Neetel Inside 文芸新都
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道化師達と長い夜
工場の煙が見える家

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 私の家は大きな工場の近くにあって、私の部屋の窓からはその大きな煙突が見えた。
 小さな頃から見ているからかも知れないが、私はその煙突からのぼる煙を眺めるのが好きだった。

 ある日の事。
 私がいつものようにぼうっと煙突を眺めていると、何かがコンコンと窓をたたいた。それは白く、細長い棒のようだ。
 私は立ち上がり、恐る恐る窓の外を見た。そこには一人の薄汚い老人が立っていた。
「もしもし、誰かいませんかね」
 どうやら老人は目が見えないらしい。
「あのう」
 私が声をかけると、老人は見えない目をこちらに向け、「おお、お嬢さん? ひとつ教えてほしいことがあるんだが……いいかな?」と、非常にゆったりとした口調で話しかけてきた。
「あ、はい、何でしょう」私は、窓は開けず、そのまま聞いた。
「いやいや、そんなに難しい事じゃない。私はね、あの大きな工場の大きな煙突から、今日も煙がのぼっているか知りたいだけなんだ」老人の声はさっき以上に優しいものだった。
 私はチラリと煙突を見てから、
「はい。今日も煙突からは煙がのぼっています」と、答えた。
 老人はそれを聞くと、何故だか嬉しそうに「そうかい、そうかい」と、呟いた。そして、「ありがとう。驚かせてすまなかったね」と言って去っていった。
 私はそれをじっと見送りながら、頭の中では様々な想像をめぐらせていた。
 老人の杖に付いていたのだろう、黒っぽい土が窓を少し汚していた。

 それから、老人は毎日やってくるようになった。
 決まった時間にくるわけではなく、夕方くる事もあれば、朝早くの事もあった。
 私は窓の外を眺めながら、あの白い杖が顔を出すのを心待ちにしていた。
 老人の質問はいつも同じで「今日も煙はのぼっているか」。
 工場に休みは無いらしく、私の返事もいつも「はい、今日も煙突からは煙がのぼっています」だった。
 私は老人に、どうして毎日そんなことを聞くのかと、尋ねることはしなかった。
 何故そんな事を聞くのか、理由は知りたかったけど、それよりその『何故』を頭の中で膨らませていく方がずっと楽しかった。それは、この部屋から自分の意思では出られない私には、めったに訪れない『非日常』だったからだ。

 しかし、そんな非日常だって、一月も続けば飽きてくる。
 そこで私はついに老人に、何故そんな事を毎日わざわざ聞きに来るのかと、尋ねてみる事にした。
 その日、老人は夕方に訪れた。
 いつも通り、白い杖がコンコンと窓をたたく。
 私は初めて窓を開けて応えた、
「こんにちは、おじいさん」
 老人は少し驚いたのか、一歩後ろに下がってから、「あ、ああ、こんにちは、お嬢さん」と、言った。
 私は老人より先に質問せねばと思い、挨拶も最後まで聞かずに尋ねた。
「おじいさん、ねぇ、おじいさんはどうして毎日、あの工場の煙突から煙がのぼっているか、なんてききにくるの?」
 老人は見えない目を大きく見開いてこっちを見ている。
 私はどきどきしている胸を落ち着かせようと、ひとつ深呼吸をした。
 いくらかの沈黙の後、いったいどんな答えが返ってくるのかと待つ私に、老人は優しい声で言った。
「おや、言ってなかったかねぇ。いや、実は私は、昔あの工場の経営者だったんだよ。しかし、まぁ色々あって手放さなくてはいけなくなってね。それからほかの街に引っ越してしまったんだが、先月何十年ぶりかに帰ってきてね。それであの工場はまだあるのか気になってお嬢さんの部屋の窓をたたいたってわけさ」
 老人が話し終わるのを聞いて、私は無言で窓を閉じた。
 その答えは私を満足させるものではなかった。
 『もしかして宇宙人なんじゃないか?』くらい、突飛なことを考えていた自分が恥ずかしくなったのもあった。
 窓の外では老人が何か叫んでいたが、私は応えなかった。
 しばらくすると、辺りはまた静けさを取り戻した。
 老人はそれきりこなくなってしまった。

 それから数日後の新聞に、近所の公園で浮浪者が死んでいるという記事が載っていた。
 死因は未だ不明で、自殺か、病死か、他殺の可能性もあるという。
 その老人の特徴は盲目で、白い杖を手に持っていたそうだ。

 今日も工場の大きな煙突からは煙がのぼっている。

 きっと、それは、彼からはよく見えているはずだ。

       

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