夜明けの近い息づく街、妙に生ぬるい嫌な風、首元に当てられたナイフ、形而上の彼女。その四つで、歩道橋の中間は構築されていた。
しかし、ここで追加することになった事がある。弟の観入だ。直接的に弟がこの場に入ってきたという意では無く、
「……あなたの弟さんは、女装が趣味ですか……?」
話題だ。
か細い声の少女は、そう俺に問う。俺がどうしても俺ら以外には知られたくなかったことを、ただ冷静なまでに問う。
「ど、どういうこと、かな……?」
あくまで俺は平静を装う。内心、咆哮したいが今此処で何かしらのアクションを起こすことはそのまま肯定の意になってしまうためだ。瀬戸が何かこれと似通った事を言っていたな。まあそれぐらいの事まで思い出せられれば、多分彼女には俺の僅かな起伏は読み取れないだろう。それに彼女は俺の表情を覗けない。これも幸いしたかも知れない。
「……意味がわからないケド……」
さて、どうする。
「……そのままの意で、捉えて貰って結構です。あなたの弟さんは女装を趣味にしているか、していないか。そう訊いています」
そう訊いていますって言われても……
でも、どこからか情報が漏れたって事は理解できた。しかしながら、漏れるところは、心当たりがない、皆無と言っても良いほどだ。事は家内、干渉していた人物は俺と弟と瀬戸だ。
やはり皆無だ。
そう思うのには、歴とした訳がある。瀬戸は今、会長の自宅で軟禁されているのだ。つい最近ニュースで知ったが、事が起きてからその処置に至るまで数分も要さなかったらしい。ということは、仮に彼女と瀬戸には何かしらの繋がりがあったとしても、彼はあの時ほぼ全裸だった。携帯電話なんて物はもってはいなかった。やはり連絡出来ない、不可だ。
なら、何処から漏れた?弟が、いやそれも無い。まさか、俺が? そんな事あるはずかない。
ならば本当に何処から……
それより、質問に答えないと、そろそろやばそうだな。視線が何処を視ているのかがわかる。首だ。彼女は俺の首を視ている。感触、鋭利なそれは、まるで氷だ。殺気を帯びているような冷たさ。それが暗示するのは死。直結だ。
いいや、それを考えて恐れを膨らましても埒があかない。今は質問に答えてやり過ごすしか選択肢は無い。だが、本当の事を言って弟を売るつもりも無い。俺はただただ言えばいいのだ。その質問に三文字で、簡易に。
「いいえ」
否定してしまえばいいのだ。そうすれば何れ夜が明け夜が終わる。それまでの辛抱だ。
が、間髪入れずに……
「とぼけないでください」
彼女の冷淡な声が聞こえた。それは、最近鑑賞したSF映画に出てきた無感情のアンドロイドを想起させる。単調で起伏のない、まさに機械だ。
確信を持って言うあたり、やはり彼女は何処からか情報を得ている。本当に厄介だ。
「と、とぼけてなんざいないさ。俺の弟は女装を趣味になんかしていないと言っているんだ。俺の見える範疇だけどさ。それより、どうしていきなりそんな突飛な質問をするのか教えてくれないか?」
やはり俺は否定するだけだ。後数分を待って。
意外にも今度は、俺の問いに彼女はふん、と鼻を鳴らし人間らしさを垣間見せた。ちょっとした驚きだ。何というか、ギャップみたいな物があるらしい。たったそれだけの事だったが、後方に居る少女は素顔を隠しているような気がしてならなくなってしまった。多分どうにかなると俺は己に対し激励する。理由はゼロだが、ポジティブな方向へ転換しないと潰れてしまいそうだ。弟とは違って、臆病で小さなハートだからな。
少女は咳払いを一つ。
「あなたの問いに答える義理はありません。話しを戻しますが、なぜとぼけるのですか? 弟が変態だと知られたくないからですか? 何かを隠しているなら早く答えた方が身のためですよ」
…………ため息がこぼれそうだった。
また無機物の塊に戻りやがった。
どうするか……
「俺は、良くわからないや。多分、例えその答えを知っていても俺はお前なんかには、話さないよ」
…………
喋ったすぐ後に、血の気が引くのが直に伝わってきた。少しだけ気が緩んだのだ、口を滑らしてしまった。俺は後ろに居る鬼を起こしてしまったらしい。感じるのだ、五感が、第六感が、潜在意識が、俺が。
死が俺の首を捉えたと。
「…………」
一瞬の静寂の後、鬼は、
「…………そう」
激昂してみせた。
すぅ―――とした。
ただ、すぅーと何かをかすめ取られた気がした。否、かすめ取られた。
液体が首を滴り、流れているのが、わかってしまった。
「は―――」
喉笛が掻っ切られたと、俺は酷く絶望する。その視界で俺は最早、最期と言っても過言ではない世界を見渡した。
錆びたビル、それを隠すように取り囲む若いビルの群れ。そこを縫って歩いていた黒猫の影、コンビニと自動販売機の人工的な?。望んで居ない物ばかり、この瞳は写す。
心は舌打ちと狂乱で飲み込まれ、一瞬で死んだように思うこと……動く事を停止した。夜明けは俺が思うほど早くはない様だ。
そして、俺の首は得体のない痛みを発し唸り、叫びだす。ハッキリ言って意味がわからなかった、何がどうなっているのか。
と言うことは、脳がそれを錯覚と気づくのはまだまだなのだ。
<日記chapter3> 四月七日、夜。
今日はとても、とても凄いことがわかったの。
すれ違った人が言っていたの。弟は女装しているのは違うとか、兄に囚われているとか。
それで多分、その人の部屋の番号も忘れないためかどうかわからないけど、反芻してたの。
まだ推測だから、わからないけど私が今考えてることが、もし本当なら
神様の奇跡かもね。
私の漫画から、二人が飛び出して来たのよ、きっと。
これから一週間、なるべくその人達を監視してみようかな。
何かありそうな気がするの、五百十一号室の兄弟さん。(女の勘かな……?)