彼に告げた瞬間、俺は身震いしていた。それは、電話口の彼の表情を想像してしまった為だけではなく、伝えてすぐに溜息の様な抜けた吐息が訊こえたからだ。携帯電話を握る指がカタカタと、揺らぎ汗ばむ。
「――――――」
……きっと意味がわからないだろうな。そう思いつつも俺は黙り込んだ。
彼の素直な返答を訊きたい為だ。
こちらの必死な状況を悟られてしまえば、優しく空気の読める彼の事だ、迷わず着てくれるだろう。それはこちらにしても欣喜雀躍だ。しかし俺はツカサにこれ以上嫌な想いはさせたくない……
それに殴ってから一週間程しか経過していない。これ以上、兄弟の間に亀裂をつくることは―――何もかも終わりになる。
責任取ってくれよ……委員長。
『……どうして、かな?』
耳元で弟の声が訊こえる。
「ああ、えっとな……面識あるかどうか解らないんだけど……三年の委員長にさ、瞭野蒼(りょうのあお)って眼鏡の委員長さんがいてさ―――」
綺麗事。
そう例えるなら、何千冊の本がぶちまけられた部屋の事を『明晰な知識と純粋な考察が得られる泉』と表現する程の綺麗事だ。結句、なぜ主に、個人宅に住み込みで働く女性使用人の衣服を着て欲しいのかと言う最重要通過点を不明瞭にさせてしまった可能性が高い訳だ。
『す、すごいね……色々複雑で……』
やはり、いや勿論のこと彼は理解出来ていなかった。それは容易に推測出来る。なぜならこの俺自身、何を伝言していたのか全く解らなくなっていたからだ。
「……まあ、そういう事だ」
どういう事だ。
あーこれじゃ何かの拍子にボク、メイド服着る! とか言い出しそうだ、と俺は鼻息を荒立てようとしたが、弟に訊かれると少々まずいことに成るためと言うか単なる変態に陥りそうなので一度深呼吸をし、鎮静化させる。
冷たい雨の様に清らかに。
『それで、とにかくボクにメイド服を着てほしいんでしょ?』
彼の一言で篠を突いた。
「……!?」
倍速だ。
鼓動が倍速、否、それ以上かも知れない。そして異常かも知れない、否。
異常だ。
「えっ……お……えぇ―――?」
病室だと言うことを忘れ、俺は長く叫んだ。噎せ返るほどに俺は叫んだ。
『に、兄さんそこ病室じゃないの? そうじゃなくても病院の中では静かにしないと……』
ああ、そうだ。しかし、俺は平静を繕うことが出来ない。
「……ど、どうして着るんだ!?」
『どうしてって……兄さん、さっきの話しだとボク、メイド服着ないと兄さん殺されるんでしょ……?』
「まあ、確かにそうだが……む、無理しなくて着なくても良いんだ。いざと成れば俺が着るし……」
焦りを隠せず常軌を逸脱した台詞を滑らせてしまった。
『兄さんがメイド服……? あはは――――――似合わないよ、兄さんには。もうー変な事言わないでよっ! 笑っちゃったよ』
「そ、そりゃ良かったな!」
俺は何を言っているんだッ!
『兄さん、整理すると兄さんはボクがメイド服を着ることが重荷に成るんじゃ無いかと心配してる。でも内心はして欲しい、瞭野さんのことがあるから。正直な所はこんな感じでしょ?』
「そうだ……全部、お見通しか」
『伊達に兄さんの弟、十五年やってないからねー』
確かに母や父よりも彼と居た時間の方が長い、それだけ俺のことを解っているのか……なら、嘘をついたり何とか誤魔化して有耶無耶にさせようとしてることなんて手に取るようにわかるって事か。
「本当……お前は怖いよ」
『うん? 何か言った? 兄さん』
いや、なんでも無いと俺は零す。
『夏コミはどういう所かボクもわからないけど……良いよ。ボク、メイド服着て参加するよ』
「……良いのか? 本当に、写真とか取られるみたいだけど……」
『大丈夫! それにメイド服って……一度着てみたかったの!! だからお兄ちゃんは何にも心配しなくて良いんだよ?』
……兄さんから、お兄ちゃんに変わっている時点で俺はかなり心配だ。
溜息。
『兄さん? どうしたの?』
「まあ、安心したんだよ。あの性悪眼鏡漫画家に酷い目に遭わされないで済むと思ったらな」
『性悪眼鏡漫画家……? あーもしかして委員長さんのことでしょ? 言っちゃおうかなー兄さんがそんなこと言ってたってー』
ゲホゲホ。
あれ目眩と悪寒と咳と熱っぽさが一気に……意識が遠のいていく……
『嘘だよ~。 でも、どんな女の子にも悪口は言ってはいけないんだよ?』
「ああ、十分すぎるくらいにわかってるよ」
その後、何回か談笑し携帯電話を閉じた。
辺りを見渡すとすっかり暗くなり、海底に沈んだような心持ちになった。寂寥とする病室で俺は蛍光灯をつける。一瞬点滅し、光が灯る。
「……委員長明日も来るとか言ってた様な気がするな」
俺はベッドに倒れ込み、夕食が運ばれてくるのを待ち侘びる。これなら委員長に何かお菓子でも恵んで貰うんだった。
しかし、愚痴を垂れながらも俺の心の蟠りは、まだ薫ることのない夏に攫われていった。
空が青く見える。
今から思慮すれば、委員長も俺と何の変わりもない、高校生だったのかも知れない。俺が夜明けを見に行くのと同じく、溢れ出さんばかりの日々の衝動を何処かで発散する。それが彼女にとっては漫画だった。
違いと言えばそれだけだ。
何気なく彼女の微笑みが宙に浮ぶ。
「……いつも笑ってくれよ。そしたら俺もつき合うからさ」
俺は何を言っているのだろう。
後で看護婦さんに、馬鹿を直す薬でも貰うかな。
そう俺は瞳を閉じた。
―――夏コミまでの月日はまだある。色々と思案するのは、本格的な夏に入ってからでも遅くはないだろう。
そう笑って。
そして、初夏へと―――