Neetel Inside ニートノベル
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 家に着くとすぐに弟はアノ人の部屋にはいっていった。忘れ物の化粧道具を取りに行ったのだろう。玄関のすぐ横にトイレ、そこから真っ直ぐに伸びる廊下を通ると茶の間があり、その奥がアノ人の部屋だ。それ以外の部屋は俺たち兄弟の部屋二つと、今ではすっかり物置場と化してしまった元仕事部屋の三部屋だ。俺たちは何か無い限りにはアノ人の部屋と物置場には入らない。立ち入る用がないのがそもそもだが、それ以外にも理由はある。
 それは俺らがアノ人を嫌っているのも一つだが、重要な点はそこでは無く俺らがその二部屋を無いものとして生活している点だ。視界には入るが部屋とは認識しない。ただそこに在る物、模様やシミとしてだけの認識だ。それは過去にあったあることも影響しているのだ。
 兄さん、今捜してるから茶の間で飲み物でも飲んで待ってて、結構時間かかりそうだから。冷蔵庫に確か牛乳入ってると思うよ」
 始まりはちょっとした違和だった。奥から聞こえる弟の声は何やら焦燥の感情が垣間見えた。
 急いで捜しているからか……
「時間かかりそうなら、俺も捜すよ。二人で捜した方が楽だろ? それに時間も……」
 靴を脱ぎ捨て玄関から抜け出たその時。

「こないで―――」

 …………?
 俄に信じられないことだった。はっきり言って驚愕した。
 どうした……?
「ごめんなさい、僕一人で捜せるから……」
「……あぁ……そうだな、す、すまない。俺茶の間でテレビ見てるから……」
「う、うん……」
 動揺を隠せない。
 思わず誰だと叫びたくなってしまう程に常の弟の姿とはかけ離れていた。一瞬弟の声に似せた誰かと話している錯覚に捕らわれたかと頭痛がした。
 なぜに昂ぶる?
「……本当に大丈夫か?」
「うん、もう少したったら呼ぶから。それまでお願いだから待ってて」
 間を開けず彼の声がドアの隙間を縫い聞こえてくる。……禅問答だ。
 会話が噛み合っていない。弟も何かしらで動揺している? なぜ動揺している?
 俺は思考を巡らせる。
 理由を探るが答えは簡単には出ない。たが何かがある。そう思えば今日の弟は少々変だ。否、かなり変だ。
 朝のコンタクトの件も、放課後の涙も、確かに放課後の方は俺も言い過ぎだがいつもの彼ならあれぐらい笑って返すぐらいの愛嬌は持ち合わせているはずだ。
 なぜ泣いた?
 今日何かがあったのか? もしくはあるのか?
 弟は何かを知っている?
 弟は何かを隠している?
 確かめるには今すぐドアを蹴り部屋に突入すれば早いが……そんな事をして本当に良いのだろうか。
 ドアノブに掛けた手に問う。
 良いのか、本当に開けても。
 嫌な汗が止まらない。
 疑心を持った人間ほど恐い物はないだろう。常軌を逸脱することなど何の躊躇いも感じないのだから。
 俺はドアノブから手を外し玄関に戻った。木目状の床を歩き白い鞄のジッパーを開ける。乱雑に積み上げられた教科書を掻き回すと白いストラップの付いた携帯電話が見えた。
 無理矢理取り出し、本当は視たくもないような番号に電話をかけた。
 この時の俺は気が違っていたのかも知れない。狂気に犯されたヒトガタだ。


 *


 同時刻、スナック『風華』

 騒ぎに騒ぐスナックの店内、店長はお客の接待をしていた。水割りのウィスキーを両手で鮮やかに口に運ぶ。しかし飲んでいるわけでは無く、ほんのり口につける程度だ。毎回飲んでいたら身体が持たないためだ。
 すると胸の辺り独りでに鳴り出していた携帯電話に気がついた。ここではバイブ音の設定でもしておかないと喧騒で着信音がかき消されてしまうためだ。でもすぐには着物から携帯電話を取り出さない。それはお客様への配慮だ。客前で携帯など弄れるわけがないのだ。
「すみません少しお席を外しますわ」
「どうしてだい、ママまだ少ししか話しもしていないじゃないかぁ……」
 少々痩せ気味のよれよれのスーツを着た白髪の老人は開いているのかわからない薄い目で店長を一瞥し酒を口に含む。
「ごめんなさい、私次のお客様の所にいかなきゃいけないの……若い子呼んでくるから」
「そうかぁい……わしゃ店長の方がいいんじゃけんども……」
「本当にごめんなさい……また今度お話ししましょう」
 丁寧な礼を二回し客から離れ、店の補充室の裏を通り店長室の廊下まで着てから携帯に耳を貸した。
 電源を消し忘れるなんて……私も今日入った娘と同じじゃない……
 暗澹の色を隠すように電話では明るく着飾る。
「もしもし、どなたかしら……」
『ああ、俺だテルだ』
 彼女は電話の主を訊くとほんのり口角を上げ先ほどまで飾っていた恭しい口調を取り払った。
「初めてだね、アンタが電話掛けてくるなんて」
『あのさ、今日化粧道具、家に忘れてったのか?』
 彼女は妙な表情を浮かべながら廊下の灰色の壁に寄りかかった。
「えっ? 私は何にも忘れてないわよ? そんな事、この世界に入ってから一度もないわよ。店のオーナーも兼ねているんだからそういう所には人一倍気を使っているのよ? それに今は電話を掛けてこないでお客さんに迷惑がかかるでしょ?」
 まぁ……さっき携帯の電源切り忘れた私が言うのも変なんだけどね。
 すると輝之はおかしな質問を返してきた。
『……開店は何時なんだ?』
「開店時間? なんで、そんなこと……最近は四時頃からよ。忙しいからね―――ってちょっとテル? ねぇテル?」
 電話は既に切れプープーと連続した機械音に変わっていた。思わず口からため息が出る。
「いきなり切るなんて、まったく何をやっているのかしら……」
「店長! お客様がお待ちしております。そろそろ戻ってもらわないと……」廊下の入り口付近でドンペリのゴールドをしっかりと持ったボーイが現れた。
「そう、わかりました。今向かいますから」
 今日は儲かるわね。ゴールドなんて久しぶりだもの。
 ため息を廊下に閉じ込め、風に舞うように華は良くできた微笑を浮かべお客の元に急いだ。

       

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