僕の問いに彼は味気なく答えた。
「そりゃ、兄弟そろって女装してたらおかしいだろ?」
「……え?」
的外れの回答に僕は少々驚いた。しかし、兄はそれが正真正銘の理由だという風に妙に真面目な顔をしていた。
夕日に照らされ眩しい。
……兄さん、何を言っているの?
「だから、兄弟そろって女子高生に扮していたら変だろ? そう思わないのか?」
「あの……弟が女装してるって事はもう十二分ぐらいに変じゃないのかな……? ってそれよりも、どうして僕に女装をさせるの?」
訊きたいのはそこである。どうして弟に女装をさせるのか、という点である。基本的に今まで兄は僕に対し女装や、それを想起させるような行為、行動、はしてはいない。ならば、なぜ今此処で、この場所でそれをさせるのか? 僕には見当も付かない。
僕の問いに対し兄は思案しているような、何かを躊躇しているような抽象的な表情を浮かべる。紡ぐ言葉は何か?
「そりゃあ、祭りに参加するためだろ?」
ほんの少しの間を開け彼は口を開いた。
しかし答は新たな疑問を呼ぶものだった。
「……? お祭りに参加するのにどうして女装しないといけないの?」
「いや、そうじゃなくてな―――」
「今回、祭りの行事で女装大会がある。それにお前を参加させるためだ!」
呆れの意に近い感情が混ざった僕のため息が、夏の空気と同化する。
光源は沈みかけの陽のみの空間で僕は初めて兄に対してある種の畏怖感を覚えた。口は開くが声は出ない。まるで酸素を求め水上に浮揚する観賞用の淡水魚だ。
女装大会……なんて訊いていなかった。自分が兄の立場なら直接は伝えなくとも、仄めかすぐらいの事象は起こすだろう。
兄は僕を騙そうとしていた?
……嫌だ! と今すぐ叫んで立ち去りたいが……バスは一日一回の往復。夕闇も迫る中、隣町まで歩くのも億劫だ。
ちょっとばかりの心の揺らめきを感じた後、
「……そうなんだ……が、頑張るね……」
虚偽。
僕は微妙な笑みを浮かべながらもこれ以上この空気を崩さないよう最善の配慮をした。
それを少々感じ取ったのか、兄はそれ以上は何も言わずに申し訳なさそうな表情で道の先へ振り返った。
言ったは良い物の、僕は何を頑張れば良いのか……先が思いやられてならない。
道の隅、草原の奥、薄い墨を垂らしたかのような漆の森から、嗄れた蝉の声が聞こえる。
心は剣呑としか表せない感情を抱き、澱んだ。
―――そこから先は良く覚えていなかった。
なぜか、僕の意識が戻った時はバスの中だった。ほどよく揺れるバス内は睡眠には打って付けである。
目のみを動かすと右隅に兄さんは悲しそうな顔が浮かんでいた。窓から覗く夜の闇を覗いているのだろうか……
夜……?
今は何時だ……?
それよりも何があったのか……?
「兄……さ……ん……?」
声を掛けると少々眠たそうなトロんとした目を擦りながら彼が近づいてきた。
「おお、目が覚めたか。大丈夫か?」
バスの座席をレバーを引き徐々に起こす。
「大丈夫って?」
「いや、俺がお前を女装大会に出場させるっていったら、お前その後すぐ気絶してバッタり倒れたんだよ」
卒倒。
ああ、そういえば心の動揺が大きすぎて……
だから覚えてないのかな……?
「それで兄さん、どうしたの?」
彼は携帯でタクシー呼び隣町に向かったらしい。そしてその町でバスの最終便に乗り、今に至ると言った意の説明をした。所々口が止まったところを視ると、事実とは少々違うかも知れないと疑ったが時計を見ると真実だと理解できた。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫だよ? 覚えてないだけで頭も痛くないし、身体も……」
そう言い身体を見たときに異変に気がついた。
無い。
起き上がったときは気がつかなかったが僕の服装はジャージと水色の半袖に取り替えられていた。
はっとした。
「え……兄さん……もしかして……」
「ん? ああ一応、気絶した女装男子を俺がタクシーに乗せるのは……まあ少々危ないってことだ」
と言うことは……!?
「ええええええええええええええええええ!?」
僕は自分でも驚くぐらいの奇声をあげた。兄はさらに驚いていたが、バスの運転手も驚愕しバックミラーで僕らのことを一瞥していた。
「叫ぶなよ! 女子の服を脱がして着せ替えたって訳じゃ無いんだし……」
慌てふためく兄は先ほどの発言にフォローを入れたつもりだが、僕に取ってはそれはフォローではなく時間差攻撃だ。
「だだ、だだあああだだあああ大、大、大問題だよ!! 兄さんが弟の服を、それもセーラー服を脱がして……わあああああああああああ!?」
またもや僕は声を荒げた。
は、恥ずかしい……
だって気がついてしまったのだ。
「兄さん……もしかして……路上で着替えさせたの……?」
「……すまない」
「わああああああああああああああああああああああ!!」
一通り叫んだ後に押し寄せる、妙な恥ずかしさに僕は頬を赤らめた。
どうしてだろう、とてつもなく逃げ出したい。
「…………見られた……」
「ん? なんか言ったか?」
うるさい!
僕は怒っていた。それと居合わせない感情も心の奥では渦を巻いていた。それはどことなく切なさに似ていて褪せた痛みを感じさせた。
はぁ……
男同士だから問題は無いはずだけど……どうしても恥ずかしいと感じてしまう。
僕の部屋に置いてあったセーラー服も……兄さんの頼みならと……なんなのかな……
これが変と言う物なのかな……?
そう想ったときに、心の奥がズキンと痛んだ。
「でもさ……でもさでもさ! どうして女装のままタクシーに乗せてくれなかったの? 女装が趣味の弟とか言って誤魔化せば良かったのに……」
「まあ、タクシーの運転手から見たら、俺がお前を襲って気絶させたとかしか見れないだろうよ。女の子にしか見えないしな……」
ガタガタと僕の手は震え、嫌な汗が止まらなかった。
「わあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
兄さんの一言は尋常では無いほどの恥しさを僕に与え、兄さんを見ることもままならなくさせた。
やっぱり変だ。
*
女の子にしか見えないしな……
俺の一言が弟を狂わせたと今では後悔している。
そして力を入れドアノブを捻る。手の中は汗まみれだ。ぎぎと軋んだ音を上げドアが開き視界が変わる。
「おい! 何してるんだ!!」
「お、お兄ちゃん……」
ハイソックスを履き明るめのブラウンのブラウスを着た『少女』は、はっとした表情で俺の瞳を視た。