Neetel Inside ニートノベル
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 先ほどまで出ていた夕日も徐々にビルの群れに沈み、何かを暗示しているような不気味な月が空を奪った。しかし、その月も電光掲示板や、ビル壁に吊されたヴィジョン。いかがわしい店々のけばけばしく飾られた原色の色彩の前では穢れを知らぬ子猫のようだ。
 ここの歓楽街は装飾過多という言葉が良く似合う。汚い金、酒と化粧の臭い、路肩に蠢く煙草。肩がぶつかった程度で財布がすっからかんなんてことは日常茶飯事だ。
 そんな夜の光に蝶によく似た蛾が飛び交う。
「今日からこの店で働くことになりました。村上望と申します。これからよろしくお願い致します」
 この街では有名な店の一つである、
 金髪のツインテールの女は深々と頭を下げた。
「もういいよ、頭を上げて」
 明るい返事を返し彼女は頭を上げた。切れ長の目、ルージュを塗った薄い唇。面接を受けたときには掛けていた眼鏡も今はライトブラウンのカラーコンタクトに変わっている。
 しかし、若ぇなーおい。まだガキじゃねぇか。
「それでアンタ、源氏名は決めたのかい? まさか、本名のまま表出ようって訳じゃないだろ?」
「はい、本名のまま接待するとは考えていません。でも源氏名は……その……まだ考えていません……」
「で、今考えるのかい?」
 少々きつめな口調で彼女の前に座る、元NO.1ホステス、現店長兼ママは続ける。
「源氏名ってのは結構大変でね、店に飾る写真の写りも重要だが名前で選ぶ客ってのも少なくないんだ。それも一回来ただけでうん十万、うん百万落としていく客のほとんどは名前を訊いて選んでいく。そんな大切な名前を開店一時間前の今から考えるなんてね」
 少しの間を開け、
「話にならないんだよ」
 鬼に良く似たものが視界を支配した。
 気迫に負けた彼女の顔からマスカラの混ざった涙が流れていく。別に声を荒げた訳でもないのにひしひし伝わってくる怒りの感情。この街に店を構える以上、色々な修羅場をくぐり抜けてきたとは思っていたがそれはまだ指先しか染めていない一少女の想像の範疇を遙かに凌駕していた。
 血に飢えた獣だ。
 死に近い恐怖が部屋の隅々まで広がり、痛みに繋がる。内面が麻痺していく。
 溶けるようだ。
 そんなおどろおどろしさを醸し出す目の前にいる獣に新人の彼女が勝てるわけもなく膝から崩れ落ち涙声で「ごめんなさい……」と手をつき謝った。彼女もこの世界が甘くはないことを心に刻んだだろう。
「今日は月が綺麗だねえ」
 獣は裏腹に嗤う。
「えっ……?」
 彼女が頭を上げると店長は窓の外の月を見上げていた。その姿は妙に艶めかしくやはり美しかった。薄い化粧に整った目鼻。月を眺望するその表情があれば大半の男は落ちるだろうと彼女は確信した。
 でも既に彼女はホステスを引退して四年だ。今でも店には出ると訊いたがお酒は飲まず客との会話だけを楽しんでいるらしい。
「夜月」
 店長はそう口にすると華の模様が刺繍された黒い着物の中からメモ帳を取り出しペンを走らせた。満足そうな笑みを浮かべた後、それをゆらりと彼女に見せた。
「アンタの名前は今日から夜月(よづき)だ。オバサン臭い名前で悪いけど、気に入らなかったら後から直して頂戴」
 すると彼女は涙を拭いながら微かな声で「ありがとうございます」と泣いた。
「この名前、一生大切にします……本当にありがとうございます」
 五分間黙ったままでいた彼女もゆっくりと立ち上がり、もう一度礼をした。
「アンタ顔良いんだから、もう一回化粧してきな。今の顔じゃびっくりして入るもんも入らないわよ」
 店長はそう言い手の人差し指と親指を繋いで金をイメージさせる動きをさせた。それを見た彼女はかわいらしくくすっと笑い、最後にもう一回ありがとうございましたと言って店長室を出て行った。
「まったく最近の若いもんは……」
 デスクの二番目の引き出しから煙草を取り出し愚痴を肴に店長は一服した。
 煙が開けた窓から外に儚く消えてゆく。その情景はまるでホステスの一生を表したような儚げな物で彼女はゆっくり瞼を閉じた。
 すまないね。
 すまないね。
 二人にかけた言葉しか思い出せないのはこの道に入ってからだ。迷惑掛けたとは思っているが、この道をやめるつもりはない。
 彼女が創ったこの店を手放すぐらいなら死んだ方がマシだからだ。
「はぁ……今夜は遅くなりそうだね……アノ子達は大丈夫なのかしら……きっと大丈夫、私の息子達だもの……」
 心配な気持ちを押しつぶすように呟き飲んでいた煙草を灰皿に押しつけた。仄かにまだ流れる煙は長い夜のプロローグ。


 *


 弟は何やら思い詰めた表情だった。それは多分、夜になり電灯がつき始め弟の顔の影の部分が多いためそう見えるのかも知れない。
 しかし俺は何かあると思った。それは兄弟の勘なのかもしれないし考え過ぎかもしれない。後者を願うばかりだが……
「あっ、兄さん珍しいよ。こんな時期に見てみて」
「なんだ……?」
 弟が指さす先にはどこへ向かうのか忙しく羽根をはばたかせるアゲハチョウが浮いていた。
「本当だ……珍しいな……」
 アゲハチョウ。
 目でその行方を追うとブレた焦点の隅に灰色の建物が見えた。黒色で書かれた薄崎マンションの文字。
「もう少しで家だな……」
「そうだね……」
 薄崎マンションとは俺らが住んでいるマンションだ。あのマンションの五階の五百十一号室そこが俺たちが住んでいる街だ。
「あっ……」
 弟の不意に漏れた声に俺は少々驚いた。慌てて彼の視ている方へ焦点を合わせる。
 あ……と声が出るのも理解しがたいことではない。
 先ほどまで優雅にその羽根を舞わせていた蝶が、偶然にも電柱と家屋の塀の間につくられた蜘蛛の巣に絡まり無残に蜘蛛に蝕まれていた。
 蜘蛛の長い足が羽根に無数の穴を開ける。自然の摂理だ。
「捕まっちゃったね……」
「ああ、そうだな」
「かわいそうに……」
「………………」
 何も返せなかった。
 黄色と黒のストライプのまるまるとした蜘蛛の腹がぶよんと動く。そして体液で創られた白い糸で蝶を繭にさせていく。
 まるで退化だな……
 そう言おうとしたが先ほどまで泣いていた弟のことを考えると不躾にも程がある。無言で歩く。
 何を思ったか、俺は空を見上げてみた。遠ざかる雲の隙間から金色の月が顔を覗かせる。
 なんだか嫌な月だ。
 誰かが俺と同じ月を見上げている気がして俺は顔を地面にそらした。
 もう少しで自動ドア付近、もう一度だけ空へ顔を向けた。
 やはり、月は俺らを監視しているように雲と雲の裂け目から青い光を放っていた。
 嫌な月だ。

       

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