなのか、家の庭先に小さな小屋を建てると、そこに私を住まわせました。
 学校に行くにしても、肌を見せてはいけない為、大きなマスクで顔を隠し、手袋とマフラー、まんまるく見えるほどの上着を着込んでいくしかありませんでした。もうサンタを見たという自慢どころではありません。それまで普通の女の子であった筈の私が突然だるまのような姿でやってきたのですから。
 家族に会うのも数週に一度、それも小屋越し。欲しいものはなんでも買ってあげると父に言われましたが、部屋に戻りたいと言うと父の顔は今にも泣きそうな表情になるので、遂には言うことを辞めました。
 これが冬なのでしょうか。私が望んだ冬なのでしょうか。あの黒いサンタクロースはこんなプレゼントで私が喜ぶとでも思ったのでしょうか。なんにせよ、今ではあの黒い影は、声をかけてはいけない何かであったのだろうと感じております。
 人を避け、自分を憎み、寒さと寂しさに震える長い生活が始まりました。

   ―――――

 中学生となった私は、とうとう誰からも認知されることがなくなり、ただそこにある物のように、誰にも相手にされなくなりました。それまでは決して人と肌で触れない、プールでさえも入らず、暑い夏でさえ上着はおろかマフラーすら脱がぬ私を気味悪がり、苛めや悪戯の対象として標的とされる事が多かったのですが、一度だけ、クラスメイトに触れてしまった時、私は生き物ではなくなってしまったのです。
「お前はどうしてそんなに寒がりなんだ」
 少年はそう言うと、私のマフラーの両端を引っ張って思い切り首を絞め、それから「気味が悪い」「その中を見せてみろ」等と罵倒を浴びせてきました。運の悪いことにマフラーは奇麗に私の首に入り、器官を絞めてしまったため、呼吸ができなくなりました。少年は苦しがる私と、クラス中の歓声に快楽を覚えたのでしょう。更にマフラーの手を強めました。
 それまでは殴る、蹴る、ああ、あとは階段から落とされることもありました。とにかく怪我はすれど、苦しむことはそれほどありませんでした。痣は痛むけれども、やがてそれは無くなることが分かっていましたし、殺されるまではいかないとどこか確信があったので、耐えてくることができました。
 だが今回は「苦しみ」だったのです。長く続き、どう悶えようとその苦しみは癒えず、酸素を求め両手で首のマフラーを必死に掴もうともがくしかない。どうでもいい、呼吸をさせてくれ、好きなだけ殴ればいい、蹴ればいい、だからこれだけはやめてくれ。
 言葉は、口から出ることはありませんでした。たとえそれを言えたとしても、彼らはきっとこれが最も私に効果的な悪戯だと認識して止めることはなかったでしょう。
 意識が薄れ始め、視界がチカチカと点滅し始めました。その時パニックによってうまくまとまらない思考の中で私は、たった一つの「浮かべてはならない言葉」を浮かべてしまったのです。

――死んでしまう。

 それからの行動はとてもスムーズでした。首をかきむしる手のうち、右だけ手袋を外すと、渾身の力をもって(人は死を認識すると、時に自分すら驚く力が出るものなのですね)振り向くと、彼の顔を肌の露出した右手で思い切り掴んだのです。
 その時の悲鳴は、それからしばらく夢に出てくるほどおぞましいものでした。
 顔面を押さえ転げまわる少年と、やっと呼吸が可能になり、蹲って泣きながら必死に酸素を肺へと供給する私、言葉を失いただ佇む生徒達。だれ一人として声は出しませんでした。
「どこ、まっくら、いたい、つめたい、やだよ、まま、ぱぱ」
 大分呼吸が落ち着いてきたとき、やっと少年の方を見ることができました。けれども、そこにはもう、悪戯を得意気に行っていた少年はおらず、必死に痛みと苦しみと暗闇からもがく少年しかおりませんでした。掌の形に浅黒くなった肌と、開かなくなった瞼、唇も歯に凍りついてしまっているようで、その口から放たれる言葉もどこかたどたどしく思えます。
 いい気味だとは、残念ながら思えませんでした。そこでもしも私に反抗心や怒りが芽生えていれば、きっと罵倒の一つでもしたのかもしれません。他の生徒にお前たちも同じようにしてやろうかと喚き、教室を混乱に陥れながら、狂ったように笑うこともできたのかもしれません。
 けれども、私の口から出てきたのは、今日食べたお弁当のおかずと、ごはんだけでした。
 言葉は何も出ません。胃液を吐きつくしても止まらない嘔吐感に苦しみ、ワックスで奇麗に磨かれた床をただ汚すことしか、私にはできなかったのです。
 その時、誰かが私のことをこう呼びました。

――雪女、妖怪。

 ああ、と吐き気に溺れながら私は納得しました。私は雪女。人を凍らせ、命を奪う妖怪。冬の世界にだけ生きる存在で、人間ではない。
 私は、自分がもう人間ではないと自覚することができました。
 それから、私は物とになりました。誰も必要とせず、触れようとしない。他と接しようとせず、ただ勉強をして、お弁当を食べて、そして帰ったら復習をして、夕飯を食べ、眠るだけ、その間に他人が関与することは決してない。
 私の首を絞めた少年は、それから二度と学校に来ることはありませんでした。

―――――

 真冬だというのに、外に出ると心なしか暖かさを感じた。俺はすっかり冷え切った手をどうにかしようと近くの自販機でホットコーヒーを買うと、両手で転がしながら、一度溜息をついた。
「酷い話だ」
「先輩は、これを事実だと思いますか? 人を氷漬けにするなんて……」
「ありえない、と言いきることができないのが現状だ。あれだけ部屋中を凍らせることができて、かつ凍死させるなんて、なにか魔法でもなければ無理だ」
 俺は動くようになってきた指でプルを引っ張り一気に飲み干す。火傷しそうなほど熱いが、おかげで震えは止まったし、じわりと体の内側から温まっていく感覚が、俺を落ち着いた気持ちにさせる。
「まったく、できれば普通の事件を担当したいものです」
「同意見だ」
 相方の意見に頷いてから、俺は再びあの氷漬けとなった小屋を見つめる。
「しかし、この事件、一体誰が被害者なんだ……」
 俺は手記に目を落とすと、次のページを捲った。

   ―二枚目―

 誰にも存在を認められなくなって、そのまま高校へと進学しました。元々中高、そして大学とが一貫であるという理由でここに入れられた為、受験せずともエスカレーター式にいくことができました。外の学校へ行くことは許されない、そんな私に用意された唯一の居場所のような気さえしました。
 何もできないのなら、せめて勉学だけはまともでありたい。誰とも触れ合わなくても学んだことだけは私から離れていかない。この頃になると、人と接するよりも、数字や言葉、歴史、科学等と触れ合うことで孤独感を打ち消しておりました。手袋越しに書いていた字も、随分巧くなったものだと思います。
 高校でも私の評判や噂は流れており、外部から入ってきた生徒も私に近づこうとは決してしませんでした。近づけば凍らされる。何度かその事実を認めずにやってきた生徒がいましたが、彼らは総じて私の忠告を聞かずにどこかしら凍傷となりました。
 その頃になると私の心もいくらか落ち着いており、何人かが私の被害に遭ったことで、もうやってくる人間もいない、これでいちいち呼ばれるなんてもったいない時間を、勉学に費やせると思うようになっておりました。
 昼食を食べ、休憩時間となると私は必ず図書室へと向かいます。部屋の隅の椅子に座り、ただひたすらに本を読むのです。
 沢山の本を読みました。現代文学、スポーツに関する本、論書、ひたすらに自らの頭に叩き込み続けました。。
 読むということに苦痛はありませんでした。むしろ好きだと感じておりました。本の中でも特にフィクション小説は大好きでした。主人公の姿を私に置き換え、様々な体験を想像すると、なんだか私はまだこの世界に属しているような、そんな気になれたのです。
 剣と魔法の世界に私がいたなら、きっと敵を打ち倒す心強い味方となれただろう。
 これだけ科学の進んだ世界なら、私のこの病を治してもらえたかもしれない。いや、もしかしたら私はこの世界を発展させるための重要な人間となっていたかもしれない。
 ええ、どれも幻想です。けれど、その幻想は私をけっして殺しはしませんでした。存在を許してくれるその世界がどこかにあればいいのに、と思いながら、何度も本の世界に潜り込むのです。

 いつもの読書に励んでいた時、椅子の動く音がして私は顔をあげました。
 誰も座ることのないその椅子に、男の子が一人腰をかけ、こちらをじいと見つめているのです。
「いつも本を読んでいるね」
 図書委員の腕章がついているのと、受付でカードの受け取りをしていたこともあり、彼のことは記憶にありました。少し鼻の高い、整った顔をした黒髪の男性。いつも眠そうな目と気だるそうな言葉でしゃべるのが特徴でした。
「好きでは、いけませんか?」
 とうとう、”人間”は私から本まで奪おうというのだろうか。その時彼の言葉を聞いて、そんなことを思いました。これを取られてしまったら私はもうなにもできない。
 もしも彼がそのつもりだったら、悪戯半分に私に触れてくる生徒のようにしてやろう。そんな黒い感情を、本を握る手に込めながら、そっと彼を睨みつけたのです。
「いいや、折角だから君に読んでもらいたい本があってね」
 そう言うと彼は一冊のハードカバーの本を私の前に置きました。随分な時間を過ごしてきたようで、表紙はすっかり劣化し、ところどころカバーも破れてしまっている。水で濡らしてしまったのか中を捲ると紙が曲がってしまっている。
「これは?」
「君になら良さを分かってもらえると思ったんだ」
 そう言うと、読んだら是非感想をと言い、彼は図書室を出て行ってしまった。
 一度もかけられたことのない言葉に、私はただただ呆然とし、鳴ったチャイムに驚いたあと、古びた本を鞄にしまって教室へと戻ったのでした。

 感想から言うと、彼の持ってきた本はすぐに読み終わってしまいました。特に動きのない平凡な日常を綴った物語で、誰かが死ぬこともなければ戦いも、ミステリーのように事件が起きるわけでもない。ただ四人家族が普通に生活をして、娘と息子が普通に恋をして、そしてやがて結婚をしてその家を出ていくという、そんな山も谷も何もない話。
 彼が言った私なら面白いと思ってくれるという意味は、読んでいてすぐに理解しました。私にはこの世界ですら御伽話なのですから、面白いと、魅力を覚えて当然です。そう思うと同時に、彼に対して憎悪の感情も抱きました。こんな自覚、覚えても私には痛みでしかないのですから。
 ずっと蓋をしていた部分に、無神経に触れられた気分でした。明日学校へ行ったらすぐにでも文句を言ってやろう。この本を彼に叩きつけてやろうと思いました。これまで怒るという感情すら諦めていた私が、初めて怒りを覚えた瞬間でした。

 図書室に入ると、彼は私よりも先に隅の席に座っていました。私はわざと足音を立てて机に向かうと、彼の前に思い切り強く本を叩きつけ、そして憮然とした態度で(マフラーのせいで彼には見えていませんが)彼を見つめ、言ったのです。
「こんな本を何故私に? 馬鹿にしているのですか?」
「いいや、別にそういうつもりで渡してはいないよ。ちなみに、これは面白かったかな?」
 私がじいと睨みつけても、彼はただ微笑むだけでした。馬鹿にするつもりがなければ、何故こんな普通を求める私に普通の物語を手渡したのだろう。
 私は、少し黙ったまま彼を見つめた後、一言、面白かったと簡潔に答えました。すると彼は穏やかな微笑みから途端に晴れやかな笑みへと表情を変え、私の手を握ると、思いきり振るのです。
 ありがとう、そう言ってもらえて僕は嬉しい。彼は確かにそう言いました。
 初めて受けた感謝の言葉に、私はまた呆然としてしまいました。こんな私の言葉で何故こんなにも喜ぶのか、理解ができません。ただ、すっかり忘れていた人の感触と暖かさに、私の心がゆるりと解けていくのを感じました。
「あれは祖父が最後に書いたものなんだ。僕はとても好きだったけれど、世間で評価されず、そのまま祖父は病で倒れ、亡くなってしまった」
 彼の話を、私は黙って聞いていました。確かに、あの作品はきっと世間では評価されない。私のような異分子くらいしかあの作品は好きになれないだろう。
「祖父の文章が昔から好きで、僕もいつか祖父のようになりたいと願っていた。祖父はいつも、普通であることがいかに素晴らしいかを僕に話してくれたんだ」
「普通であること」
 彼が私に求めたものが、少しづつ分かってきた気がしました。彼は祖父にとっての名誉を、自分への救いを、私に求めたのです。普通ではないからこそ分る「普通である」という意味を、私がきっと感じ取ってくれると思って。
「私の手、冷たいでしょう。早く離さないと冷え切ってしまうわ」
 多分、そこには小さな拒絶の意志もあったと思います。このまま彼が求めた救いを受け止めてしまったら、今度は私のほうが欲してしまう気がしたのです。
 けれども、彼は私の手を離しはしませんでした。
「手袋越しなら平気なんだね。近づいたら凍らされてしまうと噂で聞いていたから」
「でも、寒くなる」
「冬は好きなんだ。寒いのもね。僕と意見の合う友人ができてとても嬉しい。ここで離れてしまうのは勿体ないよ」
 ああやめてと拒絶したくても、その言葉は結局私の喉から一度も出てはきませんでした。結局のところ、私にとって初めて居場所と呼べるものが現われてしまったから、欲が出てしまったのです。これまで見ようとしなかった孤独を認めて、その穴を埋めたいと心から願ってしまったのです。
 私は俯きました。目から溢れ出た涙を見られたくなかったのです。私の元を離れ、雫となった涙は、一瞬にして氷結すると、白い結晶となってゆらり、ゆらりと机に舞う様にして落ちていきます。涙さえも凍ってしまう私を見ても、彼はただ笑うのです。雪が降っているみたいだと、彼は落ちた結晶に触れ、それからニット帽越しに私の頭をゆっくりと何度も撫でてくれました。
 神様は、とうとう機嫌を直してくれたのでしょうか。
 彼は週に三度は図書室に来て、私とお話をしてくれるようになりました。好きな本は、好きな作家は、家では何をしているのか、彼の趣味は何なのか。沢山、新しいことを知るようになりました。
 孤独であることに変わりはないけれども、どこか満たされた気持ちを抱いている自身がいるのも確かでした。

 彼が来てくれるだけで、私は笑えるのです。

   ―三枚目―


 大学を出ると、とうとう私には小屋しか居場所がなくなりました。外に出ることもできない。パソコンの液晶と、本と、ベッドを行き来する毎日となりました。父は新しい恋人を作り、どこか遠くへと引っ越していきました。月にいくらかのお金を振り込むだけ、いずれ私のことを記憶から消し去ることでしょう。だとしても父を恨む気持ちはありません。むしろ恨まれても良いくらいだとすら思っています。
 だから、せめて恨みもせずに世話を続けてくれた父に、感謝と、新しい幸福に対する祝いを手紙にしたため、送りました。返信はありませんが、それでいいのです。
 この頃になると、彼とはメールやチャットでやり取りをするようになっていました。時折私のこの小屋まで出向いてくれることもありますが、出てすぐの道端で話すくらいしかできないので、こちらの方がいいだろうというのが彼の提案でした。その時渡してくれたウェブカメラのおかげで、私は少しだけ変わることができたのです。
 液晶と電波越しの会話。互いにカメラを見るだけではありますが、マフラーや沢山の服によってできた距離よりは近く感じました。
「君の顔が、やっと見れる」
 何故思いつかなかったのだろうと彼は自分をずっと責めていましたが、それでも今こうやって顔を見て会話することができるのだから、と私は彼を諭し、そっとマフラーを外しました。
 白くて雪のようにきれいだ。彼はそう言ってくれました。日に当たっていないのだから当然なのですが、褒めてくれたことがとても嬉しくて、私は照れながら「ありがとう」と返事を返しました。
 彼との液晶越しの会話はそれからも続きました。春、夏、秋、冬。彼の姿や言葉から時の変遷を感じ、自分の時間が動き続けているのだと実感することができました。
 ですが、それもとうとう終りがやってきてしまったのです。

 彼に恋人ができたのです。

 とても素敵なことだと私は喜びましたが、電話が切れた後は、あの雪のような涙をキーボードに落としました。現実認めたくなかったのです。
 ずっと一緒にいたいという気持ちが、いつの間にか愛情へとシフトしていたことから、ずっと目を背けられたらよかったのに。これを書いている今でもそう思います。そうしたら、こんな不幸な結末を呼ぶことはなかったのでしょう。

 結論から言えば、私は彼の時間を止めてしまいました。動きだすこともなく、ただ眠り続けるだけの世界に彼を連れ込んでしまったのです。
 私の恋は決して実らないことは分かっております。触れ合うこともできず、傍にいることもできない。けれども私は彼を求めてしまった。身勝手な行為をした私はきっと許されることはないでしょう。
 だからせめて、私もここに留まり続けようと思いました。私自身は決して凍ることはありません。時が止まり続ける彼の横で、私は苦しみ続けよう。ただそこに座り続けて、孤独になりつづけよう。
 これを書き終えたら、私は彼と離れられないようにしようと思います。そうすることでここに縛りつけようと思うのです。いや、彼の傍にいたいという気持ちもあります。私はどこまでも身勝手で酷い女です。

 とうとうこの紙も最後となりました。まるべく短くまとめたいと思い、凝縮させていただきました。
 これだけ記憶が鮮明であることを不審に思う方もいるかもしれません。ですが、私にとってはこれが、この記憶が全てなのでございます。他を独りで過ごし続けた私には、これだけ、この三枚の紙にまとめられる程度しか幸福な記憶がないのでございます。
 勿論、彼と過ごした日々は忘れられないものではありますが、ここだけは私だけの記憶とさせてください。誰にも見せたくはない。ちょっとした独占欲です。

 私という存在はとうとう終結します。あとは孤独なモノとなり果て、時を刻み続けるのです。けれども私が”終わる”前に、せめて私のような化け物が居たことを記したい。その為に、これを記しました。私の目で、私が感じた全てを、誰かが手に取り、読んでくれることを願って……。

   ―――――

「果たして、これはハッピーエンドとみて良いのだろうか」
 手記を閉じ、相方に向けてそう言ったあと、俺は小屋の中のそれを見た。
 眠るように凍った男性。
 そして、隣で目を閉じる女性。
 彼女は自分は凍らないと言っていた。だが、今こうして彼女は凍っている。彼の隣に座って、眠るように目を閉じて。彼女の手と彼の手は上から水でもかけたのだろう、二人の凍り方とはまた別に凍りついている。恐らく、これが彼女が行った「自分をとどめるということ」なのだろう。
「ですが、彼女の話といまいち噛み合わない部分がありますよね……?」
 ああ、と俺は頷いた。
 男性は行方不明となる数週間前、恋人と別れている。婚約の準備までしていたというのに突然別れを告げられたそうだ。僕には釣り合わない。そう言って深く謝罪すると、行方を眩ませたのだという。
 彼がどうやってここに連れてこられたのかは不明だ。いや、彼からやってきた可能性もある。いずれにせよ死人に口はないのだから確認のしようがないのだ。
 ただ、彼女が無理やり凍らせたにしてはとても姿勢が良い。そしてなにより、何故彼の口元は笑みを浮かべているのだろうか。
「神様の気まぐれ、か」
 俺は手記と、幸せそうに並ぶ二人を交互に眺めたあと、繋がった手の上に、そっとその手記を置いた。
 やっと届いた手の冷たさに、彼は何を思ったのだろうか。
 そんなことを考えながら、俺はそっと小屋の扉を閉じたのだった。


    完

       

表紙
Tweet

Neetsha