Neetel Inside ニートノベル
表紙

見開き   最大化      

 体験したことのない「不快」に身を投じている時、どうしても人間は怒りのはけ口を用意しなければ正常を保ってはいけないらしい。たった今、実感したことなのだけれど、よく考えてみればそれは常軌であり、人間らしい行動の一つだった。取りあえず、人間不愉快になると、正常を保つために、はけ口として表情を殺す事で、文字通り相殺するのだ。―――と、難しく云ってみたが、まあ嫌な思いをしているときに心から笑う事なんて出来ないという事なのだけれど。
 三脚の後ろ、夏夕がカメラのレンズに片目を合わせる。夏場になって彼女の髪型も少々変わり、前まで結んでいた髪の束を解き下げている。何でも結ぶと中で蒸れて暑いのだという。でも、あれだけ長かったら結んでも結ばなくても暑いと俺は思う。現に彼女の頬には大粒の汗が泪のそれの様に流れているのだから。
「森崎先輩。もっと笑ってくれないと良い写真が撮れない……それにシャッターが……その……ぇ……」
 夏夕が、風が吹けば飛んでいきそうな声で、そう漏らす。そんな彼女の背後、机の上で長く白い足を組み鎮座している委員長が俺を睨み、間髪入れず、口を開く。
「そうよ、もっと笑いなさいよ。これじゃ本番の時、何云われるか分からないよ? 云われるだけなら良いけど、ここでちゃんとして置かないと後悔するのは森崎君自身なんだから」
「俺、自身と云われても……」
 説明すると、俺が今置かれている「不快」は兄弟揃っての事なのだが。
「はい、もう一回笑って、笑って」
 急かすように彼女が手を叩き、口を尖らせる。全く委員長には情という物が無いのだろうか、と俺は疑問に思った。
 この状態、異常としか言えない。
 制服を脱げと云われ、息つく間もなくメイド服を着せられ、あれこれと、あられもないポーズの指示をされ、それを撮影される。しかも、心からの笑顔と言う注文付きと来た。本当に不快でならない。  
 俺にソッチの気は無いとあれほど言ったにも関わらず……。
 振り向き、ツカサの顔を覗いた。なぜ、満面の笑みを浮かべているのか俺には察知できなかった。
「兄さん? どうかしたの?」
「いや、どうしてそんな笑顔なのかな、と……」
 訊くと、ツカサは興奮し、
「だってメイド服だよ!? テンション上がらないでどうするの! それにボク、一度着てみたかったんだ~メイド服」
 ツカサはそう云うと、袖の部分で頬摺りをし屈託無く笑う。
 ああ、弟よ……お前はもう戻れないんだな。
 ツカサから視線を外し、また委員長へ顔を向ける。
「委員長、それにしてもどうして俺達にこんなにぴったり合うメイド服を調達できたんだ?」
「森崎君、私の話を逸らそうとしても無駄だよ?」
 何処までも疑り深い女だなと俺は思う。
「いや、そうじゃ無くてだな……本当に疑問なんだ」
「そう。なら教えてあげましょう。これはね、前に言ったと思うけど特注品なの」
 ああ、家に来たときの。
「あの、アポがどうのこうの、の話しか?」
「そうそう」
 その後の話しの内容によると、委員長がやっているサークルのメンバーに衣装担当の様な人物が居るらしく、生地さえ渡せば何でも作ってくれるらしい。このメイド服二着もその人物が作ってくれたらしい。ホント、便利な人間も居たもんだ。
「その人の名前は?」
「そうねー。しいて云えば……管理人さんかな?」
「管理人?」
「まあ、夏コミの会場で逢うと思うから、お楽しみに」
 
 
 *


 管理人の話から、数十分立ったところで、俺は音を上げた。
「委員長、やっぱり俺は無理だ。こんな格好をして笑顔なんて絶対に作れない」
「泣き言云わないの」
 そう云うと委員長は机から飛び降り、こちらへ向かって歩き始めた。
「良い? さっきも云ったけれど、これが本番なら森崎君、私の漫画みたいな事になっちゃうかも知れないんだよ? リアルに、あんな風になってしまうんだよ? それでも良いって云うなら撮影練習はここで切り上げるけれど」
 彼女は狡猾だ。
 そんな事云われたら嫌でもやらざろう得ないじゃ無いか。
 でも、やはり―――。
「俺、昔柔道とかやってたし、襲われても大丈夫だと―――」
「え? 兄さん生まれてこの方柔道なんてやってなかったでしょ?」
 ツカサ! そこは話しを合わせろ!
 すかさず出た、彼の言葉に委員長は、ははーんと態とらしく頷くと、くつくつと嫌な笑い方をする。あーあ! 何もかも上手く行かないなぁ!
「森崎君、嘘を付くのが下手だねー」
「…………」
 俺は、振り返りメイド服で立つツカサを睨む。ツカサは一瞬顔を顰めたが、
「瞭野先輩の好意でしてくれてるのに、嘘で逃げようなんて兄さんダメダメだよ!」と腕で×の印を作る。
 ダメダメだよってなぁ……、云われても。
「弟君にまで言われるだなんて、森崎君、本当にダメダメだね! そう思うよね? ナユ」
 委員長に急に話しを振られたため、夏夕は小動物の様に酷く怯え「……ふぇ?」と意味の分からない返事をしていた。
「え……えっと……はい。ダメダメです……ね……た、多分」
 夏夕の言葉はどんどんとフェードアウトしていき、最後には何を云っているのかさえ分からなかった。
「ほら、ナユにまで云われてー。恥ずかしくないの森崎君は?」
 云わせたのは委員長だろう。
 ああ、これは完全アウェーだ。
「……わかりました」
 渋々承諾すると、委員長はニヤリとまた口元に笑みを含み、耳に手を当てる。
「え? 訊こえないなー。もう少し大きな声でハッキリと喋って貰わないと、訊・こ・え・ま・せ・ん」
 腹が立つと言うレベルでは無かった。
「わかりました! 撮影でも何でもしますよお!」
「そう。なら撮影再開ね!」
 委員長はナユにカメラの位置を再度確認し、不貞不貞しく撮影開始の合図を送る。
「はーい、スタート!」
 何がスタートだ。 
 ギャラは弾んで貰わないと。


 *


 一頻り撮影が終わると、委員長から「もう帰って良いわよ」と手を振られたので、俺等は何処か捨てられた子犬の様な気分で帰路に就いた。
 帰り道の途中、
「今日の瞭野先輩何だか気合い入ってたね」
 ツカサは俺の顔を一瞥するとそう切り出した。
「そうかぁ? 何時もあんな感じだと思うが。まあ、今日は特別うざったらしかったな」
「でも、最後は認めて貰って良かったよね」
 認めて貰ってと言う訳では無かった。結果的には受け入れたと、同等の物になったのだが、課程は全くの別物だ。彼女のあれは認める、受け入れると云ったそれでは無く、諦めと言う物であり、妥協でしかない。その為、彼女は別れの時も不機嫌であり、瞳は睨んでいた様にも見えた。きっと心の中では俺を罵っているだろう。あれでも委員長的には我慢している方なのかも知れない。
「そうだな。不承不承の笑みだったけどな」 
 でもここは彼に同意した。
 とどのつまり、今更云った所で時間が戻る訳でも、ツカサが笑顔になる訳でも無いのだから。
「きっと、委員長さんが躍起になっていたのは別の理由があると俺は思うぞ」
「別の理由?」
「ああ、別の理由だ」
 彼は小首を傾げ、疑問を口に出す。
「別の理由って何だろうね」
「多分―――」
 俺は空を見上げ、とある三つの星を指でなぞり、眺める。それは、琴座の首星。白鳥座の首星。鷲座の首星。
「―――夏の所為だろ」
 云うと、ツカサは吹き出し「暑いから、そうかも知れないね」と、半ば馬鹿にしたような感想を述べた。
 でも俺は思う。
 きっと、この季節の所為だと。
 きっと、この夏は何かが違うと。俺はそう、思う。

       

表紙
Tweet

Neetsha