Neetel Inside 文芸新都
表紙

かくも遅咲き短篇集
終の栖/近松九九

見開き   最大化      

 
「お腹がすいたの」
 彼女は言いながら、横たわる男の逞しい胸板に、白く細長い指をつぅと滑らせた。男が身もだえる度、彼女は白銀色の瞳を煌めかせ、無垢な微笑を造る。もう一度。もう一度。まるで新しいおもちゃを与えられた幼子の様に、何度も同じ動作を繰り返した。
 お腹がすいたの。繰り返しながら彼女はおもむろに、真珠よりも白く、シルクよりも肌理の細かい躰を、そっと男のそれに密着させた。テノールの利いた男の喘ぎが、白壁に虚しく吸い込まれていく。
「時々、無性に悲しくなるのは何故かしら」
 冬の雨を思わせるひどく冷たい声で、彼女は歌うように問いかける。男に向けられたものではない。自問でもない。この問いかけは、部屋の一角で分厚いコートを着込み、息遣いすらも潜めている私に向けられたものだった。
 けれども私は答えない。
 私が沈黙を守り続けていることが不満なのだろう。見れば、彼女は男を抱きしめたまま、不貞腐れたように口を尖らせ眉間にしわを寄せていた。どうして答えてくれないの? わたしのことが嫌いなの? そんなことはないと確信しているだろうに、彼女は嫌らしく詰問を繰り返した。
「本当は、分かっているの……」
 彼女は男から身を離すと、右の親指から小指を、一本ずつ丹念に唾液で湿らせた。純真を装った卑猥が、かすかに鼻孔をくすぐる。天井にぶら下がる安っぽい人工照明に照らされ、五本の指は妖艶な輝きを見せていた。私はその蠱惑的な鈍い光輝を、息をひそめて見守った。
 おもむろに人差し指以外の指が丸められた。鋭く尖った爪が、不敵に笑ったように見えた。彼女は喉の奥で低く唸りながら、爪刃を横たわる男の胸に付きたてた。
 艶めかしい香りを漂わせていた部屋に、突然訪れた異臭。血の臭い。本来あるべき場所から漏れ出したその液体を、彼女は指で掬い取り、微塵の躊躇もなく口に運んだ。
「おいしい?」
 私は問うた。うん、と彼女は幸せそうに眼を細めた。
「本当はね……こんなこと止めたいって思っている自分がいるの。いつもそう。何年も、何十年も、何百年も、同じ言い訳の繰り返し。喰らうべきは人でない。同じ姿をし、同じ言葉を用いる、人という存在。愛情だって覚える。――喰らっては駄目なのよ。――思いながらも、襲い来る飢餓がすべてを消し去るの。そんな偽善的な言い訳は、ひとたび空腹が訪れれば瞬く間に泡となって消えて行ってしまうの。たぶん、悲しみは……偽善の泡の欠片なのね」
 彼女は言い終えると、口内に残る血の味を惜しむように、もぞもぞと舌を動かした。唇の端に赤色がついていたので教えてやると、彼女は小さく礼を言って、親指でそれを拭い取った。
「優しさを偽善として片づけてしまうのは、いささか勿体ない気もするけどね」
 ふと思ったことを口にしてみる。彼女は不思議そうに首をかしげた。
「優しさ?」
「違うのかい?」
「どうだろう」
 思案に暮れ停止する彼女を、私はじっと眺めた。
 ほのかに青色の含まれた長い白髪は、首の後ろ辺りで無造作に束ねられている。身には薄布一枚纏っていない。肌は目も眩むほどに白く美しい。一見して華奢ではあるが、よくよく観察してみると腕や腹は割りに筋肉質で、か弱いという言葉は似つかわしない。
「どうしたの?」
 冷たい声が、心地よく鼓膜を撫でた。
「いや……やっぱり君は素敵だなと思ってさ」
 この言葉は嘘偽りの一切ない真実であるが、彼女はどうやら世辞や言い訳の類だと勘違いしたようで、いぶかしげに私を見つめ返した。どんな宝石にも勝る白真珠の瞳と、私のごくごく平凡な眼球が、同じ線上に並ぶ。羞恥心や敗北感にも似た感情から、今すぐに自分の顔面に二つの窪みを造りたい衝動に駆られたが、そんな愚行を彼女が良しとするわけがない。私はただ静かに彼女から視線を逸らした。
 素敵なんかじゃないわ、と彼女が自嘲的に呟いた。むしろ醜悪よ。言いながら、ぬらぬらと鈍く光る五本の指を、無造作に男の胸に突き刺した。
 蚊の鳴くようなか細い悲鳴が上がった。瞬間、むせ返るほどに濃厚な血の臭いが立ち込める。彼女は恍惚に身を震わせ、色素の欠乏した唇から長い舌をのぞかせた。
「優しいわけがない。素敵なわけがない。だって、わたし……」
 少しだけ寂しげに言いながら、彼女は這いつくばるようにして、男の傷に口を運んだ。長い舌を器用に使い、水を飲む猫や樹液を啜る甲虫が如く、一心に血液を舐め取る。
 傷口からこぼれ出る血液を全て舐め終わると、彼女は息を切らせながら面を上げた。とても熱いわ、と色めいた声音でつぶやく。熱くて熱くて溶けちゃいそう、と。
「もっと抱きしめないと」
 首のマフラーを巻きなおしながら私が言うと、
「この人、案外丈夫なのよ。少しずつ弱ってはいるけど、なかなか息絶えない。あまり抱きしめすぎると、私自身が本当に溶けちゃう」
「手を貸そうか?」
「――駄目よ」
 彼女は静かにかぶりを振った。「だってわたし、貴方には被害者で居続けてほしいのだもの」
「被害者?」
「そう。そこにいて、ただじっと、わたしだけを見つめ続ける。わたしの醜怪を、残虐を、罪悪を、見せつけられるだけの――被害者。わたしは貴方にそうあり続けて欲しいのよ」
 正直なところ、私は彼女の言い分に如何様な意味が含有されているのか、甚だ理解に苦しんだ。私は彼女の「行為」を私自身の意思で観察しているし、この奇妙な空間に私自身の決意で留まり続けている。そこには受動的な要素など一つもない。私はこれまでただの一度も、自分を被害者だと自覚したことなどなかった。
 けれども彼女は、まるで祈りをささげるかのように真摯に語る。どうか生涯、わたしを恨み続けてね、と。私は彼女に逆らえない。反逆に伴う彼女の悲しみが、私には耐えられない極大の苦痛だからである。
 だから仕方なく、私は口をつぐみ沈黙した。彼女はホッと胸をなでおろし、再び男の躰に視線を落とした。三人分の息遣いだけが、薄暗い室内に響き渡っていた。
 そろそろお別れね。何の感情もうかがわせぬ声音でつぶやきながら、彼女は男の傷口に人差し指の鋭い爪を喰いこませ、そのまま腹部に向かって動かした。当然、男の傷は広がる。ぱっくりと刀傷の様に開いた肉のひだからは、とめどなく鮮紅色の液がこぼれ出していた。彼女はその様子をうっとりと眺めてから、いささか興奮気味に両手を男の中に突き入れた。男の喉から声になり得なかった悲鳴が毀れ落ちた。
 彼女の手が男の中で蠢くたび、男は処女が如くぎこちない喘ぎを見せた。彼女はそんな男の反応を愉しむかのように、執拗に内側を攻め続けた。
「手が溶け始めたわ」
 真っ赤に染まった右手を、どことなく誇らしげに掲げる。「どうしたら良いのかしら?」
「それは困ったね」
「ええ、困ったわ」
「でもそれが君の食事だろう?」
「ええ、これがわたしの食事なのよ」
 血で汚れ歪に変形した右手をしばらく眺めてから、彼女は自身の唇をふわりとそれに触れさせた。瞬間、彼女の手が表面に付着していた血液ごと凝固を始める。ものの数秒もせぬうちに、溶けかけていた右手は元の美しいカタチを取り戻した。もっとも、血を含んでいるせいで、僅かに赤みを帯びてはいるが。
「赤くなっちゃった」
 初めて化粧をした子供の様に、少し照れくさそうに、けれどもどことなく嬉しそうにはにかんで見せる。気づけば横たわる男は事切れていたが、この事実に対して、彼女は特段興味を示さない。すこしだけ、私は男に対して同情の念を覚えた。だが、それもあくまで気の迷いのようなものだった。彼女を習い、私も男の屍から興味を後退させる。
 『ここ』では、死とは生命の終わりではない。
 『ここ』では、死とは『彼女』の糧なのである。
 白い息が、儚く霧散した。足先がかじかんできたので軽く運動させ感覚を戻す。そっと自らの頬に手を当ててみたが、手と頬、どちらも氷のように冷え切っていて、触った感触すら曖昧だった。
 ぐぅ、と可愛らしい音が鳴った。赤く染まった手をゆらりゆらりと弄んでいた彼女は、自分が空腹であったことをようやっと思いだしたようで、それまでの子供じみた微笑みの内に冷徹な食欲の鈍光を混じらせた。
 彼女はもはや呻くことさえ叶わぬ屍へ、そっと躰を押し当てた。溢れ出していた赤い水が、しだいに氷へと変わっていく。
 部屋の隅。私の座る場所まで冷気が伝わる。呼吸すらままならぬほどの寒さ。だが私は、この息苦しさを、ほの心地よく思った。同時に、心の底ではどす黒い嫉妬がわいていた。
 匕首が如き鋭い爪で、抱きしめた男の躰を刻み始める。削がれた肉は、まだ傷のついていない肉体の上に置かれた。血がぬらぬらと光る。つい先ほどまで肉から立ち上っていた湯気は、もはや名残すら見られなかった。
「わたし、決めているの」
「何をだい?」
 並べられた肉片を一枚口に運び、彼女はこの上なく幸福に満ちたかんばせを造った。私は胸に微かな痛みを覚える。
 彼女は十分に咀嚼し、喉を上下させてから、語りを続けた。
「いつの日か貴方が死んでしまったら、この身を貴方に被せて、抱きしめて、そしてそっと口づけをするの。誰にも触れさせたことのないこの唇を、貴方にあげる。そしてそれから、わたしは貴方を喰らうわ。指の先から少しずつ、冷たくなった貴方を噛み切り、咀嚼し、嚥下するの。きっとわたしは涙を流すわ。哀惜と罪悪と恍惚と恋慕から、とめどない氷の粒を落とすの。でも……後悔だけはしない。だってわたし、あなたに出会ってからこれまで、そしてこれからもずっと、貴方を喰らいたいと思い続けているのだもの」
 彼女は血に染まった指先で、己が唇をゆっくりとなぞった。赤黒色が色素の薄い唇にべっとりと塗られ、面妖な魅力が部屋全体に、暗雲が如く広がる。気づけば私は笑んでいた。にんまりと下卑た笑みを浮かべていた。
「でもね、貴方。だからって自殺をしてはいけないのよ。いんちきは駄目。あなたは与えられた生を全うしなければならないの。残酷な時の流れに歩調を合わせ、いつか行き止まりに見えるその日まで、どれだけ苦しくても、どれだけ立ち止まりたくても、歩み続けなければならないの」
 口角を吊り上げ、赤黒い唇の端から同じく血に染まった鋭い犬歯がのぞく。私はそんな彼女の薄ら冷たい微笑みに、ともすればオルガスムに達してしまいそうな激しい興奮を覚えた。
 彼女はそんな私の邪な気持ちを見透かしたのか、変な人、と嘲りか呆れかはたまた別の何かか、良く分からない色の感情を織り交ぜて呟いた。私はただ、無言を貫いた。
 彼女の瞳が、私のそれを射抜く。
 部屋の温度が見る間に下がっていく。
 このまま私を殺す気なのか。
 彼女にそんな気は毛頭ないと分かっていながらも、ふと期待してしまう自分がいた。浅ましい自分を呪いたくなった。
「貴方を喰らった後も、わたしは生き続けるわ」
 彼女は当たり前のように言う。
 そうだね、と私は同意の意を含んだ頷きを返した。
「そりゃあ最初は切ないでしょうけど、十年、二十年、もしくは百年や二百年たったら……あなたとの過去なんて夢の彼方に追いやられてしまう」
「――それでも良いよ」
 私は正直な気持ちを口にした。「君が私の事を忘れても、私は君の血肉として、ひっそりと生き続けているのだから」
「狂気じみてるわ」
「そうでなければ君と居られない」
「それもそうね」
 彼女は言うと、すっと視線を私から男の屍へと移し、血に汚れた右腕を再びその内側へ潜り込ませた。赤黒い光沢を放つ拳よりもやや大きめの肉を取り出す。それが心臓であることは、幾度となく彼女の食事を見守ってきた私には容易に理解できた。
 彼女は醜悪な臓物をしばらく愛おしげに眺め、そして歓喜に震えながら口に運んだ。水気を帯びた咀嚼音。荒い息遣い。私は目を瞑り、祈るような姿勢を取った。淀んだ嫉妬で気が狂いそうだった。
「泣かないで」
 彼女が言う。
「泣いてなんかないよ」
 私が言う。
「もうすぐ冬が終わるわ」
「暖かい季節がやって来るね」
 冷たく、切ない、雪の降る季節はもう終わる。温かな風と共に植物が活気づき、虫や動物が目を覚ます。春という名の――別れの合図。
「また、待っててくれるかしら?」
 臓物をむさぼりながら、彼女が小首をかしげた。分かっているだろうに。私は思いながら、当たり前だろう、と微笑みを返した。
「待つよ。冷たい風が吹き、世界の凍る季節を。ただ君だけを一途に想いながら」
「本当に?」
「嘘なんて吐かないさ」
 私の内にあるすべての優しさ。偽りのない真実の言。
 今すぐに彼女を抱きしめたい。凍えるほど冷たい彼女の躰と、この卑しくも熱い我が身をひたと合わせる。嗚呼、何と芳しい幻想。
 彼女を融かしながら……。
 我が身を殺しながら……。
 命を失っても良い。いや失うことで愛を叶えたい。
「君が私を喰らってくれる日を、ずっとずっと、待ち続けるさ……」
 いつの日か、私が死んでしまうとき。
 私の想いが――願いが成就するとき。
 そんな素敵な終わりを。
 愛を語るがごとく人を喰らう彼女を眺めながら、気長に待ち続けよう。
 狂おしい嫉妬を抑えながら、ひたすらに想い続けよう。
「さぁ、私に構わず、彼をお食べ」
 私の終の栖は、氷女(ひめ)である彼女と決まっているのである。

       

表紙
Tweet

Neetsha