Neetel Inside 文芸新都
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新都社作家の後ろで爆発が起こった企画
ボン(°□°;三 / クロガネ

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見えない、これはこれで実に興味深い。


人間には目があり、視覚がある。見れるのである。

見ることは5つある知覚のうちの一つにすぎない。だがその5つが5つとも全て等しく尊いかというとそうでもないらしい。
少なくとも私達という動物にとっては(というより私は私達以外の動物でないから他の事はわからないだけだが)見ることの価値は、精神にも肉体にも、とても大切に愛でられてきた。見ることは他では代えられないようだ。

例えば心眼。人は闇に在る時、耳は地獄であるのを筆頭にその他が補おうとするそうだが、その反対“眼聴”なる現象はとんと聞かない。あくまでも見えるに代わるのみだ。

文化的にもそう。了解はI see.合点したのはhearingしたからにも関わらず、だ。seeは“わかる”という意味を含む。おおかた領地をバルコニーから優雅に見下ろしたからだろう。同じ知覚機能であるにも関わらず、見ることは“理解”という最高次の知覚と深く結びついているのだ。
実際日本語でも気配れる事は目が行き届くというし、自分なりの物事への理解の呼び方は意“見”で知“見”だ。おそらくは全世界的に私たちという動物にとって見ることは知ることなのだろう。

さて翻って『見えない』

これは由々しき問題である。

何せ見えない。知覚できず理解できない。おしなべて自分の持ってるエゴを押し付けて定義することだってもちろんできない。わからない。

これはとても甘美で、また恐ろしい。ほら怖いものは見たさって言うじゃない。わからないから知りたいのか、それともわからないという逆境が好きなのか。人によっては見えないとなお良いなんて人もいるぐらいで見えないととにかく気になってしまう。これはもう仕方のないことなのだ。あらがえるはずもない。


さて、まぁ・・・なんというか。


あっちいわ。これ。


ねーな。うん。帰ろ。

       

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