Neetel Inside ニートノベル
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 彼女は否、彼は掛け値無しに驚愕していた。目を見開き、どうして? と言ったような顔色をしている。しかし、その顔も普段見ていた弟の困惑とは違く、薄いファンデーションを塗られた雪を欺く肌で、だ。
 こちらも驚愕である。
 目の前にいるのが、女としか見えないからだ。それでも、
「おい、何してンだよ!」
 低く唸るような声を俺は発していた。もう少し穏やかな口調で諭そうとは想ったが、それよりも先にこの胸の中で渦巻く、弟に対しての言い表せない嫌な感情がこの鼻腔から這い出し、俺の声となって駆け抜けていった。言うならば言葉の疾走である。
「お、お兄ちゃん……どうして……いるの……?」
 弟の声には緊張の色が滲み出ていた。
「どうしてってなァ! 俺今、アノ人に電話掛けたんだよ。お前の様子が今朝から妙だからよ。そしたら化粧道具なんざ忘れてねえって話しじゃねえか! そんじゃ、お前は此処で何しンだって想って、ドア開けて来てみたらよ、何だこの有様は!! どういうことか俺に説明しろ!」
 弟の目は徐々に赤くなり、やがて潤み始めた。やり過ぎたが、ここまで来ると後にも引けない。
「泣いてないで説明しろ!」
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
 指で涙を拭いながら、彼は崩れた。いや、比喩ではなく本当に崩れるように床に沈んだ。さらりと、指の隙間から砂が零れ地に返るように。彼は立つことも出来なくなってしまったらしい。
 凄みをきかせ過ぎたかも知れないと、頭によぎる。
 しかし―――
「立てよ……」
 昂ぶる鼓動は、
「立てよ……」
 押さえられない。


「立てって、言ってンだァァアああああああああああああああああああああああああああッ!!」


 そう咆哮すると、俺は弟に肉迫し、服の襟を掴み涙でぐしゃぐしゃになった顔に、
「……は…ぅぅぅぅわ……」
 ドゴッ。
 俺は初めて弟の顔に拳を入れた。手加減はしたつもりだったが、短い距離では、それは中々の威力に値する。殴った直後、ぶはっと彼の唾液が俺の顔面に飛沫したかと想うと、直ぐさま彼の頭部は糸の切れたマリオネットの様に俺が与えたそのままの速さでカーペットの敷かれた床に叩き付けられた。しかし、やはり威力は強大だったのか、弟の頭はワンバウンドし、宙を舞った。そこでもまた弟は獣の様な唸りを上げ唾液を飛沫させた。だが、その飛沫には赤い物、そう血液も混ざっていた。推測だが、彼の頬が拳と自らの白歯に挟まれ、口内から出血したらしい。
 騒然とした室内で、俺と弟の吐息だけが反響する。
「はぁ……はぁ……うぅぅ…ご……」
 弟の精気を失った顔からゴポっと、どろりとした深紅が流れ出た。俺の拳からも、夥しい血液が流れ床を染めた。
 現状を視る限り、弟はもう立つことも喋ることも、今は不可能に近いだろう。争い事は好きでは無いが、致し方がないと言ったところか。
 許せ、弟よ。
 俺の言葉がお前を狂わせたんだ……
 ならば、今その鎖から解放してやろう。
 俺はアノ人が使っているであろう、スカーフを拳に巻き止血した。そして、踏みしめるように歩き彼の血の付いた衣服を掴んだ。
「……脱がすぞ……」
 ブラウスの裏側に指を忍ばせ、ゆっくりと上げる。なんだか、弟相手にしているのと、見た目が美少女にしか見えないのが相まって、俺は紅潮を隠せなかった。
 その時。
 俺の手に温もりが在る物が触れた。
「………ッ!?」
 弟の指だった。
「…………やめて、お兄ちゃん……ぬ、脱がさないで……お願い……だから……」
 俄に信じられないが、弟は脱がさないでと言葉を発した。てっきり、先ほどの一発で気を失ったとばかり想っていた、俺としては本当に信じられない事だった。
「……すまない、俺が悪いんだ……俺があの時……」
 弟はほんのり笑うと、また徐々に目を赤らめた。
「……今日はね、お兄ちゃんにボクが男の娘っていう女装が趣味の子だってカミングアウトしようと……想ってたの。だから、朝から少しずつ仄めかす様にしてたんだ。妙にかわいこぶったり……すぐ泣いたり……滅多に入らないこの部屋に入ったりしてね……」
「……そうだったのか」
 知らなかった。
「……お兄ちゃんとは違って、ボクはちゃんとサイン……出してたからね……去年の女装大会みたいに急にしたら……お兄ちゃんも、びっくりするでしょ……? でも呼ぶ前に来るなんて……お兄ちゃんは、勘が鋭い様な……そんな雰囲気みたいだね」
 まあ確かに電話で確認もしたけど……
「………………」
「今から、ちゃんと言うね……」


「ボクは、男の娘なんだよ……」


 この部屋に辿り着いたときから、その事実は俺には解っていたが、弟に正式にカミングアウトされると、非常に重い話しだ。なぜだろうか、弟がとても離れていくような幻想に囚われてしまう。近くにいるのに心は遠いとは、このような事なのだろうか……
 この感情は……「変」だ。
 全てが変わりそうな……そんな気がしてならない。今までの関係も、立ち位置も話し方も……想うことすら罪深いような……錯覚に陥りそうだ。弟の暴露。俺の昂ぶり……この時間を共有した俺らに、兄弟としての、家族としての、明日は……あるのか?
 

 否、それは考えられない―――


「お前の気持ちは、良くわかった……でも……俺は認められない……」
 弟の顔が曇るのが、すぐにわかった。
 弟も辛いが、俺も辛い……苦渋の選択だ。
「どうしてッ! どうして! どうして、お兄ちゃんは解ってくれないの!!」
 弟の必死な姿を、初めて視た気がする。いいや、これはあの時以来か……
「どうしてもだ……俺にはお前の想いは受け止めてやれる、でもな……女装は認められない!」
「お兄ちゃんは何も解ってない!!」

「解ってるさ! 俺も辛いんだよ! お前の自由は尊重してやりたいさ、俺もな! でも、そんなこと世間からしたらおかしい奴だと想われるだろ! 俺は何言われても言いさ! だがな俺の耳にお前の誹謗中傷が聞こえるのは耐えられねえんだよおおおッ!!」 

 解ってくれ、解ってくれ弟……俺の気持ちを察しれないお前じゃ無いだろう……
 しかし……
「お兄ちゃんは、常識が全て正義だと語るの!? それこそ、おかしいよ! 世間からしたら、確かにボクの行為は変態とか想われるかも知れない! でも、ボクはそれでも、このボクを捨てられないんだ。この男の娘のボクと、いつもの僕で本当の僕なんだよ! どちらが欠けても、お兄ちゃんの弟にはならないんだよ!」 
「……話しにならねえ!! 俺は今のお前を弟だとは認めない! 今のお前はただの変人だ! 狂ってるんだよ! それをわかれ、この下種野郎!」
 少しばかり言い過ぎたなんて、甘い考えはもう終いだ。
 俺はいつもの弟を取り戻すためなら、実力行使も厭わない。
「……お兄ちゃんが、そんな分からず屋だとは知らなかったよ! ボクは僕と自分の道を歩くよ! 誰にも邪魔なんかさせない」
「這々の体でも逃がさねえからなァァああああああああッ!」
 膂力が走り、硬直する。まだ完全に止血はしていないが……もう仕方がない。
 握っていたブラウスを引きちぎろうと両手に力を込める。
「脱げえ! 脱げ! 脱げ脱げ脱げ脱げええええええええええええええッ!!」
「や、やめて……やめて……やめろおおお!!」
 じたばたする弟の顔を俺はまた殴った。だが、今度は弟も覚悟していたらしく頬に当たる直前に、拳の向きと同じ向きに顔を逸らすことで、その衝撃を受け流していた。軽く掠めたと言った程度だ。
 弟は、少々誇らしげな表情を浮かべ、右に向かって何かをはき出した。一瞬だが、それは確かに確認できた。俺の瞳に映ったのは、奥歯だ。彼の奥歯が取れたのだ。
 弟は、もう歯の根が合わない、と言った訳ではないようだ。
「脱げええええええ!!」
 抵抗は流石に男の物だった。マニキュアを塗った長い爪を、俺の腕に食い込ませてくる。
 このままでは血と痛みで、腕が持たない……
 俺は、ブラウスを掴んだまま、彼を起き上がらせないよう、徐々に馬乗りになる体勢へ移動する。
「や、めてぇえよ……お兄ちゃん! …………やめてよ!!」
「……脱ぐまで止めねえ! 俺はもう迷わない! お前を取り戻してやる!」
 その時だった。
「こ………がああああああああああああああああああ!!」
 良く聞き取れなかったが、後方から叫び声が聞こえてきたと想った瞬間。
 ドバッ!
 背中に激痛が走った。
「ぐあッ…………!?」
 耐えきれずに俺は声を上げる。
 その痛みは広範囲に及ぶ物だ。何かが覆い被さってくるような感覚に良く似ている。誰かが来た……!? 否。そんなこと考えられるはずもない。なら、何なんだこの痛みは! 何かが落ちてきた? いいや、それも考えられない。
 思案していると、弟の驚愕した顔が眼下に飛び込んできた、何を驚いているのだ。そして、すぐに違和が襲ってきた。焦点が合わずよく見えないが、赤いドリルの様な物だ。
「女の子の服を、それも妹の服を脱がすなんて、解せないなッ!!」
 覆い被さっているそれは、俺の耳元で、そんな言葉を吐いた。
 人間……誰だ……!?
「お……お前は……誰だ……」
 この男、覆い被さっているだけではなく、俺の手首を捻っている。これは中々動きづらい……そして痛い。これを無理に解こうとすれば、男は多分、俺の背中から床に直撃するだろう。だが、この手首の持ち方だと落ちたときに、男の体重で手首が捻られる。
 最悪、手首が一回転だ。
 この男、本当に何者なのだろうか。
「ふふ、……」
 男は嗤う。
「ふふはははははははははははははは―――」
 高笑いにも程がある。それも耳元なので、耳がキンキンしてならない。これも攻撃の一種なのだろうか。
「よくぞ訊いてくれた。よくぞ訊いてくれた。よくぞ訊いてくれたじゃないか! ふっはあはははははははははははははは!!」
 俺は直感した。此奴は馬鹿だ。それも筋金入りの、だ。
 多分、出会った人間の内、八割はもう二度と関わりたくないと想うだろう。残りの二割は出会ったという記憶を削除する、超能力者だ。
「僕の名前は、瀬戸リーン芽最愛さ! 人々の心に最愛を芽生えさせる、麗しき美少年さ」
 痛い。
 手首ではなく……
「……それで……お前はどうしてここにいる……?」
 訊きたいのはその点である。瀬戸なんて名字はうちの学校でも、訊いたこともない。ここのマンションの住人に、ここまで変な奴はいなかった気がする。とすれば、この自称美少年は何者なのだろうか。
「僕は最近、ここに引っ越してきた、瀬戸財閥の御曹司さ、クラシックを楽しみ、ヴァイオリンを嗜んでいるのさ」
「おい……質問の答えになっていねえぞ……お前はなんでここにいるんだ……」
「それは勿論、僕が悲鳴を聞いたから、駆けつけた。ただそれだけのことじゃ無いのかい?」
「お前は……何階に住んでいるんだ?」
「僕は四階の、四百十一号室だが……? 何か問題でもあるのか」
 なるほど、合点がいった。
 ここの真下か……だから激しい物音や声が漏れたわけだ……
 今度から気をつけないと、いけないな……
「おい……瀬戸の最悪、お前さっき妹がどうのこうのと言っていたな……それは、お前の勘違いだぜ……?」
「……どういう意味だ」
 表情は見えないが、先ほどとは声色が急に変わった。
「どういう意味って、そういう意味だ……そこで血吐いてるのは、俺の妹じゃねえって言ってるんだよ……」
「じゃ……誰の妹だって言うんだよ……? 答えてみろ、変態が!」
「だから、お前は根本的な間違いをしてるんだって!」
「話しが見えないな、どういうことか、男なら、はっきり言ったらどうなんだ!」
 ここで躊躇している訳にはいかない。説明しないといけないのは、解ってる……
 ……もう、どうすれば良いんだよ……
 疲労困憊だ。
 言いたくはないが……ここまで、入り込んできたなら仕方がない……
「誰にも言うんじゃ……ねえぞ……」
「わかったから、早く言え」
 もうどうにでもなっちまえば良いんだ!
 その時、何かが吹っ切れたような気がした。


「そこにいるのは……俺の……俺の弟だ!」
 

 本当にどうにでもなっちまえ……

       

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