Neetel Inside ニートノベル
表紙

鬼を食べる
現実的運命論3

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 深夜徘徊の誘いを拒む台詞はおろか、ぐうの音さえ僕の喉から出て来やしなかった。

 月の光は心をざわつかせるって通説を疑うくらいに、緑掛かったそれは優しく僕の前を歩く少女の金髪を包み込んでいた。
 光の加減で金寄りの銀に見えたりする。恐らく髪の色素が絶滅寸前なのだろう。それが脱色失敗か自前かは知らないし、そんなのは僕にとって別にどっちでもよかった。
 ただ、染髪でこの色は出せないだろうなとなんとなく思う。思うだけだ。
「如月ってさ」
 それでも無言で歩くのも味気無かったし、何よりも暇だった。月など三分も見れば普通に飽きる。
 世間話の種を他に持ち合わせていなかったので仕方なしに容姿の話を振ってみる。
「外国の血が入ってるのか?」
「どうして? ……どうしてそう思うの?」
「髪と眼の色。金髪も碧眼も、ここら辺りじゃちょっと見ない。田舎だからさ。学校で禁止されていたらそれに反発する生徒も稀だし……って、君は不登校だった。なら、関係ないな。髪は染めて、眼はカラーコンタクトな普通の日本人ってオチか」
 確かに白人に憧れてるって可能性も十分に考えられる。僕らの世代ならそう珍しい話でもないか。
 周りから浮いて目立ちたくないというのも。
 周りに埋没して自分を見失いたくないというのも。
 相反する思いはしかし、矛盾せずに共存するものだ。
「髪や眼の色を態々染めてまで変えて一体何になるっていうの? そんなものでは人は変われないわ。……面白い人ね」
 って事は自前か。
「両方とも遺伝よ。母親に似たの」
 振り返って少女は言う。立ち止まらずに、そのまま上り坂を後ろ歩き。今にも転びそうで、見ていて危なっかしい。
「遺伝。へえ、珍しいな」
「珍しい? そう――そう、思うの」
「なんだよ、その意外そうな顔」
「いえ、貴方が普通に普通の感想を出せる頭を持っているのが想定外、というか心外だっただけで」
 電話越しだけでなく面と向かってまで神経を逆なでするのが上手い少女である、つくづく。
「予想していた反応と違っていたから、釈然としないのよ。深い意味は無いの、本当に」
「深い意味が有ったら僕は君を見限って見下して三行半を突き付けてやるからな」
 三行半――いわゆる離縁状を必要とする程、僕と彼女の間に縁は繋がっていないだろうが。しかしながら縁が薄い内なら切るにも易いのは違いない。
 傷の処置は化膿前に。鉄は熱い内に、だ。
「あら、怖い」
 恐怖などは一つも感じていないだろう小馬鹿にしたような口調で彼女は。
「なら、続けて……同じく深い意味は無いのだけれど」
 あっけらかんと少女は。
「角隠君、私、聞いてみたい事が有るの。ねえ、貴方って」
 僕から眼を逸らして、流した視線は星の彼方。
「どんな女の子が好き?」
「え?」
 唐突に飛び出したのは予想外の方向からのアプローチ。正直、頭痛がしてきた。
 彼女の言を用いれば。そこに深い意味は無い。果たして僕の異性の好みを聞いているのは確かでありながら。
 それでもそこに深い意味は無い。
 ……でも一体、他にどんな意図が有って発せられる質問なのか、浅薄な僕にはとんと検討が付かない。
「……なあ、如月」
「深い意味は無いわ」
 何も聞いていないのに即答である。お前は超能力者か。読心術でも使えるのか。
 足を止めないインスタント・テレパシストに連れられ歩く。当初の目的であるはずの月見は早々にその意義を失い、ただの深夜徘徊と成り果てていたものだから、これで二人の間から会話が消失してしまえば本当に何をやっているのか本人達にすら分からない事態に陥りかねない。
 それだけは避けたかった。
 しかし、好きな女の子のタイプ、ねえ。そんなものを聞かれる日が僕に来るとは思ってもいなかっただけに、回答として使えるストックがちょっと思い浮かばない。
「前に言わなかったか? 好きも嫌いも無いんだって。嫌よ嫌よは好きの内じゃないし、愛情は憎悪の裏返しって意味に取られても迷惑なだけだけど」
「貴方の場合はどちらかと言うとマザー・テレサね」
「マザー・テレサ?」
 一瞬にして跳んだ話題を電子の速度で追いかける。会話の速度に振り落とされるのは自殺モノの屈辱。
「あーっと……ああ。ああ。愛の反対は無関心、って有名なフレーズで合ってる? 格言だとか弱くてさ。自信、無いんだ」
「合ってる。で、等しく無関心なの?」
 その質問への返答は以前にした気もするが。
「まあ、そうなるのかな。……っと例外は家族くらい。にしたってそれも性愛的な関心じゃないから。誤解なさらず」
「ふうん。マザコンシスコンの類ではないのね。少し安心したわ」
 眼に見えて安堵の溜息を吐く美少女。オイ、そんな眼で僕を見ていたのか、お前。
「あら、何を怖い顔しているの? マザコンってマザーコンピュータの略よ」
 マザーコンピュータの類とか言われてしまうような人間ってのを僕は逆に見てみたいけどな。
「だったらシスコンは何の略か言ってみろ」
「シスターコンシェルジュ」
「コン……悪い、もう一回言って貰える?」
「シスター、コン、シェ、ル、ジュ」
 お察しの通り、横文字も苦手な僕だったりする。
「……えーっと、で、そのコンなんとかってどういう意味ですかね、如月さんや?」
「そうね……マイスターとアテンダントを足したような職業、と言えばわかって貰えるかしら?」
 マイスター――その道のプロ。にして、アテンダント――案内役。頭に付くのはシスター――姉妹であるからして。よーし、碌な意味でないのは僕の頭でも理解出来ました。
「まだストレートにコンプレックスを疑われる方がマシそうだな」
「何? それじゃやっぱりシスコンだったりするの?」
「違えよ。どうしてそうなる?」
 月の光にでも当てられたのか、このクラスメイトは? 悪意の塊でしかない言葉ばかり投げてきやがって。野球なら百発百中デッドボールの迷ピッチャになれる天賦の素質。
「姉も妹も居るが、姉は恋愛感情を抱くには怪物過ぎるし、妹は年が離れてる」
「年が離れているからこそ良い、って思う人も居るらしいわね。別に、性的嗜好は人の自由だと私は思っているから気にしないでもいいのよ?」
「どうしても僕をシスコンにしたいらしいな……」
 歩みを止めず話し続ける。一体僕らはどこへ向かっているのか。如月の足は迷いなく、彷徨いも無いところから目的地は一応有るらしい。
「シスコン疑惑を晴らしたいなら、方法は一つじゃない?」
 なるほど、そこで異性の好みの話に回帰してくるのか。一応、バスケットボールのピポット的に本題に片足乗せての会話を如月がしていた事に少しほっとする。しかし。
「そうは言ってもね……」
「髪型とか服装とか趣味とか、性格とかスタイルとか、色々有るでしょう?」
「あれ? 僕、言わなかったかな?」
 人に興味が無いとは、人を個々として見れないと変換出来るんじゃないか。そう、いつか言われた事を思い出す。
 姉の言葉は僕を一々、こう……貫く。 
「人の美醜がよく分からないんだ。客観的に『美』と捕らえられるのか、『醜』と捕らえられるのかの判断がおぼろげに出来る……かな、ってくらい。だからルックスでは好きなタイプは無いんだと思う」
「美しいものは嫌い? 醜いものが好き? いえ、違ったわね。貴方は」
 月に照らされる如月灯里のその姿は多分、息を呑むほどに美しいのだろう。夜の風に長い髪を遊ばせて、金とも銀とも翠とも判(ツ)かない柔らかい光を辺りに振り撒く立ち姿は、一服の絵画に譬(タト)えてなんら遜色無い。
 けれど。
 僕は感情回路が断線しているから。
「角隠クンは好きも嫌いも持てない……そうよね?」
「ああ」
 持たないではなく、持てない。そうだ。それで正しい。
「よく、知ってるじゃん」
「なら、女の子の理想も持っていない……のね」
 彼女は踵を返す。ようやく、前を向いて歩いてくれるらしい。一安心だ。
 その背中に。
「一つだけ」
 声を掛ける。
「こうだったら、みたいなのは持ってる」
 振り返らず、けれど如月は足を止めて。
「聞かせて」
 月の光が降る音によく似た静かな声で催促する。だから僕は応えるんだ。
 手元のストックは一個だけ、そういえば、有ったから。
「出来るなら――僕なんかに恋愛が出来るなら、その相手はどうしようもなく不幸な女が良い」
「……不幸?」
「ああ、不幸。鬼みたいに不幸な女がもしもこの世界に居るのなら、きっと僕にはソイツしかいないと思う」
 鬼みたいに、鬼よりも。十分立派な出来損ない。
「どうして?」
「簡単な話さ。だって不幸の底なら」
 見上げた夜空はうんのつき。そして人間未満はこう思う。
「しあわせにするの、簡単そうだろ?」
 僕なんかでも、しあわせに出来そうなのは、そんな女しか考え付かなかったんだ。
 五秒ほど、少女は沈黙した。
「……角隠クン、貴方って臆病者ね」
 感想らしきものを口に出して、如月灯里は歩みを再開する。臆病者、か。まったくその通りだ。だけど――おっと、立ち止まっていては置いていかれる。少し早歩きで開いた距離を適正まで戻した。
 ……ん? 如月のヤツ、少し歩くペース早くなってないか? 気のせいだろうか?
「相手が不幸だったらなんて、人をしあわせにする力を持たない弱者の発想よ。恋愛においてすら楽をしようなんて物臭の極みでしょう」
 臆病、脆弱、物臭、全部ご名答。返す言葉も無いさ。そして、言われるまでも――無かった。
 それが僕だ。そういうモノが、僕だ。
「ねえ」
「あ、何?」
「……なら、ねえ」
「だから、『ねえ』の続きは何?」
 言うと、催促を待っていたように少女は一息に言った。まるで月に台詞が書き殴られていたように一息に。
「退屈な女よりもっと哀れなのはかなしい女です。かなしい女よりもっと哀れなのは不幸な女です。不幸な女よりもっと哀れなのは病気の女です。病気の女よりもっと哀れなのは捨てられた女です。捨てられた女よりもっと哀れなのはよるべない女です。よるべない女よりもっと哀れなのは追われた女です。追われた女よりもっと哀れなのは死んだ女です。死んだ女よりもっと哀れなのは――、
 哀れなのは――忘れられた女です」
 金色の髪を右手で払って。月光と街灯とを気だるげな一薙ぎで見事に切り裂いて。暗闇に華やかな光の蔓がうねる。
「故マリー・ローランサンはこう言ったけれど、貴方はどう思う、角隠クン? 世界で一番不幸な女って、果たしてどんな女かしら?」
 世界で一番不幸。不幸の定義。しあわせの対極。幸せの定義は――不明。それでも、思案に面白いテーマだとは思った。
「ちょっと待って。今、考える」
 もっとも、哀れで。
 ちっとも、救われず。
 もっとも、無意味で。
 ちっとも、許されない。
 そんな女はどんな女だ。想像しろ、僕。
 僕が好きになってみたい女は、一体どんなどうしようもない女なのか。……って、あ。
 それだ。
「忘れられた女よりもっと哀れなのは――どうしようもない女、だ」
「どうしようもない女?」
 少女は笑う。
「広義過ぎない?」
「ああ、漠然としてるけどね。でも自分で言うのもなんだけど結構、良いとこ突いてないか? ソイツはさ、どうしようもないんだ。どうしてやる事も出来ない。何もかも取り返しが付かないんだ。そういう女」
 哀れでも、何も出来ない。不幸から、抜け出せない。呪いは、解けない。停滞するという、そういう不幸。
「それって……例えば」
 少女は笑う。夜の静寂の中、どこか嬉しそうに。
「死なない女、とか」
 不死の女。
「ねえ、どう? これ以上無くどうしようもないと、そうは思わない?」
 不幸な女の果ての果て。現世は地獄だというかの名文句が真実ならば。それは確かに救われない。
 死んで楽になる事すら出来ないのならば。
 それは確かに――最悪だ。

     

 まあ、そうは言っても。
「そんな女が居るのなら、それは確かに最悪に不幸だと思うけどさ。こっちから付き合って下さいと何度となく執拗に頼み込むくらい願ったり叶ったりの僕にとっての理想形だと思わなくもない。けど」
 死なないなんて夢物語。産まれたものは須らく死ぬ。そこに例外なんて一つだって無い。宇宙の法則は捻じ曲がらない。
 絶対は絶対だ。
「死なない、なんて無理だし」
 僕は死ぬ。彼は死ぬし、彼女もいつかは死んで、誰も死に絶え、時間は平等に皆殺す。
 生きるという概念、生物としての定義を考えるに当たって死は外せるものでなどありはせず。
 生きているのだから。死は当然のもので嘆くものではなく、甘受すべきもので忌避するものではない。
 これはアタリマエの話。
「そう、ね。不死などない――か。ファンタジイを持ち出すのはこの場合、回答として適切ではなかったわ。ごめんなさい」
「いや、別に謝りまでしなくていいって」
「でも、角隠クン。言わせて貰うと貴方も悪いのではない?」
「……はあ?」
「分からない? どうしようもない女、だなんて。どうにもならない女、だなんて。この世界にはね、『どうしようもない』事であるだとか『どうにもならない』事だなんて何一つとして無いのよ」
 彼女の言葉は声の小ささとは裏腹に、力強く有無を廃絶した。豪腕とか傲慢などと表現されるべきそれは……どうしてだろう、僕にとって若干小気味良かった。
 甘い事を言う、と本来ならば一蹴出来たかも知れない。でも、僕はそれをしなかった。反例としての「本当にどうにもならない事」っていうのが瞬時に思い浮かばなかったのも理由の一つだろう。
 でも、それだけじゃない。
 どことなく「本当にどうにもならない事」を知っているように響いて聞こえたからだ。そして、もしもそうなら。
 如月灯里は平気な背中で嘯(ウソブ)ける人間だ。
 ――悪くない。全くもって、悪くない。
「かもね」
「だって――」
 接続詞に続く彼女の言葉を僕は奪い取った。
 インスタント・テレパシ。
「――誰も彼も死ねるのだから、か?」
 どうやら見つけたらしかった。彼女と僕の唯一の共通項。
 僕らは「どうにもならない」の反対に「どうにかなる」を置いていない。そんな希望的な物の見方をしていない。
 なんとなく、シンパシ。好感にも似た、けれど好意とはとても呼べない淡いものが胸に去来する。
 少女は一つだけ頷いた。歩みは止めない。背筋をピンと伸ばしたその後ろ姿は宇宙を旅するほうき星によく似ているとそんな事を思った。
 白金の長髪が一拍遅れで付いて行く様子はまるで星が引きずる尾のように、僕らの他には誰も居ない街路で愛嬌を振りまいている。
 僕が受け取らなかった場合、その愛嬌はどこへ行ってしまうのだろうか。考えても無意味。
「そういえば、如月」
「ん、何?」
「僕たちはどこへ向かっているんだ?」
「あら、言っていなかったかしら」
「一言も聞いてない」
 幾ら僕が少女を星に例えたからと言って行動までも星そのままに衛星軌道で町内周回なんて味気無い真似だけは止めて欲しいものだ。
「それはごめんなさいね。目的くらいは確かに言っておくべきだった。いえ、目的もなく満月の夜に散歩というのもそれはそれでロマンティックではありそう……もう、そんな顔しないで。貴方がロマンチストとは程遠い人なのはなんとなく分かっているから。ええ、実は折角だから貴方の勧めに従ってトウコウしようと思うの」
 トウコウ――投稿か投降か。それとも刀工か。はたまた投光……いやいや、どれ一つとして僕は彼女に勧めた記憶が無い。
 まさかのハガキ職人のポスト探しにでも付き合っているのだとしたら、興醒めもついにここまで極まったものかと逆に感心してしまえそう。
「わざとやってる?」
「……至って真面目だけど?」
「学校に行くって、そう言っているようには聞こえなかった?」
「なんだ、トウコウって登校かよ」
「どうやったらそれ以外の意味に取れるのか、逆に聞いてみたいものね」
 まあ、不登校であってもクラスメート。少女がカイ高の生徒である事は間違いないし、学校に行くのは世間一般的に考えて大いに良い事だ。
 だがしかし、ここで大変残念なお知らせを僕は如月にしなければなるまい。
「なあ、如月」
「なあに?」
「お前は行った事が無いから知らないかもしれないが、僕らの通う学校っていうのは朝から夕方にかけて門扉を開いているものなんだ」
 カイ高は定時制高校ではない。
「知ってるわ、それくらい」
「知っているのならばそれは重畳。つまり、君が今からやろうとしている行為は登校じゃなくて不法侵入のカテゴリに括られるのだって勿論分かってるんだよな?」
 こちらを振り向いた少女は潤むような笑顔で一つ目配せをした。
「そうじゃないと逆につまらないでしょう?」
 ――ああ誰か、誰でも良い、この女に常識というヤツを教えてやってはくれないか。月はじっとこちらを見ているだけで、まさしく犯罪に手を染めようとしているにも関わらず戒告の一つも投げてはこない役立たずの根性無し。
 それとも――。
 それとも、今夜の黒幕だったりするのだろうか。
 満月は、人を優しく狂わせるらしいから。
「心配しなくても、誰かにバレたところで捕って食べられる訳では無いから、安心なさいな」
 人の形を取った月のように、少女は僕を緩やかに狂気へと誘うのだった。

「なあ、今しか詰れそうにないんで今更ながら聞かせてくれ。なぜ君はワンピース……というかスカートで来たんだい?」
 錆び付いた通用門を両手で押して閉めながら、僕は校舎を親の敵とばかりに睨み付ける少女へと問い掛けてみた。息は荒い。
「ズボンなんて持っていないわ。どうしてそんな事を聞くの?」
 五センチ動かす度に車輪がギイと耳障りに鳴る鉄門を見れば分かるだろうに。潤滑剤の枯渇が原因だと思うが鉄の塊は予想以上に重たい。
「僕は肉体労働派じゃないんだよ。君がスカートでさえなければ二人して門をよじ登れば良いだけだったのになあと自分勝手に嘆いているんだ。ほっといてくれ」
 しかも白なんて汚れの目立つ色を着てくるものだから、擦れて汚さぬように余計に大きく侵入経路を開けなければいけなかった。
 帰りも開閉をしなければならないのが鬱陶しい。学校に侵入している間はいっそ開けたままにしておこうかとも思ったが、誰がいつ通りがかるか分かったものではない以上、侵入の痕跡は出来うる限り消すのがプロの仕事である。
 ……プロになった覚えはないし、何のプロかも定かではないのは言いっこなし。
 如月は苦笑した。
「どこかに生徒しか知らないフェンスの抜け穴とか、鍵の壊れた忘れられた裏門とかが有ると思っていたのよ。よくあるでしょう」
 どこのジュブナイル小説の出身者だろうか、彼女は。ここで僕が言うべきは恐らく「現実を見ろ」で間違いはない。
「お生憎様、僕たちの学校にはそういう類は一切無いよ。校務員の爺さんが老眼なのに眼が利くって変り種でさ」
「面白くない話ね」
 ようやく門を閉め校内侵入を無事果たした僕は、待っていた少女と並んで歩く。
 満月は僕が常日頃考えていたよりも二周りほど明るい光源だった。夜更けにも関わらず足元の不安はない。照らし出された校舎は静かな威圧感を湛えて僕らを出迎えた。
 なるほど、ホラーの舞台として利用されるのも頷ける。病院や廃墟と同種の匂いを学校は持っていた。これは暗闇が原因か、それとも昼間とのギャップがそう思わせるのか。人の居ない大きな建造物、というだけで不気味さを感じてしまうものなのかも分からない。
 ただし、如月は同年代の少女のような普通の感性を持ってはいなかったようだ。怖がる素振りは一つも見せず、あくまでも通常営業、喫茶店で追加注文をするような気軽さで僕に尋ねた。
「下駄箱は? こっちで有ってる?」
 侵入を躊躇する繊細さは皆無。
「直進の入り口は教員用だ。左が一、二年で右が三年用。どこへ行きたいかに因って案内も変えなきゃならない。例えば理科室、もしくは音楽室のような恐怖心を煽る類になれば目前の校舎ではなく、その裏の実習棟になる」
 しかしながら理科室に人体模型は無いし、音楽室に作曲家の肖像も無いので言うほど怖いものでも無いだろうけれど。
「いえ、一番に行く教室はもう前々から決まっているの」
「へえ。それで、僕はどこへエスコートすればいいんだい?」
 十字路を左に逸れた事からなんとなく想像は付くが。この方向は僕も一番慣れ親しんでいる。
「一年六組」
ま、そう来るだろうさ。
「私たちの教室を見てみたいわ」
 仰せのままに、なんて具合に。僕らは下級生用の玄関まで歩き行き――建物の内外の境となる観音開きのガラス戸によって僕らの行く手は阻まれた。
「ダメだ、鍵の掛け忘れなんて一つも無い」
 建造物侵入計画の頓挫地点としてはまあ、この辺りが妥当だろう。
「一階教室の窓ならどう? どこか一つくらい鍵が掛かってなくても不思議は無いでしょう?」
「あの爺さんがそんなミスをするとは思えないな」
「ふうん。なら、仕方ないわね」
 嫌な予感。言葉の上でこそ嫌々ではあれど、如月の表情は変わらない。――この程度で一々顔色を変えるとも思ってはいないが。
「ガラスを割るつもりか?」
 中腰になって携帯電話の明かりで鍵周辺を調べていた少女は、振り向いて上目遣いで僕を見上げ、人差し指を二センチほど左右に動かした。
「いいえ? もっとスマートにいきましょう」
 言ってスカートから取り出したのは竹串が三本ほど束になった道具。暗がりでは一見何か分からないが状況を加味すれば想像が付くというものだ。
「怖いな……ピッキングとか、どこで覚えたの?」
 普通一般の女子高生が持っていて良い技術ではきっと無い。それを当然と披露する如月はやはり、僕がこれまで見てきた女性とはどこかが違っていた。
 誤解を恐れず僕の抱いた印象を例えるなら、立っている地面が一般人と如月灯里では地球と月くらい違う、そんな浮世離れした不思議なクラスメイトだ。
「どこでだってこれくらいは修められるものよ」
 大量生産の鍵なんて自分の前では鍵でなどないと言うように。少女はカップラーメンが出来上がるよりも短い時間でその扉を開いてみせた。
「ね?」
 その笑みが僕には薄ら寒い。
「後は技術を研鑽する時間の有無。とりあえず私には時間だけはこれでもかと用意されていたから」
 不登校児とはかくも危険な存在なのだろうか。彼女の言を真に受ければ学校とは成長を促す場ではなく、それの方向性をコントロールする機関なのではないかとすら思えてくる。
「では、行きましょう。二階だったかしら?」
「……三階」
 弾むように歩く少女の後ろを付いて行く。如月が初登校(果たしてこの行為を登校と言っていいのか甚だ疑問では有る)に当たってどんな気持ちでいるのかは僕には分からない。踏み出す足が軽そうに見える事から察するだけだ。
 対しての僕は――意外な事に少しだけ気持ちを高ぶらせていた。いつもの学校、いつもの廊下、いつもの階段でいつもの道のりでありながらいつも通りではないという奇妙。人がいないだけで、昼から夜になっただけで、世界は僕に知らない顔を見せ付ける。
 月は教室側を照らし、まっすぐに伸びる廊下は寒々しく暗い。奥で緑に光る非常口を示す常夜灯。集る羽虫は逃走経路を求めているのではないだろうが。教室前後の戸に付けられた嵌め殺しの覗き窓から零れる光は頼りない。一歩進む度に足音は反響し、静かな水面に一石を投じたように空間を切り裂く。
 僕の知っている学校と、「ここ」はまるで別物だ。
 死んだ世界。そんな単語がチラリと頭を過ぎって。
 誰かが消火設備の赤ランプを人魂に見違えたところで、それを咎める事も僕には出来そうにない。シチュエーション効果とは中々に凄まじいものだと知る。
 何かが起こりそうな。
 静謐。
「あ」
 ぼんやりとしていた。気付けば如月に置いてけ堀にされている。夜に酔ったのか、月に化かされたのか。慌てるでもなくゆっくり後を追う事にする。三階の一年六組、つまり僕と彼女が所属する教室に居るはずだ。居場所さえ分かっていれば何を焦る必要も無い。
 逸れたって、それはそれで一人で帰るだけだ。
 踏み外さないように注意して階段を上る。いつもは何気なく上がっているこれも、電話の液晶画面かが放つ薄明かりのみが頼りとなれば慎重にならざるを得ない。
 いつもの倍の時間をかけて自分のクラスに辿り着く。表札が見えないからと言ってまさかここ半年通った教室の位置を忘れるはずもない。僕はいつものように教室の戸を開けて、中に入った。
「……え?」
 果たしてそこに如月灯里は居た。
 けれどそれを如月と形容すべきでは最早ないのかもしれなかった。「居た」と表現するよりは「在った」とするべきなのかもしれなかった。
 知れなかった。
 得体が。
「――っ!?」
 一目見て脳が理解の放棄を決断。
 断線。
 断線。
 断線。
 断線。
 「それ」が何なのか僕には解読出来ない。
 外から差し込む冴え冴えとした月光は窓枠の影を教室に落とし、並べられた机と椅子、その他諸々へと十字架を背負わせる。時間が止まったような中で、ただ、
 黒褐色の液体、
 だけが音も無く這いずっていた。
 湖に浮かぶ大輪の睡蓮を思わせる「それ」。
 僕の机の上、白金の繊維の中で溺れるように咲き誇っていた。
 見覚えの有るマリンブルー。
 まるでマネキンのような形の良い――首。

 こちらを見つめる如月灯里の、生首。
 三十度の傾きは何かを問い掛けているようだった。

 ご丁寧に他でもないこの僕の机の上にそれは置かれていた。
 一見して芸術と勘違ってしまいそうな。けれどそれはオブジェでもインテリアでもない。
 机の下は空洞。視線を落とせば司令塔を失った身体が床に倒れている。金髪を伝って広がった血液が、白いワンピースに赤い華を描いて。
 それは。
 息も出来ないほどに。
 長い細い髪が血を吸ってゆっくりと黒く染まっていく視界は幻想的で。
 現実感なんて欠片もない。世界はいつだって平穏だったから。そして、世界は唐突に裏切った。
 牙を剥いた。
 眼に映り込む情景にはリアリティがあまりに無くて。無さ過ぎて。僕はぼんやりと、首だけになって動かない少女を見つめていた。
 初めて見る、まざまざ見る――、
「え? あっ? あ……っぅあ……」
 脳がそれを正しく認識しなかったのは防御機能が働いたんだろうというのは分かった。でも、それがなんなのかはまだ分からない。何が起こっているのかも、どういう意味なのかも分からない。
 一枚の女神の絵を前にして圧倒される。そんな経験をもし僕が持っていたら、確実にここでその比喩を使うだろう。
 見蕩れていた、と言い換える事も出来るかも知れない。
 視界に有るのは少女の生首で。
 首を失った身体で。
 夜の教室で。
 僕は。
 僕は。
 僕は。
 彼女は。
 彼女は。
 彼女は。
 如月灯里は。
 し。
 シ。
 死。
 彼女は。
 如月灯里は。
 死んでいる。
 理解、した。理解して、飲み込んで。これが夢でも幻でもない、紛れも無い現実だと自分に言い聞かせて。
 でも、出て来たのは。
「……はは、冗談だろ?」
 自分の頭を疑う言葉でしかなかった。僕にはこんなものを受け止められるだけの図太い神経なんて持ち合わせが無い。
 無意識に一歩、後ずさる。教室から廊下へと。身体はとにかく、この場から離れようとしたんだろうけど。しかし、それすら叶わなかった。
「なっ!?」
 帰り道を塞ぐように人が――立っていたからだ。
 さっきまで誰も居なかった。それは間違いない。こんな時間に、こんな場所に人が居る訳は無い。それも間違いない。
 だけど、居る。そして如月は首無し死体。
 コイツが、如月を?
 明かりは無い。顔は見えない。けれど、声は覚えていた。
「冗談じゃないよ」
 昼に実習棟屋上で出会った白黒の落下少女。
「如月灯里には近付くなって、アタシ言ったじゃん」
 名前は確か――かしく。

     

「忠告はちゃーんとしたんだぜ。回避する手段は教えてやったんだぜ。なのに、人の厚意を無視したせいであのザマだ。つまりアレは」
 アレ、とは首無し死体のことだろう。他にその代名詞がふさわしいものがちょっと思い浮かばない。
「アレはアンタがやったようなもんだ」
 ちょっと待て。僕は何もやっていない。如月を殺したのが僕だと勘違っているのだとしたら、それは事実無根も甚だしい。
 ん……? でもオカしいじゃないか。如月の死体を見た後、即座に現れた目の前の少女に僕は殺人犯の嫌疑を掛けた。その判断に不自然なところはないと思っている。だからこそ果たして逆の立場ならば僕は彼女に殺人犯と疑われてもそれで自然だ。ここまではいい。
 でもさ。僕を殺人犯と疑っているのならば、逆説この女――かしくは殺人犯じゃないって事になってしまう。
 なら、如月を一体誰がやった?
「間違えんなよ。実際、誰が手を下したかは問題じゃない。そんな事はこれっぽっちのミクロン単位ですら問題にしていない。結果よりも過程をアタシは重視する。そして、過程よりも先立つもの、切っ掛けが全て――起点こそ問われるべきだぜ、罪に」
 廊下は「光あれ」という全ての起点となった言葉を忘れてしまった。
 闇に慣れた目を薄目にして少女の判別はようやく適う。黒で統一された彼女の衣服は空気を読み過ぎた気の早い喪服にしか見えない。弔われる対象なんて言わずとも分かるだろう。ロングスカートの裾やジャケットの袖口などはもはや布と夜の境界線も曖昧だ。月明かり届かない廊下の闇と、その持つ黒髪は同じ元素から出来ているに違いなく、重なって溶ける。
 黒に黒を足して漆黒。掛けて暗黒。どちらの表現であっても場にはそぐうだろう。
「起が無ければ承転結は無い。始まらなければ続けない。ハイ、結論。全てアンタが悪い。なら罪には罰が相場だ」
 切れ長の眼だけが黒の中、爛々と輝いていた。それが湛えているものを僕は皮膚感覚で理解する。
 ざわざわするこれは、敵意だ。
 もしくは害意。どんな事をして僕に害をなそうとするのか。そんなのは考えるまでもなさそうで。――生首の如月であり、首無しの如月――推測材料としてそれらは十分にショッキングで現実的だ。
 極まった現実離れだっていうのに。中途半端なリアリズム。
「……如月を」
「ん?」
「如月を殺したのはお前か?」
 声帯を振り絞った。こんな経験は初めてだった。
 足が震えるのも。射竦められるのも初めてなら。
 怖気と吐き気のカクテルも。気圧されるのも初めてで。出来れば死ぬまで知りたくなかったね。
「――く」
 かしくと名乗った少女はいよいよ我慢できないと。
「――くく」
 僕を睨んだままに。
「――くひひひひひひひひひひひひひっ!!」
 笑った。
 ――笑った。この状況下で。人が一人首飛ばされておいてどうして笑えるんだ、コイツは?
 ……どうかしてる。
「いいジョークだ。いーいジョークだよ、アンタ。アタシが、如月灯里を、殺す、か」
 決してジョークで言ったつもりなんてないし、僕にはどこがジョークだったのかすら理解出来ないのだが、異常者の発言を理解しようと試みる事がそもそも無駄な気がする。無駄、というか不可能。
「アイツを殺したのはお前じゃないのか?」
 嘘を吐いているのかいないのか。それを態度から判別するには廊下は暗過ぎる。せめて明かりが欲しいのだけれど教室の中に回れ右するのは生理的にキツい。
 鉄錆じみた血の匂いはかすかではあっても確かに廊下まで漂ってきていた。
「アタシにそんな事が出来るかよ」
 異常者にあるまじき発言。まるで普通の感性を持っているような殺人の否定。少女の口から出て来たのはそれだった。
 第三者の存在を訝し……いや、コイツの言葉を鵜呑みにして果たしていいのか?
「だったら、誰が如月を殺したんだよ?」
 僕の質問に彼女の目は下弦の月を模した。
「――ふーん、その馬鹿げた質問。ってこた聞いてないんだ」
 何を、と言いかけた僕の口を止めたのはそいつが前に出した右足。
「それは良かった」
 生温い息を飲む間に左足。
「手遅れにならずに済んだ」
 少女が三歩、接近する間に僕の足は一歩だけ後ろに退いた。カツンという硬質の靴音にピチャリという水音が混ざる。
 僕は恐怖した。
「今ならまだ間に合うねえ」
 漆黒少女、かしくから感じる害意は一向に衰えなかった。殺される、そう脳味噌に文字がタイピングされた時には僕はもう回れ右して一目散に廊下を駆け出していた。
 くひひ、という独特の癇に障る笑い声に見送られて僕は走った。廊下は走るな、なんて標語は廊下で不審人物に出会った事の無い人間が作ったんだ。そんなものに付き合っていられるか。
 勿論、不審人物に付き合うのも御免なら朝まで首無し死体の傍に居るのだって嫌だ。三十六計における最上の策をここで使わずいつ使う?
 脱兎を見習え。逃げろや逃げろ。
 今晩の事は忘れてしまおう。そうだ、それがいい。警察だって面倒だし、家族に迷惑を掛ける訳にはいかない。誰が死んだところで誰が殺されたところで僕の毎日には何の変化もないし、僕には何の関心も無いのだから。
 転がるように階段を下りての下駄箱までの道のりは暗く足元が覚束ない事もあって妙に長く感じたが、それでもきっと日ごろ走るという事から縁遠い僕の歴代第二位となるタイムを記録しているのだろう。
 一位は今朝、学生新聞を確認しに行った時だ。
 靴を履き替える時間も惜しく、僕は玄関に脱ぎ散らかしていたスニーカーを引っ掴むと扉を開けて外に飛び出し――え!?
 扉が! 開かない!?
 テンパっちゃダメだ。ホラー映画でパニックを起こしたヤツから死んでいくのは鉄則だ。きっとこの扉は如月が開錠したものではなかっただけで――左右他の扉を押してみるも鍵が擦れる音がした。
 残らず施錠されている……あの女の仕業か?
 ああ、ホラー映画のワンシーンじゃないのだから。脱出不能の洋館を一瞬思い浮かべた僕だったが、いやいや鍵が開いてないならば開けるだけだ。幸い鍵が要るのは外からだけで内はロックを指で捻って回せばほら、いともあっさりと。
「で、鍵が回らないとか何の冗談だよ」
 鍵は瞬間接着剤でも流し込んだようにうんともすんとも言いやしない。せめて一言「回りませんよ」くらいは言って欲しい。それくらいのサービスは要求してもいいだろう?
 回す方向を間違えているという下らないオチでもないようだ。なぜなら右も左も全力で回してみたから。つまり……つまり、なんだ?
 どうなってるんだ? 本気でホラー映画みたいに閉じ込められてしまったって――。
「そんな馬鹿な話が信じられる訳ないしっ!」
 とりあえずUターンで一番近い教室へ駆け込んで。次に僕が取った行動くらいは分かると思う。お決まりってこういうのを言うんだ。
 僕は駆けるスピードそのままに手近の椅子を持ち上げ、勢いを殺さず校庭に面した窓向けて投げ付けた。
 脱出路の確保は……結論から言う、失敗した。
 椅子の速度はガラスを破壊する目的であれば十分を四十分ほど通り過ぎたものだった。もしも人間に当たれば、骨折か死ぬかの二択だってのは保障する。
 それを。
 激突した窓はまるで意に介すことも無く、それが鉄板か何かで出来ているかのように弾き返した。木で出来た椅子の足が割れて木片が辺りに飛び散るも、それは木よりもガラスの方が幾分硬いという証明以上の意味を持たず、また僕の常識ってヤツは椅子だったものよりもずっと粉々になった。
 辛うじて考えられるのは、僕の通う学校が防弾ガラスとかそういう特殊なものを採用しているという途方も無い可能性だが、果たしてそんな事が有り得るのか?
 有り得ないだろ、何もかも。
「……なあ」
 ならこれは、夢だ。
「どうなってるんだよ、これ」
 夢じゃなかったら悪夢だ。
 力の抜けた体でなんとかかんとか窓の鍵を確かめてみるも、こんなのは念の為ですらない事くらい心のどこかで理解していた。
 開く訳ない、は案の定。

 ホラーだ。安っぽい三文ライトノベルのど真ん中に僕は居た。

 学校から出られない。この一文だけだとシュール過ぎる。笑いさえ込み上げてくるだろうさ。だけどそれは第三者にして傍観者に許された権利だ。実際その状況に遭ってみたら笑ってなんていられない。
 ガラスが割れない。鍵が開かない。たったそれだけで、でもそんな事有る訳がない。ガラスは容易く割れなければならないし、内鍵は指で捻れば解除出来るものでなければならない。
 そういった経験則は覆らない。少なくともこの十五年間覆った事なんてなかった。でもって覆るなんて夢にも思わなかった。
「……どうなってるんだよ、これっ!」
 二回言ったところで何も変わらない――事もなかった。こつりこつり、と音が聞こえてきたからだ。それは靴音に他無く、的確に僕のほうへと迫ってきているようで音は次第に大きくなる。
 ホラーの王道、追跡者の足音。静まり返った夜の校舎にそれはよく反響した。
 一息に汗が引く。
 カツン――――カツン――――。
 こちらの恐怖を煽る悠長な間。走って追ってくるのとはまた違ったプレッシャがそこには有った。
 スローテンポでも僕はこの学校から逃れられないらしいから問題は無い。兎狩りは全力を尽くすものじゃなく、道楽だ。って事は――アイツ、かしくはこの学校が現在脱出不能だと知っているって事。
「それって、アイツが僕を閉じ込めている元凶だと考えられないか?」
 じわじわ追い詰めるというのはレバーブローのように効いてくる。この時の僕に正常な判断力なんてものが残っていたかは分からない。
 僕は駆け出した。自分の位置を靴音で相手に教えてしまうのも構わず。硬質の足音が遠ざかる。積極的に追う気はどうやら無いらしい。だが、それもあっちが焦れるまでだろう。
 朝まで耐久鬼ごっこなんてしているつもりは僕にも無い。いわんや、だ。
 やってきたのは三階。一年六組。生首と首無し死体が陣取る僕の教室。何の目的が有って来た訳じゃない。あえて言うならばそれが僕の見間違いである可能性を確認しに来ただけ。
 夜と満月と学校と、不思議なクラスメイトと静寂と、そういったシチュエーションが重なれば幻覚を見てしまう事だって、ままあるかも知れないだろう。
 まあ、でも。そんな希望は一歩足を踏み入れただけで打ち砕かれた。それが現実だと先ず僕に痛烈に知らしめたのは鼻腔を突く間違いようのない鉄の臭いだった。
「……うっ」
 それから眼を逸らさなかったのは僕の肝が鋼鉄で出来ているからってのじゃない。言ってしまえばまるで逆。
 眼を逸らすことが出来なかったというのが正しい。それがあんまりに……繊細が過ぎて凄惨で。
 一本一本がその存在を主張する、リップグロスを塗りたくったみたいな金の髪は月の光を反射してるのか、それとも吸収しているのかもしれない。血溜りに垂れた絹糸は今まで僕が見た事の有るどんな染物よりも鮮やかな朱に彩られている。
 近付こうとする。精細に観察しようと試みる。だけど足が前に出ない。崖の先端に立っているんじゃないのに、体が理性を拒絶する。
 それは。
 神聖に映ったんだろう、きっと。
 僕の目に。
 侵し難いものに、近付き難いものに見えたんだ。
 死体だ。
 それは死体だ。生首だ。生き物じゃない。
 物だ。如月灯里ですらない。如月灯里だっただけの蛋白質の塊。肉塊。なのに。
「なんで――綺麗だ」
 ポツリと。口から零れ落ちた。
 僕が生まれて初めて抱いた興味。これをもしも性的興奮と呼ぶのだとしたら。
 いいや、そんな事は。
 ――そんな事は決して有り得ない。
 ……どれだけ教室と廊下の境で立ち尽くしていただろう。見蕩れていただろうか。背後から少女の声が掛かった。
「鬼ごっこはもう飽きたかい? 飽き性なんだな、アンタ」
 追跡者に背後を取られようと僕は振り向かない。生前の如月のように背中越しに問い掛ける。
 聞いてみたい事が有った。
「なあ」
「あん?」
「好きになってはいけない相手ってこの世界にいると思うかい?」
 別に気が狂ったわけじゃない。理性はオールグリーン。ただし、赤緑色覚異常かも知れない。そんな事、どうでもいい。
「なんだなんだ、藪から棒にさ?」
「そもそも恋愛対象に選んではいけない――そんな感じで。そういうの、お前は有ると思うか?」
 僕は如月にそんなものはないと言った。けど考えて出した結論ではまるで無く、アレはただの脊髄反射だった。
 少女はどんな回答を望んだのだろう。この死体は最期に何を思って死んだのだろう。知りたかった。何を考えていれば、どんな境地に有れば、こんな――芸術品を横に置いては芸術が砂城に変わる死に様が出来るのか。
「何言ってんだ? あんまりアタシが怖くて気でも狂ったか、角隠クン? まあ、そう怯えんなよ」
「……お前は僕を狂っていると思うんだな。そっか。僕にはお前こそが狂っているように見えるけどさ。いや、そんなのどっちだっていいんだよ」
 自分になんて興味無いし。
「禅問答する気はねーぜ」
「いや、如月ってどういうヤツだったのかと思ってさ」
「人の心配してる余裕なんざアンタに有ると思ってんのか? アンタはここでアタシに殺されんだぜ?」
 殺す、か。まあ二、三発殴られて終わりだとは流石に思ってなかったけど、こう、改めてその目的を聞かされると所感の一つ二つくらいは湧くね。
 でも、そこまでだ。
「やってみたら?」
 僕が口にしたのは誰から見ても露骨な挑発で。案の定、背面の少女は一息に僕との距離を詰め、一拍の後背中から腹に抜ける鈍い衝撃が僕を襲った。
「ぐっは!」
 吹き飛ばされ、床をごろごろと前転して机にぶち当たる。息が出来なくなるほどの拳撃(多分)は女子高生の持ち物としては余りに凶悪。僕の予想を遥かに超え、っていうかこっちから挑発して構えてなかったら本気で死んでる気がする。
 のた打ち回ることすら出来ない。これ、このまま肺が脳からの信号を拒絶し続けたら僕、窒息するんじゃないのか?
「っ……ぅっは……!?」
 息、出来な……。
「はっは、苦しそうだなあ、角隠クンよお」
 笑いながら近付いて仁王立ちする彼女が月明かりに照らし出される。僕はそれを仰向けに見上げる形だ。なんとか肺を動かそうとするも息の仕方を忘れたようにミリ単位の上下しか横隔膜はしてはくれない。
「優しい優しいアタシだから背骨は避けてやったんだぜ。感謝しろよ。半身不随とか絶望だろ?」
 窒息死の方がよっぽど絶望レベルが高い!
「良いね、良いね。その苦しそうな顔。そうやって憎んでくれよ。恨んでくれよ、アタシの事を。でもって自分のやった事に悔いてくれたらサイコーだ。『人の忠告はちゃんと聞きましょう』。来世に持っていく上等な手土産を用意してやったアタシを十分目に焼き付けとくんだな」
 お断りします。
 右手を真っ直ぐに持ち上げる。その先に少女の整った青白い顔。月光を反射する白磁の肌に、僕の腕は当然届かない。
「お? なんだ、その手? お前も道連れだ、って感じ? いいねえ、生き汚くってさ。なんか人間って感じじゃん。今朝屋上で会った時は人っつーか、むしろゾンビでも相手にしてんじゃねーのかって感想をアタシはアンタに抱いた訳だが、やっぱ人間、ギリギリになると本性が出るわー」
 お生憎様。僕はそんな豊かな感情持っていないよ。今わの際ですら、憎悪も悔恨も持てないらしい。だから、この掲げた右腕を。
「……って、アンタなんで睨まねえんだよ?」
 思い切り振り下ろした。
「えっ?」
 自分の胸に。
「ぇほっ、が、がはっ! けほっ! ……ふうっ、はあっ……はっ」
 少女が驚いた顔で僕を見下しているのが小気味良かった。活を入れられて動き方を思い出した肺を動かして荒い呼吸。身体が酸素を求めている事をここまで実感したのは初めてで。ああ、気付けば今日は初めてのオンパレードじゃないか。
 なら、もう一回二回初めてをしてもいいだろう。
「なんなの、コイツ……自分の呼吸が止まってんのに、それすら他人事みたいな目ぇしやがって……」
「はぁっ…………ふう」
 酸素ってのは偉大だよ、本当に。
「えっとかしく、だっけ? 君さ、どうしてもうちょっと短いスカート履いてきてくれなかったの?」
「あ?」
「このスカートじゃ」
 手を伸ばして、引っ張って。
「ちっとも役得に与れないしさ」
 ま、言っても暗くて中身が見える筈も無いけどね。だから、これは僕なりの意趣返し。
 初めての、ただのセクハラだ。
「――ッッッ!?」
 僕の傍を飛び退く少女を眼の端に捕らえつつ立ち上がる。背中は痛い。でも動けないってほどじゃない。その段階は過ぎ去った。だから。
 ヘラヘラと笑う。虚勢でもいい。
「パンツ見られそうになったくらいで――案外乙女なんだね。身持ち、固いってのは本当だったんだ?」
 少女の頬が青から赤に染まっていく。
「う、うるせえ!」
「……はあ、大声出さないでよ。そんな声出さなくても聞こえてるから」
 静かな教室内。机は僕にぶつかられて散乱。さすがにビリヤードを引き合いに出せるほどじゃないけど。
 見回す。「崖の先端」を僕の身体はとっくに越えていた。三歩歩けば元如月灯里に触れられる距離。
 遠くからでも、近付いても。
 それはやっぱりそれは綺麗だった。
 好きも嫌いも、美も醜も、善も悪も鏡映しの裏表。表裏は一体、是非も無し。そんなポリシーのこの僕が。
 たった一人の少女に魅せられた。惜しむらくは、自覚したのがちょっとばかり遅かった点。相手が死んでしまっていたら、それは残念。
 手遅れです。

     

「その言い草……どうやらよっぽど死にたいらしいなあ、アンタ!」
 飢えた肉食獣のように今にも僕に飛びかかり、そして食らわんとする雰囲気はビリビリと伝わってくる。
 けど、こっちはそれどころじゃない。
「一々怒鳴らなくても聞こえてるから。そして――少しだまってろ」
「なっ!?」
 言い放ち、僕は暴力少女を視界から外す。それよりも、今はこっちだ。物言わぬ少女の抜け殻。つぶさに観察しなければなるまい。だって不思議で仕方が無いんだから。どうして。どうして僕はこんなに心惹かれているのか。
 かつて如月灯里だったものに僕はまた一歩近付く。
 重ねて言う。これは最早ヒトではない。生き物ですらないのに、それでも僕は綺麗だと、美しいと思ってしまっている。こんな感想、これまでの人生でどこの誰にも持ったことが無い。つまり――僕は今まで自覚が無かっただけでそういう特殊な嗜好の持ち主だったって……そんなの冗談にしても笑えない。
 死体愛好家?
 生首偏執狂?
 世に十人十色の性癖(フェチズム)が有るのは知識として知ってはいても、僕は断じてそんなものとは無縁の筈なんだ。他でもない、この僕は。
 しかも性癖の中でも最端なんて、有り得ない。
 でも。だったら僕はなぜ目を逸らさなかった。初めても、二回目も。彼女の死体に目を、そして心を捕らえられていたのは狂気の確固たる証左。
 ああ、そうか。僕は。
 狂っていたのか。
 はは、そっか。ようやく納得した、僕が他人に興味を持てない訳。それなら白馬車のお姫様、その候補にすら今まで会えなかったのも当然だ。
「どうやら、ずっと待ち合わせ場所を間違えていたんだろうね、僕は」
「……あ? さっきからどうにも唐突な発言が多いぜ、アンタ。前後の脈絡が欠落してっが、なんかそーゆービョーキかよ?」
 前に出そうとした足を止めて、振り返る。
「……君、まだ居たんだ」
「テメッ!」
「そんなに怒らないで。いや、怒ってもいいけどもう少しだけ待っていてくれない? 考察ももうそろそろ終わりそうだから」
「――考察?」
「墓地で待ち合わせする男女についての、さ」
 最後の一歩を踏み込んで、手を少し伸ばせば金の髪に触れられる距離まで近付いてなお、僕は接触を躊躇ってしまう。
 死体を気持ち悪いと思うのは社会に植えつけられた固定観念。死に対する忌避本能。そういったものが僕を押さえつける。
 接触の躊躇は触れたいの裏返し。
「アンタ、如月灯里に近付いて何をしようとしてる?」
「さあ?」
「惚(トボ)けるなよ」
「惚けてなんかないさ。本当に、自分が今何をしたいのか分からないんだ」
 果たして僕は本当に何がしたいのだろう。触れるだけで、それで満足だとは思えないし、実際触れたところできっと僕は何も思わない。
 彼女に、触れたいのか、撫でたいのか、抱きしめたいのか、キスしたいのか、交わりたいのか、食べたいのか、啜りたいのか、潰したいのか、飾りたいのか、バラしたいのか――そういったものが渾然一体、綯(ナ)い交ぜになった……これが、好意。
 こんな汚らしいものが「好意」か。笑わせる。
 白黒少女は言う。
「その子に手ェ出したらアンタ、本当に殺すぜ」
「ふうん、その言い方じゃ『本当には』僕を殺す気は無いんだ?」
「チッ、言葉の綾だろ。揚げ足取ってんじゃねえよ。角隠クン、アンタは殺す。どっちにしろ殺す」
「なら如月に手を出しても出さなくても同じじゃない? 君が割合死者を悼むタイプってのは如月の死に際して真っ黒な服を着てきた事からも窺い知れるけどさ、それを他人に押し付けるのは頂けない」
「残酷に拷問するカンジで殺すか、安楽死の百倍気持ちよく昇天させてやるかの差だ。同じ死ぬなら楽な方が良いだろ? だから」
 真摯な漆黒の眼は殺人者の持ち物として不釣合い。
「アンタみたいのが彼女に触れるな」
「よく分からないな。なぜ、君は――かしくさんはそんなに如月と僕の接触を拒む? いや、彼女が生きていた頃ならまだ幾つか理由の候補も思いついたんだ。けどね。もう死んでるんだよ、如月は?」
「死んでるも生きてるもそんなの関係ねーんだよ。アタシの目的をアンタに教える義理も必要もねえ。とにかく、その子に触れるな」
「……『これ』は『その子』じゃない。でもって、どちらにしろ死ぬのなら、そんな脅しに意味は無い」
 だから、屈する事無く手を伸ばした。指で触れたのは柔らかい如月の髪であり、そしてそれはまた刺々しい殺人者の逆鱗でもあったのだろう。少女が叫んだ。怒りをそのまま言語変換せずに吐き出したそれは獅子の咆哮か、はたまたカルバリンの砲声に聞き劣り無い。
 雄叫びのハイエンド。けれど相手が悪かった。例えそれが地球の爆発音であったとしても、隕石の激突音であったとしても。僕はきっとこう言う。
「関係ないね」。
 そこからはスピード勝負だった。僕が右手を握り込み振り向きざま上半身を捻ったのと黒衣の魔女が五ートル障害物走のスタートを切ったのは同時。彼女は接近しての鉄拳制裁を狙い、そして僕は体重を乗せた大振りの一撃によるカウンタ狙い。勝負は交錯する一瞬で決まる。ぐっと奥歯を噛み締めた。
 彼女は、速かった。恐らく陸上部のエースでも足元にすら及ばないロケットスタートだったろう。けれど、見えない程では無い。タイミングを取れない程じゃ、無い。
 むしろ、予定調和のように完璧。
 少女は言った。
「甘えよ」
 後一歩のところで後ろに跳んだ彼女。勢いの付いた僕の拳は止まらない。二人の目の前でむざむざと空を切る。ノーガードの僕に向かって再度走り込む殺人者――漆黒の魔女はそこでようやく『これ』に気が付いたんだろう、目を見開いた。
 僕の握り拳に纏わり付く金糸。彼女がキレたのは僕が如月に――正確には如月の髪に触れたから。その後僕は何にも触れていない。なら僕の手が掴んでいるこの糸の正体は一つしかない。
 元如月灯里の髪の毛。
 僕は言った。
「甘えよ」
 死者を悼むという言葉の意味が良く分からない。死体はモノだ。モノをヒト扱いしては逆にヒトに失礼だと考える。だから。
 空を切った僕の拳を一足遅れで金髪少女の生首が追いかける。なんて言ったか、ロープの先に錘球の付いた打撃武器が有ったはずだ。つまり、この時の生首は『それ』だった。
「てんめえええええええっっっっ!!」
 ああそうだ、ボーラ。確かそんな名称。
 漆黒少女は完全に予想外だったであろう右拳と生首による時間差攻撃にすら、驚くべき超反応を見せた。踏み込んだ左足の、足首の力だけでその細身を後方に跳躍させる。
 驚愕に値する力技、反射神経。月光に黒髪が煌めく。間一髪、生首ボーラの射程半径から見事に逃れおおせる彼女……が。
 残念、ボーラの本来の用途は打撃じゃない。
 ――投擲、だ。
 僕が握力を緩めれば当然だが慣性のままに生首は宙を舞う。距離を取ろうが無関係、最初からオールレンジ攻撃を行っている。
 僕と彼女の間合いは目算、四メートル。首を避けられる距離でも速度でも無い。けれど、相手は規格外の超反応を行うハイパー女子高生。
「なんのぉっ!!」
 避けられないならば、どうするか。彼女は回答を見事に体現した。つまり――受け止める、だ。
 少女の一瞬の判断力には賞賛を送りたい。この化け物が(賞賛)。
 なにはともあれ。僕の攻撃は防ぎ切られてしまった訳だが、それにしたって彼女の両腕を塞げたのだから十分な戦果と言える。というか、それが当初からの目的だ。
 女の子を本気で殴るとか、出来ないし。
 だから脇を全速で走り抜ける。少女に僕を阻むことは出来なかった。乱暴に如月を投げ捨てればそれも適っただろうけど。少女にとって如月はどうもそんな事が出来る対象に無いようだ。
「かしくさん、ナイスドッジ」
 軽口一つを置き土産に、僕はノンストップで廊下を駆け抜ける。目指すは――屋上。

 夜の風に吹かれて僕は月を見ていた。今夜は殊更に明るく、大きい。いや、学校に来る前にも月は見たが、ここまでだっただろうか。
 空に近いからそう見えるのか? ……まさか。いくら地球から一番近い天体と言え、遠近法が意味を無くす距離だ。だったら記憶違い。もしくは雰囲気に当てられたんだ。
 悪夢に月はよく似合う。
 さて、上手く逃げおおせたは良いが、これからどうしようか。朝までかくれんぼって選択が一番の良策に思えるのはなんとも気が重い。日の出まで後何時間だろう? ジーンズのポケットから携帯電話を取り出して時刻を確認。二十三時二十一分。運動部の朝練が六時からと仮定して、約六時間四十分。僕は逃げ続けなければならない。
 ……はあ、気が滅入る。
 って、アレ?
 携帯電話のアンテナが立ってる……。え? え? アンテナアイコンはバッチリ三本、通信状態はこれでもかと良好そのもの。えっと……いいんですか、これ? 助けとか警察とか呼んでしまえますけど。
 まったく、盲点だった。扉が開かない、窓が壊れないという二点から脱出不可能ホラーにおけるお約束を一人勝手に適用してしまっていた。馬鹿正直もいいところ。思い返せば共通項はたった二点じゃないか。
 事件解決の糸口は意外と身近に有るって、これはミステリのお約束だ。とりあえず百十番。警察。
 どうにも勘違ってしまいそうだが、これはれっきとした殺人事件である。一に警察、二に家族。……僕の家、誰かまだ起きてるかな?
 ――待つ事も無く、ワンコール。ガチャリと通話が繋がった音がこの時ばかりは清涼飲料水のプルタブ開封よりも希望に満ちていた。
「あ、もしもし!」
「はい、もしもし。どうされましたか?」
 男性の冷静な声がする。これで助かった、そう素直に思った。深呼吸を一度して――あ、こういう時って何から話せば良いんだろう?
「落ち着いて下さい。事件ですか? 事故ですか?」
 興奮しているつもりは無いが、混乱は多少しているらしい。もっとこちらからハキハキと説明したかったが、何を思ったか口から出そうになったのは自己紹介である。これは警察のリードに任せたほうが良さそうだ。
「事件です。殺人です」
「殺人ですか。今、貴方は安全な場所に避難していらっしゃいますか?」
「とりあえずは」
「分かりました。では場所を教えて下さい」
「場所……カイ高、ああっと、荷稲高等学校です」
 危ない危ない。近隣にカイ高はもう一つ有るんだよ、僕。
「荷稲高等学校ですか」
「はい」
「へえ、奇遇だな」
 …………は?
 き……ぐう?
 何を言っているんだ、この人? なんでいきなり砕けた調子になってるんだ?
「俺も同じ高校に通ってるんだ、角(ツノ)クン」
 どうなってるんだ? 僕は一体どこに電話した? 一体、誰に繋がっているんだ、この通話は?
 百十番に掛けたのは間違いない。なら、どうして高校生が出る? 警察のコールセンタで高校生を雇ってるって――そんなの聞いた事が無い!
「えっと」
「ちなみに一コ上。あ、敬語とかは使わなくてもいいから。肩の力抜いて楽に行こうぜ、楽に」
「な? は? え?」
「にゃっは、混乱してるなぁ。そうじゃないとこっちも頑張った甲斐が無いから、まあ仕掛け人冥利には尽きるわなぁ。いや、いいリアクションだよ、うん」
 仕掛け人。一個上。同じ学校。なにか、引っ掛かる。僕はこの人を知っている気が、した。
「……電波ジャック?」
「お、もうメダパニから醒めて推理開始か? 見た目に反して中々図太い精神してるね、角クン」
 推理ではなくただの状況把握だったりする。
「まあ、いいや。ここまでが角クンにとって余りにノーヒント過ぎる。かしくちゃんが君を見つけるまでは付き合ってあげるとしよう。さ、そうと決まればミステリごっこしようかぁ」
 知らない所で知らない内に、勝手に僕をチェス盤に乗せている張本人のような口振り。愉悦以外は声音に一切乗せていない。それを隠しもしない。
 電話の向こうのこの男は、楽しんでいる。
 何を?
 僕の事を。
 僕の――不幸を。
「えーっと、電波ジャックですか、って最初の問いには三角だよ。半分正解。こう見えて」
 見えねえよ。電話だっての。
「機械には滅法弱くてね。だから、似たような事をやってる。もう少しアナログなやり方でさ」
 となると考えられるのは警察のコールセンタに電話の主が陣取っている可能性だが……いや、やり口を知っても何にもならない。
 助けを呼ぶ事が出来るのか、否か。それだけで十分だ。
「質問……いいですか?」
「ああ、いいよ。どんどんしてくれ。ただし、ボーナスタイムはさっきも言った通り、角クンがかしくちゃんに見つかるまでとしとこう。じゃないと、俺が怒られる」
「分かりました。では、早速お聞きします」
 時間はどれだけ有るのか分からない。なら、重要性の高い方から攻めていく。
「僕と如月灯里が関係を持つ事が、どうしてかしくさんの不評を買うのか。つまり、この状況のそもそもの取っ掛かりを僕は知りたい」
 起点こそが全てという少女の言を借りれば、問題の何もかもはそこに帰結する。そして問題の理解とは、それ即ち解決と同義だ。
「良いトコ突くねえ、角クン」
「最初はかしくさんが如月灯里を好いているのだと考えていました。だから、近付く異性に憎悪を抱いているのだと。だけど、オカしい。如月灯里はとうに死んでいる。僕が殺したのでもない以上、僕を殺そうとする理由が見つからない」
 それとも想い人が死んで混乱しているのか。いや、かしくさんの眼は狂人のそれには僕には見えなかった。もっと、こう、強い意志を湛えているように見えた。
 曖昧ではない、確固たる理由に根ざした行動をしている風に僕には見えたんだ。
「三角」
「またそれ……半分正解、ですか?」
「ああ。確かにかしくちゃんは灯里ちゃんを好いているよ。言っても、友愛の類なんだろうけどねえ。そしてそれが彼女の行動の根底って君の推理は強(アナガ)ち間違いじゃない。むしろここまでは概ね大正解さぁ」
 だったら、どうしてまだ僕が狙われる? 如月灯里は死んだんだ。生首だ。ソレの為に、ただの蛋白質の為に何かを成そうなんてナンセンスだ。
 弔い合戦? 敵討ち? それとも八つ当たり。どれも無意味。死んだ人間の為では絶対に無い。死者はもう喜べない。悲しめない。
 如月灯里のためには、もう誰も、何も出来はしない。そんな事も分からないのだろうか、あの女は。
「だからね、決定的に間違っているのは君の認識。状況把握が大間違いだ。ま、仕方ないかな。その辺りが、限界だから」
 電話の向こうの訳知り声の彼は小さな声で、荷が重かったかな、と独り言を言った。
「どういう事ですか?」
「角クンにも分かるように噛み砕いて掻い摘むと、灯里ちゃんは普通じゃないって、そこに集約されるかなぁ。……今日は君の中に有る常識を疑うような事ばかりだっただろう? だったらさ、一度常識ってのをまるっと全部ゴミ箱に捨ててみようぜ。人の言う事を馬鹿みたいに鵜呑みにして、そしたら今まで見えなかったものも見えてくるんじゃないの?」
 いまいち要領を得ない。
「……貴方は、何者ですか?」
「にゃっは。俺の名前よりも先に配役を聞いてくるのは良いね。君、凄く良い。ミケさんが気に入るのも無理無い話だぁ、こりゃ。あ、回答か。今回の俺はジーエムって事になってる。ゲームマスタの略」
 世界は、決してゲームでなどない。それはやり直しが利かないからであり、生き返りが適わないからであり、取り返しが付かないからだ。
 それを電話の向こうでは嬉々として。
「仕切りは俺だよ、今回の主役(ヒーロー)クン」
 僕の人生を、操って楽しんでいるヤツが居る。

       

表紙

きすいと 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha