Neetel Inside ニートノベル
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 校舎のタイル張りの廊下は斜陽によって染められていた。茜色に浮かぶのは帰路に就く何人かの同級生の影だけだった。その影もやがては去りゆき、廊下には俺の影と懐かしい匂いだけが残っていた。
 窓から下方向を覗き込む。グラウンドがあり、忙しく白球を追う野球部員が見えた。その端の方でサッカー部が足を伸ばしストレッチを始めていた。
 俺は帰宅部なので、ああいう汗を流しながら部活のために尽力するという奴らの気持ちが理解できるわけもなく、すぐに見飽き教室の方を一瞥した。
 その時、視界の隅に彼の姿を確認した。
「よっ……」
「兄さん、待たせちゃったかな?」
 弟が駆け足で寄ってきた。母さんによく似た目を持ち、父さんによく似た猫のような口の形をしている彼の顔は美少年と言うしかほかに無かった。中性的な顔立ちをしている。
「……どうしたの兄さん? 僕の顔に何か付いてるの?」
「いやいやいや、それよりも……」
 彼の表情がすこしだけ硬直する。
「あのさ、朝の森崎先輩って言い方なんだよ。普通に兄さんとかお兄ちゃんとか呼べばいいだろ?」
「えー、でも一応、今日が初登校なんだしそれに先輩だし、兄さんの友達の人もすぐ側で見てたから」
 なんだそんなことか、と言わんばかりに彼の顔はゆるみながらそう口にした。
 俺がそんな狂気じみた話しでもすると想ってたのかよ……
 なんだか兄弟なのに上手く意思の疎通が出来ていない気がする。
 彼はそして何かを思い出したかの様に、内側のポケットを漁りだした。
 内側のポケットからは何やら住所の様な物が書かれたメモが出された。それを俺に渡し、どうしてここで放課後待っていろと言った訳を話し始めた。
「なんだか母さんね、化粧道具を家に忘れちゃったらしくてねバックの中、車の中、幾ら探しても見つからないんだって。だからお店から借りようとしたんだけど、何か肌に合わないらしくてさ。だから……」
「だから俺らに家から持って来てって訳か?」
「そうみたい」
 だはぁぁと俺はわざとらしくため息を吐いた。アノ人はとにかく忘れやすい人だ。最近ではまだ化粧道具で良いものの、いつだか預金通帳をコンビニののトイレに置いてきて大騒ぎになったこともあった。
「あのさ、と言うことは俺らがアノ店にアノ人の子供として向かわなければいけないのか?」
「そうだね」
 にっこりと笑った弟がこれほど憎らしいと思ったことはないだろう。
 まず家に向かわないといけないのか……
 でも何か変だな。
 アノ人がいる店の開店時間は午後七時。今は午後五時三十分。学校では携帯電話の使用、所持は一切禁止。
 弟はいつ、アノ人から連絡を受けたのだろう。それに車も持っているのになぜ俺らに化粧道具を持っていかせるんだ?
 変だ。
「兄さん、大丈夫? 眉間に皺寄ってるけど……」
「ああ、すまない……」
 そうだ、初登校の弟たちはまだ携帯を使用所持禁止の話しは聞かされていないのか。そう言えば、今日の朝、一階を歩いたときに教師に携帯電話取られている奴がいたな。それに弟が通っている中学は携帯の使用はOKだったはず。
 そういうことか。何を俺は変なことを考えていたのだろうか。
 疲れているのかねぇ……
 それになんでも忘れやすいアノ人のことだ。車にガソリンあるない一々確認するとは思えない。
 はぁぁなんて馬鹿な親なんだろう。
「熱でもあるんじゃないの……?」
 弟が俺の額に手を伸ばした。なんて優しい弟なのだろうか、到底アノ人の子供とは思えない。鳶が鷹を産むとはまさにこのことだ。
 しかし……似ている部分は似ている。
 差し出した弟の手を俺は強く握った。そして制服の袖をまくり上げ白雪のような彼の手を返した。
 つけていない。
 それを確認した俺は、ゆっくりと彼から手を話した。
 彼は悲哀に満ちた顔を徐々に下方に向けた。横から差し込む陽の色が彼の顔面の光と闇の差を強く印象づけた。
 その表情は優しさで造りあげた現在の自分とはまるで相反しているようだった。
 彼の心その物だろう。
 恐ろしい牙を隠す猫。
 血と痴を知る死んだ目の弟。
 輝いている様に見えても、それは反射であり、彼自体は恒星では無い。
 昔の記憶から離れているように見えていた。
 俺と弟。
 まだまだ疎通できていない。
「お前……リストバンドはつけろって言っただろ……傷があるんだからよ……」
 こんな言い方しか出来ない……
「ご、ごめんなさい……忘れちゃって……」
 彼の瞳が段々と赤く水分を帯びていく。
 泣かないでくれ。
「誰かに見られたか……」
「ううん見られてない……夏服じゃないから……っ」
 耐えきれなくなったのか堰を切った彼の瞳からは大粒の涙が流れていた。俺の所為なのか……?
「そろそろ行くぞ……」
 重苦しい雰囲気に俺は彼に背を向けて逃げ出していた。時間がたちほの暗くなった廊下から足早に階段を下り玄関へ急いだ。
 謝りたいが……今の俺ではまだ上手くできないだろう。
 下駄箱から俺の黒い靴を乱暴にコンクリートに投げ出す。かかとを踏んだまま引き戸のドアを開け俺は外の空気を吸った。
 少し冷たい春の風に俺はさらわれそうになった。弱すぎるんだ、お互い。
 でももっと弱いのは俺だ……

「待って、兄さん……」
 
 ハンカチで涙を拭いた彼がリュックをゆさゆさと揺らしながらやってきた。吐く息はまだ白い。
「一緒に行こうよ……行く場所は同じなんだから……」
「あぁ、そうだな……」



 俺は父さんが嫌いだ。俺と弟に傷を与えた父さんが嫌いだ。
「昔みたいに手……繋ぐか……」
 コクリと頷いた後、弟は俺が差し出した手を優しく握った。
 懐かしさを連れて家路を急ぐ。
 


 しかし―――
 冷えた春風が俺らを追い越していく度に、俺と弟を繋ぐ手にイラナイモノが目につく。
 そのリストカットの嫌な傷が。

       

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