Neetel Inside 文芸新都
表紙

かくも遅咲き短篇集
春過ぎて嗅ぐ冬の印象/つばき

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 おはよう、今朝も僕は君を憎む。

 弟の手記(と呼ぶべきなのか正確にはわからない)はそんな風に始まる。
 私はそれを弟の親しい友人から手に入れた。女の子だ。彼女がそれを私に渡したのは弟が死んでから半年経った頃だった。
 一つ年下だった弟は日曜日の朝に電車に轢かれて死んだ。
 冬の早朝だった。電車が近づくと素早く遮断機をくぐり抜け、踏み切りに飛び込んだ。本当に一瞬のことだったと車掌は言った。彼が思い切りブレーキレバーを引いた頃には弟は既に肉片と骨とになっていた。それは地面や踏切のあちこちにこびりつき、遠くの草むらにまで飛び散り、文字通り草の根を分けてかき集めなければならなかった。それを拾ったのはもちろん私たち家族ではない。けれど電車の遅延賠償金を払う必要があった。父親は額を教えてくれなかった。まるで嫌がらせのような死に方だと私は思ったけれど、勿論口に出すことはなかった。

 グレーの表紙のそっけないノートに、細いボールペンで引っかくような文字が罫線に沿ってに几帳面に並べられている。見覚えのある弟の文字。ページごとに短い文章だけが書かれていて、ノートのほとんどが余白だ。続きを書こうとするのにいつも途中で文章が息絶えてしまうみたいに。
 あるページにはこう書かれていた。
「いつか君の肉を犬に食わせるんだ。毎日そういう夢を見ている」
 こんな種類の憎悪が弟の内側に潜んでいたことを私は知らない。
 私は想像する。拾い集め切れなかった弟の肉を、たぶんどこかの野犬が食べただろうことを。

 どうして弟が自殺したのか私にはわからない。彼は私にないものを全部持っているように見えた。綺麗な顔だとか、明るい愛嬌のある態度だとか、何かしらの才能だとか。少し高い澄んだ声でいかにも楽しそうに笑う弟のことを会う人のほとんどが好きになったし、「純粋な子」だと目を細めた。
 弟はよく曲や詞を作り、ギターを弾いて歌っていた。学校で、駅前で、あらゆるところで自由に楽しそうに。それはもちろん世間中を驚かせるほどの出来ではなかったにせよ、確かに何か力のあるものだった。やわらかく静かで、そしてどこかで自分のために作られたものだと人に思わせるような。それを美しいハイトーンの声で静かに歌うのだ。白い肌とガラス玉みたいに光る丸い瞳でもって、細く長いととのった指先でギターを爪弾きながら、少しも気取らずにごく透明のままで。
 地方の小さな街では弟の存在はとても目立った。同級生や先生、あるいはまるで知らない人にまで、弟について何か言われることが多かった。弟目当てで私に近づいてくる人も居た。そのうちに私個人のつまらなさに飽いて離れていったけれど。「特別な人だね」、高校三年生のときのクラスメイトは言った。
 引き比べると私は会う人のほとんどになんの印象も残さない人間だった。愛嬌や華もなければ才能もない。友達も少なかった。唯一弟より優れていると思えたのは学校の成績だけだ。一通りの努力をしていれば上位の成績を維持することができた。弟はほとんど机に向かわなかったし、成績は人並みかそれより少し悪いくらいだった。でもそんなことは誰の目にも留まらなかった。むしろ私がいい成績を収めることは、なんとなく気の利かないことのような気さえした。優雅なパーティーに派手で趣味の悪い場違いなドレスを着てやってきた、貧しい家の娘みたいに。
 特別仲の悪い姉弟だったとは思わない。ただお互いに共通する部分がなかった。私が高校に進んだ頃からほとんど会話がなくなった。私の方が相手をひたすら避けていた。ずっと弟が怖かった。その透明な目で何もかもを見透かされているような気がしたからだ。自分の醜さも冷たさも。
 弟が死んだとき私は泣かなかった。今まで誰もが彼と自分を比べていたけれど、ようやくそこから解放されたのだと思った。やがて大学受験を迎え、なんの問題もなく地元の国立大学に合格した。両親はそれほど喜びもしなかった。弟の不在の悲しみがずっと家を覆っていた。居なくなってみて初めて、弟の存在がかろうじて家族を繋ぎとめていたことがわかった。父は以前よりも更に口数少なく気難しくなり、母は疲れきった様子でしょっちゅうため息をついていた。
 そして私は知った。弟の影響は恐らく一生消えることがないのだと。それは影のようにどこまでもついてきて振り切れない。影の色は死によってより深くなった。私は間違った生き残りだった。本当は私が死ぬべきだったのに、何かどこかで自分の踏むべきステップを踏み外したせいで弟がその割を食ったのだと、そう言って誰かが自分を糾弾しだすんじゃないかと怯えさえした。
 私はそこで初めて、自分が弟を憎んでいたことを悟った。
 たぶん彼はそれを知っていたのだと思う。
「誰も君の醜さを知らない。
 皮膚を一枚剥がしたなら、そこには腐った肉がある。でもそれはいつも隠されている。人の目には映らない。君はたくさんのものを心の中で蔑み、見下し、犯し、笑う。容易に憎み、憎むことで引き摺り下ろそうとする。僕は知っている。僕だけはそれを知っている」
 そう確かに、犬に食われるべきだったのは私の方なのだ。


「途上国支援の広告に顔立ちの整った難民の子どもが選ばれることを鼻で笑う。ヒキタサユリはそういう女だ。」

 雑なつくりの大学の建物は風格など欠片も備えておらず、ただ汚くて古いだけで、這っている蔦さえ単に壁一面にへばりつく邪魔な植物にしか見えない。受験で訪れて一目見たときから私はこの建物が気に入らなかったし、今では憎んですらいる。コンクリートの壁はひび割れしみが目立ち、薄汚れた古いリノリウムの廊下が曇りの日のくすんだ光をたたえて潤んでいる。
 その澱んだ光の海にヒキタサユリは立っていた。長くまっすぐな黒髪、無防備にさらされた額、意志の強さを湛えた丸い瞳。小柄な身体は衣替えしたばかりの夏の白いセーラー服に包まれている。膝丈のプリーツスカートに濃い茶色のローファー。弟が通っていた高校のものだ。Tシャツ姿の学生達が通り過ぎていく中、彼女が講義棟の出口付近で立っている姿はまるで雨上がりの陽だまりのように目立っていた。
「お姉さん」
 私を見つけたヒキタサユリは、その芯の通った高い声で呼ぶ。
 お姉さんなんて呼ばれる筋合いはない。そう思いながらも私は何も言えない。
「ミノル君のノート、読みましたか」
 ヒキタサユリの声は周囲のざわめきを越えてまっすぐに届く。私はしぶしぶ頷いた。無視して素通りできればいいのに、出来ない自分の弱さに苛々する。
 彼女は弟と同じ側の人間だ。綺麗で、強くて、自分の意志を持ちそれを押し通すことに違和感を覚えない向こう側の人。私は自分の服装を後悔する。せめてもっと気の利いた格好をしていればよかったのに。でもどのみち、持っている服なんてこれとどれも似たようなものばかりなのだけど。
「……途中までだけど」
 付け加える声が掠れた。人と話すのに慣れていないせいだ。
「どうして全部読まないんですか」
 几帳面な喋り方。きっと毎年のように委員長かなにかをしているのだろう。人に何かを問いかけることに慣れているのだ。
 あなたには関係ない、と言えたらいいのに。私は下らない感じに口ごもってしまう。どうしてこの子はそんなに私にあのノートを読ませようとしているのだろう。そう考えていたのを見透かしたかのようにヒキタサユリは続けた。
「私たちはミノル君のことを何もわかってなかったんです。ノートを読めばそれがわかるはずです。私はそれをご家族の方に理解してもらいたいんです。どうして彼がああいう行動に出たのか、知る権利があると思うから」
「その場合は知る義務、と言うべきじゃないの」
 ようやく口から言葉が滑り出た。かすれてはいたけれど。こういう皮肉のときだけどうにか喋ることができる。
「……そうですね。義務だなんて私が言うのはおこがましいだろうけど」
 彼女は言う。もう十分おこがましいから心配ないわよ。それは口には出さない。
「ただ、ミノル君は自分のことを誰かに知らせたかったからそのノートを書いていたんだと思う。そうでなければきっと死ぬ前に処分していくはずです」
 そう言って彼女は私を一瞬ちらりと見た。なにか意志のこもった視線だった。
「また来ます。読んでください。逃げないで」
 どうしてこの女の子はこんな余計で失礼なことをするのだろう。心の奥底がどす黒く澱むのがわかった。傲慢じゃないか。逃げないで、なんて。どうやったらそんな風に何も疑わずに自分のすることを信じていられるわけ。
 けれどやはり私は何も言えなかった。ヒキタサユリは頭を一度軽く下げてから帰った。その後姿が視界から消えてからようやく、まだ高校の授業が終わる時間ではないことに気がついた。

 ヒキタサユリはそのノートを弟の机の中から見つけたのだという。放課後の教室で、弟が一人きりで机に向かい何かを書き留めているのを彼女は時々見かけていた。彼女は弟の死んだその日のうちに訃報を知り、そして翌日の月曜日の早朝、誰よりも早く教室に来て弟の机からそのノートを見つけてそっと鞄にしまいこんだ。
 なにその陶酔的で独り善がりなドラマ。吐き気がする。
 彼らの住んでいる世界は遠い。好き勝手に楽しそうにしていればいいと思う。ただ私に関わらないでほしい。死んで自己完結するのだって勝手だ。でもそのナルシズムを私に押し付けないでほしい。余計なことばかりだ。全部が。何もかもが。

「人の好意や関心は麻薬だ。すがりたくなる。でも本当に求めているものの形は別にある。麻薬は欲求のイミテーションに過ぎない。ただしひどく出来のいいイミテーション。本当に欲しかったものを、強い衝動で打ち消してしまう。」
「ごく普通の恋愛、求めること、それがあらかじめ無理ならば仕方ない。ではどうやって代替するか。わからない。大切にしたいだけだ。それがどうしてこんなに難しいのだろう。」
「一番大切にする方法。触れないこと。息を潜めて、ほんのわずか感じるか感じないほどの距離で手を這わせて、お互いを感じること。触れれば壊れてしまうものごとを永遠にするしかない。僕はそれを知った。それは恋だろうか。そう呼ぶには、あまりにも薄く張り詰めすぎている。」
「心臓の薄皮がゆっくりと剥がされていくみたいだ。胸が痛い。
 胸の奥深くの内側が痛い。」

 帰りの電車の中でノートを開く。部屋に置いておくのが怖くてノートは常に持ち歩いていた。なぜか両親に見られてはいけないもののような気がしていた。
 読んでいる側を随分と気恥ずかしくさせる日記だった。大した純愛の様子が連綿と綴られている。相手はヒキタサユリだったのだろうか。彼女自身はそう思っていなかったみたいだけれど。
 触れないこと、そうね、そうかもしれない。それはわかると思う。誰もが簡単に触れたがる。寧ろ触れたくてどうしようもない。相手に触るために恋愛感情を持ち出してくる。麻薬なのだろう、簡単に夢中になってしまう。大学に入ってより露骨になったそういうものにいい加減うんざりしていた。
 はっきりしているのは、私に触れられないなんて、そんなこと言いそうな人間はこの世に一人も居ないことだけだ。
 ページをめくると、そこで突然文章が変化した。それまで短い文章だけが余白に浮かんでいたのが、ページ全体が細かな文字で埋め尽くされている。思わずノートを少し閉じて、埋もれるように顔を近づけた。

「それをするために携帯電話を使った。探せばいくらでもそういう場はあった。お金をくれるというので断った。僕は別に金銭が欲しいわけじゃない。では何が欲しいのか。触れることか。下らない。そう思いながらも僕の身体は求めている。触れることと、触れられることと、どこもかしこもくまなく舐め回され、引きずられ、呑み込まれ、最終的には―― 射精すること。そう、射精。最低の気分になるあの瞬間。でも身体は戦慄するほどそれを求めている。震え、血が沸き、何かを食い破りたくなる、どうしてこんなに狂おしいものなのか、自分の内側の圧倒的で破壊的な衝動に心が冷えるのに、どうしても理性では殺せない。
 待ち合わせは土曜日だった。午後一番の明るい時間帯だというのをなんとなく不思議に思ったけれど、夜遅くても確かに困る。家族に怪しまれてしまう。きっと向こうも似たようなものなのだろう。だから不審に思われない時間帯に設定する。人々が活動し、世界が正常に健全に代謝を進めている祝祭的な週末の午後。呪われるためにはもっともふさわしい時間。
 背徳感のようなものは始めからずっとあった。でもそれに興奮することはなかった。興奮は純粋に身体的な刺激への関心で占められていた。寧ろ心は冷えていた。自分の汚さに吐き気がした。段取りをつけるための相手との下卑たやり取りの中で、無垢や無知を装おうとする自分の精神に今更ながら慄然とした。この期に及んでまだ汚れていないふりをして相手の歓心を得ようとするのか。そのチープな筋書きに否応なく本能で従う自分。
 汚いな。汚い。間接的にあの人を汚している。でも僕は喜んでいた。相手の男の手のひらが身体を這って行く事実に、拒絶を示しながらそれを期待して待ち構えていた。拒絶さえそこでは装飾になる。相手はごく普通の人だった。妻子がいるのだと朗らかに語るのにどういう反応をすればいいのかわからなかった。確かにその辺りを子どもと手を繋いで歩いていても何もおかしくないような風貌だった。でもその手はとても器用で、あらゆる場所の秘密の反応を知り尽くしていて、僕を随分うまく扱った。勿論相手が使ったのは手だけではなかったが。
 得たものはなんだろう。失ったものはなんだろう。今の僕にはどちらもわからない。はっきりしているのは、僕はもう二度と以前までの場所には戻れないということだ。あの人に触れる資格も失った。でもそれでいい。それでちょうどいい。触れれば溶けて壊れてしまう。壊してしまうくらいなら最初から触れないことを選びたい。
 それに深く傷つくのは間違いなんだろう。自分で選んだことだ。帰り道を歩きながら心は奇妙に平坦だった。単純なことだ、と思った。他人の前での射精。間違った、捻じ曲がった在り方のセックス。いずれいつかはやってくるはずだったもの。自分にこそふさわしいもの」

 行為の告白の後は、ただ淡々と記録が続いていった。何月何日にどんな男と会ったのか。何時に帰宅したのか。行為についての具体的な詳細はない。ほぼ毎週末弟は誰かと会っていた。同じ相手がしばらく続くこともあれば、一回きりのこともあった。
 電車から降りる前にノートを鞄の底にしまいこむ。家に帰ると両親は不在だった。そして弟が死んでから初めて、私は彼の部屋に忍び込んだ。六畳の小さな部屋は両親によって表面上は整理されていたが、何一つ処分されていないはずだった。これ以上死の影を、欠落を深くしないために。でも何もかもが以前通りであるほど欠落は強調されるのに。
 机の抽斗には携帯電話が入っていた。放電したそれを、充電器を見つけてつなぎ、電源を入れる。やがてデフォルトのそっけない時間表示だけの待ち受け画面が現れる。メールを探す。けれどそこにはメールの一通もない。当然か。処分していかないはずがない。設定を見ると私が知っている弟のアドレスではなかった。きっともう誰からもメールが届かないように変更したのだろう。
 抽斗の中身はもちろん、その裏側まで隈なく見た。それからベッドの下にも頭をつっこんで「それらしい証拠」を探した。自分の行為が汚いものであることはわかっていた。背徳感もあった。それでも止められなかった。自分の知っている弟と、ノートに描かれた弟を結びつける実感が欲しかった。そうすれば何かが解消されそうな気がしたのだ。何かはわからない。ただ、私の奥底にある解かれるべき何かだ。
 けれど彼の部屋からは何も見つからなかった。


「弟が……ゲイだったことをヒキタさんは知っていたの?」
 公園を歩くヒキタサユリは相変わらず眩しいような白い半袖のセーラー服に身を包んでいた。平日のまだ早い時間だったが、今日も彼女はそんな前提を始めから完全に無視していた。夏がやってくる少し手前の季節、風は優しく木々の緑は鮮やかで、子ども達があちこちを走り回っている。まだ暑いというほどではないけれど風が吹くとここちよい。
 私の質問に彼女は静かに首を振った。それからしばらく無言で歩いた後、公園の端まで来て植え込みの傍で立ち止まってから口を開いた。
「知りませんでした。その事実を飲み込むまでに半年かかりました。本来ならばすぐにご家族にノートをお渡しするのが当然なのだと思います。私がノートを持っている権利なんて欠片もないのだから。けれど、迷いました。その……相手と会うときにはもちろん偽名を使っていただろうし、私がこれを処分してしまえば、ミノル君の行為のことは誰も知らずに済む。きっとミノル君は他になんの証拠も残さないようにしていたはずです。彼はそういう人だから」
 彼女は淀みない口調で淡々と話す。その平坦な声が、夏の気配の滲む軽い空気の底に沈んでいくように思えた。
「でも出来なかったんです。きっとこのノートが遺されたのには意味がある。ノートを処分すれば、私はもう一度ミノル君を殺してしまうことになる。彼が自分自身を殺したのと同じ理由で、私がミノル君を本当にこの世から消滅させてしまう。私の言っている意味はわかりますか?」
 彼女は私の答えを求めてこちらを見ていた。その瞳は不思議なくらい虚ろだった。冷めているわけでもなく、諦めたわけでもなく、ただ思考を繰り返し反芻し、仮説を叩き伸ばし否定を消耗させた果てにようやく思考の及ばない場所にたどりついた人だけがする、何かに疲れたような虚ろさだった。
「ヒキタさんは弟のことが好きだったの」
 頷くこともできない私は、耐え切れずに彼女から目をそらして訊いた。視界の端で彼女が深く頷くのが見えた。それは質問ではなく当然の物事の確認に過ぎないみたいだ。
「愛していました。独りよがり一方的でも。誰よりも強く。それこそ、怖くて触れられないくらいに。私にとって彼はずっと昔から特別な存在だった。他の誰かでは絶対に代わりにはなれない。だから自分の内側で静かに大事にしてきたんです。“雨上がりの道で濡れた落ち葉を避けて歩くように”」
 彼女はそう言ってこちらを見た。何か意思のこもった、問いを含んだ視線だった。私が戸惑っていると彼女が口を開いた。
「ミノル君の歌の一節です」
 私は首を振る。
「弟の歌のことはほとんど知らない」
 聴こうとしてこなかった。時折断片的に耳にするギターの音色や歌声に怯えた。周りがそれを賞賛すればするほど、自分がその価値を認めてしまうのが怖くなっていた。意地のようなものだった。
 ヒキタサユリはそれについて追及せずに続ける。
「でもミノル君は絶対に私の気持ちに答えてくれなかった。今では、彼が誰に恋をしていたのかもわかっています。それが届かないものだったことも」
「このノートを見ても気持ちは変わらなかったの?」
 ヒキタサユリはもう一度頷いた。
「むしろ以前よりもずっと強くミノル君を愛しています」
 揺ぎ無い口調だった。
 私は目の前のせいぜい十七、八の女の子を改めて見た。彼女はどうしようもなく真剣だった。綺麗で、強くて、自分の意志を持ちそれを押し通すことに違和感を覚えない向こう側の人だった。そしてその影はひどく冷えていた。
 思わず息を呑んだ。
「私が見ていた弟は……こんな風じゃなかった。こんな弟のことを私は知らない。週末に何をしていたのか、家に居るのかどうかすら気にしたこともなかった。だから私にはノートの内容がうまく飲み込めない」
「それが事実かどうかは問題ではないと思います」
 ヒキタサユリはすぐに答える。
「ただ、そういう種類の憎しみがミノル君の中にあった。それがわかって私はますますミノル君を理解できた。ずっと近しく思うようになった。それはきっと私の中にあるものと同じだから」
 ヒキタサユリはごく静かにそう言った。
 突然、今が夏の盛りではなくて良かったと思った。蝉が鳴いていなくてよかった。背中を汗が伝っていなくて良かった。もしそうだったならきっともっと寒かっただろう。空気が熱く濃密に命を宿すほど、肌が強く焼かれるほど、私はきっとこの寒さを忘れられなくなっただろう。なぜかそんなことを思った。
 けれどヒキタサユリの骨には既にそういう寒さが染み付いてしまったかもしれない。
 私はヒキタサユリという人物をほとんど知らない。彼女がどうして弟を愛するようになったのか、それがどのくらいの強さを持つ意志なのかもわからない。そしてきっと永遠に理解できないんだろうという気がした。
 私ではそこに行けない。
「ノートの最後のページを読みましたか?」
 その問いに私は頷く。
「それでも結局、弟がどうして死を選んだのか私にはわからなかった」
 彼女も頷いた。それから少しだけ間を置く。続く言葉のために抑制された沈黙。
「なにか理由があったとして、それは明確に言葉に出来るようなものではないんだと思います。自分で首を絞めながらしか生きられない人は、いつかどこかで臨界点を迎えてしまう。昔からミノル君の傍にはいつもなにかの影がありました。彼はいつも優しい世界のことを歌っていた。ささやかで、至らなくて、でも人を脅かさない静かな優しさについて。それは嘘から生まれたものではなかったと思います。偽りだったならあれだけ人を惹きつけることはできないから。でもささやかな光が強く輝いて見える瞳ほど、影もまた強く濃く焼き付けられてしまう」
 彼女の顔の上に木々の影が落ちていた。まだまろやかさを帯びた初夏の手前の午後、日差しはそれほど影を色づかせてはいない。風が吹くたび、木々の薄い影が彼女の表情の上に不思議にざわめく陰影を添えていた。
「私は少しだけ喜んでいるんです。ミノル君の歌の裏側を覗き見ることを許されたから。その世界がきちんと補完されていることを見届けられたから。どちらも本当のミノル君なのだということが私にはわかるし、きっとそれがわかるからこそ知ることを許されたのだと思うんです。……もちろん、ご家族を除いてですが」
 彼女はそう言って少しだけ唇の端で笑った。笑いには見えなくても、そう見えるように意図された表情だった。
「ノートの処分はお姉さんにお任せします」
 私は頷いた。
 そこで唐突に何かが終わった。彼女は一礼する。私は立ち尽くしたままその立ち去る後姿を見送った。この先彼女とすれ違うことくらいはあったとしても、きっともう話すことはないのだろう。
 彼女の長くまっすぐな黒髪がセーラー服の襟を蔦のように這っているのが、まるでなにかの決意の残骸のように見えた。そしてそれがどこまで生き延びるものなのかを私が知ることはない。


「生き延びていくために必要なのは、きっと、融点ギリギリにとどまり続けることだ。凝り固まることもなく、けれど溶けてほどけてしまうこともなく。生きていく才能。たぶん僕にはそれがない。異様な寒気と異様なほてりとを繰り返し続けている。零度地点にいることを選びたいのに。そこでしか存在し得ない静謐な空気を吸い続けていたいのに。生きて肉がある限り僕は揺れる。そのたび醜さを纏っていく。どうしようもなく。取り返しのつかないかたちで」

 ノートの最後のページを開いたまま弟の机に置いた。それをどうするべきなのか私は迷っていた。いくら遺書のようなものだとはいえ、これを両親に見せることにどれくらいの意味があるのだろう。彼らが知ったところでものごとが少しでも良くなることはないように思えた。
 それでも捨ててしまうのも怖い。それは正しくないことのような気がする。
 私はなにげなくノートの上に指を置き、アイボリーの紙に並んだその几帳面な文字を指でなぞる。
「零度地点でいることを選びたいのに」
 それはどこだろう。私には見えない。ヒキタサユリには見えていたのだろうか。たぶん見えていたのだろう。
 彼らにしかわからない真剣な世界。
 真剣な愛情、懊悩。
 急に、ノートに触れている指先から自分が冷えていくような気がした。そして同時に気がつく。つまり私は今まで興奮していたのだ。弟を含んだ、自分から遠い世界に触れて。強い光と濃い影の鮮やかな見慣れない世界を覗き見て。
 馬鹿みたいだ。
 醒める。気づいてしまう。ノートを捨てたくないのは、それが正しくないからじゃない。私は単に責任が怖いのだ。これを消滅させることで負ってしまう何かがわずらわしい。手を汚したくない。それだけだ。ヒキタサユリが全てを一人で抱え込んでいてくれればよかったのに。そう思う私は凡人で俗物だ。そしてそんなことは今更あらためて確認するまでもないくらいわかりきったことだ。
 ノートに含まれているのは憎しみだとヒキタサユリは言った。でも私には、そこにあるのは憎しみというよりも、それを超えた希求のように思えた。何かをこいねがい続けるその一途さと、身の程知らずの過剰な自意識に、私はいつでも冷やされる。だって私ではそちら側にいけないから。そこは私のための場所ではないから。そのために死ぬだなんて私には出来ないから。
 開いたままのノートを手に取る。両端をつまむ。指先に力をこめて、軽く引く。中央の綴じ目が僅かに広がる。
 弟の世界の崩壊。
 ヒキタサユリの言う本当の殺人、消滅。
 そんなナルシズムなんかうんざりだ。
 そう思うのに。
 指先にそれ以上の力が入らない。自分の息が震えているのに気がついた。心臓がひどく跳ねている。腕も震え始めた。身体が熱い。血液が勢いよく身体中を巡っていく、その音まで聞こえそうだ。泣きそうな自分が馬鹿みたいだと思う。でも身体の動揺は収まらない。なにかが、ノートを引き裂いてしまうことを強く拒んでいる。私の内側のなにかが。
 私は息を吐ききった。
 手からノートが滑り、机の角に当たり音を立てて開いたまま床に落ちる。
 拾おうとかがみ、そのまま床に座り込んだときには、私はもう泣いていた。頬を熱い雫が伝って床にこぼれ落ちる。声にならない叫びを上げるようにして泣いた。その意味もわからないまま脳の内側で言葉がひらめき続けている。もういいよ。いいんだ。わかった。死んでいいよ。死んでよかったんだ。それだけを繰り返していた。喉が嗄れて痛むまで。全ての思考が消滅するまで。

     



製作過程について。

11/8
お題決定・〆切設定。今回は「恋愛物にはしない」ということだけをなんとなく決める。

11/12
「死んだ弟を憎む姉」を書いてみよう、とふと思いつく。0℃の使い方を全然考えていない。なんか観念的な使い方でなんとかなるだろう、とゆるく考えている。

11/18 
「今自分で書いているものが終わってからしか手をつけたくない」と某所で発言し、「フラグ立ってますよ」とつっこまれる。このときはフラグを回収する気なんてさらさらありませんでした。

11/24
「この取り組みの遅さはもう速筆チャレンジになってる」とか自分で言っちゃう。でもまだ書いてない。

11/29
 ようやく書き始める。フラグはへし折らなければ。30分ちょっと、およそ1300字。

11/30
 読み返し推敲しながら書き加える。500字書いて750字くらい削る。

-書いたり削ったり進まなくて推敲したり。以下主要部分のみ書き出し。

12/5
「姉さんは0℃だよ」とストレートな台詞をミノル君に言わせればお題消化、と思っていたけれど、ここに来て実際に言わせてみると違和感がひどい。のですっぱり諦めてこの先どこかで出てくることを期待する。
 回想部分でずっと停滞していたけれどやっと新しい展開が見えてきた。ヒキタサユリさんが急に出てくる。冒頭で脈絡なくノートを渡していた「女の子」はこの人だったらしい。あれ、弟君は…そういう人だったのか。今回はセックスだのゲイだのなしでいけると思ってたのに安易で嫌だな。計4468字。この頃には勿論懺悔を覚悟。

12/7 主催者さんに「遅刻しますね」って先に言う。

12/8 タイトルがなんとなく決まる。結末、というか方向性のようなものが(締切日になってようやく)見える。

12/13
 9100字。あとは最後の部分だけ。0℃はどうにか使えそうな流れ。結末もなんとなく決まっているのだけど、ぎりぎりまで泳がせようといったん放り投げておいて推敲。薄い部分を厚くしたり、逆に過剰な部分を削いだり、句点や助詞を調整してテンポを整えたり、比喩を加えて間を作ったりする。情景描写を挟んだり接続詞を選びなおしたり。
 これは書き出しからほぼ毎日やっているけれど、これだけ繰り返していても直す部分が目に付くのが不思議。そして徐々にテキストが引き締まって、推敲に「埋まる」感じが強まっていく(※飽くまで主観)。この段階での推敲が一番の大好物。この日は二時くらいに寝落ち。

12/15
 夜、ようやく脱稿。10664字。前日は「ノートを引き裂くラスト」の手前まで書いていた。そこで終わるんだろうと思っていたけれど、朝起きて推敲して、日中もやもやして、やっぱり違う気がして加筆。唐突過ぎるのかもしれないけど、やっぱり体温は戻ってくるべきだという気がするのでこれでいいと思う。
 今日がデッドラインとのことだったけれど「明日でも大丈夫ですよ」という言葉に存分に甘えて明日まで寝かせることにする。だってやっぱり書いてすぐ渡すのは怖い。みんなちゃんと〆切を守っているというのに。

12/16
 朝と仕事帰りに最後の推敲。10684字。
 執筆当初からここまでずっと、上原ひろみの「Haze」を聴いていました。

総評:
 遅れに遅れました。
 一時期は「自分の文章なんかに時間をかけさせてはいけない」という強迫観念から「どれだけ短く簡潔にするか」にこだわっていたのもあって、某先生からツイッターにて「どのくらい削るのかを記録で見てみたい。半分くらい削ってて自分でその量にびっくりしてそう」とまるで自分のいびきにびっくりして起きる犬みたいな感じの扱いを受けたのですが、改めて記録してみると最近はそれほど削っていないようです。開き直ったんですね。むしろ細かい部分を拾いすぎず進むように意識して書いて、あとから厚みを与えていく箇所の方がずっと多かった気がします。
 私は取り組みが遅い+筆が遅い、という最悪の複合タイプの遅筆なのだということをはっきり自覚させてくれる企画でした。かくも遅咲き。咲けていればまだ救いようがあるけれど正直自信はまったくないです。参加者さん、表紙絵とサムネを下さったハトヤ先生、それからまとめてくださったところてん先生、素敵な企画をありがとうございました。

       

表紙

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