Neetel Inside ニートノベル
表紙

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「……それは、嘘だ!」
 背中の男はそう激昂すると、手首から今度は首に手を回した。彼の細くしなやかな腕が、俺の腹から胸を蛇の様に這う。しかし、見た目とは裏腹に力はかなり強く喉仏の辺りからピグと嫌な音がした。同時に鈍い痛みが感じられるようになった。多分、彼は護身術の類の物を会得しているようだ。
 これ以上、力を入れられたら喉が潰れそうだ……
 それでも、
「……嘘じゃない……あれは……俺の弟だ……」
 間髪入れずに彼も言及をする。
「しらを切るつもりか! お前は妹を襲って犯そうとした。それに、彼女の顔が腫れている。あれは殴って無理矢理に犯そうとした証拠以外の何者でもないだろう!」
 耳元で響いた、彼の提示は鋭かった。確かに、上から声が聞こえ乗り込んでみたら男が女にしか見えない子の服を脱がそうとしていた。顔には殴られたような後もある。状況的には不利極まりない。これで弟が俺の弁解をしてくれるなら現状は一変するが、なにせ先ほどまで弟の女装を認めないと、暴力にまで手を出したんだ。多分、弟は俺の無実を証明してくれはしないだろう。
 ならば、どうする……兄弟喧嘩だ。と真実を言うか。しかし今の彼がそれで『はい、そうですか』なんて解放する事はまずありえない。状況を打開する鍵は無いのか。
「黙ってないで、何か言ったらどうなんだ。それとも、その黙秘は肯定の意思表示かい?」
 彼はまだ言葉を紡ぐ。喋り方からして彼は中々頭の切れる男だと言うことが理解できた。先ほどの言及でも彼の頭脳の高さは理解できたが、その後も追尾するところがそれを更に印象づけさせた。ちょっとした行為、間、すらも取り込む形だ。彼の戦術にはまると、自分の発言が矛盾だらけになりそうで心底恐ろしい。
 だから一つ一つ棘を千切らないといけない。
「……そういうことじゃねえんだ」
「なら、何か言ったらどうなんだ。このままだと君の言っていることは全て、嘘偽りだ。何も隠さず全てさらけ出したらどうなんだ。まあ最初から信じてはいないがな」
 喉を絞められている所為か、意識が徐々に遠くなっていく。
 畜生。
 思考が纏まらなくなってきた……
 脳に血液が十分巡っていないんじゃないかと俺は荒い呼吸を整えようと一回薄い深呼吸をする。しかし状況は何も改善されることなく、最悪のまま提供させられる。
 このまま気を失えば、彼は警察に連絡するだろう。そうなると、俺の潔白は証明させられるかも知れないが、弟の女装が世間に広まってしまう。この男だけに真実を言い、まるく納めようとしたことが、そもそもの間違いだったのか。そうか、この場合は俺が本当に襲っていたと嘘を付き警察に引き渡して貰えば良かったのか、いいやそれでも弟の女装がバレる。変態というレッテルを貼られるのは、俺だけで十分なのに……
 これ以上、弟を悲しませたくはないはずなのに……
 彼の涙も拭えない。それどころか泣かせたのは俺じゃないと守るのは自分自身。あの夏の日も俺の勝手で女装させて、今も、彼の事を認めてあげれていられれば、こんな事にはならなかった、殴る事もなかったのに……そうか、
 俺は、弟の事なんて、想っていなかったのか―――
 俺の勝手で弟を壊したと思い込んで、弟の自由さえも鎖で繋げようとしていたんだ。常識と、もっともらしい訳を付けて、ただただ弟が俺に従う姿を見て満足たかっただけじゃ無いのか。俺が弟を守ってやっていると自分に酔っていただけじゃ無いのか。そうだ、あの時の弟の誹謗中傷を聴くのは嫌だと言っていたことも、変態弟の兄と想われるのが嫌だ、が本当の理由じゃ無いのか。
 やっと気がついた。
 俺は自分勝手で最低な兄だ。いや、俺はもう兄なんて名乗る資格も無い……
「……俺は……なんて最低なんだ……」
 ポロポロと瞳から大粒の涙が流れてきた。
 情けない、なんて俺は情けないんだ……
「君は認めるのかい……?」
 背後からの男の声に、俺はゆっくりと首を縦に動かそうとした。
「一つだけ良いか……?」
 その前にやることがある。
「ああ、なんだ」
「俺が捕まったとき、妹を、この街から赤麦町に引っ越しさせてやってくれないか……?」
 赤麦町とは、母さんの故郷の町だ。去年の夏に訪れた町、あの町に引っ越しさせてあげられれば、何とかなるだろう……
「ああ、わかった、その町を調べておく」
「……すまない」
 嗄れた声でそう呟いた。
 その時、
 声がした。限りなく深い海の底で、眠りかけていた俺にハッキリと、その声は聞こえた。いつも聴いていたハズのその声は、何故か、何処か懐かしさを漂わせていた。
 いつか聴いた気がする……心の奥底で蘇る追憶の情景に俺は呼ばれる。……そうか、思い出した。あの夏の日の声に良く似ていたんだ。今よりも少し短い髪で、今よりも少し小さい背で、今よりも少し子供じみた笑顔を浮かべていて、仄か茜に染まった空の下、風に揺れた。あの時の、今も変わらない、柔らかな暖色の声で。
 彼は待っていてくれていた。俺が変えてしまっていたと言う幻想に囚われず。
 彼はいつも、俺の隣に居てくれていた。変わらない笑顔を俺にいつまでも……いつまでも振りまいて。


「……瀬戸さん、お兄ちゃんの言っていることは本当です。ボクは……兄さんの弟です」


 部屋の空気が一瞬にして、その質をより濃く、密度の高い物にしていた。
「……な、何を言っているのかな? お嬢さん……もう一度囁いてほしい……」
 弟の発言は予想外の展開だったらしく、彼の額はみるみる内に汗で埋まっていった。しかし、その前で俺も心底驚いた。いいや驚愕の感情の内、半分以上を占める物は驚きなどでは無かった。そこに或るのは、なぜ? という訝しさに似た物だ。
 弟は何を考えているのか、正直言って俺は困惑した。
「おい! 何言ってンだ! お前は……えっと……女だろうが!」
「違うよ、僕は男の子だ!」
 弟が描く憧憬の俺は現実と掛け離れている。多分、彼の中の俺は次にこう話していくだろう。『どうして、そこまで俺を庇うんだ……』『どうして、妹を続けなかった……』そんな言葉は虚飾でしか無い。
 俺は平気で嘘をつく人間だ。本当の俺はそんな真似をしない。でも、想いは受け取ってやれる。
 ―――だから、俺は俺のやり方でお前に答えよう。
 一種の賭けだ。弟の絶対的な拒否、瀬戸の揺るがない判断、この二つさえクリア出来れば状況は一変する。
 …………恥かしいがな。
「そんあ嘘吐いても、何も変わらねえんだよ!」
 しかし、弟は虚勢に負けず、真実を明かそうと表情を変える。
「違うよ! 僕は兄さんの弟だよ。女装が趣味の、兄さんの弟だよ!」
「……違う! お前は俺の弟なんかじゃない! お前は俺の妹だ。どこからどう見ても妹だ。そして俺はお前の身体に欲情した最低な野郎だ。おい財閥、さっさと警察に連れてけ」
 俺は今までになく凄みを利かせ、彼の瞳を凝視した。その鋭い睨みに恐れおののいたのか、彼も慌てて取り繕う。
 掛かった、と俺は淑やかにほくそ笑んだ。後は、彼が……
「おわっ……え……少しばかり時間をくれないか。状況が状況なだけに、正しい判断が鈍る。と、取りあえず、彼女の弁明を訊いてから警察に連絡を取るか否かを……」
「そんな暇はゼロだ! 早く俺を警察に引き渡せ。な? それでまるく収まる。お前は高校生の少女を救ったと瀬戸財閥の株も上がる。妹も変態の兄から離れられて田舎で長閑に暮らせて、清々する。これ以上の解決策は無いだろ!?」
 ここぞとばかりに、追い打ちをかける。
「いや、しかし誤認逮捕……と言うのもあってだね僕はその……」
「じゃあこれで良いだろ!」
 刹那だ。俺は彼の絞めから無理矢理に脱出し、弟に近づいた。
 本当に何を血迷ったのだろうか、常軌を逸している行動だ。こんな企てを実行に移すなんて。
 アウトローにもほどがある……
「良く見とけ、財閥。これで文句は無いはずだ」
 そう俺は吐き捨て、弟を見つめた。
「お、お兄ちゃん……!?」
 そして俺は弟の震える顔を見つめ、すっと唇を重ねた。感触は思ったよりも柔らかく繊細だった、多分弟のつけた香水の所為か、華の香が鼻腔を突き抜けていく。
「!?」
 弟の鼓動が聞こえそうだ。それほどに二人の距離は近い。瞳の中の俺が見えそうなほどに。
 本当に俺は何をやっているんだろう……
 ファーストキスを弟にあげちまうなんて……
 そして、ゆっくりと唇を離した。弟は鼻血を垂らしながら、俺の腕の中で卒倒した。しかし、その顔は、いつもと変わらない笑顔のままだった。
 はぁ……どうして満足気なんだ……
「な、な、な、何をしているんだあああああああああああ!」
 視界の端で顔を真っ赤にしながら叫ぶ瀬戸の姿が見えた。まるでトマトだ。
「な? これで十分なはずだろ。俺は無理矢理、妹にキスをした。そしてそれをお前は視ていた。これで捕まえる以外の選択は無いだろ?」
「……ああ、そうだな変態」
 そう彼は言い残し、廊下を抜け外へ出て行った。その時俺は初めて彼がほぼ全裸だと言うことに気がついた。
「……どっちが変態だよ、全く」
 と言うか、あのまま外出て……良いのか……?


 *


 弟の目が覚めたのは、それから二時間経った頃だ。俺は、何かの拍子で弟の記憶が飛んでいてほしいなんて事を願っていたが、そんな夢物語は、そうそうに打ち砕かれた。
「だ、大丈夫か……?」
「う、うん……大丈夫……」
 弟はそう言い、ゆっくりと起き上がる。その頭は少々寝癖で乱れた居た。
「…………」
 まだ寝ぼけているのか、ぼおっとしたままだ。
「…………」
 何か喋ろうか、弟が何かを話すのを待つか……
「…………」
「…………」
「……なあ、お腹減ってないか?」
 静寂を止めたのは俺の方だった。長く無言で居るというのは中々耐え難い物だと感じたからだ。
「うん、お腹減ってるよ……」
 弟は寝癖の付いた頭を直しながら、そう答えた。やはりまだ眠たいのか、大きなあくびを一つ付くと、瞳を擦り始める。
「……そうか……じゃあ、久し振りに外食するか……」
 …………
 ……とは言ったものの、財布の裏地の布はレシートしか無いと餓死してる。
 それでも言ってしまった事に取り消し機能なんて無いのだ。
 どうにか、話題を。
「……えっと……何が良い? 中華か? それとも和―――」
「……!? ちゅ、ちゅう!? ……ちゅうは食べれない……んじゃ無いのかな……?」
 失敗した。
 かなりの勢いで失敗した。
 先ほどまでの弟の薄い瞳が、フウセンウナギの口の様、バッと見開かれる。今は、魚の鱚もNGワードだ。
 平静を演じないと、更に厄介な事に成りそうだからだ。
「……あのな、中華か和食か洋食どれが良いかって訊いてるんだけど……」
「あ……ごめんなさい。ちょっと心の中があたふたしてて……」
 心の中があたふたしてるって……どんな表現だよ。
 まあ一時はどうなるかと冷や汗をかく一日だった事には違いない。女装に喧嘩、ここまで縁のないことが立て続けに起こるなんて、本当に信じられない事だ。
「……でもね、喧嘩して不穏なまま過ぎちゃうより、後から笑える話になってホントに良かったとボクは思うよ」
 ああ、俺もだ。
 弟は大きく伸びをする。俺は、その姿を見て普段通りの日常が戻ってきたと胸をなで下ろした。
 時計を確認する。針は九。
「もうこんな時間じゃやってないか……」
「そうだね、外食はまた今度で良いよ」
 内心良かったと思った俺が嫌いだ。
「悪いな……仕方がない、今夜は俺がおにぎりでも握るか……」
 こんな事を招いたのは俺にも否がある。それに傷を負わせたんだ。それぐらいの事はしてやりたい。
 が、
「え…………わーい、わーい、…………す、す……すごく嬉しいなー……」
 ……そんなに嫌なのか。
 文句の一つも言いたいが、今日は黙認しよう。
「冗談だって冗談。確かカップ麺が引き戸の中に大量に入ってるんだっけ……それより、俺の飯ってそんなにまずいのか……?」
 でも、それとなく訊きたくなるのが男の性だ。
「うん……正直に言うとおいしくないし、素材の味も殺してるかも……」
 ……泣きたい。
 今度から、得意分野に家庭科って書かないでおこう。
「露骨に嫌な意見、ありがとうございます」
 そう巫山戯ていると、急に彼の声のトーンが低くなった。
「ねぇ……どうしてあの時、キスしたの?」
 ………
 ギクリとした。背中を指ですぅーっとやられたときになるあの感じだ。触れないでほしかったが。
「キスしなくても、あの時ちゃんと理由を説明してれば、こんな事にまでならなかったと思うんだよ」
 まあ、確かに弟が俺の側に付いたことで瀬戸も戸惑い、流れはこちらに来ていた。あの作戦を起用しなくとも、少しの小突きで論破出来たかも知れない。
 でも、ここは本音で語りたい。
「……まあ……お前がかわいくて仕方が無くてキスしたんだよ」
 弟はかっと顔を赤らめた。
「へぇ、へぇーそうなんだああ、そ、そりゃボクが、じょ、じょ、女装すれば、そここっこここの男の人なんてか、かか、簡単におお落とせるからね」
 此処まで来ると清々しい程の動揺っぷりだった。しかし先ほどの理由も強ち間違ってはいない。
 そこからまた静寂が部屋を包んだ。弟の顔はまだ、紅の色が強い。
 …………かわいいなんて想いたくない。
 それに、まだ俺は認めてない……あんなの反則だ。
「テレビ付けて良いよね……?」
 ぼっとしていた俺に弟がそう話しかけた。俺を覗く瞳は、あの夏の日によく似た輝きを秘めていた。
 どことなく母さんの瞳に似ていると、俺はそう懐想した。
「そうだな」
 気晴らしである。
 リモコンのボタンを押し薄型テレビが発光する。ついた番組は時々見るニュース番組だった。人気の女性アナウンサーの軽やかな声が訊こえてくる。
『たった今入ったニュースです。瀬戸財閥の会長、瀬戸信長氏の孫にあたる、瀬戸リーン芽最愛氏が本日、午後八時頃都内の路上で下着一枚でいる所を駆けつけた警察官に保護された模様です。調べに対して瀬戸氏は、俺は美少年だ。兄に囚われた妹を助けるために警察に行きたい。証拠はキスだ。と意味不明な供述を―――』
 …………
『あ……』
 俺と弟はほぼ同じタイミングでそう口から漏らした。多分意も同じだろう。
 忘れていた。


 *


 思春期とは何かと厄介なことが纏わり付く時期だ。それは部屋に入ったら、弟が男の娘とかになってたり、その弟にキスしてしまったりと、予想外にも程がある展開だ。
 それでも俺は楽しもうと想う。だってこの時期は楽しんだ者勝ちのアウトローな季節だからだ。

 そして、一週間後の夜明けに次のアウトローはやってきた。

       

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Neetsha