「朝になっちゃったね―――」
切り出した少女の声は何処か希薄を漂わせている。まあ、無理もない、なぜなら彼女は多分、自分が委員長だと言うことを俺に気づかれないように、こんな面倒で盤根錯節した方法を選択したのだろう。
しかし、俺に見破られてしまった。
それが、『悲しい』のだろうか。
それが、『哀しい』のだろうか。
それが、『虚しい』のだろうか。
それが、『空しい』のだろうか。
「……朝は何処にでも分け隔て無くやってくる物ですよ」
…………
言わなければ良かった。
本当に、何処の詩人だと自嘲したくなる。中々こういう時に気の利いた台詞が出てこないのは、文才などが無いか、感性が乏しいかのどちらかだ。
当てはめるのなら俺は、後者だろう。
「いつから、私だって気がついたの? やっぱり昨日のナイフの話をすぐ実行に移したのがダメだったのかなー……」
彼女がため息混じりにそう呟く。相当疲れているのか、なんだか語尾がだらけてしまっていた。
「委員長さんって選択肢は本当に偶然出てきたんだ。何というか、思い出したんだよ。昨日の授業の事」
そっけなく、ふーんと彼女は相槌を打つ。身のない返事の所を視るとやはり疲労の色が見える。それもそうだろう、ナイフに見立てたそれを氷だと見破られないように、微妙な距離で俺の視界に写らないようにし、溶けた水を上手く血だと思わせるタイミング、そして新しいナイフと体温で溶けたナイフとの交換。
どれも体力、集中力を多いに消費することだろう。俺なら五分と持たないが、彼女は二十分近く耐え抜いた。精神がすり減る様な行為だ。出来るなら彼女をこのまま家に帰して、すぐにでも安息を与えてあげたい。
しかし、訊きたいことは山ほど或る。このまま返すわけにはいかない。
「それで、どうして俺にそんな事を訊くのか教えて貰えないかな」
長く立っていた所為で棒の様にパンパンになっていた足に無理を言わせ振り返る。
「えっとね……」
そこには俺の頭の中の、いつも通りの委員長が居た。丸い眼鏡と、少々短い髪。小柄な身体と目鼻の整った顔。栗鼠の様なかわいらしさと何処か守ってあげたいと思わせるような悲哀な表情の彼女だ。
答えが知りたいと、俺が彼女の顔を覗いた時、
「――――――」
不意に彼女は笑った。
危険だと、本能的に向きを変え走り去ろうとした瞬間。
「後は、午後話そうね」
懐に彼女は居た。天使のような微笑みを浮かべながら。
その言葉の意味を問う暇もなく、腹に痛みが走った。
底に落ちていくような長い眠りに誘われる。
もがくが、意識はどんどんと深海へ沈む。
溺れる前にもう一度だけ彼女の顔が水面に視えた。
委員長さん……?
叫ぼうとした時、俺の口から大量の気泡が溢れ、塩の味が広がった。
現(うつつ)の狭間で、そう錯覚した。
*
気がついたときに、見えたのは波紋がまだ残る水面ではなく、天井の消毒された白だ。どうやら気を失ったらしいとすぐに理解出来るほど、俺の思考回路は上手に造られてはいなく、朝が来たと普遍的な考に収束させた。
「ッ―――」
身体の右側の方がヤケに痛い。寝違えたという訳でもなく、何というか床や、堅い場所で長時間睡眠を計っていたような雰囲気に近く似している。
ベットから落ちてたのか……?
「あっ、兄さん起きたんだ、良かった良かった!」
弟の声が聞こえた方に首を回す。制服姿の弟が居た。その後ろにベットがあることも確認できたため、ここは病院だと気がついた。弟の頭部の真横には、点滴の機材がハンガーの先のような金属にぶら下がっている。鎖のように見えなくもない。
どうして、俺は病院にいるのだと思った、そうか俺は何も覚えていないのかとこめかみの辺りに突発的な痛みが生じる。
数時間前のことが思い出せない。
「なぁ―――ッ」
弟に話しかけようと、上半身を起こそうとした。その時、腹部に嫌な痛みが走った。電極を肌に直接ねじ込まれたかのような、鋭い痛みは瞬間的に驚愕に変わる。
「!?」
俺は慌ててその部分を良く見るため服を捲る。薄手の衣服の下、腹部の辺りの皮膚が赤く腫れている。詳しく言うと箇所は臍の右横である。なんだかその赤は北斗七星の様な模様だ。
傷……?
手を伸ばし恐る恐る撫でる様、触ってみるとそこは爛れている様な感触がした。かさぶたのような雰囲気だ。しかし幸いな事に痛みはさほど無く、違和感もまるで無かった。ただただ、そこに傷だけがあるのだ。
……いつ付いたんだ、この傷。
この傷、確か……
何か重要な事を忘れているような気がして俺は壁に取り付けられた時計を確認していた。なぜ時刻を求めたのかは俺でもわからない。
午前十一時と針は示していた。
しかし時間、それが重要だと判断したのだ。
ぼっと時計を見ていると、弟の朗らかな声が訊こえた。
「兄さん、ほら寝てないとダメだよ、身体に障るよ?」
ああ、と適当な相槌を打つ。そうだ、弟に訊いてみよう。何か事情を知っている可能性がある。
「あのさ、腹の辺りに火傷の跡みたいな傷があるんだけど、俺どうしたんだ?」
回りくどい言い方で濁すのは嫌いな為、ストレートに訊いてみる。すると、意外な返答が弟の口から漏れた。
「どうしたんだって、ボクが訊きたいよ!」
正直、驚いた。
「学校行ってたらさ、いきなり先生にお兄さんが歩道橋の上で倒れていて救急車で運ばれたって……ホントに何があったの!?」
「何があったの……って言われても―――」
歩道橋の上で俺は倒れていた、と言う事を訊いた辺りから記憶が鮮明に蘇るのが手に取るようにわかった。そうか、委員長との、なら首に凍傷の跡でも……
触ってみたが、喉仏の感触だけが虚しく、手に伝わる。
「……まあ色々かな」
仄めかした態度を見せると弟ははぁ、と呆れたようにため息をついた。
「そろそろボク学校に戻らないといけないから……それと絶対安静なんだから、動いちゃダメだよ!」
そう言うと弟はテレビカードを一枚、俺に手渡し病室から出て行った。
検査入院か。
それから、テレビや睡眠を取って暇を潰していた。気がつくと一人では持て余す程の病室がすっかり、夕の色とその影で埋め尽くされていた。
独りで、この空間に居るとなんだかセンチメンタルになりそうだ。
それから、しばらくしてからだろうか。
委員長が来たのは―――