Neetel Inside 文芸新都
表紙

かくも遅咲き短篇集
身削ぎの山/ピヨヒコ

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 十二月五日の午後はよく晴れていました。コノマは昼食をいそいで腹に収めると、プラスチック製の青いソリを脇に抱えて、家の裏山へ駆け上がりました。斜面につま先を穿ち、重なりあった綿雪を蹴り上げ、吐いた息を追い抜きます。頬を躱し舞う真白な息を振り返ると、眼下にコノマの住む町が見えました。
 福島県中部の山麓に広がるコノマの町は、冬ともなると深い雪の壁に閉ざされ、空は濃い鈍色に覆われるのが常ですが、この日は冬の気まぐれか、太陽は低い所で輝いていました。麓にコノマの家の屋根が見えます。ずっとこの地にある家の分厚い瓦は雪を背負い込み、陽光を四方に跳ね返してきらめいています。コノマは家に向かって、あかんべえと真っ赤な舌をだしました。
「ばーかばーか。ばあちゃんのばーか」
 先ほどコノマは祖母に叱られたばかりでした。祖母はコノマに厳しく言い続けているのです。冬の裏山へ入るな。雪に覆われて窪地がわからなくなる。窪地に落ちたら戻れなくなる。今日もコノマは、裏山へ入ってはならないと厳しく言われました。
 なんだよばあちゃん厳しいっつの。ソリやりたいのにさ。すげースピードでるんだもん。
 コノマは再び駆け出しました。重い根雪に足をとられ、途中幾度となく転びそうになりました。この山の勾配は標高に比べ緩やかで、山道の整備も簡素ながら施されています。山の中腹にあるなだらかな斜面は、その昔子ども達の遊び場となっていたのですが、どういうわけか今では誰一人として近寄ろうとはしません。コノマはそこを自分専用のソリ遊び場とし、祖母の禁止を破って足しげく通っていました。この日もコノマは白い斜面を貸しきり、お気に入りの青いソリで遊ぼうとしているのです。
 やがてコノマが目的の斜面につくと、そこは真新しい雪に覆われた絶好の状態となっていました。うっすらと腐臭が立ち込めていますが、コノマはそれを山の匂いだと思い特に気にしませんでした。
 コノマは満足気にまばゆい銀嶺を四顧し、いちばん傾斜が急な場所を選びソリをおろしました。頬の産毛は冷気に身を固め、コノマの鼻腔からは塩っぱい鼻水が垂れています。コノマはソリにまたがり、肺いっぱいに冬の静謐を飲み込みました。雪を蹴り、跳ね上がり、尻からソリに着座して、発進。
「すげえ! ちょうはやい!」
 コノマの嬌声が雪に吸い取られます。ソリはぐんぐん加速して、コノマの頬に冷たい風がぶつかりました。もっと早く! コノマは体重をソリの前方にかけます。真っ白い世界を一直線に滑り降ります。
 ばあちゃん年寄りだからな。ソリできないからヤキモチやいてんだ! こんなに楽しいのに!
 処女雪がソリに押しつぶされぎちぎちと音を立てます。ソリは更に速度を上げ、コノマは風となり、そして雪に覆われた岩に激突しました。プラスチックが砕けて弾け散り、コノマは前のめりに放り出されました。そして尖った岩肌に額をぶつけ、空中で一度大きく回転し、空を向いたまま雪の上に墜落したのです。
 頭部に生暖かい湿り気を感じ朦朧とするコノマは、霞む視界であたりを見回しました。空が急に高くなったような気分です。よくよく観察してみると、そこは窪地となっているようでした。祖母の言った通り、真っ白な雪の中では高低差を見失ってしまいます。目の前の斜面がずっとつづく雪原に見えるのです。
 しまった。コノマは思いました。
 ばあちゃんの言ってた窪地ってやつだ。どうしよう、どうしよう、ばあちゃんここに落ちると登れなくなるって言ってたぞ。どうしよう!
 コノマは額を抑えて窪地を歩きます。血があふれていました。
「ってあれ? これは登れるだろばあちゃん」
 斜面の目前でコノマは拍子抜けしました。そこは確かに窪地なのですが、しかし這い上がれない程の傾斜ではなく、そもそも雪があるということは足場を作れるのです。
 ああもう、なんだよばあちゃんビビらせすぎ。
 コノマは嘆息して斜面に足をかけました。けれどその時、ふと背後が気になったのです。それは直感というべきか、なにか危険を察知する本能というべきか、コノマは背後に深い不穏を感じ取りました。振り向くとそこには小さな穴が開いていました。真っ黒い闇を湛えた穴でした。そこから何か恐ろしい物が湧き出ていて、そいつは地を這いつくばって、自分の足元まで伸び広がっているような感覚。コノマは愚かにも深く息を吸いました。
 なにかある。コノマは穴へ近寄ります。コノマが墜落した地点のすこし奥にその穴はありました。途中、コノマは自身の血痕を雪の上に見つけ、その思わぬ血溜まりの広さに額の裂傷を憂います。コノマの額は眉間から生え際にかけて裂けていました。けれど寒さのせいか、あるいは興奮のせいか、コノマは痛みを感じません。またばあちゃんに怒られる。その程度の危惧でした。
 コノマは穴を覗き込みました。深い穴でした。なにか独特の臭気がそこから遡上しています。コノマは鼻を覆って、注意深く穴の奥を見ようとしました。なにかあるような、なにもないような、闇の底の一隅から、こちらを何者かが見つめているような妄想。コノマは穴の底に怪物を想像し、恐怖に駆られ立ち上がりました。
 出よう、なんか怖いよ。
 そして立ち上がると、コノマは強烈な眩暈に襲われ雪の上に倒れました。混乱したコノマはもがき、腹ばいになって穴から離れます。視界が歪み、景色は白だけに満たされ、四肢の末端は感覚を失い、心臓が調子の乱れた拍を打ちます。
 なんだこれ! なんだこれ!
 数メートルも進まないうちに、コノマは大量に嘔吐し、張り裂けそうな頭痛を一度だけ感じて、意識を失いました。



 コノマの昏倒は随分と続いています。
 ぼたん雪がコノマの頬に層を作る頃、一頭の鹿が窪地に現れました。なんと鹿は老人の顔をしています。体は鹿そのものですが、太い首の上には皺くちゃの人間の顔がついていました。側頭部からは立派な角が伸び、これが男鹿だとわかります。鹿は老人の顔をコノマに近づけて、ぺろりと頬を舐めました。堆積した雪が唾液で溶け、コノマは薄く目を開きました。
 コノマは目の前にいる人の顔をした鹿に驚きました。体を動かそうにも、全身の力が抜けていて思うようにいきません。その様子を見て、男鹿の老人は口を動かし何事か言おうとしました。けれど皺にまみれた口からは何も音は発せられません。悲しそうな顔を見て、コノマは恐る恐る声をかけました。
「なに? だれ?」
 コノマは鹿の顔に見覚えがありました。祖母と似ている気がしたのです。
「ばあちゃん?」
 鹿はまた口を動かしました。けれどやはり、何も聞こえません。諦めの表情を見せ、鹿はコノマの頬をもう一度だけ舐め、窪地を駆け上がり消えました。コノマは呆然とそれを見送り、それから自分に何が起こったのか考えます。
 穴を覗いて気を失った所までは覚えていました。けれど周囲を探しても穴は見当たりません。コノマが額から流した血もコノマの足あとも、窪地から一切消えていました。いつの間にか日は西へ傾いているようです。厚い雲に覆われ、ぼたん雪が舞う中では時間の感覚は当てになりませんが、しかし冬の夕暮れの澄んだ空気はわかりました。帰らなきゃ。コノマは立ち上がり、窪地をよじ登りました。
 ああほら、やっぱり簡単に出られるじゃん。ばあちゃんのばか。
 窪地を抜けるとコノマは景色に違和感を覚えました。先ほどまで遊んでいた斜面とは風景が違っているのです。それは、木立の位置が違って見えるとか、積もった雪の色がより白くなっているとか、ささやかで感覚的なものでした。コノマは怖くなり来た道を戻ろうとします。ソリを拾わなきゃと探しても、それはどこにも見当たりませんでした。雪の中では青色のソリは目立つはずなのに。雪に埋もれたとでもいうのでしょうか。
 ソリを諦めようとしたとき、コノマの視界に人影が映りました。雪をかぶった岩に寄り添って、一人の女の子がいました。その岩はコノマが衝突した岩でした。コノマはおぼつかない足取りで女の子へ近寄ります。
 女の子の周りだけ、円状に地表が見えていました。女の子を中心として、手前の数メートルは地表が覗き、それより遠くの雪はなだらかな角度で溶けています。
「なにしてるの?」
 問いかけると、女の子は驚いてコノマを見上げました。
「わ。あなた誰?」
「ぼくコノマ。きみは誰?」
「わたし? わたしはイツキ」
「イツキはここで何してるの?」
 イツキと名乗った女の子は真っ赤なワンピースを着ていました。コノマの問いかけにイツキはあっけらかんと答えました。
「きになるの」
「なにが?」
「なにがって?」
 コノマは首をかしげます。
 おかしいぞ、こんな所で女の子が一人ぼっちなんて。それに、イツキはすごく寒そうなかっこうをしている。
「寒くないのそんなかっこうで」
「あったかいよ」
 コノマはまた首をかしげました。けれどコノマは気づきます。イツキの周りは、冬とは思えないほど暖かい空気で満たされていました。コノマはずいぶんと体が冷えていたので、イツキのそばで腰を下ろしました。
「イツキ、すごくあったかいね」
「コノマはどうしてそんなに寒そうなの? きになるー」
「だって冬じゃん。雪すごいし」
 今度はイツキが首をかしげます。コノマはイツキから目を離し改めて周囲を見回しました。やはりそこはどこか知らない場所のように思えるのです。空は次第に暗くなってきました。コノマは祖母の顔を思い出し、怒られてしまうと恐れます。それから、先ほどの鹿の顔を考えて身震いしました。恐ろしい生き物に感じたのです。
「ぼく帰らなきゃ」
「どこに?」
「家だよ。イツキも帰らなきゃ家の人に怒られちゃうよ」
「家の人ってなんだっけ? きになるー」
 イツキは少しも動こうとはしません。
「家の人って、えっと家族。お父さんとかお母さんとか」
「あ、それ知ってる。お母さんとお父さん大好き」
「うん。だったら帰ろう。もうすぐ真っ暗になっちゃう」
「どうして帰るの? きになるー」
「だから心配されるし怒られちゃうもん!」
「心配ってなんだっけ? 怒られるってなんだっけ? きになるきになる!」
 コノマはイツキの顔を見つめました。イツキは、本当にそんなもの忘れてしまったという表情でコノマを見ています。
「イツキ、忘れちゃったの?」
「わかんない。けど覚えてないこといっぱいあるよ」
 要領を得ない会話に辟易しコノマは立ち上がります。いよいよ空に夜が滲み広がってきました。雪の降る夜に山道を下るのは危険だとコノマは知っていました。コノマはイツキの手を掴み、ひとまず立たせようとします。
 しかし、いくら引いてもイツキはぴくりとも動きません。コノマが力いっぱい引っ張っても、イツキの体はちっとも揺れません。
「無理だよ。わたしもう動けないもん」
「ええ! イツキ家に帰れないじゃん!」
「あれ、家ってなんだっけ? きになる!」
 コノマは困り果てました。一刻も早く家に帰りたいけれど、ここにイツキを置き去りにするのも気が引けます。女の子がワンピース一枚のみ身に纏い雪山で夜を明かすのを、コノマは想像してみました。きっとそれはとても恐ろしく、孤独で、寒くて、眠れないでしょう。それに、先ほどの鹿のこともあります。ここにいてはいけないと、コノマは思い始めていました。
「イツキ、帰ろうよ」
「でも動けないもん」
「寒くて死んじゃうよ」
「わたしあったかいよ」
 イツキはワンピースを掴みぱたぱたと仰ぎます。暖かい風が立ち込めました。
「でも、お腹とか減るでしょ?」
「わたしお腹減らないよ」
 これはにわかに信じられません。コノマはもどかしくなり、イツキをここにおいていこうかと思いました。けれど、このままではイツキは本当に死んでしまうかも知れない。コノマは何か食べられるものはないかと考え、ポケットに甘露飴があるのを思い出しました。
「これあげるから食べて。寒くなくても、なにか食べないとだめだよ」
「飴だ!」
 イツキは喜んで飴を受け取りました。
「甘いの大好き!」
「そう。じゃあぼく帰るね。イツキもすぐ帰ったほうがいいよ」
 イツキは飴に夢中でコノマの言葉を聞いていません。コノマはため息をついてその場を離れました。思いだして額に手をやると、先程ついたはずの傷はなくなっていました。
 今はとにかく家へ帰ろう。コノマは走ります。



 コノマは山道を駆け下りながら、この山がいつもの山ではないことを確信しました。コノマの周囲にはおかしな生き物がたくさんいるのです。コノマの脇には、障子戸に柴犬のくるりとした尻尾と手足の生えた生き物が並走していました。それだけではありません。森の奥では首の長い象が、道の脇にはうさぎの顔をつけた岩が、木立には魚のようなひれのあるカブトムシがいました。そのいずれもがコノマの姿を見ています。あるものはコノマを見ると逃げ出し、あるものは息を荒げてコノマに近寄り凝視します。
 コノマは目を合わせないように走り続けました。
 ふと進路に光るものが見えました。小さくて、周囲の雪を映し込み、景色に溶けそうな生き物でした。コノマは思わず立ち止まります。障子戸の柴犬はコノマを追い抜いてどこかへ消えました。コノマは光る生き物を観察します。それは全身が鏡のようになっている赤ん坊でした。鏡の赤ん坊もコノマに気づき口を開きます。赤ん坊の唇はひび割れていました。
「おや、きみはこんな所でなにをしてるんだい」
 コノマは息を弾ませて答えました。
「帰るの」
「へえ、へええ、もう帰れる体なのかい。羨ましいな。私はまだまだだよ。これじゃまだ鏡だ」
「ねえ、ここはどこ?」
「さてね。私にもわからないよ。それより、きみは何だったんだい?」
 鏡の赤ん坊がコノマを見上げました。赤ん坊には雪や木々や闇夜が映り込んでいました。コノマは気づきます。
 ぼくが映っていない。
「きみは……きみは鏡?」
「前は鏡さ」
「ぼくが映っていないよ」
 鏡の赤ん坊は自分の腹を見下ろしました。それからコノマを見上げて、突然笑い出しました。
「これはすごい! 鏡に映らないなんて! きみはなんだ? きみは何者だ?」
「ぼくは……ぼくはぼくだ」
「いやあ、長いこと鏡をやってきたけれど、私に映らない物を初めて見た。ともすればこれは、私がいよいよ鏡を抜け出せたということか。まもなく私も帰れるのかもしれないね」
 コノマは一人で話し続ける相手を恐れ、ゆっくりと歩き出しました。
「うらやましい。きみは実にうらやましい」
 鏡の赤ん坊が言うのを聞いて、コノマはまた駆け出します。
 麓に家が見えてきました。遠くに見える町は、町ごと細やかに揺れているようでした。けれどコノマに見えているのは我が家だけです。コノマは何も気づきません。



 コノマは家につき、遣戸を開け、玄関の三和土に両足をついてからやっと安堵しました。下駄箱の上の水槽で二匹の金魚が尾をなびかせています。コノマが六歳の時に縁日で掬った金魚でした。十一歳の今日までコノマが欠かさず餌をやってきた二匹は、初めて家に来た時から随分体が大きくなりました。それにつけても、今日の二匹は、いつもと比べて随分大きい。コノマは頭を振って靴を脱ぎ「ただいまあ」と言いました。
 あたりが暗くなってから帰ってきたので祖母に怒られるのではないか。コノマは見を縮めながら台所へ向かい、祖母に釈明を試みようとします。けれど台所には誰もいません。冷蔵庫に貼り付けられたデジタル時計は十九時を示していました。コノマにとって十九時の帰宅は大罪です。祖母はいつも言うのです。暗くなる前にかならず戻れと。
 家族はどこにいるのでしょう。コノマが台所を出ようとすると、流し台のまな板の上に何かあることに気づきました。コノマが見つけたそれは人型の餅でした。コノマの手のひらに収まる餅は、歪ながらも手足や頭部が作られており、紛れも無く人の形をしているのです。コノマは気味が悪くなって人型の餅を置きました。なんだか嫌な気分です。コノマは台所を出ました。
 コノマは廊下で立ち尽くし人の声を探しました。けれど気配はありません。十九時ともなれば両親も勤めから戻る頃合いなのですが、思えば玄関には一足の靴もなく、耳を澄ましても人の声は聞こえません。コノマの耳に届くのは、冷蔵庫の低い稼動音や、水槽で湧く水音などの些細なものだけでした。コノマは冷たい廊下を歩き、ひとまず居間へ向かいます。
 居間にも家族はいませんでした。居間のコタツには、普段は籠に入ったみかんが乗っているはずなのですが、今は銀色のたらいが乗っています。たらいは湯で満たされ湯気をあげていました。それを見てコノマが不思議に思っていると、どこからか白い猫が現れました。猫はコタツの上に乗り、一声にゃんと鳴きコノマを見つめます。コノマは猫を一匹飼っていましたが、その猫は黒猫でしたので、目の前の猫とは違います。
 猫はふいに二本足で立ち上がりました。そして腹をまさぐり、毛の奥から小さな氷を取り出しました。二本の前足で器用に氷を掴み、たらいの湯へ投げ込んでいきます。一つ、二つ、次から次へと投げ込みます。猫は腹の毛の隙間から新しい氷を取り出しては投げ込みました。やがてたらいから湯気が消えると、猫はまた四本足で歩き始め、コノマの横を抜けてどこかへ消えました。居間にはたらいの冷めた湯とコノマが残されました。コノマに鮮烈な寒気がはしります。コノマは居間を抜け、仏間へと向かいました。
 コノマは仏間の襖を開きました。祖母はいません。祖母はいませんでしたが、仏壇の前に鹿の頭が置いてありました。コノマは息を飲みました。鹿の頭はまばたきをしているのです。
 こんなのあったっけ? てかきもいーなにこれー。
 鹿の頭には一枚の札が貼ってありました。そこには「己が非力をげに嘆き 雄々しき鹿を憧憬す 我が身果てても許すべからず」と書かれていました。コノマは憧憬の字以外を読むことはできましたが、今ひとつ意味を理解することができませんでした。ただ、許すべからずと結ばれていることが気にかかるようです。
 鹿はコノマを見上げて鼻をひくつかせます。コノマは仏間を飛び出しました。何もかもがどこかおかしい。ここはやはり、自分の住んでいたところとは違う。コノマは狭い家を逃げます。祖母を探して、逃げるのです。
 コノマは祖母の部屋に入りました。やはりそこにも祖母はいませんでした。コノマはこの部屋でも異変に気づきます。あらゆる物が上下を逆さに配置されていました。箪笥も、テレビも、本棚も、湯のみも、何もかもが逆さになっているのです。一際目を引いたのは、部屋の奥を隠すように立てられた逆さの屏風でした。それは祖母が好んでいた鹿の絵の屏風です。祖母は屏風を前にして、コノマへ鹿にまつわる話しをいくつかしたことがあります。男鹿の角の凛とした美しさ、精悍な顔立ちとつぶらな瞳の愛らしさ、あるいは他界したコノマの祖父が鹿を狩ってきた思い出。祖母は鹿を好いていました。
 逆さの屏風に隠されて、部屋の奥には布団が敷いてありました。布団は人が潜っているかのように膨らんでいます。コノマは祖母が隠れているものと思い、布団に手をかけそろりとめくりあげました。
 布団の中には水筒と祖母の日記帳が潜んでいました。コノマはもうわけが分からず、けれども祖母の面影を探して日記帳をめくります。日記帳は最後の一頁しか開きません。それより前はどれだけ力を込めてもめくれないのです。最後の頁には祖母の達筆でこのように書かれていました。


 見つかる。窪地に淀む魔を恨まずにおられようか。己が無力に涙が止まらない。寒かったろうに。寒かったろうに。


 コノマはその意味を理解できないまま、水筒の蓋を回しました。蓋が外れると、たちどころに甘い香りが広がります。ココアでした。コノマはココアを一口飲みました。喉が火照り、胃が喜び、コノマの疲弊した体に力がみなぎります。
「ばあちゃん」
 コノマは泣きました。
「ばあちゃあん」
「ここにいるよ」
 ふいに祖母の声が聞こえました。
 ばあちゃんだ! と、コノマは身を捩り振り返ります。
 しかしそこに居たのは鹿の頭でした。
「ここにいるよ」
 それは先程の鹿の頭でしたが、貼りつけられた札の文字は「コト八日に堕獄 見逃し難き非違につき」と書き改められていました。
「ここにいるよ」
 コノマは水筒を抱えて逃げ出します。怖くて怖くてたまりませんでした。祖母はもういません。ここはコノマの住む家ではありません。
 ばあちゃんの言うこと聞いておけばよかったんだ!
 コノマは、走って、走って、走りました。



 コノマは山腰を駆け上がりました。ここは自分の居た世界じゃない。きっとどこかで間違えてしまったんだ。コノマは窪地を目指します。窪地で倒れて目覚めたら世界は一変していたのです。ならばもう一度窪地で気を失えば、あるいは元いた場所に戻れるかも知れません。もちろん、コノマは都合よく気絶する術を知りませんので、この遁走は半ばなげやりでした。
 雪に埋もれた山道のいたるところにコノマを見つめる生き物がいます。コノマはひたすら前だけを見て走りました。
「おやおや。きみはやはり只者ではないな」
 鏡の赤ん坊がコノマの脇を走っていました。コノマはずっと走ってきたので肺が苦しく言葉がでません。
「今度は私にしっかりと映っている。おかしいなあ、おかしいぞ」
 コノマは無視して走ります。
「冷えた体を温めたな。こちらで更に逆さごとをしたな。そうかあ、それ、暖かそうだもんなあ」
 鏡の赤ん坊は立ち止まり、コノマを見送りました。奇妙な生き物たちも、散り散りに闇へと消えていきます。麓にあったはずのコノマの家は朽ち果てていました。しかし、鏡の赤ん坊が森へ消えると、家は新築の輝きを取り戻し、雪がひとひら地面につくと、また廃屋へと変わるのです。山を駆け上がるコノマの背後で、町全体が一瞬のうちに消え失せ、かと思うと賑わいを取り戻し、その循環をひたすらに繰り返していました。コノマはそのことについて、一度も気づかなかったのですが。

 雪は身を細く舞い、雲の切れ目から覗く寒月の銀が、山を仄かに照らします。コノマは山腹に戻りました。イツキが変わらずそこに座っていました。
「あ。コノマだ」
「イツキまだいたんだ」
 コノマはイツキの元へ寄り、暖かいそこへ腰を下ろしました。イツキの周りだけ春の気配を感じるのです。イツキの足元に雪はなく、そこは啓蟄を迎える土のほころびさえ予感させました。
「コノマ戻ってきたんだね。それなあに? 銀のぴかぴかのやつ。きになるー」
 コノマは抱えていた水筒を持ち上げました。
「これ水筒。ずっと同じ温度にするやつ。中にココアが入ってる」
「ココヤってなに?」
「ココア。ヤじゃなくてア。甘くてとろとろした飲み物だよ。知らないの?」
「しらなーい。甘いの?」
 コノマは頷きました。するとイツキが手を伸ばしココアをせがみます。
「飲みたい!」
 コノマは水筒の蓋を開け、イツキに手渡しました。イツキはココアを一口飲み、口をあんぐり開いて水筒の中を覗き込み、鼻の穴を大きくして匂いを嗅ぎ、それから破顔して二口三口と飲み続けました。
「わあ! ぼくのも残しておいてよ!」
 コノマはイツキの手からココアを取り返しました。
「あーん。これ無くならないもんー!」
 言われてコノマが水筒を覗くと、なるほどココアはちっとも減っていません。コノマは不思議に思いながらもココアを飲みました。暖かさと甘さと、どこかに漂う祖母の香りがコノマの体を廻っていきます。
「ねえ、コノマなんで戻ってきたの?」
 イツキは「きになる」と言いませんでした。
 コノマは水筒を閉じて答えます。
「なんかここ変なんだもん。家もおかしくなってたし、ばあちゃん居ないし」
「ばあちゃんって何? きになるー」
「ばあちゃんってばあちゃんだよ。お父さんとお母さんより大人なの。そういえば、ばあちゃんみたいな鹿がいたんだけど見てない?」
「わかんなーい。その鹿、ばあちゃんなの? きになるなる」
 イツキはずっと笑っていました。先ほどのココアが余程気に入ったのでしょう。唇についた甘味を舌を使って楽しんでいました。
「ぼくもわかんないよ。ねえ、ここって何なの? ぼくの町? 違う世界?」
「えーとねー。そうゆうの言わない約束なの。ひいーってのになるから」
「ひー? うんとね、じゃあさ、いろいろ混ざってる生き物ってなんなの? 宇宙人?」
「前のとこれからのが混ざってるの! わたしは赤ちゃんとチョウチョのが好き。かわいいんだよ」
 コノマは水筒を開けてココアを飲みました。あたりはすっかり凍りついていましたが、やはりイツキの周りだけは妙に暖かく、次第にコノマは眠気を覚えました。異形の生物と気味の悪い我が家。真逆の祖母の部屋と鹿の頭。それらすべてが、幼いコノマの精神をゆっくりとはっきりと削り取っていたのです。疲弊したコノマにもたらされたココアの安息は、イツキの暖かさとあいまって、抗いがたい眠気を呼びました。
「ね、イツキ。どうすればここから出られる?」
「しらなーい。コノマは帰りたい?」
 コノマは頷きました。そしてイツキの隣で横になります。とても眠いのです。
「ねえコノマ。ばあちゃんは好き?」
「うん。大好き」
「それじゃコノマ、ココアは好き?」
 すきだよ、とても。コノマは答えました。
「ココアじゃない甘いのっていっぱいある?」
 コノマはとても眠たくて、瞼を下ろしてイツキの暖かさの横で動けなくなりました。
「いっぱいあるよ」
「何があるの? きになるー」

「わたあめとか」「わたあめ?」「雪みたいなやつ」「冷たい?」「ううん。ふわふわしてんの」「他には?」「ドーナツとか」「ふわふわ?」「ぱりぱりかな」「他には?」コノマは答えません。「ねえ、他には?」コノマは答えません。「ねえねえ、きになるよう」コノマは答えません。「きになるなる」
 コノマは、答えません。

「コノマ?」
「イツキ、ぼく死んじゃうのかなぁ」
「ありえないー!」
「どうして? ぼく、こんなに、すっごく、もうとっても、眠いのに」
 イツキは笑いました。
「だってコノマ」
 コノマは眠ってしまいました。だからコノマには、何も聞こえませんでした。

 ◇

 動かないコノマに質問を浴びせ続けるイツキは楽しそうでした。イツキは座ったまま、首だけコノマを向いて問いかけます。
 どうして寝てるの? もう起きないの? わたし寝なくていいよ? コノマは寝なきゃなの?
 イツキはとても楽しそうです。
 コノマは何になるの? どうして自由に動けるの? わたし何になると思う? ねえねえコノマ!
 コノマはもちろん、何も答えません。
 そこへ老人の顔をした鹿があらわれました。
「わ。あなた誰?」
 イツキは鹿に問いかけます。老人の顔をした鹿は口を開きましたが、そこから言葉は出てきません。
「もう鹿になる?」
 老人の顔が頷きました。そして角をコノマの服に引っ掛け持ち上げ、イツキの傍を離れます。
「鹿さんコノマ帰しちゃうの?」
 イツキの質問に答えはありません。
「そっかー。羨ましいなあ。わたしもねー、窪地に落ちたんだー。でもねー、鹿さんみたいな事してくれるひと、誰もいなかったの」
 イツキは言葉を続けます。
「いけないんだー。鹿さんいけないんだー。本当はそういうことしちゃいけないんだー」
 イツキは言葉を止めません。
「でもねー、コノマねー、わたしにココアくれたの。もう遅いけど、でも暖かくて甘くて、わたしずっと忘れないよ」
 イツキは、元のように正面を向き、静かな顔で雪を見つめました。
「ありがとって言っといて」
 そしてイツキはなにも言わなくなりました。
 鹿はコノマを窪地に投げ込みました。コノマは斜面を転がり落ち、窪地の底で仰向けになりました。鹿も老人の頭を揺らしながらその後を追い、静かなコノマの頬を舐めます。すると鹿から角が落ち雪に刺さりました。鹿はもう一度コノマを舐めて黒い瞳から涙を流しました。涙と一緒にもう一本残っていた角も落ちます。鹿の胴体に老人の頭部が乗っただけの生き物になったそれは、細い脚を折りたたみ雪の上に座り込みました。
 コノマは一度だけ目を開きました。目の前には、老人の頭部が転がっており、それが微笑みを湛えてコノマを見つめていました。鹿の胴体と老人の頭部は、もはや千切れて離れ離れとなっているのです。
 コノマも微笑みました。
「ばあちゃん」
 そして眠ります。
 ココアはずっと、コノマを暖めていました。



 コノマのその後の人生は、人並みに荒れ月並みに落ち着き、それは特筆すべき点に乏しいものでした。
 コノマは窪地で昏倒しているところを祖母に助けだされました。祖母はコノマをおんぶし、泣きながら山を駆け下りました。揺れる背でコノマは意識を取り戻し、祖母を呼び続けました。祖母はコノマを励まし、命に変えても救ってやると叫び、麓の家までたどり着くと救急車を呼びました。その日のうちにコノマが快方に向かう事を知ると、祖母は突然病臥したのです。そして祖母はコノマを助けた二日後の十二月八日に他界しました。
 コノマは祖母の葬儀で自身が山で体験したことを弔問客に告げました。しかしそれは、若い人間にはとりあってもらえず、老いた人間は静かに頷くばかりでした。やがてコノマは祖母の居ない日常を受け入れ、その後の毎日を何事も無く安穏に成長していきました。
 
 この度コノマは東京の商社から正月休みに帰省し、久方ぶりに祖母の遺品を眺めていました。すると、くたびれて黄ばんだ祖母の日記を見つけました。コノマはふと、幼い頃の不可思議な体験を思い出し、その日記を開きました。日記にあるのはとりとめのない内容でした。しかし、最後の頁を読んだコノマは身震いしました。そして、在りし日の空想めいた出来事が、子どもの妄想では無かったことを知るのです。
 最後の頁には祖母の達筆でこう書かれていました。


 見つけた。あの子の為なら命など惜しいものか。私は今、とても幸せだ。


 コノマは日記をしまい、防寒着を着込んで裏山を登りました。幼い頃見た冬よりも、随分と雪が減っているように思われます。コノマは山腰を歩く間、木立の隙間にいつか見た異形を探しましたが、それはどこにもいませんでした。
 ソリ遊びをしていた山腹につくと、コノマは変わらぬ景色に嘆息します。コノマが意識を失った窪地には柵が張り巡らされており、黒ずんだ立て看板には「危険」と赤い字で書かれていました。危険の文字以前にも何かが書かれているようですが、それはすっかり読めなくなっています。
 辺りには独特の腐乱臭が立ち込めていました。子どもの頃、山の匂いだと感じていたものですが、大人になったコノマにはその正体がわかります。
 コノマは息を止めて窪地を覗き込みました。
 狐が死んでいました。
 それではなぜ自分は生きているのか。
 コノマは考えます。けれど答えは出ません。答えの出ぬまま辺りを散策していると、岩の横に矮樹が一本立っていました。その樹は小さいながらも真っ赤な実をつけています。コノマは、まさかそんなことあり得るものかと、実をひとつもぎ取り食べました。
 その実は、包み込むように甘く、懐かしいココアの味がするのですから、コノマはいよいよ笑わずにはいられませんでした。

以上

       

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Neetsha