Neetel Inside ニートノベル
表紙

レイプレイプレイプ!
eps7. 死すべきは

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 横濱、カイの許へ向かうキョウの道程は、彼女の予想よりはるかに困難を極めた。
 円角寺を出てから丸一日以上。カイ達とは異なり、戦闘の心得が全くないキョウは、道中で式者の気配を感じる度に大きく回り道をしなければならなかった。横濱はホウキの屋敷周辺こそ式者の姿が見えないものの、その一帯を囲むようにして式者がうろついていた。
 その包囲網をかいくぐり、ようやくホウキの屋敷まであと数百メートルと迫った所だった。ようやく訪れた息つく間、胸を撫で下ろそうとしたその直後に、それは彼女の視線を釘付けにした。
「ッ……!」
 視界に入った人の姿を見た途端、たまらず舌を打ちそうになった。慌てて口を噤み、できるだけ気配を殺して物陰に身を隠す。
 位相のずれた空間は式者と妖魔しかいない。しからば見かける人は即ち式者であり、彼女にとって告死のそれ以外の何物でもなかった。
 閑散とした細い抜け道に、その女は真上の空を見上げるようにして突っ立っていた。視界に入るほどの距離にいながら、彼女がキョウの姿をみとめなかったのはそのためだ。
 目を引いたのは、この街には不釣り合いなその衣装。黒衣の修道着に、白色のベール。首に掛かる銀の鎖の先には、その体に不相応なほど大きなロザリオ。なめらかな光沢を持った金の髪に、東洋人とはかけ離れた深い彫りの顔立ち。瞳は緑で、肌は不自然と思えるほどに白い。骨格は日本人よりややがっしりしていて、悩ましい曲線が修道着の上からでもよく見て取れた。胸回りは特に顕著だ。
 左手に、これまた彼女の体躯には不釣り合いな大きなジュラルミンケースを持っている。それがガタンと、大きな音を立てて、地に落ちた。
 それが合図だった。
「チャオ」
 朗々とした声だった。聞いたこともない異国の発音も、はっきりとキョウの耳に残るほどに。
 天上を見ていた彼女の視線が、まっすぐにキョウへと向けられた。
「こっちの淫魔は初めて見るね」
「チッ……!」
 話しかけられた時には、今度こそ舌打ちをして駆けだしていた。意識も向いていなかった段階から、数瞬で妖魔の識別まで終えられていた。式者の中でも格は中の上以上。下の下の式者にも及ばぬキョウには逃走以外の選択肢などあるはずもなかった。
(一旦引いて周り道だな。屋敷へのルートはいくつかあるし、できることなんざ時間稼ぎくらい……。辺りをうろついてる妖魔がちょっかいでもだしゃあいんだけど)
 通りを全力で後退しながら、キョウは後ろを振り返った。
 修道着の式者――シスターが、大口径の拳銃を構えていた。
 思考より早く体が沈んだ。
 一拍、無音の時間。
 その刹那、鉄塊が打ち付けられたような爆発音。
 後にキョウの背中の空気がビリビリ震えた。
 銃弾が直撃した民家の壁に、人がすっぽり収まりそうな穴が空いていた。
(銃撃強化、くそっ……! どこぞの巫女といい、最近の聖職者はやたらと近代兵器を持ち歩きやがって節操がねぇなあ!!)
 崩れた体勢を地面に押しつけた手で立て直し、キョウは式者を睨み付けた。
「Siii! やっぱりデザートイーグルの撃ち心地は最高ぅ最高ぅ!!」
 恍惚の笑みを浮かべ、シスターは叫ぶ。
「はっ!? 唯一神信仰に加えてトリガーハッピーまで併発してんのか? さすがのキリスト様も救えねぇだろうさ……!」
 挑発しておいて弾丸を無駄遣いさせられれば上等、とキョウは吐き捨てた。上位の式者から、単純に逃げ切れるほど甘くないことを、彼女はよく理解している。
「お生憎様。信仰するものは暴力だけよ?」
 返答を皮切りに銃撃が二発。マグナム弾のリコイルショックなどまるで感じさせない、極めて正確な射撃を、すんでのところで回避した。道路にめり込んだ銃弾が、衝撃波を上げてクレーターを作る。ほんの僅かでも触れれば、体がバラバラになるほどの威力。認識するほどに、体を巡る血が冷えていくような錯覚を覚えた。
「その割りには静止目標に対する狙いだねぇ! 未熟未熟。って、デカパイだけが取り柄の白ブタちゃんにはあんまり難しいこと言ってもわからない?」
「東洋の女はもっと淑やかな言葉使いをしないとダメじゃないの。首から下を吹き飛ばされて黙らせないと」
「やってみな!!」
 格上の式者と知りながら、キョウは手の平を返し、思い切り中指を立てて見せた。
 お返しは銃弾四連射。
(っぶな……!)
 初弾以外はまともに照準されていない銃撃。一発目をかろうじてかわし、角を曲がって射角を逃れると、束の間の安全地帯に――、
「――あ……?」                 、、、、、、、、、、
 直線的な射角から逃れた、そんな安堵を嘲笑うようにそれは投擲されていた。手榴弾。爆片を撒き散らす殺傷兵器から、彼女を守る死角などない。
 頭部を守って伏せた。ほかに出来ることはない。最善の選択肢。
 爆音が響いた瞬間、打ち付けられる鋼の魔力片。脚に突き刺さり、その組織を引きちぎる。
「ぐぅあっ!!」
 たまらず呻いた。ズタズタに引き裂かれた脚の筋肉から、どくどくと血液が溢れだしている。
(動脈までは切られてないみたいけど)
 考えるまでもなく走ることなどできそうになかった。
(……まずいな……)
 コツ、コツ、コツ、とシスターの硬い足音が近づいてくる。
(考えろ……考えろ……考えろ……まだ……まだ死ぬわけには……)
 動くことはおろか、立ち上がることさえ出来ない状態で、キョウの手は、ふとその髪留めをさぐりあてた。
(かんざし……)
 角の向こうで、足音と一緒にマガジンを装填する音が聞こえた。
 紅のかんざしを頭から引き抜き、それにありったけの魔力を込めた。そんなことをするのは初めてだった。カイがいないのに、差し迫った死も。

(私は一人で死ぬのか……?)
 応えを求めぬ自問が、不吉に脳裏過ぎった。

 かんざしを持った腕を首の後ろまで引く。
 敵の迫り来る交差点の角を見据えて。
 鞭でも振るうかのように、その腕を思い切りしならせた。
 カツと高い靴音とともに、そのシスターの足が見えた。
 全力の投擲はその一瞬。指からかんざしの感触が離れた瞬間、キョウは奇妙な感覚を覚えた。殺せる、という不可思議な全能感だった。
 ご丁寧にもジュラルミンケースまで運んできたシスターが、その身をキョウの視界にさらけ出した時、その眼前に紅の凶器。
 それを、
「おっと」
 音もなく、まるで挨拶でもされたかのように自然と二本の指で受け止めていた。
(――え?)
「返すわ」
 手を返し、手首のスナップだけで返されたかんざしが、キョウの手の甲を射抜いた。
「ふぎぅ……!!?」
 麻痺し始めていた脚の激痛、その代わりとも言わんばかりの激しい痛撃が襲った。
 瞳を白黒させ、キョウは自身に向けられた漆黒の銃口を見つめた。
「死ぬ……のか? こんな……あっけなく……?」
「そういうものよ」
 冷たいというより、静かなだけのシスターの声が、彼女に死という現実を直感敵に理解させた。
 ぼやけかけた焦点が定まったのは、シスターがトリガーに手をかけた直後だった。
 見覚えのある、スミレ色の光
 咄嗟に振り返ったシスターが、不意打ちに飛来した矢を屈んでかわす。追撃の一矢を横っ跳びで回避すると、キョウから着物姿の青年が見えた。その周りに、数十匹の漆黒の狗の妖魔。
 黒地に蜻蛉模様の着物。暗紅色の腰帯。 やつれた頬には骨が浮かんでいた。どこか気怠げな眼差し。ただいつになく口を真一文字に結んでいた。
「行け」
 カイが下級妖魔の狗をけしかける。我先に若い女の肉を食いちぎらんと、群れをなして疾駆していく。カイも式者へと突進せんばかりに駆けだした。
「ふぅん? 格下なのに着物持ちも向かってくるんだ?」
 不敵な笑みを浮かべ、シスターは足元のジュラルミンケースを蹴り上げた。如何なる仕組みか、中空に足蹴にされたそのケースはすでに口を開けていた。中には数々の重火器が入っている。その中のサブマシンガン、P90をつかみ取るなり、彼女はカイ達に向かって銃弾を撒き散らした。
 魔力が込められた弾丸は一発一発が必死の威力を有する。頭蓋を砕かれた何匹もの狗が、のたうちまわることもできずに絶命した。が、残る狗はちりぢりなってシスターに向かい、カイは妖術『界』を盾に突進を続ける。
 シスターまで跳躍一つと迫った狗達が、その牙を剥きだしにして飛びかかった。一匹を空中で撃墜し、さらに一匹を左のフックで殴り飛ばす。殴った勢いで崩れた体勢から、左腕一本で体を支えるように倒立した。腕を支柱に体が廻る。振りました右腕から火線の迸り。円弧状にばらまかれたP90の乱射で狗をなぎ払い、背後から飛びかかろうとした狗を着地の足で踏み殺す。カイが放つ矢をバク転で交わし、その間にも弾丸が狗へと降り注ぐ。さながらダンスでも踊るような鮮やかな銃撃の嵐。通り過ぎた銃弾の暴風の後には、狗の屍体が残るだけだ。
 だが矢を放ちながらシスターを通り過ぎ、キョウの許まで辿り着いていたカイにはそんなことはどうでも良かった。
「拍手もんのアクション劇だなァ!」
「お褒めに預かり恐悦至極。見物料としてお命頂戴、とそんなところで手を打たない?」
「かっ! ご免こうむる! 日本語の達者な外人野郎だ。悪いが今は手持ちがねぇんでなァ! 『回』!」
 その言葉を最後に、瞬間移動の妖術を陣が広がり、カイ達の姿が消えた。。

 置き去りを喰らったシスターは、「逃げ足の速い……」と肩をすくめた。
 トランシーバーを取り出し、回線を繋げる。
「……あーあー。こちらラウレッタ。聞こえるかい?」
『あいよー』
 ノイズの乗った返答は若い男の声。
「件の『エンカクジ』を見つけたぞ。名はカイだろう? 横濱だ」
『横濱ぁ……? なんだってそんなとこに?』
「私が知るか。ブレインはお前の仕事だろう? 私はぶっぱなすのが仕事だ。効率的に金が稼げれるようにくるくる考えろ」
『ったく、こっちはあんたに振り回せれてるだけだっつの。まぁいいさ、りょーかいだ。ボス』

◆◆◆

 カイ達はホウキの屋敷の入り口にいた。足の動かせないキョウを、カイは胸部の前で両腕で抱えている。俗に言う御姫様抱っこというわけだ。
「……話が違うぞ、カイ。アタシはバクの野郎にあんたがぶっ倒れてるって聞いたのに」
「昨日まで左手足がなかったなァ。回復したのは今朝方だ」
「あん? そんな傷一日で戻るわけ、」
「エン姫様に助けられた」
「エン……? ああ、ケンキ様の。でもなんであんたそんな?」
「ケンキ様が遣わしてくれたようだが、まだ詳しくは知らん。一晩中俺の治療をして下さって今は寝てらっしゃるからな。まぁ三百年生きてる妖鬼様が、千里眼の類を使えたとしても俺は不思議には思わんぞ」
「……だとしても、なんであんたにわざわざ」
「俺が知るか。っていうかなァ、お前歳柄にもなくヒロインみたいな助けられ方しやがって。お前じゃあ清純さも純真さも可愛げもねぇじゃねぇか」
「んなこと私が知るかっつーの! てめぇは助けた後にいちいちうるっせぇんだよバーカ!!!」
 キョウは傷を負っていない腕で、カイの頬を力なく叩いた。

◆◆◆

 妖魔にあって妖鬼が特別にそう呼称されるのには、当然だがそれなりの理由がある。妖魔の得る八つめのあざなは一つの例外なく「鬼」であり、これは単にあざなではなく“号”と呼ばれた。妖魔を肉体的な面から妖力的な面まで大幅に強化する。これを与えられた妖魔が妖鬼と呼称され、妖魔とは一線を画す存在になる。
 式者が妖魔と妖鬼を区別するのは容易く、相対すれば即座に理解することが出来るし、その鬼の号を得た瞬間に近くにいれば、すぐに分かるだろう。もしも妖力を数値化することができるならば、その値は少なくとも一桁は違うと言い切る式者さえいる。それほど妖魔と妖鬼の間には大きな力の差があった。
 故に式者は妖鬼をよく研究し、【鬼殺し】の秘術をいくつも蓄え、罠を仕掛け、集団でその征伐を図るのだ。それでも妖魔を征伐できる者は決して多くはない。八つのあざなを持つほど長く生きた妖魔は知力にも優れ、彼らもまた式者という人種ををよく知る存在であるからだ。

 さて妖鬼の中でも、織田原を統べる妖鬼、ゴウキは歴史的に相当若い妖魔であった。百年をわずかに超えるばかりを生きる妖魔にありながら、しかし鬼の号を得るに至った。その理由は恵まれた名(おと)にあると言われる。「ゴウ」と「キ」の二音に「剛、豪、強、鬼、毅」のあざな。いずれも膂力や妖力など、妖魔としての基礎的なスペックを大幅に向上させるものだ。強化のあざなを数多く有する分、妖術には劣るが、それを補って余りある強さがあった。単純な殴り合いで言えば、他の妖鬼さえ圧倒しうる。
 性格は豪放磊落にして傍若無人。他の妖鬼と最も異なるところは、若くして持った大きな力故の奢りと、思慮の浅さだろう。それでも彼が織田原の妖魔の王として君臨できたのは、数々の戦線においても最前線に立ち続け、傘下の妖魔を庇護しうる存在だったからに他ならない。
 体高は二メートルを越え、岩のような筋肉で覆われた躯は大樹の如く大きい。特に腕は長く太かった。無骨な赤錆色の鎧を纏い、手にはこれはまた大きな鎚を持つ。振るう大鎚は結界ごと式者を叩き潰し、遠く彼方まで断末魔と振り落とす鎚の地響きを届けた。
 鶴陵の結界が張られてからの彼の戦果はまさに英雄と讃えられるに相応しいものであった。神出鬼没と言われる、見た目から想像も出来ない俊敏さ。あらゆる罠、結界、呪術の類、その一切を粉砕する圧倒的な鎚撃の鬼術。真正面からでは逃げる暇もなく圧殺される式者達は、表だって戦闘にたつことが出来ず、織田原の戦線は常に式者の不利な形勢にあった。
 つい、昨日までは。

 濃い藍の着物に茶屋辻の文様を着た女性が、城にしては小狭い庭に立っていた。傍らに赤錆色の鎧姿の大男が大鎚を片手に座り込んでいる。
 妖姫、ユウ姫は主の憤怒を全身で受け止めていた。
「ガイ……ジョウ……ヨウ……」
 ゴウキの口から繰り返し零れる声は、その激情に震えていた。かつて五十年、ゴウキを慕い支えた仲間の名が、水底から泡沫の浮き立つように溢れ出していた。今はもういない。ちょうど先ほど、皆殺しにされた仲間の名。
「…………」
 怨嗟のように重苦しい主の声を、ユウ姫はただ黙って傍らに聞いていた。そうすることで、彼の怒りを鎮めようとせんばかりに。
 ゴウキには一段上の位相、その空間に、式者のひしめく気配がよく分かった。忌むべき屠殺者たちの息づかいが。
 ゴウキが気付いた時には全てが手遅れだった。毎夜連戦を重ね、疲れ切って目覚めた時には、散開していたはずの仲間は皆一様に式者に囲まれていた。助けに駆けだそうとした直後に、並ならぬ二人の式者の気配に気付いた。その数分後には彼を慕ってやまなかった三人の妖魔の首が揃って宙を舞っていた。ゴウキは思わずその場に立ち尽くした。手の平からすべり落ちた大鎚が地面を砕いた。
 四季折々に酒を組み交わした記憶が脳裏を巡った。幾たびの死線の残映が。その全てをともに乗り越えた者達が、もうどこにもいないのだ。どうしようもない喪失感が心を満たした。
 それでも復讐を即断しなかったのは、体に満ち余る激憤を処理出来なかったからだけではない。織田原に蔓延る式者その一切を、ただの一人として逃したくはなかった。盟友を失ったゴウキが怒りに任せて猪突猛進すれば、たちまちに式者は散り散りになり逃げおおせる。逃亡など赦せるはずがない。一人一人の頭を自らの手で握り潰したとしても、到底収まることのない痛憤なのだ。
 一人でも多く殺す方法が幾十と頭を巡った。
 百年、力だけを頼りに鎚を振るい続け、ついには鬼とまで相成った妖魔が、初めて理性による殺戮を意識した時だった。
 憤懣(ふんまん)を滲ませ、垂れ流されていた三人の名、その声が不意に止んだ。
「ユウ」
 名を呼ばれ、彼女はふいと顔をゴウキに向けた。暗紅色の長髪が揺れる。キッと唇を結んだ表情も憂いを帯びてなお艶かしい。
「ホウキの親方のところまで行けるか?」
 本来の彼女ならば、すぐに首を縦に振った。それが出来なかったのは、最後の別れを予感したからに他ならない。一帯を統べる鬼が、この状況で妖姫を別の場所に預ける意味など、そう多くはないのだ。
 けれども彼女は、その全ての意味をくみ取った上で、こくりと頷いた。
「……すまんな」
 堪えきれず、ゴウキは頭を垂れた。
 瞬間、ごつごつと硬い妖鬼の頬を、強かに彼女の張り手が打った。
「横濱でお待ち申し上げております」
 告げた声音も震えていた。瞳には涙が滲んでいた。
「きっとお帰りください」
 思わず妖鬼は呆然と彼女を見つめた。
 ただひたすらに唯々諾々と従ってきた彼女が、主に手をあげるなどゴウキには到底考えられぬ行動であった。ゴウキは愚かにも、そんな彼女を今まで人形のようだとも思っていた。ところが火のような意志が、確かにそこにあった。自分自身の妖姫なのだと、ようやく彼は思い至った。
「……必ず」
「はい」
 今にも泣き出しそうなユウ姫の表情を見届け、ゴウキは位相をずらした。
 空間が、視界が歪む。
 全身がねじ切れるような感覚のあと、彼は式者妖魔ひしめく織田原の上空にその姿を顕現させた。
「織田原の式者ども全ての血肉が三友への餞だ……!」

     

 織田原を抜ける国道一号線、織田原城を西にする広い交差点に彼はいた。
 歳の頃は四十を迎えたあたり。その眼前には夥しい数の妖魔が、妖魔だったものの肉片がばら撒かれていた。またある者は原型を残したまま氷漬けになり、ある者は首から上が切り落とされていた。
 彼はただ見ていただけだ。
 結界の内で、その足の竦むような光景を見ること以外、何も出来なかった。
 それは征伐というより殺戮だった。
 たった二人、湘難の魔女と鶴陵付きの鳴神の。
 彼女らに同行した何十人かの式者は、そのほとんどに参加していなかった。できなかった。彼らではその行為の邪魔にしかならないことは、考えるまでもなく分かった。
 鶴陵付きが妖魔を追い立て、団子になったところを魔女がまとめて氷漬けにしていく。撃ち漏らしは鶴陵付きのビニール傘で撫で切り、あるいは殴殺される。それがひたすら繰り返された。
 彼がかつて必死に戦ったゴウキ直属の中級妖魔も、鶴陵付きには僅かばかりの抵抗さえできなかった。彼女はその妖魔を悪戯に弄び嬲った。見かねたのか、二人の別の妖魔が助けに入った。おびき寄せられた妖魔達は、鶴陵付きごと魔女の方陣の内に閉じこめられ、数分でまとめて惨殺された。
 効率的な殺し方だった。
 彼は傍観者だった。機械に処理されるように地に伏していく妖魔を見て、抑えきれない嘔吐感がこみ上げた。
 凝視していた鶴陵付きと目があった。
 鶴陵付きの瞳が、彼には自分を蔑んでいるように思えた。
 鳴神の持つコンビニで買ったような安っぽいビニール傘は、妖魔の血液を弾き、ぽたぽた赤い雫を地に落としていた。


「来ないねぇ、織田原の鬼」
 一面妖魔の肉片と氷像に囲まれる中、鶴陵付き――鳴神晶(なるかみ あきら)は息一つ乱さずに、どうでも良さそうにぼやいた
「……なにか見誤ったのでしょうか。もっと直情的な相手だと踏んでいたのですが」
 応える菊里の表情は曇っている。しきりに辺りを見回していた。
「さてね……。鬼殺しが予定通りに行くことなんてないから、」
 その言葉が終わるよりも早く、二人は同時に上空を見上げた。遅れて、彼女達といた何人かの式者も驚愕の表情で空を見上げた。
 そこに妖鬼がいた。
 赤錆色の鎧。大樹のような巨躯。手にした鋼の大鎚は返り血で黒ずみ、憤怒を象ったような顔つきで見下ろしていた。妖鬼、ゴウキ。
 菊里と晶、それぞれと視線が交錯した。
 それが始まりだった。
「があああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
 鬼の咆哮が、びりびりと大気を振るわせた。激昂の叫びは妖気を撒き散らし、空を赤く染め上げる。その号令を聞くや、織田原に下級妖魔が無数に顕現した。菊里達だけではない、織田原の式者全てを包囲するように、狗や禽(とり)、申(さる)の姿をした獣の妖魔が突如姿を見せた。
「なんて数……」
 菊里は呻くように呟いた。
「菊里、こいつは鬼退治にむけての餞別だ。まぁどうしようもなくなったら使え」
 渡されたのは、一枚の符だった。鳴神の呪術が施されている。一瞬で特定の移動する魔術。
「どうもあの鬼、思ったよりも骨が折れる」
「以前とは妖気の質が違いますか?」
「かなり。いいか? お前は全てを投げ出して逃げる権利があることを忘れるなよ」
「……符だけ、有難く頂戴します」
「可愛くない後輩だよ、全く。それと、土産はもう一つあってだな」
 菊里がそれを受け取ると、晶はさらにポケットから鋭利な形状の金属片を取り出した。
 棒状手裏剣、と呼ばれるだろうそれに、鳴神の魔力を込められていく。赤紫の気炎を纏い、バチバチと紫電が奔った。
「制約符術の抜け道をいくようで申し訳ないが――」
 関東にその名を轟かせる鳴神、その最大の強みは、魔術による肉体及び装具の強化。どこの式者でもやっていることではあるが、こと鳴神の呪術は凡百の術法など到底匹敵しえない高い完成度を誇った。鳴神晶はその申し子だ。
 晶の脚が地を蹴り、一刹那で最高速に達する。音の速度を超え、中空から自由落下を始めたゴウキへと一直線に向かった。
「喰らってみろよ!!」
 手裏剣を持った腕を振りかぶり、体全身をしならせて投擲した。視認すら困難な速度に到達した金属片は、通常の鋼の何倍もの硬さを有し、なおかつ雷土の属を帯びていた。
 その軌跡はまさに紫電一閃、ゴウキの鎧を砕き、その肩に突き刺さった。
「……ッ」
 小さく舌を打ったのは晶だった。
 投擲は全力だった。装具も制約の中で使用できる物の内、最高のものを選んだ。つまるところ、その一撃は現在の晶に行える最高の一閃だった。それを持ってなお致死には程遠い。完全な誤算だ。傷が浅すぎて、肩からは血液すら流れ出していないのだ。
 神奈河の妖鬼の中で、単純な殴り合いあいならばケンキすら上回るというその力を、彼女はあまりにも過小評価していた。
「ビニール傘じゃ……とても歯がたたんな。菊里の言った通り、露払いが限界か」
 言うや否や、彼女は最も他の妖魔が密集している地点に向かった。
「菊里、頼むからな……!」

 ゴウキが現れたのは、正確には織田原城の上空だった。自由落下を始めると、水の溜まった堀が真下に見えた。
「ああああああああああああああ!!!!」
 着水と重なるようにして、ありったけの妖力を込めて鎚を振り下ろす。
 衝撃波とともに堀の全ての水が吹き飛び、極小の粒子と化したそれは織田原に突如として霧を発生させた。十メートル先さえ見ることの叶わぬ濃霧。式者の視界を奪い、ゴウキの妖気に紛れた妖魔たちが式者を狩るための布石。そして何より、ゴウキが濃霧に紛れて式者をなぎ払うための。
 巨大なクレーターを残すのみとなった織田原城跡地で、ゴウキが鎚を肩に担いだその瞬間、
「爆ぜろ!」
 と凛と通る声が響いた。
 わずか一工程にして、カイに致命傷を与えた魔術。五百蔵の魔女が編む青の呪文陣が生み出す、凍結の法。
 鳴神の母に持つ菊里は、身体強化の魔術を部分的に習得している。ゴウキの落下地点まで駆け抜け、鎚を持ち上げた音のみを頼りに術を放った。
 その正確無比なることをなんと喩えよう。
 凍てつく空間が妖鬼を包むように炸裂し、その全身を飲み込んだ。
 だが。
「式者の蚊どもが煩わしい!!!」
 怒声が響く。まるでかけらほどもダメージが通っていないのが、それだけで菊里には十分理解できた。顔面に直撃したはずの魔術が、その口内、声帯を損傷させることができていないことが明白なのだから。
 鬼、その号の意味を、菊里は認識せざるを得なかった。
 追撃とベレッタを引き抜き、装填された弾丸に魔力を込めた。
(厄介な霧だ……。敵の影があまり、)
 狙いをつけようとした瞬間、濃霧の向こうに佇む霧の影が、ゆらりと霞んだ。
 次にはもう、菊里は跳んでいた。全力の回避行動だった。何かを感じたわけではない。本能的な直感でもない。いうなればそれは単なる勘だった。敵影が消えた瞬間に回避行動をとるなど、未だかつて菊里は一度も行ったことがない。
 自身でさえ不可解なその行動が功を奏したと知るのは瞬きの後。まだ跳躍の最中に、かつて自分のいた空間に大鎚が振り下ろされているのを見た。轟音が響く。破砕したコンクリートの破片が、頬を切った。
――死んでいた。
 何の予感もなく。
 それが恐怖以外の何を植えつけよう。
 全力で跳ばなければ。
 あの一瞬、気まぐれにそう動かなければ。
 死んでいたのだ。
(まずい……思ったよりもかなり素早い。しかもこんな悪視界じゃあ……)
 巨躯と大鎚、その記号的な言葉からは想像だにできない俊敏な機動性。加えて霧を生み出すという機転。さらには空から撒き散らした赤い妖気のせいで、鬼の気配を辿るのが極めて困難になっている。攻め込んだのは菊里の側であるのに、妖鬼の顕現と同時に全ての機先を制されていた。
(せめて、有効打があることくらいは確かめないと)
 とっさに拳銃を構えるが、その時にはすでに鎚は鬼に担がれていた。
 ザッと地を蹴る音がして、またしても妖鬼の影を見失う。
(こんな距離でも見失うのか……!?)
 状況は最悪だった。
 白い霧に囲まれた中、濃密な殺気が押し寄せた。張り詰めた緊張下で、精神が急激に磨耗していく。物音一つあげること、息遣いさえ、躊躇われるような。
 動き出したかった。だが、むやみには物音を立てるわけにもいかない。結局、菊里はその場に縫い付けられたように動けなかった。
(何か……何か、打開の一手を)
 しかし答えを出せず、じりじりと様子を伺うなか、その均衡は唐突に崩れた。
 男の悲鳴と、地響きで。
 悲鳴、というのだろうか、ぎゃっと叫び声が聞こえたと思った時には、それはくぐもって濁った音に変わっていた。肉が潰れ、飛び散る音。断末魔を伝える。あまりにも不愉快な音。
(私を無視して他の式者を殺しに……!?)
 予想を裏切る事態に、ぐらりと視界が揺らいだような錯覚を感じた。声の上がった方までたまらず駆けだした。
 たどり着いた先には、妖魔と同じように、ばらばらになった人間の肉片が転がっていた。臓器が、骨が、潰れた顔が、そこら中に散乱していた。少なくとも十数人、目を覆いたくなるような地獄絵図だ。血液と脂の臭いで、頭がどうにかなりそうだった。
 そしてその中に、見知った服が。頭蓋は潰され、顔を判別することはできない。けれど、すぐにそれが、よく知った人間だと分かった。
「お父さ……」
 言いかけた。
 たん、と地を踏む音。
 振り返る。
 瞳を見開いた。
 赤錆の鎧は、鮮血で染まっていた。
 ついで映ったのは振りかぶられた大鎚。
 憤怒の形相。
 妖鬼――ゴウキ。
「や――、」
 声が、途切れた。

◆◆◆

 茶屋辻の文様、濃藍の着物。長髪は闇夜の灯火が照らすようにほの赤く、肌は象牙のごとく白い。物憂げな表情が一層その艶めきを助長させている。
 織田原の妖姫、ユウ姫。
 彼女は主の言いつけを守り、横濱へと向かっていた。織田原の妖魔は全て出払い、道連れはいない。
 その歩みがぱたりと止まった。
 道行く先に一人の男がいた。
 中年の、ひげ面の男。でっぷりと腹に脂肪を蓄え、にたにたと気味の悪い笑みを浮かべる。黒衣の狩衣、頭には烏帽子。
「陰陽師……?」
 ユウ姫の小さな呟きを、その男は笑んで答えた。
「いやはや、それはどうだろうか」
 到底微笑みとは思えぬ、醜悪な顔を向ける。
「なぜ……?」
 なぜすぐさま発狂するほど深いこの位相に式者が平然と存在できるのか。なぜ妖力を辿ることも困難な妖姫の居場所を探れたのか。なぜ、こうも不吉な……。
 咄嗟に言葉にできなかった幾つもの疑問がユウ姫の脳裏を掠めた。
「ぐふふふ、くくくくくかかかかかかかかか……!」
 その問いに、男は壊れたように奇妙な笑い声を上げた。
「いや、失礼。貴女の怯えた表情あまりにも可愛らしくてなァ……! さすが、妖姫とあって体も素晴らしい肉付きだ。一体どんな声で泣き叫んでくれるのか……。ぐふぐふふふ、そうだのう、こんな上物、今までのように犯すだけでは物足りんなァ。ふむ……くふ……どうしてやるか……くひ、くひっ……妖姫は皆、機械姦に処すというのも一興だのう!」
「妖魔を……犯す……? なんだ……なんだ、お前は?」
「おかしなことを言う。陰陽師と当て推量したのはお前さんだろうに?」
「お前のような者が陰陽師などであるはずがない。まして式者でもあるものか。その腐りきった性根、戦いに身を置く者ではないだろう……! お前などに陰陽五行の真理など読み解けるものか」
「がはははは! 陰陽? 五行? そんなものはもはや形骸化された占星術の遺物に過ぎんぞ。朝のテレビの占いと同じじゃあ! かつて算学の粋を集めた時がかの呪術の最盛期であったわ。天を詳らかにせんとする気高き魂もあったしなァ。それに比べて今の陰陽五行など! 綺麗なお姉ちゃんが出てくるだけ、まだ天気予報の方がましだのう!」
「黙れエセ陰陽師!」
「いかにもエセ陰陽師である。ついで言えば我が名、矢部彦麻呂とはさるパチンコで登場した陰陽師の名を借り、字を少々もじったものだ。狩衣がいかにもわし好みでなァ、以降冗談で式者、陰陽師と名乗っては同僚に忌み嫌われておる。……と、仕込みが終わったな」
 言いながら矢部はユウ姫にのっしのっしと近づいていく。
「寄るな下郎!」
 距離をとろうとした瞬間、脚の重みに気付いた。足首に白い紙の式神が張りついていた。
「式神……!?」          、、、
「驚くとは失敬ではないか。わしはエセ陰陽師と言うたであろうぞ」
 にたりとその顔が歪んだ。
「くっ……! 『融』け――」
 妖術を唱えようとしたその口に、矢部の符が目に止まらぬ速さで張り付いた。
「たはは。禁言の符も避けれんとは話にならん!」
 嘲り、矢部はユウ姫の前に立ちはだかる。足が石のように重く、動かすことはままらない。来るなと矢部に向かって手を伸ばす、それだけの儚い抵抗しか彼女には許されなかった。
「滑稽な姿だとは思わんか?」
 問いの答えも待たず、ユウ姫の腹を思い切り蹴り飛ばした。
「げぅ……!」
 くぐもった悲鳴で地に伏せる。まだ鈍痛の残る腹を、さらに矢部は踏みつけた。
「ふぎぅ! ……ぁ……がぁ!」
 体重を乗せてぐりぐりと脚をねじりながら、矢部は彼女の苦悶の表情を楽しそうに眺めている。
「くふ……ぐふぐふ……命乞いでもしてみるか?」
(死んでも……するものか……!)
 思いきり睨み返す。
 腹から離れた矢部の足が、膝ほどの高さまで上がって落ちてきた。
「あっ……ぐぅぅぅ……!!」
「もっと、」
 再度踏みつけられる。
「げぁ……!」
「従順にならんと、」
 心底楽しげに、矢部は彼女を踏みならした。
「うぐ……! ぎゃぅぅ!」
「いかんだろうが!」
「げぇぁ……!」
 一声で、彼女は気を失った。
 あるいは、そこで痛覚を遮断出来たことは、幸運であったかもしれない。
「おっと、やりすぎたか。まァだがお楽しみはこれからじゃて……」
 気の失った妖姫を軽々と肩に担ぎ、矢部は上の位相の気配を探った。
「くふふ……妖鬼が怒り狂っておるわ。死すべきは果たして誰か? のう、哀れなゴウキよ。くふ……くひ……くかかかかかかかか!!」


【残り20日】

       

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