Neetel Inside ニートノベル
表紙

鬼を食べる
現実的運命論

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 喫茶店で男女が一対一となれば、第三者がそこに極めて一方的に恋愛模様を推定した所で横暴とも一概には言えないことくらいはいくら男女間の機微に疎い僕であっても知っている。この日、この時間の少年少女も二人きりで喫茶店に入っていたのだから、もしくはこれも青春と揶揄される類ではあったりするのだろうか。
 当事者の片方である僕にとってそれは、決して本意では無いが。
 果たしてコーヒーを嗜みながらの僕らは確かに恋愛について語っていたけれど、恋愛とは正反対のベクトルへと僕の運命が動き出したのは先ず間違いなくこの日、この時間であり。
 僕の命運が尽き果てるそのカウントダウンが始まったのもこの日、この時間であるなどとは後から思い返せば疑いようも無い。
 当然の話だが、この時の僕にそんな事など知る由も無かったのではあるけれど。
「――それで、本題」
 毒にも薬にもなりそうにない放置したソーダ水にも似た会話、つまりは人間関係の潤滑油をテーブル上に一しきり撒いた後で目の前の気だるげな彼女は一転、少し深刻を装った声音でもって、その本題とやらを切り出した。
「好きになってはいけない相手ってこの世界にいると思う?」
 平日の真昼間から高校生がする話としてはちょっと重過ぎる、気がした。けれど、世の中には滅多矢鱈と重たい話を好む人間が居るのも知っているし、というか僕自身がそのカテゴリに当て嵌まったりもして。
 裏返せば同年代間に有りがちな中身の無い薄っぺらな会話が嫌いなだけだと、そんな自覚も有るには有る。お前って取っ付きにくい人種だなと言われればそれは勿論その通りで、無口なんて属性は決して持ってないが会話中に閉口するのは割と得意な方だろう。
 コミュニケーションは苦手な部類の僕だった。
 ただし、会話が弾まなかった場合は議場に上がっている話題が悪いと言い切らせて貰えたら大いに助かる。誰にだって得意と苦手は有るものだ。
 上っ面撫でるだけの会話はそういうのが好きな相手と好きなだけやってくれ。
 ――少女の話は続く。
「そもそも恋愛対象に選んではいけない――そんな感じで。そういうの、貴方は有ると思う?」
如月灯里(キサラギトモリ)はそこまで言い終えると口を閉じてバツが悪そうに薄く笑んだ。今日、初めて顔を合わせたクラスメイト相手に自分は何を言っているのだろうと、その顔は雄弁に語っている。
でも、そんなのは僕だって同じだ。
「いないよ。そんな相手はいない」
 昨日まで口を聞いた事すら無かったクラスメイトと何を話しているのか。我ながら全くもって意味不明な雑談内容ではあった。
 好きになってはいけない相手なんていない。
 本心からそんな事を思っていた訳ではないし、そもそも僕には如月の質問の要旨がまるで掴めてはいなかった。けれど深く考える必要が有る程、義理の有る相手でもない。基本的に学校ですら接点が無い。
だからこそ僕は彼女の質問に対する回答として分かりやすく前向きなものを無意識の内に選んでいたのだろう。
「たとえ、相手がどんなロクデナシであろうと好きになった事、それ自体は咎められるべきじゃないと僕は思う。好きになって、好きであり続けるかどうか、その選択にこそ個々人で責任を持つべきじゃないのかな。惚れた腫れたは当人にコントロール出来るものじゃあ、まさかまさか有りはしないだろう?」
 分かりやすいとは騙しやすいという意味だ。他人を。取りも直さず自分も。奇麗事は受け入れるのが容易なもの。受け入れにくいのはいつの世も現実と呼ばれる側で、だからこそ現実逃避なんて言葉が世の中には蔓延っているのだと思う。
 現実ってのは逃げられる類のものでは決してないというのに。そんな簡単な事にも気付けないのに――いや、待て。気付かない方が幸せなのか?
 とか考えたりもするけどさ。残念だけど、しあわせの定義なんて知らない。
「好きになるというのは悪い事じゃない、って本当に思ってる?」
「思うね」
 当年取って十六歳。恋愛に幻想を抱いていたつもりは幸福にもこれっぽっちも無い。というか、そもそも恋愛感情なんてものが僕には理解出来ないのだけれども。
 そんな人間が何を言っているのかという自嘲は素直な苦笑となって頬に浮かんだ。
 眼は口ほどになんとやら……上っ面だけの返答だって彼女にバレてしまうかも知れないな。けど、それが何だというのだろう。
 表情筋を取り繕う気にもならなかった。もしも僕の態度が如月の気に障ったのならそれも良し。所詮、道端で出くわしただけの間柄だ。
 行きずりの相手――とは少々語弊を招く表現で日本語とは思いの外煩わしい。
 しかして彼女は僕の瑣末な表情変化には興味など持っていないらしかった。それよりも議論を望んでいたのだろう。少女は手元のグラスの中身をストローで掻き混ぜながら、僕の眼を見た。
「例えば、好きになった誰かには既に好きな相手が居たとしたら? 当然、自分以外で」
 片想いでもしているのだろうか。報われないと分かり切っている、割り切っている恋を示唆するその言い草。だけど恋する少女には彼女はどうやら見えなかった。
 如月灯里は自分の恋愛を他人に相談するようなタイプではない。――言っても、これはなんとなくの勘でしか無いが。
 だけど、僕の勘はよく当たる。きっとこれは彼女自身の話ではない。
 そう手前勝手に思い込んでしまえばどんな重い質問であっても割と楽に回答出来るというものだ。何の意味も無い戯れで時間潰しの雑談の一コマである事に今更疑問を持ったりはしない。
 僕の何気ない一言がもしも彼女の人生を百八十度変えてしまったとしても。
 そんなのは僕の責任じゃあないね。
「如月さん。君は両想いが当然みたいに言うけれど、そんなのは少女漫画の読み過ぎじゃないかな。AさんがBさんを好きになったとして、BさんもAさんに例外無く恋愛感情を抱いている、ないし抱く事になるなんて作り話の中だけだろう?」
 もしくは天文学的確率だ。それこそ奇跡と言ってやってもいい。
 そもそも人を好きになるなんてのが僕にとっては天文学的確率で、奇跡な気さえする始末。
 これまで十六年ちょっとの人生で僕がどれだけの人間に出会ってきたのかを数えている訳では決して無いし、勿論数えていられる道理も無いが、それにしたって相当数。僕は沢山の人と関わってきて今もなお関わり合いながら生きている。その事実への疑いは無い。星の数を例えに出してもこればかりは構わないように思う。
 袖振り合うもなんとやら。縁とやらの太い細いをさえ問題にしなければ、どこまでも微に入り細に入り。
 僕が関係している人。
 僕に関係している人。
 僕と関係している人。
 僕で関係している人。
 僕も関係している人。
 それは膨大で数えられるようなものではない。
 でありながら、僕は未だ恋を知らず。
 恋心。そんな感情の実在すら、こうなってくるといよいよ怪しい。十万人? 百万人? 袖振り合っておきながら、ただの一人にも性的な好意を抱いた事が無いのだから。
 例えば目の前に居る少女――如月灯里も客観的に評価して十分以上の可愛らしい顔を保有しているし、声や顔といった人間の外側を形成する各パーツも軒並み合格点を大幅に越えてきているルックス優等生なのだけれど、僕は彼女を可愛いとは思えど……好ましいとは決して思わない。
「それとも君みたいなのには無縁だったかい、失恋っていうのは?」
 彼女のように容姿端麗に生まれていれば引く手数多の選り取り緑も頷けなくはないさ。どう見たって恋をする側でなく、させる側の人間だ。
「私みたいなの、ってどういう点を指して言っているの?」
 如月は眼を細くして僕を見る。それは睨んでいるというよりはこちらの様子を窺っているように僕には見えた。
「……分からないならいいけどね。通じなかった皮肉ほどつまらないものは無いから放っておいて」
「そう」
 人を外見で判断するな。いつか親から言われた言葉を忠実に実践する僕にとって、では恋愛とはどこを判断材料に陥るものなのかがイマイチよく分からない。別にそれで何か早急に困っていたりもしないから治す気もさらさら無いが。
 周りの同年代は例外無く恋と未来とを自分の世界の中心に据えて毎日を過ごしているのに、そのどちらとも僕には絶対的に欠けている。何か、恋愛に必要な心のパーツをどこかで知らぬ間に落っことしてきてしまったんじゃないかという思いすら僕には拭えず。
 恋愛失陥――そう、疾患。非恋愛体質という明確な性的不全。
 それとも運命の人に出会っていないだけなのか。白馬車のお姫様は待てど暮らせど便りの一つも寄越してはくれない。薄情者だ。
 ……運命とか、世界で一番嫌らしい単語だよな。本当に。心底。軽蔑。
「話は戻るけど。僕が言いたいのは、ね。両想いが前提で恋愛をしようとするのは、ただの怠惰じゃないのかな、ってこと。夢見る乙女って言うだろう? そんなの……えーっと両想いじゃないと始まらない恋愛なんて思い込みはその、乙女が見てる夢だよ」
 夢であって、現実じゃない。
 現実はそんなに都合よくなんてないし、個々人の想いなんて一々拾わないし、神様なんている訳無い。恋は幻想、愛は幻覚。想いは通じないし、ましてや通じ合ったりだとか絶対に無い。
「そうね。いえ、本当にそうかしら?」
 一度は肯定しておきながら一秒待たずに手のひらを返した少女は少しだけ首を傾けて僕に聞く。かすかに頬の力を抜いて、見開いた少女の青い眼は十中八九カラーコンタクト。
 遠く南の国の海を溶かし込んだような色だった。
「恋愛感情は連鎖するのよ。自分を好きになってくれたら、その相手を好ましく思うのがヒトという身勝手で愚かしくて自分勝手な生き物でしょう?」
「――僕は鬱陶しく思うだけかな……」
 あ、口が滑った。
 気付けど取り返しの付かない本音。恋愛相談をする相手として僕ほどの外れくじもそうそうお目に掛かれないとは、これはもう自虐でしかない気がした。そして、その事実にようやく如月も思い当たったようだ。あくまでも柔らかく少女は溜息を吐く。その息はピンクに色づいて見えるくらいに悩ましげで、そして艶かしくさえあった。
 まるで恋でもしているような。
「そうね。そういう風に好意を受け取る人も居るわ。貴方……見た目と違って捻くれ者なのかしら? 自覚は有る?」
「自覚……ねえ。そんなものは無いよ。僕はこれでも自分に正直に生きているつもり」
 思った通り、感じた通りに生きて死ぬ。自分で自分を騙して生きる事をこそ捻くれていると表現するのではないのか。だとすれば、僕は真っ直ぐだ。
「捻くれてる」
「知らないのかな? 生物はその設計図、遺伝子の形状から既に捩れた螺旋構造をしているのさ。有名な話だろう?」
 如月は少し時期を外した感の有るアイスカフェオレの胴体を貫くストローに口を付けた。テーブルの端に置いてある白い小さな陶器に入れられたガムシロップには結局彼女は一度も手も付けていない。甘くないカフェオレという存在が僕はどうにも信じられないが、それが彼女の飲み方であり好みなのだろう。
 人の趣味嗜好に口を出すほど僕は世話焼きでは無い。合い席した人間がホットコーヒーにホイップクリームを山と浮かべようが人知れず呪詛を呟く程度に留めるさ。
「その受け答えが捻くれ者の証明よ。ボーリングの玉を他人のレーンに投げ込んで取ったスペアをひけらかすような会話術は、暴力とそれほど大差無い気がするけれど?」
「遺伝子云々は態と捻くれめいた事を言っただけさ」
「暴力と大差無いってのは撤回ね。その言い草は暴力そのものだわ」
「むしろね。この世の中に暴力に変換出来る以外の力が有るのなら教えて貰いたいよ、僕は」
 光の加減で赤混じりの金色の長い髪を人差し指でくるくると巻きながら如月は答える。
「……知識力とか」
「弁論を振るい論議の相手を打ち負かすのは暴力と言わない、とでも?」
「愛の力とか、よく聞くわね」
「ああ、もう完全に暴力だ。言葉の中身をいじくり回す必要すら無い。愛なんて暴力の筆頭だ」
 そして嫌いなものの首魁だった。思い出して胸に込み上げてきた苦いものを、同じく苦いコーヒーで押し流す。良薬口に苦しとはこの事だろうか。
 いや、どう考えても今のは誤用だな。
 はあ、九月というのはどうにもやりにくい。何がと言えばそれは喫茶店におけるオーダーの話で、夏と言うには終わっていて秋と言うには始まらない。ホットもアイスもそぐわないのに、メニュ表にはその二択しか載っていないのだからして。
 これも一種暴力的と言えるかもしれない、なんて本心とはまるでかけ離れた下らない思索。こちらもついでにホットコーヒーで押し流す。最初から温いコーヒーになど需要はまるで無いだろうし。
「なら、角隠(ツノカクシ)クン?」
 ……おや?
 ……おやおや?
 僕、いつ如月を相手に自己紹介をしただろう? いや、記憶力で僕と比べるべくも無い彼女ならば、どこかでチラリと耳にした苗字を覚えておく事くらいは容易いのかも――と、どこか的外れな気がする推察しか出来ない。まあ、いいさ。
 僕だって彼女のフルネームを知っていたのだから、ここはおあいこだ。……僕と違って彼女は有名人だったりするけれど。だからと言ってなぜ僕の名前を知っているのかと問い掛けてみてもどうせろくな理由が返ってきやしない。そのくらいは自分の悪評を理解しているので――懸命な判断とやらを僕は実行する事にした。基本的に口は災いの門である。
 無口は最大の自己防御術。見ざる言わざる聞かざるで、鉄壁だ。
「貴方にとっては他人からの好意ですら暴力に変換されるのかしら」
「その好意が『私は貴方を好きだから、どうか貴方も私を好きになってくれ』という意味合いを少しでも含んでいるのならば、僕はそれを暴力のカテゴリで括る事に対して何の躊躇も持たないよ、如月さん」
「さん付けは止めてくれない? なんだかとてもくすぐったいわ」
「だったら僕も呼び捨てでいい」
 平日平時。今にも午後二時に迫ろうかとする時計の針は、真っ当な学生に対して早く午後の授業に戻れと促して止まない。
 ランチタイムを終え、アフタヌーンティの時間には少し早いアイドルタイムの喫茶店は人も疎らだ。営業回りの小休止をするサラリーマンに混じっての僕たちは少しばかりでなく場違い気味ではあった。
 だが、今日は創立記念日だ。他校の生徒はどうあれ、僕と如月は誰に咎められる謂れも無い。二人とも私服だったし。
「嘘吐き」
「何が?」
「ウチの高校の創立記念日なんて本当に知っているの? 六月よ? 三ヶ月も前」
「そうだったかな? 僕はてっきり今日がそうだと自分勝手にも思い込んでいた。ちなみに僕の部屋に掛かっているカレンダには創立記念日を示す印だけで一年に三十個マークされているんだけれどもね」
「それって……ただの計画的サボリじゃない」
「いやいや、勘違いさ。勘違い、記憶違い。人間なら誰だって経験した事が有るだろう。ついでに言えば僕はこの素晴らしい勘違いを卒業まで正す気は無いけどね」
「現代人らしい我が侭な思い込み――ちょっとした病気よ、それ」
「今のところ実害は無いから病院に行く気も無いな。って訳だから如月の言う六月の創立記念日も三十回有る内の一つなんじゃないかい?」
「かもね」
 彼女はさらりとこの取り止めも益体も無い話題を明後日の方向へと放棄して。
「この辺りにはよく来るの?」
 僕に質問を投げかけた。
「いや、余り。今日は偶然、こっちにしか無いっていう出物が有ったから。買い物だよ」
「そ。――まあ、そうよね。見かけたのは初めてだもの。残念」
 何が残念なのか――睫毛を伏せてテーブルに視線を落とす彼女の表情は意味深長にしか取れない。いや、待て。だからこそ慎重になるんだ、僕。男が勘違いし易い生き物だってのはよく知っている所だろう?
 「残念」の真意を探ろうとして如月をなんとなく注視してしまう。極薄いセロファン紙を縫い付けたような唇の瑞々しさはリップクリームが上等なのか、それとも自前の持ち物なのかは知らないし、見分ける事も僕には荷が重い話だ。彼女は自分の下唇の中心を親指と人差し指で挟み込んで捻り、くちゅり、と小さく粘液質な音を立てた。
 探偵が顎を擦るのにも似た自然な動作だったのは、きっと彼女が長年育んできた癖なのだろうと推察する。にしても水音はやけに艶かしい。
「私のホームグラウンドなのよ、この一帯は。もし、こっちによく来るのだったら暇潰しの相手に任命してあげても良かったのに」
 その声は裏側に「がっかりした」なんて副音声を含んでいるようにしか聞こえず。
「……あのねえ、僕は君と違って留年する気はないよ」
 そんなに僕は暇人に見えたのか……いや、実際暇人そのものだしな。学生というのはつまり、長期間の暇潰しと大差無い。そう僕は思っている。学校に行く事すら選択肢。登校を強制させられていると感じるのは生徒側の被害妄想に他ならない。
 学校に通わせるのは義務だが、通うのは権利だったはず。ましてや高校は義務教育の範疇外。なら何をしようが親に迷惑さえ掛けなければ勝手で構わないはずだ。
 高校くらいは出ておくつもりだけど。
「買い物中の僕を強引にこの店に連れ込んだのも君にとっては暇潰しの一環でしかないって言うのかい、如月さ……いや、如月」
「そうね。さん付けは無い方がやっぱりしっくり来るわ」
「その『そうね』だって暇潰し目的を肯定しての『そうね』なんだろ?」
「その質問にも『そうね』って返したら貴方は帰ってしまうでしょう。だからちょっと待っていて。貴方にとって耳あたりの良い返答を今から考えるわ」
 今から考えるのかよ。
 ……ああ、もう。僕が少女にとってただの話し相手なのは良く分かった。
 その返事だけで僕がこの場を離れる理由としては十分なのにも如月灯里は気付いている、きっと。怒った振りでもして家に帰るなら、今だ。
「耳あたりの良い返答――ね」
 如月の言葉をなぞる。
 帰らせたくないと言いながら、席を立つタイミングを提示する。自分と相手の距離感を試すような、そんなやり口は僕もよくやる好む所。だからこそ、その裏の意味なんてのも――真意ってヤツだって僕は残さず汲み取れる。
 つまり……寂しさをアピールしているのは――理解した。
 そこにさり気無さの欠片も無い。
 寂しい女だという事を僕に気付かせて、僕が気付く事まで承知の上での軽口。僕がそれを阿漕だと思うような短絡的な人間ではない事も、寂しさを分かり易くアピールせざるを得ない程、如月は貪欲に人との関わりに飢えているのではないかと勘繰る性格だってのすら、ここまでの短い会話で彼女は見抜いて――見透かしているんだろう。
 僕みたいに薄っぺらい人間くらい、平気で。
 そう僕に思わせるだけの、彼女の眼には力が有った。今から考えると言った後、そのマリンブルーの瞳はずっと僕を見つめていた。その視線からは量られているとさえ感じられた。
 量る?
 何を?
 まるで恋人候補を値踏みするような。
 いや、子供が友達を欲するような態度で。
 友達。
 友達……か。
 なるほど、ね。
 僕はこの女を面白いと評価しよう。
 値踏みするまでも無い、その辺りの小石さながらの無価値な僕に眼を留める、その破綻した価値観は中々お目にかかれない。気の迷いかも知れないが、ここで短絡的に関係を放棄するには少々惜しい気さえする。
 もう少しくらい観察してみてもいいだろう。どうせ今日は一日、休日だ。
「要らないよ」
「え?」
「要らないって言ったんだ。君が僕を道端でとっ捕まえた理由なんかどうでもいい。僕だって興味本位から君に連れられるままだった」
「それは私が異性だから? 生憎だけど、性的対象として見てしまったら私ほどつまらない女もいないから、止めておきなさい」
 残念だけど――いや、しあわせな事に。僕は恋愛感情の、その欠片すらこれまでの人生の中で覚えた事が無いんだ、如月。そしてそれは今、この瞬間ですら絶賛継続中。
 手元のカップ、その中身をもって喉まで出かかった当たり障りの無い言葉を飲み下す。すっかり冷めて苦いコーヒーは、でも実はこれはこれで決して嫌いじゃなかったりするんだ。
「いや、興味をそそられたのはそこじゃない。男だとか女だとか正直どうでもいいし。って言うか男も女も基本的に等しく無関心だし、僕。だから性別は理由じゃない。如月の容姿も実際、可愛いとも美人だとも思うけど。だからってそれを好ましいとも嫌らしいとも僕は感じないんだ」
 僕は何を話しているのだろうか。でも、まあ構わないだろう。不登校児、如月とはきっと二度と会う事は無いはずだ。
 だったら一生に一度くらいは通りすがりの誰かに自分の内面をわずかばかり晒しておくのも、きっとそう悪くない。それを如月がどう評価するのかにも興味は有る。
「人を見た目で判断しないのが信条? 良い心掛けね。私にはとても真似出来そうに無いわ」
「人は見かけに寄らないって言うだろう? ま、外見で人を判断出来るスキルに欠けているだけだと自分じゃ思っている。それに」
 僕を覗き込む少女の瞳に映っている男が、僕にはとてもじゃないが高校生には見えなかった。
「それに?」
 思春期ってもっと感情豊かな生き物、だろう?
「好き嫌いするな、って口酸っぱく言われて育ったんだよ、僕」
 人を好きにも嫌いにもなれない出来損ないの言い訳として、咄嗟に出て来たにしては中々上出来だと思った。

 運命の出会いなどというものがもしもこの世の中に実在していたとして。何て事の無い出会いがしかして実は運命的であったとして。傍から見ればまるで映画のように二人は劇的な出会いを果たしていたとしても。
 けれど出会った当事者達はそれが運命の悪戯だなどとは夢にも思わない。偶然の産物だと、そうとしか思えないはずなんだ。
 それを運命と知覚出来ない理由は簡単で、人は日常的に出会いとすれ違いを繰り返しているから、となる。つまり、希少価値がそこに存在していない為にどうしても一つ一つの出会いにおけるインパクトは薄れ、記憶から流しがちになってしまう。
 例えば地球に男と女が一人と一人しか存在していなかったとしたら。その二人の出会いは運命でしかない。そこでの適切な言葉は「運命的」と、これ以外に有り得ない。けれど実際は何十億も人間という生き物は居る。以上、どこの誰が運命の相手なんだか僕らには分かりはしない。一々すれ違う異性に赤い糸を探し求めていてはその内、左手小指が引く手あまたで千切れ飛ぶ。
 まあ、なんて言うかそういう事。「運命の出会い」というとどうしてもそこに恋愛的なニュアンスを求めてしまう風潮はいささか僕としては失笑ものだけれど。
 繰り返すが僕は恋愛感情なんてものの実在を信じてはいない。運命なんてものもどうせ有りはしない。
 それでも、もしも。
 もしも僕が運命の恋なんてものを錯覚した挙句それに陥って恋は盲目による前後不覚に呼吸困難、不整脈その他の複合疾患、病名「love」に罹ってしまうのならば。
 その相手は出来るなら。
 どうしようもなく不幸な女が良いな。
 鬼みたいに不幸な女が居るんなら、それなら仕方ない。
 ――仕方ないから、いっそ好きになってみてもいい。

 僕が通っているのは県立荷稲(カイナ)高等学校という、極めて普通の高校だ。
 荷稲というのは存外珍しい地名だそうで、普通一般には同じ漢字二文字を上下逆さまに用いて稲荷――イナリと読ますらしい事を最近知った。が、この辺りに住んでいるとどうにも感覚は逆である。
「稲」をイナと読ませるのはまだ許せるとしても、「荷」をリと読ませるのは流石に無理が有るのではないか。つまり、地元に慣れ親しんだ僕らにしてみれば荷稲――カイナこそ正当というか、なんかそんな気がするのだ。とは言え通っている学校の略称がカイ高であるのは地味に面倒臭い。
カイ高の開校記念日なんて舌を噛みそうだ、とかそんな下らないのではなく。もっと真っ当な……ああ、面倒臭いの理由についてはその内に話せるだろう。
 さて、創立記念日というのは当然の話だが二日続けてあるものではない。翌朝はきちんと自転車を駆っての登校だった。自宅から学校まではゆっくり走って三十分。電車通学という手も無くは無いし、駅は自宅から徒歩五分圏内だけれども、それでも僕は電車が嫌いだ。自転車の方が断然いい。
 なぜと問われれば電車のダイヤ通りに毎朝起きるなんてウルトラCが僕には出来そうに無い、としか返せないし、これをクラスメイトに答えた時には絶句していたのでどうやらこれは僕の方こそオカしいらしい。しかし、皆はどうやって朝起きているのだろう。まったくもって世の中は不思議。
 春眠は暁を覚えないし、夏は暑いから外に出たくないし、秋は春と似たり寄ったり――みなまで言わずとも続きはご理解頂けるだろう。
 中でもまだ比較的起床が易い今日この頃、紅葉には早いが暦の上では秋を迎えていた。ようやく夏の熱さも一段落して自転車で切り裂く朝の空気は一日一日確かな季節の移り変わりを教えてくれる。ハンドルに右手一本を乗せて、左手には眠気覚ましの缶コーヒー。うわの空で考えるのは昨日の一件。
 如月灯里。
 クラスメイトにして初見にして不登校児の彼女の事だった。
「どうして学校に行かないんだよ?」
「どうして学校に行くの?」
「どうして……うーん、ほら。高校くらいは出ておかないと、最低限って有るだろ?」
「義務教育は中学までよ。それ以降は各々の価値観に委ねられての選択肢の一つでしかないでしょう。高校生活も高等教育も私の眼鏡には適わなかった、シンプルにそれだけ」
「そりゃあそうだけど。なら、なんでわざわざ金を払ってまでカイ高に入学したんだ、如月は?」
「制服のデザインが気に入ったの。新品で手に入れるには入学即辞めが一番手っ取り早かっただけの話」
「……ブルジョアだな」
「私? いえ、高校入学にあたって私は一円も出してないわ」
「そりゃ、君はね……親御さんが大変そうだ」
「両親はいないの」
「あー……あー…………なんだ、その、変な事言わせて悪かった」
「何が? 親がいない事なら別に気にしなくてもいいのよ」
「そういう訳にもいかないだろ。普通にこっちは気にするよ」
「本当に気にしなくてもいいわ。だって、親がいなくなったのなんてもう三百年は前の話になるし」
「は? 三百年?」
「どれだけのロマンチストでもセンチメンタリズムの檻の中に百年も居ればリアリストに変わる。私もその例外じゃなかっただけ。涙なんてとっくに涸れ果てました」
「三百年前か。ああ、それなら……いや、前衛的過ぎてどうやってリアクションすればいいのか分からねえよ、その唐突な振りは」
「――冗談、上手いでしょう?」
 自称、冗談の上手い彼女が昨日、口にした冗談は結局それだけだった。余りに「それだけ」過ぎて三百年なんてたわ言を信じてしまいそうになる程に――。
 それ程に日常は退屈だ。
 毎日の変化は緩やか過ぎて、スローモーションでコメディ映画を見る事を強制されている如くスピード感は皆無。臨場感なんて有りはしない。高校生活の味気無さは中学時代の予想を遥かに上回った。つまらないにも程がある。
 ああ、本当、ここらで劇的に世の中が変わってしまえばいいのに。
 それこそ人類滅亡一歩手前くらいのアルティメットハザードであってもかまわないから。
「如月が本当に三百歳越えてきてたりしたら、そしたら少しは面白いのになあ」
 そんな絶望的な独り言が口をついて出てきてしまう程に、人生は窮屈だ。
 下らない。うんざり。
 昔はもう少し期待していたのだけれどな、自分の未来っていうモノに。どこで落っことしてきてしまったのだろう。
 学校へと向かう途中の下り坂。重力に引かれて加速する自転車の上。スピードが乗ってきたトコロで思い切りハンドルを重力から引っこ抜く。浮き上がる前輪。
 一瞬、空を飛んだように錯覚。けれど後輪はしっかりと地面から離れる事は無く。渾身の上昇五十センチは時間にして一秒も無い。僕は毎日から逃げられない。
 僕の高校生活は平穏無事な――牢獄だ。

     

 学校へと到着し下駄箱から教室へと向かう途中、廊下を歩いているだけだというのに何やらジロジロと周りの生徒達から奇異の視線を浴びせられている、そんな気がした。
 どういう事だろう。僕の単なる自意識過剰じゃないのかとも一瞬は疑ったが、どうもそこまで残念な脳みそを持っている訳でもなさそうだ。少し辺りを見回すだけで対面を歩いてくる男子から教室内でお喋りに興じる女子までが一斉にこちらから眼を背ける始末。幾ら楽観的な僕であってもそれを気のせいだと思い込むのは無理があった。
 慌てて眼を背けるってのはイコールそれまで注視してましたって事だろう?
 ……それって露骨に衆人環視じゃないか。
 はて、なぜ校内中からこうも注目されてしまっているのだろうか。僕にはとんと理由が見当たらない。自主休校常連組の僕が休む事など今更珍しくも何ともないが、もしかして昨日のサボりで留年が確定してしまったとか……いやいや、進級に必要な授業日数及び各個単位は意地汚くもキッチリ計算している僕である。完璧なる欠席計画には今のところ一つとして狂いは無い――はずだ。
 ならば一体何が僕をこうも衆目たらしめんとしているのか。あ、また眼が合った。どうせなら背の低いミニマム系女子に頬を赤く染めて眼と眼で通じ合いたい。部活に命賭けてます的ガッチリ系男子との視線交錯とかただのホラーだろ。
「こっち見んな、って感じ」
 歩きながらボソリ呟けど当たり前の話で状況は変わったりしない。あーあ。どうせ昨日学校で何か急なイベント事でも有ってそれを見事クリティカルにぶっちぎったんだろうなあと、まあそんな無根拠の推論は立てど(何も分かっていないとも言う)、しかし時計の針は一方通行。後悔は先に立たず、タイムトラベルは人類永遠の夢、昨日は都合よく僕の手元へ戻ったりはしない。
 おとといきやがれ。
 もしもこんな折、学校を決してサボらない健全な友人の一人でも僕に居ればソイツに事情を聞くのが手っ取り早い――のだけれど、所詮は「もしも」の話である。友人? そんなのが居たらとっくに首根っこを捕まえて状況説明をさせている。
 友達が居ない事を悔しく思ったのは実は今日が初めてだった。
 さて、それは一年六組――つまり僕の教室だが、に足を踏み入れた瞬間だった。クラスメイト女子がそれまでの私語を謹んで一斉に沈黙し、そして男子は一様に眼を血走らせて僕を睨みつける。おっと、これはほとんど公開処刑をされる罪人扱いじゃないか。普段は僕のような地味な生徒なぞ誰も注目する事もないのであるからして、それが異様な有様だったのは理解して貰えるだろうか。
 注目するだけしておいて、誰も寄ってこないし説明も無いし。僕は神様とかそういうのじゃないから触っても特に祟ったりはしないんだけどなあ。何、この疎外感。
 分かりやすく顔中をクエスチョンマークで埋め尽くして教室内を見回せば、彼氏彼女らの眼差しに感じられるのは嫉妬か羨望かの二択。うーん、もう少しヒントが欲しい。
 クラスメイトの身を貫くような視線は薄いベニヤくらいならば容易く穴を開けてしまえそう。僕の知らない間に、他ならぬこの僕の身辺に一体何が起こっている?
 立ち尽くす事約三分。疑問符の重さに僕はとうとう耐え切れなくなった。
「……ごめん、一番手近に居たから聞いてみるんだけど、これは一体何がどうなってるの?」
 この変な空気への感染を免れているように見えるクラスメイトは男女共に若干名。その若干名の一人にして僕が珍しく名前を覚えている――イコール多少なりと交流の有る(言った所で友人と呼べるほど慣れた間柄でもない)女子Aへと質問を振ってみる。
 周囲と自分とを隔絶するバリアの役割を果たしていたハードカバの小説からゆっくりと視線を持ち上げたおさげ眼鏡女子A――三ヶ蚕(サンガカイコ)は、僕に向かって開口一番「ご愁傷様」などと聞き捨てならない挨拶をのたまってくれた。
「ミケさん、この状況下でその一発目は洒落になりません」
 僕は三ヶ蚕を「ミケさん」と呼んでいる。これはほぼ初対面からずっとなので、恐らく僕が初っ端から名前の読み間違いを披露してそれがそのまま継続しているものだと思われるが、今更正すのもどうにもしっくりこない為、きっと彼女は三年間僕からミケさんと呼ばれ続ける事になるだろう。
 ちなみに下の名前の音読みを含め、「ミケさん」までで正式な彼女の渾名となるようだ。
 彼女はゆったりと、しかし一つの音も間延びする事の無い絶妙の長さでもって「予言」を並べ立てた。
「角(ツノ)クン、残念ながら終了のお知らせです」
「それは進級に関してでしょうか。だとしたら何かの間違いに相違ないのですが」
「いえ、人生です」
 ……僕は本当に一体全体何をやらかしたっていうんだろう…………。
 ミケさんからここまで言われるのだからやっぱり相当の事なんだろうなあ。
「人生終了って、それはミケさん言い過ぎじゃないんですかね?」
「いいえ、角クンのここからの身の振り方次第で未来は変わりますが、しかしその中でも一番マシなものを選んだつもりです、これでも」
 ゆったりと一語一語を咀嚼するように喋るのは彼女のスタイルであり、また、その発言の「精確さ」ゆえに「ミス・シミュレータ」などと言われたりもする三ヶ蚕である。よりによってのその彼女によると僕の人生はそろそろ終了らしい。これは割と本気で洒落にならない。
 何しろ彼女の予言が外れた事など僕の知る限り過去に一度も無いのだから。今回の極まった予言に限って的中しないと考えるのは少し僕にとって都合が良過ぎる話だ。
 にしたってミケさん。ちょっとは言い方を考えて欲しい。ガンの末期患者に対しての無遠慮な余命宣告とそれじゃあ何も変わりません。
 ワンクッション置く優しさが欲しかった。
「言い方を変えても未来は何も変わりませんよ、角クン」
 僕の心象は少なからず変わったと思うけれど、それは言うまい。言ったってどうしようもなさげ。
「うー……いや、恨み言は止しておきます。ミケさんは口にするだけですし。にしたってそれが一番マシな未来予測ってのはどんな冗談ですか?」
「冗談を私は言えません」
 世界の終わりを自分が口にすれば。
 自分の言葉に従って世界が終わりかねないと少女は言う。
 流石に無理だと思うけれど、そんな世迷言がブラックユーモアとして成立するくらいになにしろ彼女の未来予測は外れない。
「もし言い過ぎてもいいのなら一番確率の高い悲惨な未来をお教えしますが、ロクなモノではありませんよ」
「もう、その時点で僕の未来はロクなモノじゃないって言い切っていますね、ミケさん」
「分岐は三つくらい有りますけれどね。何(ド)の道、角クンの未来はどの道を行っても屍山血河でして。こうも救いが無いシミュレートは正直初見です」
「それってつまり逃げられないって意味ですか?」
「それ以外の意味に取るのは難しいかと」
 不幸な未来予報、不運な未来予知、不安な未来予期は一切口にしないと少し前、僕に教えてくれた彼女の口から出て来たのは正しく彼女が自らに禁じていた「それ」で。
「……マジですか」
「マジです」
 だとすれば三ヶ蚕がその禁を破った理由として考えられるのは僕に覚悟を決める時間でもくれたのだろうと……それ以外の予測なんて立ちそうに無い。
 少女は預言者の常として残酷だが、ミケさんは少女の常として優しいのだから。
「救いが無い、ですか。ははあ。それはちょっと勘弁して欲しいですね。なんとかなりませんか、ミケさん」
 少女はうーんと唸りつつ首を捻る。眼を瞑って悩み込むも眉間に皺の一筋も作ってはいないせいでキスを強請っている風にも見える――これは僕の邪念がそう見せているのだろうけれど。それにしたって朴訥というか隙だらけというかなんとまあ、どこまでも緊張感に欠けるお人だ。
 感情が無いんじゃないかと錯覚してしまいそうになる。
 無感情ではないはずなのにどんな未来を口にしたって表情を決して崩さないのは、悟っているのか。
 ――それとも、諦め切った結果かも知れない。
 どっちも同じか。
「なんともなりそうにありません。運命にどこか抜け道でも有るのならば喜んでお教えしますが。例えば今から脇目も振らずに出来るだけ遠く――そうですね、大気圏外なら安心でしょうか――に行く事が角クンには出来ますか?」
 表情をチラリとも変えず楽しそうにも悲しそうにもせずに、あくまで淡々と言う彼女。悪びれもしないのは、別に彼女が直接的に悪い訳じゃないからそれはいい。
「僕はアニメに出てくるようなロボットじゃありません。あくまで人間です。大気圏脱出なんて出来ませんよ。精々で県外に三日間逃亡が関の山です」
「あくまで……あくまで人間でいたいですか?」
 本当、酷い事をサラリと言う。
「当たり前でしょう?」
「なら、悪い事は言いませんから私としては早急に命を絶つ事をオススメしますね」
「たかが学校を一日サボっただけでそこまで言われる緊急事態が発生だとか、僕はどこまで不幸の星に愛されているのかとても不安でしょうがないです」
「不幸に愛されるのは『これから』ですよ」
 相変わらずよく分からない事を分かりきった事のように言うのが好きな人だ。
「これから?」
「あ、少し言い過ぎました。今のは忘れて下さい。その内、分かりますから」
 三ヶ蚕に過言は無い。二言も無ければ失言も無い。それを極度に恐れるからこその彼女の口調はスロートーク。だとしたら今の「失言」は裏返しにして意味を持つ。彼女に出来る僕への最大級のヒントメッセージなんだろう。
「分かりました。忘れます。父方の祖父が鶏なんで忘れるのは得意なんですよ。実は三歩しか記憶が持続しない記憶障害なんです、僕」
 たった今作ったその設定こそ、きっと三歩歩けば忘れるような嘘八百。
「そう。なら良いです。角クン、今朝は下駄箱前の今月度行事掲示板を見ましたか?」
「いえ、見ていません」
「そうですか。では見てきた方が良いですよ。昨日の夕方から新聞部の『例の』学生新聞が貼られています。一面を飾っているのは――」
 三ヶ蚕は僕の眼を見る。鈍色の眼に映っているのは僕か。それとも僕の未来か。ゆっくり少女の腕が上がっていく。人差し指を真っ直ぐに伸ばして、指し示すのは預言者らしくしあわせな結末であって欲しいのだけれど。
「角クンでした」
 学生新聞。ああ、それだ。今朝から感じる衆人環視の理由は。間違いない。他に思い至る点が一つも無い。有る事無い事、有象無象を記事にする新聞部の悪行は有名で泣かされた生徒は数知れず。
 四月に入学して、たった五ヶ月。夏休み丸々一ヶ月を抜きにしたら四ヶ月。
 一体何人が犠牲となり、保健室付きカウンセラーに仕事を与えたか。少なくとも両の手では足りない。ジャーナリズムは誰かの破滅と隣り合わせ。人の不幸は蜜の味。大衆好みの甘臭いハニーシロップ。掲示板に張られ生徒が群がるその様はカブトムシやクワガタと大差無い気がするね。
 でもって、今回のターゲットは僕って訳だ。
「……何が書かれているんですか?」
「百聞は一見に如かず、ですよ。自分の眼で確認してくるのが一番間違い有りません」
「――ですね。見てきます!」
 実は既に居ても立ってもいられなくなっていた僕は少女に向けて別れの挨拶をする事すら忘れ、居心地の悪い教室を飛び出していた。
「いってらっしゃい。あ、先に言っておきますが全ての黒幕は瓜生(ウリウ)先輩です」
 預言者の最後の予言も頭に留める事無く。

     

 行事掲示板の前はごった返していた。学生新聞が張り出された朝は大体こんな感じで、同じような光景を僕は五、六回見ている。その度に他人事を決め込んで誰とも知れぬ被害者に心の篭らない念仏をあげたのだけれども。
 事、これが自分の身に降りかかってくるとなれば堪ったものではない。この人込みの中に今から突撃しなければならないのは憂鬱だったが、これも先人の通ってきた道。
 散々踏み固められている割には獣道で茨道なのはどういう事だろう。
 新聞を見飽きた生徒が次々に順番待ちとテンポ良くローテーションする。その誰に促されるでもない野次馬の行儀良さに若干見入っていると、僕の存在に気付いたのか少しづつ周りが囁き出した。アイツじゃないのかとか、今回の犠牲者が来たぞとか。聞こえてるってば。何のための小声なのか分かったモンじゃありゃしない。
 でもって、やっぱり「犠牲者」なんだ?
 はあ。溜息と入れ替わりに深呼吸を一つ。さて、始めますか。
「すいません、ちょっと通して下さい!」
 僕は小さく、けれど通るように気持ち高めの声で叫ぶ。ようやく主役がやってきたかと人込みが左右に割れていくのはこちらもローテーション同様慣れた調子。恐らく過去の報道被害者たちも全く一緒で、彼らから迎えられたのであろう。海の底を歩き行くモーセの気持ちの何十分の一かを味わいながら一歩一歩生徒に見守られて歩く僕。
 たった三メートルの地獄の行軍だった。時間にすれば五秒も無い。ただし地球重力は瞬間的局地的に軽く三倍くらいにはなっていた気がするけれど。
 さて、肝心の新聞の内容だが。僕の脳内をクエスチョンマークで埋めるのに十分な見出しと写真だったのは否めない。どうしてこんな事が出来るんだ? そう思わざるを得ない内容だった。
 なぜなのか。簡単明瞭。単純明快。
 この写真が撮られた日、撮られた時間に学生は学校に居るから、だ。
 喫茶店、今年度何度目かも忘れた私的創立記念日、私服の男子高校生、眼に黒い線、彼の手元には湯気を吐く事に飽きた元ホットコーヒー、日付は昨日、時刻は午後二時十四分、向かい合う私服の女子高校生、眼に黒線、申し訳ばかりの店内照明を照り返す見覚えの有るブロンド、まるでセロファン紙でも縫い付けたような瑞々しい唇を弄る白く細い人差し指、ガムシロップの入らないカフェオレなんて存在意義がよく分からない。
 それは紛れも無く、僕と如月灯里の密会現場だった。
 冒頭の文をここで繰り返そう。
 喫茶店で男女が一対一となれば、第三者がそこに極めて一方的に恋愛模様を推定した所で横暴とも一概には言えないことくらいはいくら男女間の機微に疎い僕であっても知っている。その日、その時間の少年少女も二人きりで喫茶店に入っていたのだから、もしくはこれも青春と揶揄される類ではあったりするのだろうか。
 ――あったりするらしい。
 見出しには大衆週刊誌そのままの下品な煽り文句が踊る。これはライタがワザと意識しているに違いなかった。にしたって尾ひれ羽ひれに背びれ胸びれまで一通り付けなくてもいいだろうに。ここまでされては鰻だってゲテモノ。サービス過剰は嫌がらせ以外の何物にも換わらない。
「……有り得ねえよ」
 僕は頭を抱えた。言うほど特徴的な外見をしているつもりはないが、それにしたって眼を隠したくらいで誰だか分からなくなるくらい無個性、没個性ってワケでもない。そんなヤツは少数派だと思う。
 やるんだったら顔を完全にモザイク消しくらいして貰わないと。そりゃ一発でバレるって。
 これは眼に黒線を入れる意味が果たして有ったのだろうか? 馬鹿にされているようにしか僕には思えないのだが。一応、未成年への配慮をしている、とでも?
 ――何様だ、ウチの新聞部は。
 いや、一応は正義なのだと思う。それは学校をサボってデートに明け暮れる男女を糾弾する内容であるなどとは疑いようもなかった。
 食い入るように見ている内に、ふと周囲から生徒のヒソヒソ声が消えている事に気付いた。腕時計を見るとホームルームの開始時刻を二、三分過ぎている。なるほど、品行方正な生徒諸君は僕のスキャンダルを嘲笑うだけ嘲笑った後、それぞれの日常に戻っていったって事か。
 所詮、他人の不幸なんてこんなもの。本気になって騒ぐヤツなんてどこにもいない。少しでも毎日に波風を立てるイベントが欲しいだけなんだ。僕にも身に覚えが有る。
 ――有り過ぎる。
 しかし、妙だ。
 いや、僕がホームルーム開始のチャイムに気付かなかった事も確かに「どれだけテンパってんだよ、お前」といったものだけれど。けれど、妙とはその事ではなく。
 他人が学校をサボって女の子とデートしていた――言ってはなんだが、「そのくらいで」「こんな程度で」いったいどこの世界の高校生がはしゃげるだろうか? それも校内総出と来たモノだ。
 肴にしても薄味過ぎる。話題の種としても下種の部類だ。
 三流ゴシップ誌でもスキャンダルを狙う相手は選ぶ。名ばかりの芸能人では衆目を集められないから。その理論で行けば僕などを取り上げて記事にした所で――ああ、そうか。
 この記事で見るべきは僕じゃないのか。
 どうやらパニックの余り自意識過剰に陥っていたらしい。自分ばかりが被害者であると思い込んでしまっていた。人間の被害妄想は中々に根が深い事を我が身をもって知る次第。
 自分を中心に世界が回っているワケは無い。主役は常にどこかの誰かだ。
 探偵も。ヒーローも。超人も。ラッキースターも。
 僕はいつだって添え物でしかない。通行人Aでしかない。村人Bでしかない。そういう役に甘んじてきたし、これからだって甘んじていく。
 話が逸れた。結論から言えば。これは僕の記事ではなく、如月灯里の記事なんだろう。
 荷稲高校七不思議を塗り替えようとしている彼女。「実習棟の幽霊階段」のからくりは知る人ぞ知る代物になってしまった為、これを七不思議から外して新たな七不思議「一年六組の透明少女」として不名誉にも如月は加わろうとしている。
 恐らく本人は知る由も無いだろうが。だって、学校来ないし。
 しかし、これは如月が悪い部分も大いに有る。少女が不登校なのは前述の通りだが――それなのに、テスト後の上位成績者発表に彼女の名前は必ず存在している。
 ちょっとしたホラー。
 出席簿には名前は有る。在校生名簿にだって。つまり、書類上は存在しているワケだ。まあ、 これだけなら只の高校デビューしたひきこもりで話は終わる。
 だが、テストの成績。こればっかりは不登校では説明が付かない。だから生徒たちは口々に、好き勝手に、そして誠しやかに噂する。担任は如月の事に関して決して何も喋らないので噂にブレーキはかからない。
 気付けばそこには、七不思議の一つを立派に張れる幽霊少女の逸話が出来上がっていた。金色の髪に青い瞳、フランス人形みたいな外見をしている、というおよそ日本の学校には似つかわしくない怪談も有ったものだ。
 さて、ではここまでの事前情報を持って問題の学生新聞を見てみよう。すると記事の内容はガラリと様変わりしてしまうのがお分かり頂けるだろうか。
 金色の腰まで届く長い髪、眼の色はプライバシ配慮に阻まれて判別付かないがそれでも美形であろう事に疑いを持つなど出来やしない。一本線を引いたような通った鼻筋に研磨した大理石で例えたくなる頬。まるで等身大のフランス人形の、彼女。
 記事は煽る。この日、学校を休んだ生徒は少ない、と。一体この少女は誰なのか、と。「あの怪談で謳われる少女」にとてもよく似てはいないか、と。
 なるほどね。
 そりゃ注目されるはずですよ。
 今までずっと七不思議扱いされていた女子生徒が実はも何も無く普通に実在していて、でもってそれが在学中の男子クラスメイトと付き合っているとなれば。
 いや、付き合ってはいないけど。
 ……で、謎が解けたのはいいのだけれど。これからどうしようか。人の噂は七十五日。だから我慢しなさいって意味なのだろうけどその解釈はポジティブも良い所。普通の感覚で言わせて貰えば二ヵ月半とか長過ぎる。馬鹿にしてるのか?
「転校でもしようかな……」
 呟いた。二時間目がとっくに始まっている時間、僕は実習棟の屋上、貯水タンクの影に寝そべってぼんやりと青空を見上げていた。
 ――ここに居るのは一人だと、思っていた。だから返答が有った事に僕は驚いた。
「そりゃーイイ考えじゃん」

     

 タンクを挟んで向かい側、階段室の方から聞こえたのは女の声。遮蔽物のせいで姿は見えない。彼女は――いや、女性なのかどうかを声からだけで判断していいものなのか――ソイツは僕以外誰もいなかったはずの屋上にいつのまにか居た。
 まさしく、いつのまにか。
 ここに来た時、僕は先客がいない事を確認しているし、そして屋上へと続く唯一のルート、「幽霊階段」の傍にずっと寝転んでいた。そんな僕が気配はおろか足音にすら気付かないなんて有り得ない。
 あの階段はただでさえ音が反響するっていうのに。
「――どちらさま?」
 ホワイトグレーのペンキのそのまた向こう。夏と秋の間の風にさらわれて、人の気配はこちらまで届かない。しかし返答は有ったからどうやら空耳ではないらしい。
「さアてね。……あー、違うわ。今の誤魔化し方は我ながら違うわー。名乗るほどのものじゃァありやせん、とかさ。どうしてこういうのがスッと出て来ないんだろ、アタシ」
「あなたの拙さなんて知らないよ……じゃ、質問を変えるけど」
 両手を付いてゆっくりと上体を起こす。大きくあくびを一つしたら再度質問。
「足が無かったりしないよね?」
 馬鹿らしいと笑われてしまうかもしれないけれど。しかし学校を住処にする自殺した女学生の地縛霊だとかそんなのでもない限り、僕に悟られる事無くこの屋上に現れるなんて芸当は不可能だと思う。常識的に考えて、ってヤツ。
 幽霊を引き合いに出す辺りがなんともはや常識的に考えられていないんだけど……ここは一つ言いっこなしでお願いしたい。真実、この実習棟屋上へのアクセスは非常階段すらないオンリーワンなのだから。
 後は――空から落ちてきた美少女の可能性とか? 自分で考えておきながら阿呆臭い事この上無いなあ……幽霊少女の方がまだ現実味が有る気がするのはなんでだろう。
 どっちも有り得ないって点でイーブンの筈なのに。不思議。
「自慢ですけど美脚」
「あ、そうですか」
 そっか。美脚の幽霊か。幽霊に足が無いのが常識だったのは明治時代くらいまでだしね。今の世の幽霊は足も有れば恋もするそうで。恨まない呪わない祟らない美少女地縛霊が最近の流行だと、それくらいは僕だって知っているさ。時代のニーズとは幽霊よりもタチが悪い。
 ……それでも出没時刻くらいは選んで貰えたらと思うのは僕のわがままだろうか。日によっては残暑という言葉がオーダーメイドのスーツみたいにしっくりと来る九月下旬、陽も照り出した十時前。ホラーテイストとは対極に位置する今現在なのは間違いない。
 しかも快晴と来てしまえば、もう。
 なんだかなあ。
「なんでこの時間帯にこんな場所に居るの?」
「お互い様じゃねえ? 授業中だぜ。まったく学校をなんだと思ってんだかさあ」
「それは学校をなんとも思っていない人間が言う台詞だと僕は思うんだ」
「くひひひ。そんな事は無いって。学校は楽しいモンだし。退屈は時間の贅沢な使い方だろ。ただ勉学に勤しめるってのは学生の特権。命短し、って言うじゃん」
 「命短し」に続くのは「恋せよ乙女」だろ。多分、「少年老い易く、学成り難し」の方を引き合いに出そうとしたんだろうなあ。
 非常に短いやり取りではあったが、なんとなく分かった事が一つ。少なくともこの貯水タンクの向こうに居る女は教師ではない。生徒か、生徒の幽霊だ。
 失礼を承知でなんか頭悪そう。喋り方とか、雰囲気だとかが。こんなのが教師だったら僕は転校も視野に入れるかも分からない。
 とは言え、教師ではないと判断した理由は単に馬鹿っぽいってだけではなくって。授業に戻れとも促してこない点やそもそも教師陣はこの屋上の存在自体を知らないのではないかという疑惑などからの推量だ。
「それなら授業に戻ったらどう? 命短し、なんだろう?」
「ところがどっこい、そうもいかないんだよねー。えっとさ、アタシはアンタに用が有ったから会いに来たんだ」
 僕に用件? 言われて声の心当たりを探すも記憶の海から引っ張りあげた箸には何も引っ掛かりはしない。初対面(顔はまだ見てない)かな。
「ふうん、そう。あなたが誰かは知らないけど、僕は名前も知らないあなたに用は無いよ」
「まあ、そう言いなさんなって。アタシがどんだけ苦労したか。探したぜー。超探した。校内を隅から隅まで、それこそ掃除用具入れからゴミ焼却炉までくまなくさア。お陰で白い眼で見られる事、山の如し」
「見上げられてるのかよ!」
 新しい風林火山が誕生した瞬間だった。
 間違いない。この子――超の付く馬鹿だ。故、武田信玄公に土下座で、更に頭を地面にグリグリと押し付けさせられて謝らせるレベル。「山の如し」を「たくさん」的な意味合いで使っているヤツの存在を僕は初めて知った。
 意味不明な事、風の如し。積極的なスルー推奨って意味合い。
「それでふと校舎屋上から周りを見回してみたら、まさかの実習棟屋上とかさ。ビックリしたよ。アタシでも無いのにこんなトコ登れるヤツがこの学校に他にも居たんだー、ってさ」
「え?」
 登る? いやいや、ちょっと待て。普通に、常識的に、客観的に、現実的に考えて「階段を登る」という文から「階段を」の部分を省いただけだ。うん、そうに決まっている。
 ロッククライミング的な物言いに、聞こえただけ。錯覚錯覚。
 だってさ。三階の窓からここまで配管伝いに登ってくるとか逆に見てみたいくらいだし?
「んっと……『幽霊階段』はあなたが思っている以上に周知だよ。ちょっと調べればすぐにこのアクセスルートは分かるはず。公然の秘密、ってまさしくそんな感じ」
「は? 幽霊階段? え、それって実習棟の幽霊階段のこと? ちょ、マジで! アレって実在してたワケ!? いや、あー、聞いてないし知らなかったんだけど! どういう事! どうして誰も教えてくれなかったの!?」
 僕の背中を一筋の嫌な汗が流れる。
 それはつまり、一体この女はどこからこの屋上に辿り着いたのか、であり。そしてまた、さっきまで冗談めいて考えていた幽霊少女説が笑えない勢いで現実味を帯びてきた事に起因しているのは言うまでも無かっただろうか。
「……質問、してもいいかな?」
 恐る恐る、なんてみっともない形容を自分にだけは使いたくなかった。
「ハイハイ。聞いてあげるから、その後でアタシの用件も聞いてよね。はい、どーぞ」
 恐る恐る、核心部に触れてみる。それは瘡蓋の下がもう治っているのかどうかを確かめるような慎重さで。
「どうやってこの屋上に来たのかな?」
「え? どうやってって……フツーの走り幅跳びだけど?」
 なんてこった。
 彼女は幽霊少女ではなく空から落ちてきた美少女の方だった。
 …………走り幅跳び?
「ねえよ!」
 全力で感嘆符を発声するなんてのは実に久し振りで。
「隣の校舎からどんだけ離れてるか、その正確なところなんて知らないけども! けども! それにしたって走り幅跳びでヒトが跳び越えられる距離じゃ絶対に無い!」
「まあ、世界記録は九メートルにすら届いてないしね」
「それですらどうせ男子の記録だろ!」
「うん。女子は七メートル半だったと思うよ。この間、夕飯の時に見てたテレビの世界陸上で丁度やってた。アイツら低レベルな争いしてんよねー、まったく」
 くひひ、くひひひと。朗らかとは正反対な笑い方をする彼女。人の神経を無理矢理逆撫でする、嫌な笑い方だった。年頃の少女であれば意識的に直しそうなものだが、しかし他人事。
 勿体無いと思うのは僕の役割じゃない。名前も知らない彼女の親御さんか、友人の務めだろう。
 ……じゃなくって。
「で、本当はどうやってここに来たんだい? 僕が居る前からずっと居た、とか? 僕は昼寝を邪魔されるのが何より嫌いで一時間前に一応ぐるりと見回ったのだけど、その時からずっと隠れてでもいたのかな?」
 ご苦労な事だと思う、本当に。ただ、その場合はなぜ僕がここに来る事を知っていたのかという別の疑問が浮上するのだけど見て見ぬ振り。
「いやいや。だからさ、違うって。そんな面倒臭い事してどうすんの。アタシは逃げも隠れもしない。よく考えてごらんよ。たかだかさ、二十メー……うん、二十メートルくらいだね、ジャスト。それくらいなら、ほら、何とかなりそうな気がしない?」
 しねえよ。どうやって世界記録の倍以上を跳べって言うんだ。足でも改造してもらうのか? 秘密組織に?
「武器は勇気だけだよ」
「加速装置くらい持っておこうよ」
 サイボーグにだけはなりたくない。

     

「サイボーグ? そんなの実在するワケ無いっしょ!」
 僕の呟きに大笑いするタンクの向こうの推定少女。こんな独白すら漏らさず拾う高性能なその耳元でもってテレビのボリュームを最大まで捻ったような大音量で言ってやりたい。
 世界記録の二倍超を走り幅跳ぶ(動詞活用)女子高生の方が実在しないと。しかも四階建ての校舎の屋上から屋上までと来れば地上十メートルは下らない。落ちたら死ぬだろうなと思うには十分な高度だ。
 普通は彼女の言う行為を自殺と定義するだろう。大多数はそれを自殺と判定するのは間違いない。
 普通ではないとは、つまり異常だ。大多数でないとは、それすなわち異端だ。幽霊少女の言動は異常で、異端――ま、冗談である事に疑いは持たないけれども。
「はっ! 冗談じゃないし」
「なら異常者で異端者だね、君は」
「異常? 異端? なあなあ、他とは異なる事の一体何がそんなに怖いのかい、角隠クン?」
 ――名前を呼ばれた。ああ、これで人違いって線も消える。
「別に怖がってはいないよ」
 僕は言った。けれど僕がその二つの言葉に持つイメージは揃ってマイナスだ。
「――怖がってはいない」
「ならさあ、なぜ避けるんだよ?」
 異質も異色も。異なる事は差別に繋がる。だから――そうだ。
「人とは異なる生き方って面倒臭いだろうなって本当、ただそれだけでさ」
「面倒臭い? ははっ、イマドキっぽい考え方じゃねーの。人と違ってたら面倒臭い、か。違いねーわ。メンドーでメンドーでさあ」
「だろう?」
 面倒。だから誰も彼も足並みを揃える。僕も、そしてきっとまだ顔を見ていない彼女も。レールをはみ出すと言ったところで学校を留年にならない程度休むとか、そんなちゃちなものでしかない。
 どうして人が「普通」ばかりなのかはそこに尽きる。結局のところ、普通の生き方とは一番楽な生き方とイコールなのだろう。誰だって楽はしたい。苦労はしたくない。だから普通になる。
 そんなものだ。川の水が上から下に流れるのと同じくらい当たり前な自然の摂理。
 ……そう、思っていた。
「だからって足並み揃える気にはならないけどねえ、アタシは」
「え?」
 自然の摂理に逆らう、不自然な彼女。
「何を素っ頓狂な声挙げてんの。子供でも分かる当たり前の話だって、こんなん。人と同じじゃ、面白え目には遭えないんだぜー?」
 つまらないヤツだなと、そう言われたように聞こえた。そうとしか聞こえなかった。
「いつだってさ、発見が出来るのは第一人者だけで、スポットライト浴びんのは一等賞が一番派手だ。特別じゃないと眼に留めちゃ貰えないし、特殊じゃないと重宝されないモンじゃんなー。こう考えると普通ってのは総じてやっぱ損してんだよ」
 日常をつまらないと。下らないと。うんざりだと。そう日々愚痴り続ける僕は、自分から面白い事を迎えに行こうとはけれど決してしてこなかった。面白くしようと努力をした記憶も無い。世界をつまらないと言う、その人こそがつまらない人だってのも散々どこかの誰かから聞かされていた。
 前向きな事は誰にだって結構簡単に言える。ちょっと頭をひねるだけで定型句の二、三は浮かび上がる。コンビニや、CDショップの有線お得意のポップミュージックが歌い上げそうな安っぽい内容は僕の心にまで響かない。
 何のアクションも起こさず、待つばかりで自ら動く事の不利益ばかり説き、疲れるからと利益には見向きもせず――そんな自分は指摘されなくても理解している。誰よりも自分自身の事だから。
 運動会や文化祭などで「精一杯頑張ろう」ってクラスメイトから同意を求められたら、「どうぞご勝手に」と返すだろう。
 僕はそういう人です。
 所詮、通行人A止まり。
「当たり前の話じゃん?」
「うん、当たり前の話だ」
 本当は退屈を愚痴る権利すら持っちゃいない。知ってる。でも、自分から動くことなんて。
 きっと僕には一生出来ない。
「だよねー。……あ、もしかして今、会話の切れ目? 切れ目っしょ? だったら、そろそろアタシからの用件を言ってもいいかな? いい?」
 そういえばそんな話だった。断る理由を咄嗟に思い当たれなかったのが悔やまれる。
「ええ、どうぞ」
 用件を聞くか聞き流すかは別として、一人喋繰らせるだけならまあいいか。伸ばしていた足をあぐらに変えて座り直す。右膝に頬杖を突きましたらば聞く姿勢の完成だった。
 右から左に流すだけで聞くつもりはさらさら無いけど。
 一つ咳払いをした「右方のタンク奥の」彼女は「僕の左耳元で」喋り出した。
「――それじゃ、本題」
 ……ぞくり、と。
 唐突に、文字通り一瞬に。気付いたらそこに少女は居た。嘘みたいな自然さで。後ろから、僕の顔の左横、肩口にもう一つ顔が並んでいた。音も無く――いや、耳に届くのは生々しい呼吸音。がさがさと、二人分の制服が擦れて背中で音を立てる。
 本を読む彼氏に対して「何を読んでいるのかな?」と彼女が襟元から覗き込むような、悲しいかな客観的にはそんな可愛らしい姿勢で少女は。

「如月灯里には関わるな」

 そう言って、僕に忠告した。
「あの子は普通のヤツには手に余るよ。瓜生(ウリウ)の言ってた例え話が分かり易いから引用するけどさ。『所有者が死ぬっていわく付きのダイアモンドみたいなものだから』。賢明なら、普通ならそのいわくを知ってまでダイアモンドを持っていたいとは思わない。角隠クン、アンタは普通だ。普通に賢明だ。だからあの子にはもう今後関わらないとアタシは思う」
 幽霊少女では無かった。幽霊にしては体が温く、幽霊にしては心音が響き、幽霊にしては背中に当たる胸があんまりにその存在を自己主張していた。服越しに押し付けられているのも初めてなら、そもそも年頃の女子とここまでの物理的接触を果たすというのが僕には初めて過ぎる経験で。
「……当たってますが」
「妙な気を起こさない方が身のためだよ。アタシとしては得物がどう動いた所で仕留められる体勢を取っているに過ぎないんだから。耳を食い千切る、首を絞め落とす、前方に逃げれば両足を容赦無く折るから」
 出来ればもう少し色気の有る初体験が良かったなあなどと考えても後の祭り。しかし物騒な事をなんでもなさそうにサラリと言う少女だ。
「あのさ、真に迫る忠告をしてくれてるトコロ悪いんだけど」
「忠告じゃないよ。間違ってる。アタシが今やってるのは脅迫だ」
 脅迫。薄々そんな気はしていた。世の中は理不尽。僕が何をやったって言うのだろう。
「って言っても人違いだったら流石に可哀相だから確認したげる。あの写真の相手は如月灯里で間違いないよね?」
「あの写真?」
「学生新聞!」
「あー、ああ。……ああ。」
 嘘を吐いてもいい場面だろうか。でもなあ……田舎だから金髪って中々もの珍しいし。とても嘘を通し切れる気がしない。
 如月灯里の金髪は鮮やか過ぎる。モノクロ写真でも違いが分かるのだから、相当だ。
「間違いないよ。彼女は如月灯里だ」
 登校拒否の透明少女。一年六組――僕のクラスが出所の七不思議候補。
「そ。だったらもう金輪際会わないって今ここで誓ってくれない? そしたらアタシはこれ以上アンタに絡まないからさ、角隠クン」
 少女は僕の背に上体を預けたまま右手を僕の前に持ってくる。小指を立ててるのは指切りでもしろって……意味なんだろうな。
「約束を破ったら?」
「指きりげんまんの指切はともかく拳万(ゲンマン)は超得意なんだぜ、アタシ」
 ……履歴書の特技欄には絶対書けない類は誇らしげに言うものじゃないよ。
「君、脅迫のセンスが有るよね」
「くひひ、そんなに褒めるな褒めるな」
 ……。
 …………全く褒めてねえよ。
「で、どうする? 約束する?」
「約束しない、って言ったら?」
「約束したくなるようにしてやるだけだけど?」
 少女は僕の目前でこれ見よがしに小指を振る。まるでメトロノームか催眠術のように。
「興味深いね」
「いやいや、関心を持たれるほど器用な真似じゃないってば。ただの力技」
 左耳に何か硬質のものが当たる。吐息が温もりを維持したままに当たる距離。
 ――歯を、立てられている。なるほど、力技。これはまたえらく色仕掛けじゃないか。
 えらく……いや、エロく?
「知ってる? 耳たぶくらい噛み千切られても人生に支障は無いんだぜ?」
 前言撤回。ピンク色の展開は僕には訪れないらしい。少女の思惑はバックドロップ並に力技だ。
 指きりを促そうと少しづつ柔らかい皮膚に歯が食い込んでいく。身じろぎ一つでもすればその瞬間にバチン、の未来は容易に想像出来た。
「本気?」
「冗談で見知らぬ男子にモーション掛けたりするような売女じゃねーぜ、アタシは」
 耳に歯を立てたまま喋られるのは流石に止めて頂きたい。
「へえ、意外だな。身持ち、堅いんだ?」
「まあ、ヤマトナデシコだしね、これでも」
 大和撫子。でも彼女に限っては括弧して肉食系って補足をしなきゃならないだろう。顔を拝んでやりたかったが耳を咥えられていてはそれも適わない。
 このまま食い千切られたら被害届も出せないな……。
「そうかい。話を戻すけど。約束をする必要なんて有るとは思わないけどね。違う?」
「なんで?」
「そんな忠告をされなくても僕はもう二度と如月に会う事は無いと思うよ。先ずさ、どうやって如月に会えって言うのさ。エンカウント条件が不明過ぎるだろう?」
 なぜなら如月は不登校だから。住所も知らない。連絡先も知らない。知る気も無い。探すなんて以(モッ)ての外。
 割とどうでもいい。
「あっそ。ならいいんだけど」
 こちらが拍子抜けしそうなほど簡単に、少女は牙を収める。
「それにしてもさ、アンタ」
「何かな?」
「どうしてアタシを怖がらないんだ?」
 少女は心根から不思議そうに聞く。気持ちは分からなくも無い。
「怖かったさ」
「その態度、正直に言うが気持ち悪いぜ?」
 知ってる。自分の気持ち悪さなんか。分かりすぎるくらい知ってる。
 傍観者体質と姉が呼ぶ僕の得意――特異。
「普通はさ。一瞬の内に背後に回りこまれたりなんだりしたら比喩表現じゃなくって本当に、跳び上がるほどに驚くモンなんだよ。耳に歯を立てられりゃ身体が竦む。でも、それで良いんだ。反射ってのは理屈や理性じゃどう抑えようもないからな」
 生存本能って言うものが。
「なんでそれが無いんだよ、アンタ?」
 未来を見ないから。
 無い。

     

 とは言え本当の所を言って深入りさせる訳にもいかないしな。この間の如月に少しだけ本音を吐露してしまった一件は、アレは只の気の迷い。
 深い意味なんて有りはしない。
「鈍感なだけ」
「そんな訳有るか」
「……そんな訳有るんだよ。有って貰わなきゃ困る。いや、別に僕は困らないけど、僕の周りの人が困るだろう。だから鈍感って事にしておくんだ」
 僕に生存本能が欠けている事実を知っているのは今のところは姉だけだ。両親も弟妹も知らない。知らせる訳にもいかなかった。自分たちが産んだものが失敗作だと気付かせてはならない。血の繋がったものが人間未満だなんて嘆かせてはいけない。
 惨めになんてなりたくはないから。誰よりも、僕自身が。
「そんなの」
 僕から身体を離しつつ少女は言う。
「どう考えても出来損ないだ」
「神経が絶滅してるくらいで酷いな、その言い草は」
「くらい? くらいって言った、今? 反射神経が無いってのは、生き死にに関わる重大欠陥だってもしかして分かってねーのかよ? アタシなんかは感心しちゃうぜ。そんなんで良く今まで生きてこれたなー、アンタ」
 さっきまで僕を怖がらせようと躍起になっていた彼女は、今やすっかり脅迫の意図など忘れてしまっているらしい。背中から圧迫感が消えたのがその良い証拠で、そろそろ振り返ってその顔を拝んでやってもいい頃合いか。
「死ぬのなんか怖くないよ。生き続ける方がよっぽど怖い」
 言いながらゆっくりと振り返る。少女は、その身体が半透明で後ろが透けて見えなどといったおどろおどろしい事も別段無く、そして黒のストッキングで覆った足は宣言の通りにモデルのように形良く長かった。
 学年を表すスカーフの色は水色。って事は同学年――一年生か。ちなみに二年は紫、三年は緑の色分けとなっていて、男子の場合はネクタイに入るラインがそれぞれに対応している。
 余談だが現三年生のネクタイが一番人気だったりする。
 少女の容姿についてもう少し語ろう。美人――そう、特筆すべき美人だった。腰まで届きそうな黒髪はその一本までが意思でも持っているように真っ直ぐに整列して地球と垂直に枝垂れ、吊り目がちでありながらも大きなアーモンド型の瞳を縁取る睫毛は挑発的に長く深い。
 瞳の中央に星空が映りこんでいた。日本人でも中々見かけない、真黒の虹彩。
「へえ、もっとおっかない感じかと思ったら」
 素直に僕が口に出した感想を受けて少女がニヤリと笑う。
「なかなかどうして美人だろ? だから言ったじゃねえか、アタシはヤマトナデシコだってよ」
 違いない。少女は(見た目だけならば)大和撫子と言われて僕が思い浮かべる理想像に非常に近似していた。黒い髪、黒い眼、黒い制服、黒いストッキング――意図したワケじゃないだろうが結果としての黒一色が功を奏して、その持つ肌の白さは一層際立って見える。浮かび上がるようなコントラスト。白い、手と首筋はそれが神聖なものであるかのような気さえ僕に抱かせた。
 印象は白黒(モノクロ)。なぜだか少女の纏うスカーフを邪魔に思ってしまう自分が居た。
「自分で自分を美人って言ってしまうのはどうかと僕は思うけれど」
「ちっちっち。素人考えだぜ、角隠クン。そりゃ並大抵の美人の場合はそうかも知んない。だが美人もアタシくらいのランクになると謙遜は嫌味を通り越して最早罵倒なのさ。分かる? 罵倒だぜ、罵倒? そんなん殴り掛かられても文句言えねー」
 なるほど、そんなものなのか。罵倒する側でもされる側でもない僕には一生縁の無い話だからあまり今後の参考にはならないかな。
「同性の美形見ると殴りたくならない?」
 とんでもない事を当たり前のようにサラリと口に出す女だった。瞬間、息を呑む僕。
 ザ・肉体言語。殴り合って分かり合うとかフィクションの中だけにしておいて貰いたい。
「いや、アタシも殴りたいとまでは思わないんだけどね。でも、こういうのって結構世間一般の感覚らしいぜ? 出る杭を打つって言うじゃん。そういう民族性なんだ、この国は」
「君がそれを思わないのは君自身が美形だからだろうね」
「否定しないよ。けど肯定もしない。アタシは妬まない女だから」
 少女は立ち上がって、その持つ黒髪をバサリと一度払った。
「妬むくらいなら努力しろよって思わねえ?」
 ――全くだ。
 そして、それが出来るくらいなら「苦労はしていない」のだろう、皆。
 なんて皮肉。努力するか、苦労するか。そんなのは二択ですら無い。呼び方が違うだけで本質は同じものだから。
 苦労したくないならばそもそも生きていてはならないのだろう。
 懈怠(ケダイ)のうちに死を夢む、と詩を読んだのは中原中也で果たして合っていたろうか? どうにも記憶が曖昧で、それなら引用するなよと言われそうだが。
 それにしたって良い言葉だ。ああ、とても惨めで良い言葉だ。
「思わない。努力なんて誰だってしたくない。妬み僻みは人間らしさだ。だったらそれを否定するのは人間を否定しているのと一緒じゃないか。僕は人間を肯定する。だから努力するのが当たり前だ、なんて風潮に惑わされたり流されたりしない」
 お題目を唱えるのは僧侶や教師だけで十分だ。
「僕に言わせれば妬まないという君の性格だって」
 白黒の少女は――ふ、と笑う。僕が何を言わんとしているのか理解しているように。そしてそんな事は言われるまでもないと目で訴える。
「人間性の欠如っていう立派な出来損ないだ」]

       

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Neetsha