Neetel Inside ニートノベル
表紙

弟が男の娘だなんて兄さんは認めないっ!
第1話 「弟が男の娘……!?」

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 思春期とは何かと厄介なことが纏わり付く時期だ。それは恋愛絡みなどが大半を占める。が、まあ人それぞれだ。心なんて揺らいでなんぼらしい。
 四月に入り、俺も高校三年生になっちまった。時間の流れは長いようで意外と短い。死んだ爺さんがいっつもそんなことを言っていた。訊いていた当時、俺は小学生だったので意味がよくわからなかったが、今となっちゃわかりたくなくても、わかっちまう。
 俺は、もう年老いたのか……まだまだ先は長いのに今から時の流れが、どうだこうだなんて言っている場合じゃないのにさ。
 そして教室も変わった。此処の高校は一階が一年、二階が二年、三階が三年と救いようのない馬鹿でも間違わないような簡単な区域分けが行われている。
 まあ入学当日に間違った俺がいるけどな。
 うわぁー三階なのにたっけーなんて騒いで早速、教師にも怖い先輩方にも目をつけられ後から泣くほど後悔した記憶がある。
 そんな俺が三年か。
 本当に時の流れは早いもんだ。
 窓の下を覗き込むと、風に揺れる花弁が視界に映り込んだ。桜の薄紅ほど美しい物はこの季節にはない。俯瞰の風景はそれ以外にも、この前入学式を終え今日が初登校の生徒達の笑顔も写していた。
 懐かしいなんて思わないが、不意にある人物を捜してしまう。
 何人もの生徒の中でたった一人の人物。
 先に行っておくが女子ではない。もちろん男子だ。だが、俺はそっちの気はない。そういう意味で探している訳じゃない。
 ……多分。
 目を動かして探せど何分、俺は目が悪いためいつもはコンタクトレンズを使用している。なので誰が誰だか見当がつかない。さっきの生徒達の笑顔も俺の幻想に過ぎない。
「はぁ……目ぇ痛くなってきた……」
 目頭を指で擦っていると、
「おーい、輝之(てるゆき)お前に用がある一年が来てるぞー」
 間の抜けたような声に振り返ると、妙にツンツンした頭の男子が阿呆のように手を振っていた。
「こっちこっち」
 手招きをする彼は俺の友人の齋藤陽(さいとうひざし)彼とは中学の頃からの付き合いだ。馬鹿だが運動には長けており、得意なスポーツは水泳で県大会などにも出場するような強者だ。
 まぁ馬鹿なので頭を使う競技は良い成績は残していない。
「あぁ、わかった今行く」
「おっ輝ちゃん、もう既に下級生をパシリに使ってるのかー? いやいや凄いとしか言いようがないなー。どう脅したんだー? ナイフ? 拳? はっ……もしかして……イケナイ関係!? こわいこわい」
 前の席からまるで蛇のように身体をくねらせてこっちを見るのは炒拓寺郎(いためたくじろう)彼も俺の友人だ。しかし、自分にとっておもしろいことが起きないとすぐその場から立ち去るというよくわからない人物だ。彼とも中学の時からの付き合いだ。陽とは違い彼は頭が良く切れるタイプの人間だ。成績も常に十以内には必ず食い込んでくる。
 関係無いが俺の一番良かった順位は23位だ。今は76位だが……
「なんで俺がそんな奴なんだよ!」
「おーい突っ込んでないで早く来いよ」
 だから今行くってばっ!
 心の中でそうで呟いた俺は駆け足で廊下へ出た。灰色のタイルがみしみしと軋む。
「おはようございます、森崎先輩」
 向いていた方向とは別の方向から聞き慣れた声が耳に染みこんだ。振り向いて相手を確認した。
「ああ、……?」
 そこに佇んでいた。黒く艶やかな髪をした……
「はい、これ忘れていましたよ―――」
 黒い箱には俺の名前が白色のマジックで書かれていた。季節外れの鈴の玲瓏。俺は何と言っていいか戸惑った。いつも見ている姿なのになぜか……
「あ、ありがと……」
 逡巡すると変な空気になってしまうので、俺はとりあえずありがとうと口にした。恥ずかしさはほんの数秒でするりと抜けた。
 真っ白い肌に細い腕、まるで百合のようなしなやかな手から黒い箱が俺に渡された。数秒だけ触れた指先からは柔らかな日だまりの温もりを感じた。
「それでは……」
 ゆっくりとお辞儀をして下級生は走りながら去っていった。
 俺が何十人もの生徒の中から探していた下級生はそれだけを渡し、一階に下りていった。
 緊張の糸が切れた。下級生の姿が見えなくなったからだ。
 ……胸の奥が痛い。
 痛い。
 忘れ物を届けてくれただけなのに、いつも話を交わしている相手なのに、少し髪が長くなっただけなのに……妙な鼓動は俺を御伽話の中に閉じ込めたようだ。
 その魔法を解かしてくれたのは、陽だった。
「どうした輝之? なんかぼっとしてたぞ?」
 ……ああ、すまない。
 そんな言葉をかけ、俺は自分の席に戻った。忘れていた黒い箱を開け、それを優しく取り出した。
 中味はコンタクトレンズだ。
 片目ずつにはめ、瞬きをする。反射的に目が潤み頬を伝った。
 窓側の席。斜め上を見上げてみた。空が真っ蒼だ。真っ青だ。雲一つないその空は果てしなく奇麗だった。何かの余韻に浸っているような気分だ。
 よく見えるのはコンタクトレンズをつけたからかも知れないが、多分この蒼はそうじゃない。
 風に乗って桜がその空の向こうへと舞い上がる。揺れるカーテン。春風が耳元を掠め教室の中へ入り込んでいった。薫る。
「それで誰だったんだー? 輝ちゃんに用があった下級生って」
 拓寺郎の痩せた顔が俺を覗いた。
 別に隠さなくてもいいことだ。だから俺はそっけなく言ってやった。



「弟だよ―――」

 

     

 校舎のタイル張りの廊下は斜陽によって染められていた。茜色に浮かぶのは帰路に就く何人かの同級生の影だけだった。その影もやがては去りゆき、廊下には俺の影と懐かしい匂いだけが残っていた。
 窓から下方向を覗き込む。グラウンドがあり、忙しく白球を追う野球部員が見えた。その端の方でサッカー部が足を伸ばしストレッチを始めていた。
 俺は帰宅部なので、ああいう汗を流しながら部活のために尽力するという奴らの気持ちが理解できるわけもなく、すぐに見飽き教室の方を一瞥した。
 その時、視界の隅に彼の姿を確認した。
「よっ……」
「兄さん、待たせちゃったかな?」
 弟が駆け足で寄ってきた。母さんによく似た目を持ち、父さんによく似た猫のような口の形をしている彼の顔は美少年と言うしかほかに無かった。中性的な顔立ちをしている。
「……どうしたの兄さん? 僕の顔に何か付いてるの?」
「いやいやいや、それよりも……」
 彼の表情がすこしだけ硬直する。
「あのさ、朝の森崎先輩って言い方なんだよ。普通に兄さんとかお兄ちゃんとか呼べばいいだろ?」
「えー、でも一応、今日が初登校なんだしそれに先輩だし、兄さんの友達の人もすぐ側で見てたから」
 なんだそんなことか、と言わんばかりに彼の顔はゆるみながらそう口にした。
 俺がそんな狂気じみた話しでもすると想ってたのかよ……
 なんだか兄弟なのに上手く意思の疎通が出来ていない気がする。
 彼はそして何かを思い出したかの様に、内側のポケットを漁りだした。
 内側のポケットからは何やら住所の様な物が書かれたメモが出された。それを俺に渡し、どうしてここで放課後待っていろと言った訳を話し始めた。
「なんだか母さんね、化粧道具を家に忘れちゃったらしくてねバックの中、車の中、幾ら探しても見つからないんだって。だからお店から借りようとしたんだけど、何か肌に合わないらしくてさ。だから……」
「だから俺らに家から持って来てって訳か?」
「そうみたい」
 だはぁぁと俺はわざとらしくため息を吐いた。アノ人はとにかく忘れやすい人だ。最近ではまだ化粧道具で良いものの、いつだか預金通帳をコンビニののトイレに置いてきて大騒ぎになったこともあった。
「あのさ、と言うことは俺らがアノ店にアノ人の子供として向かわなければいけないのか?」
「そうだね」
 にっこりと笑った弟がこれほど憎らしいと思ったことはないだろう。
 まず家に向かわないといけないのか……
 でも何か変だな。
 アノ人がいる店の開店時間は午後七時。今は午後五時三十分。学校では携帯電話の使用、所持は一切禁止。
 弟はいつ、アノ人から連絡を受けたのだろう。それに車も持っているのになぜ俺らに化粧道具を持っていかせるんだ?
 変だ。
「兄さん、大丈夫? 眉間に皺寄ってるけど……」
「ああ、すまない……」
 そうだ、初登校の弟たちはまだ携帯を使用所持禁止の話しは聞かされていないのか。そう言えば、今日の朝、一階を歩いたときに教師に携帯電話取られている奴がいたな。それに弟が通っている中学は携帯の使用はOKだったはず。
 そういうことか。何を俺は変なことを考えていたのだろうか。
 疲れているのかねぇ……
 それになんでも忘れやすいアノ人のことだ。車にガソリンあるない一々確認するとは思えない。
 はぁぁなんて馬鹿な親なんだろう。
「熱でもあるんじゃないの……?」
 弟が俺の額に手を伸ばした。なんて優しい弟なのだろうか、到底アノ人の子供とは思えない。鳶が鷹を産むとはまさにこのことだ。
 しかし……似ている部分は似ている。
 差し出した弟の手を俺は強く握った。そして制服の袖をまくり上げ白雪のような彼の手を返した。
 つけていない。
 それを確認した俺は、ゆっくりと彼から手を話した。
 彼は悲哀に満ちた顔を徐々に下方に向けた。横から差し込む陽の色が彼の顔面の光と闇の差を強く印象づけた。
 その表情は優しさで造りあげた現在の自分とはまるで相反しているようだった。
 彼の心その物だろう。
 恐ろしい牙を隠す猫。
 血と痴を知る死んだ目の弟。
 輝いている様に見えても、それは反射であり、彼自体は恒星では無い。
 昔の記憶から離れているように見えていた。
 俺と弟。
 まだまだ疎通できていない。
「お前……リストバンドはつけろって言っただろ……傷があるんだからよ……」
 こんな言い方しか出来ない……
「ご、ごめんなさい……忘れちゃって……」
 彼の瞳が段々と赤く水分を帯びていく。
 泣かないでくれ。
「誰かに見られたか……」
「ううん見られてない……夏服じゃないから……っ」
 耐えきれなくなったのか堰を切った彼の瞳からは大粒の涙が流れていた。俺の所為なのか……?
「そろそろ行くぞ……」
 重苦しい雰囲気に俺は彼に背を向けて逃げ出していた。時間がたちほの暗くなった廊下から足早に階段を下り玄関へ急いだ。
 謝りたいが……今の俺ではまだ上手くできないだろう。
 下駄箱から俺の黒い靴を乱暴にコンクリートに投げ出す。かかとを踏んだまま引き戸のドアを開け俺は外の空気を吸った。
 少し冷たい春の風に俺はさらわれそうになった。弱すぎるんだ、お互い。
 でももっと弱いのは俺だ……

「待って、兄さん……」
 
 ハンカチで涙を拭いた彼がリュックをゆさゆさと揺らしながらやってきた。吐く息はまだ白い。
「一緒に行こうよ……行く場所は同じなんだから……」
「あぁ、そうだな……」



 俺は父さんが嫌いだ。俺と弟に傷を与えた父さんが嫌いだ。
「昔みたいに手……繋ぐか……」
 コクリと頷いた後、弟は俺が差し出した手を優しく握った。
 懐かしさを連れて家路を急ぐ。
 


 しかし―――
 冷えた春風が俺らを追い越していく度に、俺と弟を繋ぐ手にイラナイモノが目につく。
 そのリストカットの嫌な傷が。

     

 先ほどまで出ていた夕日も徐々にビルの群れに沈み、何かを暗示しているような不気味な月が空を奪った。しかし、その月も電光掲示板や、ビル壁に吊されたヴィジョン。いかがわしい店々のけばけばしく飾られた原色の色彩の前では穢れを知らぬ子猫のようだ。
 ここの歓楽街は装飾過多という言葉が良く似合う。汚い金、酒と化粧の臭い、路肩に蠢く煙草。肩がぶつかった程度で財布がすっからかんなんてことは日常茶飯事だ。
 そんな夜の光に蝶によく似た蛾が飛び交う。
「今日からこの店で働くことになりました。村上望と申します。これからよろしくお願い致します」
 この街では有名な店の一つである、
 金髪のツインテールの女は深々と頭を下げた。
「もういいよ、頭を上げて」
 明るい返事を返し彼女は頭を上げた。切れ長の目、ルージュを塗った薄い唇。面接を受けたときには掛けていた眼鏡も今はライトブラウンのカラーコンタクトに変わっている。
 しかし、若ぇなーおい。まだガキじゃねぇか。
「それでアンタ、源氏名は決めたのかい? まさか、本名のまま表出ようって訳じゃないだろ?」
「はい、本名のまま接待するとは考えていません。でも源氏名は……その……まだ考えていません……」
「で、今考えるのかい?」
 少々きつめな口調で彼女の前に座る、元NO.1ホステス、現店長兼ママは続ける。
「源氏名ってのは結構大変でね、店に飾る写真の写りも重要だが名前で選ぶ客ってのも少なくないんだ。それも一回来ただけでうん十万、うん百万落としていく客のほとんどは名前を訊いて選んでいく。そんな大切な名前を開店一時間前の今から考えるなんてね」
 少しの間を開け、
「話にならないんだよ」
 鬼に良く似たものが視界を支配した。
 気迫に負けた彼女の顔からマスカラの混ざった涙が流れていく。別に声を荒げた訳でもないのにひしひし伝わってくる怒りの感情。この街に店を構える以上、色々な修羅場をくぐり抜けてきたとは思っていたがそれはまだ指先しか染めていない一少女の想像の範疇を遙かに凌駕していた。
 血に飢えた獣だ。
 死に近い恐怖が部屋の隅々まで広がり、痛みに繋がる。内面が麻痺していく。
 溶けるようだ。
 そんなおどろおどろしさを醸し出す目の前にいる獣に新人の彼女が勝てるわけもなく膝から崩れ落ち涙声で「ごめんなさい……」と手をつき謝った。彼女もこの世界が甘くはないことを心に刻んだだろう。
「今日は月が綺麗だねえ」
 獣は裏腹に嗤う。
「えっ……?」
 彼女が頭を上げると店長は窓の外の月を見上げていた。その姿は妙に艶めかしくやはり美しかった。薄い化粧に整った目鼻。月を眺望するその表情があれば大半の男は落ちるだろうと彼女は確信した。
 でも既に彼女はホステスを引退して四年だ。今でも店には出ると訊いたがお酒は飲まず客との会話だけを楽しんでいるらしい。
「夜月」
 店長はそう口にすると華の模様が刺繍された黒い着物の中からメモ帳を取り出しペンを走らせた。満足そうな笑みを浮かべた後、それをゆらりと彼女に見せた。
「アンタの名前は今日から夜月(よづき)だ。オバサン臭い名前で悪いけど、気に入らなかったら後から直して頂戴」
 すると彼女は涙を拭いながら微かな声で「ありがとうございます」と泣いた。
「この名前、一生大切にします……本当にありがとうございます」
 五分間黙ったままでいた彼女もゆっくりと立ち上がり、もう一度礼をした。
「アンタ顔良いんだから、もう一回化粧してきな。今の顔じゃびっくりして入るもんも入らないわよ」
 店長はそう言い手の人差し指と親指を繋いで金をイメージさせる動きをさせた。それを見た彼女はかわいらしくくすっと笑い、最後にもう一回ありがとうございましたと言って店長室を出て行った。
「まったく最近の若いもんは……」
 デスクの二番目の引き出しから煙草を取り出し愚痴を肴に店長は一服した。
 煙が開けた窓から外に儚く消えてゆく。その情景はまるでホステスの一生を表したような儚げな物で彼女はゆっくり瞼を閉じた。
 すまないね。
 すまないね。
 二人にかけた言葉しか思い出せないのはこの道に入ってからだ。迷惑掛けたとは思っているが、この道をやめるつもりはない。
 彼女が創ったこの店を手放すぐらいなら死んだ方がマシだからだ。
「はぁ……今夜は遅くなりそうだね……アノ子達は大丈夫なのかしら……きっと大丈夫、私の息子達だもの……」
 心配な気持ちを押しつぶすように呟き飲んでいた煙草を灰皿に押しつけた。仄かにまだ流れる煙は長い夜のプロローグ。


 *


 弟は何やら思い詰めた表情だった。それは多分、夜になり電灯がつき始め弟の顔の影の部分が多いためそう見えるのかも知れない。
 しかし俺は何かあると思った。それは兄弟の勘なのかもしれないし考え過ぎかもしれない。後者を願うばかりだが……
「あっ、兄さん珍しいよ。こんな時期に見てみて」
「なんだ……?」
 弟が指さす先にはどこへ向かうのか忙しく羽根をはばたかせるアゲハチョウが浮いていた。
「本当だ……珍しいな……」
 アゲハチョウ。
 目でその行方を追うとブレた焦点の隅に灰色の建物が見えた。黒色で書かれた薄崎マンションの文字。
「もう少しで家だな……」
「そうだね……」
 薄崎マンションとは俺らが住んでいるマンションだ。あのマンションの五階の五百十一号室そこが俺たちが住んでいる街だ。
「あっ……」
 弟の不意に漏れた声に俺は少々驚いた。慌てて彼の視ている方へ焦点を合わせる。
 あ……と声が出るのも理解しがたいことではない。
 先ほどまで優雅にその羽根を舞わせていた蝶が、偶然にも電柱と家屋の塀の間につくられた蜘蛛の巣に絡まり無残に蜘蛛に蝕まれていた。
 蜘蛛の長い足が羽根に無数の穴を開ける。自然の摂理だ。
「捕まっちゃったね……」
「ああ、そうだな」
「かわいそうに……」
「………………」
 何も返せなかった。
 黄色と黒のストライプのまるまるとした蜘蛛の腹がぶよんと動く。そして体液で創られた白い糸で蝶を繭にさせていく。
 まるで退化だな……
 そう言おうとしたが先ほどまで泣いていた弟のことを考えると不躾にも程がある。無言で歩く。
 何を思ったか、俺は空を見上げてみた。遠ざかる雲の隙間から金色の月が顔を覗かせる。
 なんだか嫌な月だ。
 誰かが俺と同じ月を見上げている気がして俺は顔を地面にそらした。
 もう少しで自動ドア付近、もう一度だけ空へ顔を向けた。
 やはり、月は俺らを監視しているように雲と雲の裂け目から青い光を放っていた。
 嫌な月だ。

     

 家に着くとすぐに弟はアノ人の部屋にはいっていった。忘れ物の化粧道具を取りに行ったのだろう。玄関のすぐ横にトイレ、そこから真っ直ぐに伸びる廊下を通ると茶の間があり、その奥がアノ人の部屋だ。それ以外の部屋は俺たち兄弟の部屋二つと、今ではすっかり物置場と化してしまった元仕事部屋の三部屋だ。俺たちは何か無い限りにはアノ人の部屋と物置場には入らない。立ち入る用がないのがそもそもだが、それ以外にも理由はある。
 それは俺らがアノ人を嫌っているのも一つだが、重要な点はそこでは無く俺らがその二部屋を無いものとして生活している点だ。視界には入るが部屋とは認識しない。ただそこに在る物、模様やシミとしてだけの認識だ。それは過去にあったあることも影響しているのだ。
 兄さん、今捜してるから茶の間で飲み物でも飲んで待ってて、結構時間かかりそうだから。冷蔵庫に確か牛乳入ってると思うよ」
 始まりはちょっとした違和だった。奥から聞こえる弟の声は何やら焦燥の感情が垣間見えた。
 急いで捜しているからか……
「時間かかりそうなら、俺も捜すよ。二人で捜した方が楽だろ? それに時間も……」
 靴を脱ぎ捨て玄関から抜け出たその時。

「こないで―――」

 …………?
 俄に信じられないことだった。はっきり言って驚愕した。
 どうした……?
「ごめんなさい、僕一人で捜せるから……」
「……あぁ……そうだな、す、すまない。俺茶の間でテレビ見てるから……」
「う、うん……」
 動揺を隠せない。
 思わず誰だと叫びたくなってしまう程に常の弟の姿とはかけ離れていた。一瞬弟の声に似せた誰かと話している錯覚に捕らわれたかと頭痛がした。
 なぜに昂ぶる?
「……本当に大丈夫か?」
「うん、もう少したったら呼ぶから。それまでお願いだから待ってて」
 間を開けず彼の声がドアの隙間を縫い聞こえてくる。……禅問答だ。
 会話が噛み合っていない。弟も何かしらで動揺している? なぜ動揺している?
 俺は思考を巡らせる。
 理由を探るが答えは簡単には出ない。たが何かがある。そう思えば今日の弟は少々変だ。否、かなり変だ。
 朝のコンタクトの件も、放課後の涙も、確かに放課後の方は俺も言い過ぎだがいつもの彼ならあれぐらい笑って返すぐらいの愛嬌は持ち合わせているはずだ。
 なぜ泣いた?
 今日何かがあったのか? もしくはあるのか?
 弟は何かを知っている?
 弟は何かを隠している?
 確かめるには今すぐドアを蹴り部屋に突入すれば早いが……そんな事をして本当に良いのだろうか。
 ドアノブに掛けた手に問う。
 良いのか、本当に開けても。
 嫌な汗が止まらない。
 疑心を持った人間ほど恐い物はないだろう。常軌を逸脱することなど何の躊躇いも感じないのだから。
 俺はドアノブから手を外し玄関に戻った。木目状の床を歩き白い鞄のジッパーを開ける。乱雑に積み上げられた教科書を掻き回すと白いストラップの付いた携帯電話が見えた。
 無理矢理取り出し、本当は視たくもないような番号に電話をかけた。
 この時の俺は気が違っていたのかも知れない。狂気に犯されたヒトガタだ。


 *


 同時刻、スナック『風華』

 騒ぎに騒ぐスナックの店内、店長はお客の接待をしていた。水割りのウィスキーを両手で鮮やかに口に運ぶ。しかし飲んでいるわけでは無く、ほんのり口につける程度だ。毎回飲んでいたら身体が持たないためだ。
 すると胸の辺り独りでに鳴り出していた携帯電話に気がついた。ここではバイブ音の設定でもしておかないと喧騒で着信音がかき消されてしまうためだ。でもすぐには着物から携帯電話を取り出さない。それはお客様への配慮だ。客前で携帯など弄れるわけがないのだ。
「すみません少しお席を外しますわ」
「どうしてだい、ママまだ少ししか話しもしていないじゃないかぁ……」
 少々痩せ気味のよれよれのスーツを着た白髪の老人は開いているのかわからない薄い目で店長を一瞥し酒を口に含む。
「ごめんなさい、私次のお客様の所にいかなきゃいけないの……若い子呼んでくるから」
「そうかぁい……わしゃ店長の方がいいんじゃけんども……」
「本当にごめんなさい……また今度お話ししましょう」
 丁寧な礼を二回し客から離れ、店の補充室の裏を通り店長室の廊下まで着てから携帯に耳を貸した。
 電源を消し忘れるなんて……私も今日入った娘と同じじゃない……
 暗澹の色を隠すように電話では明るく着飾る。
「もしもし、どなたかしら……」
『ああ、俺だテルだ』
 彼女は電話の主を訊くとほんのり口角を上げ先ほどまで飾っていた恭しい口調を取り払った。
「初めてだね、アンタが電話掛けてくるなんて」
『あのさ、今日化粧道具、家に忘れてったのか?』
 彼女は妙な表情を浮かべながら廊下の灰色の壁に寄りかかった。
「えっ? 私は何にも忘れてないわよ? そんな事、この世界に入ってから一度もないわよ。店のオーナーも兼ねているんだからそういう所には人一倍気を使っているのよ? それに今は電話を掛けてこないでお客さんに迷惑がかかるでしょ?」
 まぁ……さっき携帯の電源切り忘れた私が言うのも変なんだけどね。
 すると輝之はおかしな質問を返してきた。
『……開店は何時なんだ?』
「開店時間? なんで、そんなこと……最近は四時頃からよ。忙しいからね―――ってちょっとテル? ねぇテル?」
 電話は既に切れプープーと連続した機械音に変わっていた。思わず口からため息が出る。
「いきなり切るなんて、まったく何をやっているのかしら……」
「店長! お客様がお待ちしております。そろそろ戻ってもらわないと……」廊下の入り口付近でドンペリのゴールドをしっかりと持ったボーイが現れた。
「そう、わかりました。今向かいますから」
 今日は儲かるわね。ゴールドなんて久しぶりだもの。
 ため息を廊下に閉じ込め、風に舞うように華は良くできた微笑を浮かべお客の元に急いだ。

     

 玄関の光は意外にも強く男は手を翳し目を慣らせていた。
「ただいマーイスウィートホーム!」
 着ていた制服を玄関の横に乱暴に脱ぎ捨て部屋に置かれた皮のチェアーに上半身裸で寝そべる。
 部屋に人はいなく、明りも今つけた玄関しかない。が、ドアもたったいま閉めたため光のない空間が出来上がった。
 冷蔵庫とテレビとテーブル、大きな皮のチェアー後は教科書と物は異常なほど少ない。
 彼はそのチェアーの上でゆっくりとズボンを下ろし快感に浸る。肌に伝わる冷たい感触が何とも言えず気持ちいい。
 そのまま転がりフローリングの冷えた床に身体を投げ出す。
「あーあひゃひゃうひゃひゃひゃ……! ちょー気持ちぃいいい!!」
 ぐるぐると行ったり来たりしながら男は恥じらいのかけらもないまま快楽を求める。
 静かな部屋に彼の喘ぎ声が木霊する。しかし……
 どんどんどんどん……
 天井から何やら激しい物音が聞こえる。それは次第に大きくなりやがて男女の声も聞こえてきた。
 今日は随分と上が騒がしいな……僕のビューティフリーな時間を邪魔しないでくれたまっえ!
 男は厚いカーテンを開け流れ込む月明かりを身体に焼き付ける。
 うーん良い感じだ……月よもっと輝いて……! もっと僕だけも照らしてぇえええええ……!
 自己の世界に入り込もうとしたときまたもや天井からの声が現実に引き戻す。
「おい……脱げよ……」
「やめて……やめて……」
 上はあんまり良い雰囲気じゃなさそうだ……ああ、女の子を無理矢理に連れ込んでいるのか……なんて不浄なんだ! あ~やっぱりこの世界の救世主(メシア)は僕だけなのかっ!
「やめて……お兄……ちゃん……」
 んなっ!?
 はっとし男は思わずパンツ一丁で天井を見上げた。この板一枚上で何が行われているというのだ。
「い、今……お兄ちゃんと聞こえた気が……はっ、んな馬鹿な……妹を手中に収めようなんて……」
 口では否定するが男の上顎と下顎がカチカチと音を立て、それに合わせるように足もガクガクと震えている。まるで生まれたての子牛だ。
 聞き間違いだ……僕の聞き間違い……ほらミルクテーでも零したんだ多分。それで善意での行為と兄としてのプライドを保ちながら、これ見よがしに妹の下着姿を確認するという卑劣なことだろう。ということはさては、兄の方はわざとミルクテーを零したな。
 天井を見ながら男は妄想をノートとペンに変え物語を紡いでいた。
 が、しかし……


「……お兄ちゃん……痛い……痛いよぉ……」


「うりゃああああああああああああ!!」 
 聞こえてきた妹の声に男はパンツ一丁のままドアを開け玄関へ向かった。
 靴も履かずに外へ飛び出しエレベータを目指した。
 廊下のひんやりとした冷たさと小さな石の鈍い痛みが足に伝わるが彼の脳内では先ほどの妹と思われる人物の言葉が何度も反芻されていた。
 やばいぞ。これは本格的に危ないパターンかもしれない。
 近親……なんとか? とかそんな雰囲気だぁあ。妹は嫌がってるようだし合意の上でも無さそう。まあ合意の上でも法に触れる行為を見逃してはいられない。
 正義の味方、瀬戸リーン芽最愛(せとりーんめさいあ)が許さない!
 後方で『きゃああああああああああ』と明らかに駆け抜ける約八割裸男に向けられた声も瀬戸には黄色い声援にしか聞こえていなかった。
 今の僕、超かっこいい……!?
 風景は流れ目的地が迫る。
 エレベーターに入ると丁度良く夜勤であろうおじさんとすれ違った。瞳と瞳で挨拶を交わす。
 あの親父、俺の様になりたいと思っただろうな。ふぁっ……男にも女にもモテる俺は全く辛いぜ!
 瀬戸は奇異の目という言葉を知らないらしい。
 エレベーターの扉が閉まり密室に変わる。それと同時に五階のボタンを小指で押す。ボタンはオレンジ色の光を発し密室が重力に逆らう。瀬戸は振り向くと、エレベーターの壁に取り付けられた鏡を舐めるように視る。勿論のこと鏡ではなくそこに写った己の姿を覗いているのだ。
 僕……麗しい……うへへへ……。
 瀬戸は金色のトランクスタイプのパンツの中から派手な装飾を施された櫛を取り出し髪を整え始めた。
「ふっふふふふ~ん」
 密室として働くエレベーター内で彼の陽気な鼻歌が反響する。自己陶酔の境地と言ったところだ。何度か櫛で髪型を整えるとパンツの中に戻し彼はまた自の格好を気にし始める。
 しかし、彼の髪型は良く言って鷲の嘴、悪く言うとドリルだ。髪の色も赤色である意味、芸術性は高いだろう。
 機械音と共にエレベーターが滑らかに止まる。
「よぉーし待っていてくれ! 今僕が華麗に助けにいくぞー!!」
 ドアが開くと彼は直ぐさま五百十一号室を目指した。彼の部屋が四百十一号室の為だ。四階と五階の廊下の造りはさほど変わりはなくただ階数表示が四から五になっているという程度であり瀬戸は心の中でほっとした。
 見つけた、多分襲っているなら鍵は掛けているはずだ……その場合は実力行使在るのみ!
 青色のドアの前に立ち助走をつけたが、一応ノブを捻ってみた。
 すると奇跡的にドアは軋みもせずすんなりと彼を受け入れた。
 良かった、ドアを壊すまでも無かったか……
 もともとドアを壊す力なんて物は持っていないため瀬戸はまたもや心の中でほっとした。
「や、やめてー!」
「脱げ……脱げええええ!!」
 はっ俺の睨んだとおりだぜ! 待ってろ今行く!
 カーペットの敷かれていない床を走り声が聞こえる奥の部屋に飛び込んだ。
 どんどんと肉迫していき、遂に捉える。
 視界に入り込んできたのは茶髪でハイソックスを履いたブラウスを着た可愛らしい女の子と制服姿の人相の悪い野蛮そうな兄と思われる人物だ。
 兄は彼女の服を掴み引きちぎろうとしている最中であった。
 ふ、服を脱がせようとしている! 瀬戸は息を吸い、



「やめろぉ! このド変態があああああ!!」


 ドリルの様な髪型をしたパンツ一丁の男は隣人に聞こえるほどの咆哮を噛まし、兄に飛びかかった。

     

 事の発端は去年の八月。その日は母さんの故郷の夏祭りであり、俺らも夏休みを利用して帰郷をした。勿論弟と俺でだ。
 色々弟にも悪戯を仕掛け、まあまあな夏の日という記憶になった。
 でも、それがこの物語のプロローグだったのかも知れない。化粧道具を取りに行った弟を見に行った瞬間に俺はそう直感した。

 
*


 都会から田舎へ移動すると空気が美味しいという表現が良く見られるが、母さんの故郷は空気が魅えていた。バス代を握りしめた僕の右手と窓を開け風を纏わせる左手。兄さんはとっくの前にバスの穏やかでどこまでも優しい揺れに眠りを誘われたようだ、首をコクリコクリと動かすだけ。
 良いリフレッシュになるからと兄さんの手に引かれ流されるままに来た旅擬きだが、中々良い物である。
 兄さん連れ出してくれてありがとう……
 あまりに恥ずかしくて言えない言葉を心の中でそっと呟いた。ゆらりゆらりと揺れるバスの中。
 スライドしていく風景は緑と空の霞無き青が主だったが、町が近いのかちらほらと民家や人の姿も見え始めた。妙な懐かしさは母さんの血がこの身体を巡っているからであろうか。意識せずとも鼓動は高鳴る。
 僕は横の座席に置いておいたリュックサックからサランラップに包まれた無骨なおにぎりを取り出し、口に運んだ。兄さんが握ってくれたおにぎりだ。形は三角とも丸ともつかない奇々怪々だが、それでも兄さんが握ってくれたおにぎりだ。おいしい。
 多分……美味しいだね……でも……塩味すらもしないんだね……そ、素材の味を活かしてるんだね……
 僕的には良い表現だ。兄さんが起きたら素材の味を活かしていると伝えてあげよう。
 食べ終えるとサランラップをくしゃくしゃに丸めリュックに放った。兄さんもそろそろ起きる頃かな。
 腕時計で時刻を確認すると午後二時半を針は示していた。到着時刻は大体三時ぐらいと言っていたのでもうすぐだろう。
『俺寝るけどさ、二時四十五分ぐらいに起こしてくれ』
 後、十五分は風景でも楽しむかな。
 夏の斜陽が窓をすり抜けて車内を照らす。オレンジ色だ。都会のあの街に住んでいるときは感じたことのない太陽の色だった。青の空も広大な姿を四方八方に羽ばたかせ、非常に壮大で圧巻される。しかし、その空を見たときに、いつも摩天楼に塞がれていた空を想起させてしまったことは少々癪に障る。
 今ぐらい都会の思い出は忘れたいなー。
 そう空を見ていると、前方から「ふはぁああああ~」と気の抜けた声が耳に徐々に入り込んできた。
「おはよー兄さん」
「うぁあ。そうだおにぎりちょーだい。腹減ったー」
 開口一番ご飯ちょーだいね。やっぱり兄さんはマイペースだな。
 僕はもう一度リュックを開き、おにぎりを二つ取り出した、そして座席から振り返ることもなく手だけを伸ばす兄に渡した。
「このおにぎり、美味しかったか?」
 チャンス! ここでさっきのコメントを言えば褒められるかも知れない!
「えっとね、このおにぎりはね素……」
 言葉を遮るように、
「このおにぎり、なるべく素材の味を活かそうと思っていつもよりちょっとばかり高い米使って握ったんだぜ。水も天然水、だから塩も何もつけてないんだよ―――いつもより2.5倍上手いな」
 あぁ……あぁ……あぁ……
 ちょっとそれ僕の台詞!
「そ、そうなんだ。へぇー確かに美味しかったよー。うん、素材の味を活かし損ねたと思う」
「だろうって、おい! 活かし損ねたってどーゆーこっだよ!? まずくはないだろ、まずくは!」
 咀嚼した米が兄の口から飛び出す。ご飯の見込んでから話してほしいな。
「うん、まずくはないよ! まずくはね……」
「なんか意味深だな……」
 少々気まずい雰囲気になりバスが着くまでの数分間、僕らは何も会話をしなかった。
 しかし、話し出すそぶりも兄さんは見せなかったので、眠ったことにしようと僕は罪悪感を払拭した。
「ついたぞー」
 兄さんの声に連れられ僕は代金を払い見知らぬ名前の書かれたバス停に降りた。
 そこのバス停は網旦と書かれていた。あみたん? もうたん? 読み方は不明だった。
「今日はホテルに泊まって明後日に街に帰る、いいだろ?」
「うん、それはバスの中でも訊いたからいいんだけど……あのさ……」


「なんで僕だけセーラー服なのかな……?」

     

 僕の問いに彼は味気なく答えた。
「そりゃ、兄弟そろって女装してたらおかしいだろ?」
「……え?」
 的外れの回答に僕は少々驚いた。しかし、兄はそれが正真正銘の理由だという風に妙に真面目な顔をしていた。
 夕日に照らされ眩しい。
 ……兄さん、何を言っているの?
「だから、兄弟そろって女子高生に扮していたら変だろ? そう思わないのか?」
「あの……弟が女装してるって事はもう十二分ぐらいに変じゃないのかな……? ってそれよりも、どうして僕に女装をさせるの?」
 訊きたいのはそこである。どうして弟に女装をさせるのか、という点である。基本的に今まで兄は僕に対し女装や、それを想起させるような行為、行動、はしてはいない。ならば、なぜ今此処で、この場所でそれをさせるのか? 僕には見当も付かない。
 僕の問いに対し兄は思案しているような、何かを躊躇しているような抽象的な表情を浮かべる。紡ぐ言葉は何か?
「そりゃあ、祭りに参加するためだろ?」
 ほんの少しの間を開け彼は口を開いた。
 しかし答は新たな疑問を呼ぶものだった。
「……? お祭りに参加するのにどうして女装しないといけないの?」
「いや、そうじゃなくてな―――」


「今回、祭りの行事で女装大会がある。それにお前を参加させるためだ!」


 呆れの意に近い感情が混ざった僕のため息が、夏の空気と同化する。
 光源は沈みかけの陽のみの空間で僕は初めて兄に対してある種の畏怖感を覚えた。口は開くが声は出ない。まるで酸素を求め水上に浮揚する観賞用の淡水魚だ。
 女装大会……なんて訊いていなかった。自分が兄の立場なら直接は伝えなくとも、仄めかすぐらいの事象は起こすだろう。
 兄は僕を騙そうとしていた?
 ……嫌だ! と今すぐ叫んで立ち去りたいが……バスは一日一回の往復。夕闇も迫る中、隣町まで歩くのも億劫だ。
 ちょっとばかりの心の揺らめきを感じた後、
「……そうなんだ……が、頑張るね……」
 虚偽。
 僕は微妙な笑みを浮かべながらもこれ以上この空気を崩さないよう最善の配慮をした。
 それを少々感じ取ったのか、兄はそれ以上は何も言わずに申し訳なさそうな表情で道の先へ振り返った。
 言ったは良い物の、僕は何を頑張れば良いのか……先が思いやられてならない。
 道の隅、草原の奥、薄い墨を垂らしたかのような漆の森から、嗄れた蝉の声が聞こえる。
 心は剣呑としか表せない感情を抱き、澱んだ。


 ―――そこから先は良く覚えていなかった。


 なぜか、僕の意識が戻った時はバスの中だった。ほどよく揺れるバス内は睡眠には打って付けである。
 目のみを動かすと右隅に兄さんは悲しそうな顔が浮かんでいた。窓から覗く夜の闇を覗いているのだろうか……
 夜……?
 今は何時だ……?
 それよりも何があったのか……?
「兄……さ……ん……?」
 声を掛けると少々眠たそうなトロんとした目を擦りながら彼が近づいてきた。
「おお、目が覚めたか。大丈夫か?」
 バスの座席をレバーを引き徐々に起こす。
「大丈夫って?」
「いや、俺がお前を女装大会に出場させるっていったら、お前その後すぐ気絶してバッタり倒れたんだよ」
 卒倒。
 ああ、そういえば心の動揺が大きすぎて……
 だから覚えてないのかな……?
「それで兄さん、どうしたの?」
 彼は携帯でタクシー呼び隣町に向かったらしい。そしてその町でバスの最終便に乗り、今に至ると言った意の説明をした。所々口が止まったところを視ると、事実とは少々違うかも知れないと疑ったが時計を見ると真実だと理解できた。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫だよ? 覚えてないだけで頭も痛くないし、身体も……」
 そう言い身体を見たときに異変に気がついた。
 無い。
 起き上がったときは気がつかなかったが僕の服装はジャージと水色の半袖に取り替えられていた。
 はっとした。
「え……兄さん……もしかして……」
「ん? ああ一応、気絶した女装男子を俺がタクシーに乗せるのは……まあ少々危ないってことだ」
 と言うことは……!?

「ええええええええええええええええええ!?」

 僕は自分でも驚くぐらいの奇声をあげた。兄はさらに驚いていたが、バスの運転手も驚愕しバックミラーで僕らのことを一瞥していた。
「叫ぶなよ! 女子の服を脱がして着せ替えたって訳じゃ無いんだし……」
 慌てふためく兄は先ほどの発言にフォローを入れたつもりだが、僕に取ってはそれはフォローではなく時間差攻撃だ。
「だだ、だだあああだだあああ大、大、大問題だよ!! 兄さんが弟の服を、それもセーラー服を脱がして……わあああああああああああ!?」
 またもや僕は声を荒げた。
 は、恥ずかしい……
 だって気がついてしまったのだ。
「兄さん……もしかして……路上で着替えさせたの……?」
「……すまない」
「わああああああああああああああああああああああ!!」
 一通り叫んだ後に押し寄せる、妙な恥ずかしさに僕は頬を赤らめた。
 どうしてだろう、とてつもなく逃げ出したい。
「…………見られた……」
「ん? なんか言ったか?」
 うるさい!
 僕は怒っていた。それと居合わせない感情も心の奥では渦を巻いていた。それはどことなく切なさに似ていて褪せた痛みを感じさせた。

 はぁ……

 男同士だから問題は無いはずだけど……どうしても恥ずかしいと感じてしまう。
 僕の部屋に置いてあったセーラー服も……兄さんの頼みならと……なんなのかな……
 これが変と言う物なのかな……?
 そう想ったときに、心の奥がズキンと痛んだ。

「でもさ……でもさでもさ! どうして女装のままタクシーに乗せてくれなかったの? 女装が趣味の弟とか言って誤魔化せば良かったのに……」
「まあ、タクシーの運転手から見たら、俺がお前を襲って気絶させたとかしか見れないだろうよ。女の子にしか見えないしな……」
 ガタガタと僕の手は震え、嫌な汗が止まらなかった。
「わあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
 兄さんの一言は尋常では無いほどの恥しさを僕に与え、兄さんを見ることもままならなくさせた。
 やっぱり変だ。


 *


 女の子にしか見えないしな……
 俺の一言が弟を狂わせたと今では後悔している。
 そして力を入れドアノブを捻る。手の中は汗まみれだ。ぎぎと軋んだ音を上げドアが開き視界が変わる。 
「おい! 何してるんだ!!」
「お、お兄ちゃん……」
 ハイソックスを履き明るめのブラウンのブラウスを着た『少女』は、はっとした表情で俺の瞳を視た。

     

 彼女は否、彼は掛け値無しに驚愕していた。目を見開き、どうして? と言ったような顔色をしている。しかし、その顔も普段見ていた弟の困惑とは違く、薄いファンデーションを塗られた雪を欺く肌で、だ。
 こちらも驚愕である。
 目の前にいるのが、女としか見えないからだ。それでも、
「おい、何してンだよ!」
 低く唸るような声を俺は発していた。もう少し穏やかな口調で諭そうとは想ったが、それよりも先にこの胸の中で渦巻く、弟に対しての言い表せない嫌な感情がこの鼻腔から這い出し、俺の声となって駆け抜けていった。言うならば言葉の疾走である。
「お、お兄ちゃん……どうして……いるの……?」
 弟の声には緊張の色が滲み出ていた。
「どうしてってなァ! 俺今、アノ人に電話掛けたんだよ。お前の様子が今朝から妙だからよ。そしたら化粧道具なんざ忘れてねえって話しじゃねえか! そんじゃ、お前は此処で何しンだって想って、ドア開けて来てみたらよ、何だこの有様は!! どういうことか俺に説明しろ!」
 弟の目は徐々に赤くなり、やがて潤み始めた。やり過ぎたが、ここまで来ると後にも引けない。
「泣いてないで説明しろ!」
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
 指で涙を拭いながら、彼は崩れた。いや、比喩ではなく本当に崩れるように床に沈んだ。さらりと、指の隙間から砂が零れ地に返るように。彼は立つことも出来なくなってしまったらしい。
 凄みをきかせ過ぎたかも知れないと、頭によぎる。
 しかし―――
「立てよ……」
 昂ぶる鼓動は、
「立てよ……」
 押さえられない。


「立てって、言ってンだァァアああああああああああああああああああああああああああッ!!」


 そう咆哮すると、俺は弟に肉迫し、服の襟を掴み涙でぐしゃぐしゃになった顔に、
「……は…ぅぅぅぅわ……」
 ドゴッ。
 俺は初めて弟の顔に拳を入れた。手加減はしたつもりだったが、短い距離では、それは中々の威力に値する。殴った直後、ぶはっと彼の唾液が俺の顔面に飛沫したかと想うと、直ぐさま彼の頭部は糸の切れたマリオネットの様に俺が与えたそのままの速さでカーペットの敷かれた床に叩き付けられた。しかし、やはり威力は強大だったのか、弟の頭はワンバウンドし、宙を舞った。そこでもまた弟は獣の様な唸りを上げ唾液を飛沫させた。だが、その飛沫には赤い物、そう血液も混ざっていた。推測だが、彼の頬が拳と自らの白歯に挟まれ、口内から出血したらしい。
 騒然とした室内で、俺と弟の吐息だけが反響する。
「はぁ……はぁ……うぅぅ…ご……」
 弟の精気を失った顔からゴポっと、どろりとした深紅が流れ出た。俺の拳からも、夥しい血液が流れ床を染めた。
 現状を視る限り、弟はもう立つことも喋ることも、今は不可能に近いだろう。争い事は好きでは無いが、致し方がないと言ったところか。
 許せ、弟よ。
 俺の言葉がお前を狂わせたんだ……
 ならば、今その鎖から解放してやろう。
 俺はアノ人が使っているであろう、スカーフを拳に巻き止血した。そして、踏みしめるように歩き彼の血の付いた衣服を掴んだ。
「……脱がすぞ……」
 ブラウスの裏側に指を忍ばせ、ゆっくりと上げる。なんだか、弟相手にしているのと、見た目が美少女にしか見えないのが相まって、俺は紅潮を隠せなかった。
 その時。
 俺の手に温もりが在る物が触れた。
「………ッ!?」
 弟の指だった。
「…………やめて、お兄ちゃん……ぬ、脱がさないで……お願い……だから……」
 俄に信じられないが、弟は脱がさないでと言葉を発した。てっきり、先ほどの一発で気を失ったとばかり想っていた、俺としては本当に信じられない事だった。
「……すまない、俺が悪いんだ……俺があの時……」
 弟はほんのり笑うと、また徐々に目を赤らめた。
「……今日はね、お兄ちゃんにボクが男の娘っていう女装が趣味の子だってカミングアウトしようと……想ってたの。だから、朝から少しずつ仄めかす様にしてたんだ。妙にかわいこぶったり……すぐ泣いたり……滅多に入らないこの部屋に入ったりしてね……」
「……そうだったのか」
 知らなかった。
「……お兄ちゃんとは違って、ボクはちゃんとサイン……出してたからね……去年の女装大会みたいに急にしたら……お兄ちゃんも、びっくりするでしょ……? でも呼ぶ前に来るなんて……お兄ちゃんは、勘が鋭い様な……そんな雰囲気みたいだね」
 まあ確かに電話で確認もしたけど……
「………………」
「今から、ちゃんと言うね……」


「ボクは、男の娘なんだよ……」


 この部屋に辿り着いたときから、その事実は俺には解っていたが、弟に正式にカミングアウトされると、非常に重い話しだ。なぜだろうか、弟がとても離れていくような幻想に囚われてしまう。近くにいるのに心は遠いとは、このような事なのだろうか……
 この感情は……「変」だ。
 全てが変わりそうな……そんな気がしてならない。今までの関係も、立ち位置も話し方も……想うことすら罪深いような……錯覚に陥りそうだ。弟の暴露。俺の昂ぶり……この時間を共有した俺らに、兄弟としての、家族としての、明日は……あるのか?
 

 否、それは考えられない―――


「お前の気持ちは、良くわかった……でも……俺は認められない……」
 弟の顔が曇るのが、すぐにわかった。
 弟も辛いが、俺も辛い……苦渋の選択だ。
「どうしてッ! どうして! どうして、お兄ちゃんは解ってくれないの!!」
 弟の必死な姿を、初めて視た気がする。いいや、これはあの時以来か……
「どうしてもだ……俺にはお前の想いは受け止めてやれる、でもな……女装は認められない!」
「お兄ちゃんは何も解ってない!!」

「解ってるさ! 俺も辛いんだよ! お前の自由は尊重してやりたいさ、俺もな! でも、そんなこと世間からしたらおかしい奴だと想われるだろ! 俺は何言われても言いさ! だがな俺の耳にお前の誹謗中傷が聞こえるのは耐えられねえんだよおおおッ!!」 

 解ってくれ、解ってくれ弟……俺の気持ちを察しれないお前じゃ無いだろう……
 しかし……
「お兄ちゃんは、常識が全て正義だと語るの!? それこそ、おかしいよ! 世間からしたら、確かにボクの行為は変態とか想われるかも知れない! でも、ボクはそれでも、このボクを捨てられないんだ。この男の娘のボクと、いつもの僕で本当の僕なんだよ! どちらが欠けても、お兄ちゃんの弟にはならないんだよ!」 
「……話しにならねえ!! 俺は今のお前を弟だとは認めない! 今のお前はただの変人だ! 狂ってるんだよ! それをわかれ、この下種野郎!」
 少しばかり言い過ぎたなんて、甘い考えはもう終いだ。
 俺はいつもの弟を取り戻すためなら、実力行使も厭わない。
「……お兄ちゃんが、そんな分からず屋だとは知らなかったよ! ボクは僕と自分の道を歩くよ! 誰にも邪魔なんかさせない」
「這々の体でも逃がさねえからなァァああああああああッ!」
 膂力が走り、硬直する。まだ完全に止血はしていないが……もう仕方がない。
 握っていたブラウスを引きちぎろうと両手に力を込める。
「脱げえ! 脱げ! 脱げ脱げ脱げ脱げええええええええええええええッ!!」
「や、やめて……やめて……やめろおおお!!」
 じたばたする弟の顔を俺はまた殴った。だが、今度は弟も覚悟していたらしく頬に当たる直前に、拳の向きと同じ向きに顔を逸らすことで、その衝撃を受け流していた。軽く掠めたと言った程度だ。
 弟は、少々誇らしげな表情を浮かべ、右に向かって何かをはき出した。一瞬だが、それは確かに確認できた。俺の瞳に映ったのは、奥歯だ。彼の奥歯が取れたのだ。
 弟は、もう歯の根が合わない、と言った訳ではないようだ。
「脱げええええええ!!」
 抵抗は流石に男の物だった。マニキュアを塗った長い爪を、俺の腕に食い込ませてくる。
 このままでは血と痛みで、腕が持たない……
 俺は、ブラウスを掴んだまま、彼を起き上がらせないよう、徐々に馬乗りになる体勢へ移動する。
「や、めてぇえよ……お兄ちゃん! …………やめてよ!!」
「……脱ぐまで止めねえ! 俺はもう迷わない! お前を取り戻してやる!」
 その時だった。
「こ………がああああああああああああああああああ!!」
 良く聞き取れなかったが、後方から叫び声が聞こえてきたと想った瞬間。
 ドバッ!
 背中に激痛が走った。
「ぐあッ…………!?」
 耐えきれずに俺は声を上げる。
 その痛みは広範囲に及ぶ物だ。何かが覆い被さってくるような感覚に良く似ている。誰かが来た……!? 否。そんなこと考えられるはずもない。なら、何なんだこの痛みは! 何かが落ちてきた? いいや、それも考えられない。
 思案していると、弟の驚愕した顔が眼下に飛び込んできた、何を驚いているのだ。そして、すぐに違和が襲ってきた。焦点が合わずよく見えないが、赤いドリルの様な物だ。
「女の子の服を、それも妹の服を脱がすなんて、解せないなッ!!」
 覆い被さっているそれは、俺の耳元で、そんな言葉を吐いた。
 人間……誰だ……!?
「お……お前は……誰だ……」
 この男、覆い被さっているだけではなく、俺の手首を捻っている。これは中々動きづらい……そして痛い。これを無理に解こうとすれば、男は多分、俺の背中から床に直撃するだろう。だが、この手首の持ち方だと落ちたときに、男の体重で手首が捻られる。
 最悪、手首が一回転だ。
 この男、本当に何者なのだろうか。
「ふふ、……」
 男は嗤う。
「ふふはははははははははははははは―――」
 高笑いにも程がある。それも耳元なので、耳がキンキンしてならない。これも攻撃の一種なのだろうか。
「よくぞ訊いてくれた。よくぞ訊いてくれた。よくぞ訊いてくれたじゃないか! ふっはあはははははははははははははは!!」
 俺は直感した。此奴は馬鹿だ。それも筋金入りの、だ。
 多分、出会った人間の内、八割はもう二度と関わりたくないと想うだろう。残りの二割は出会ったという記憶を削除する、超能力者だ。
「僕の名前は、瀬戸リーン芽最愛さ! 人々の心に最愛を芽生えさせる、麗しき美少年さ」
 痛い。
 手首ではなく……
「……それで……お前はどうしてここにいる……?」
 訊きたいのはその点である。瀬戸なんて名字はうちの学校でも、訊いたこともない。ここのマンションの住人に、ここまで変な奴はいなかった気がする。とすれば、この自称美少年は何者なのだろうか。
「僕は最近、ここに引っ越してきた、瀬戸財閥の御曹司さ、クラシックを楽しみ、ヴァイオリンを嗜んでいるのさ」
「おい……質問の答えになっていねえぞ……お前はなんでここにいるんだ……」
「それは勿論、僕が悲鳴を聞いたから、駆けつけた。ただそれだけのことじゃ無いのかい?」
「お前は……何階に住んでいるんだ?」
「僕は四階の、四百十一号室だが……? 何か問題でもあるのか」
 なるほど、合点がいった。
 ここの真下か……だから激しい物音や声が漏れたわけだ……
 今度から気をつけないと、いけないな……
「おい……瀬戸の最悪、お前さっき妹がどうのこうのと言っていたな……それは、お前の勘違いだぜ……?」
「……どういう意味だ」
 表情は見えないが、先ほどとは声色が急に変わった。
「どういう意味って、そういう意味だ……そこで血吐いてるのは、俺の妹じゃねえって言ってるんだよ……」
「じゃ……誰の妹だって言うんだよ……? 答えてみろ、変態が!」
「だから、お前は根本的な間違いをしてるんだって!」
「話しが見えないな、どういうことか、男なら、はっきり言ったらどうなんだ!」
 ここで躊躇している訳にはいかない。説明しないといけないのは、解ってる……
 ……もう、どうすれば良いんだよ……
 疲労困憊だ。
 言いたくはないが……ここまで、入り込んできたなら仕方がない……
「誰にも言うんじゃ……ねえぞ……」
「わかったから、早く言え」
 もうどうにでもなっちまえば良いんだ!
 その時、何かが吹っ切れたような気がした。


「そこにいるのは……俺の……俺の弟だ!」
 

 本当にどうにでもなっちまえ……

     

「……それは、嘘だ!」
 背中の男はそう激昂すると、手首から今度は首に手を回した。彼の細くしなやかな腕が、俺の腹から胸を蛇の様に這う。しかし、見た目とは裏腹に力はかなり強く喉仏の辺りからピグと嫌な音がした。同時に鈍い痛みが感じられるようになった。多分、彼は護身術の類の物を会得しているようだ。
 これ以上、力を入れられたら喉が潰れそうだ……
 それでも、
「……嘘じゃない……あれは……俺の弟だ……」
 間髪入れずに彼も言及をする。
「しらを切るつもりか! お前は妹を襲って犯そうとした。それに、彼女の顔が腫れている。あれは殴って無理矢理に犯そうとした証拠以外の何者でもないだろう!」
 耳元で響いた、彼の提示は鋭かった。確かに、上から声が聞こえ乗り込んでみたら男が女にしか見えない子の服を脱がそうとしていた。顔には殴られたような後もある。状況的には不利極まりない。これで弟が俺の弁解をしてくれるなら現状は一変するが、なにせ先ほどまで弟の女装を認めないと、暴力にまで手を出したんだ。多分、弟は俺の無実を証明してくれはしないだろう。
 ならば、どうする……兄弟喧嘩だ。と真実を言うか。しかし今の彼がそれで『はい、そうですか』なんて解放する事はまずありえない。状況を打開する鍵は無いのか。
「黙ってないで、何か言ったらどうなんだ。それとも、その黙秘は肯定の意思表示かい?」
 彼はまだ言葉を紡ぐ。喋り方からして彼は中々頭の切れる男だと言うことが理解できた。先ほどの言及でも彼の頭脳の高さは理解できたが、その後も追尾するところがそれを更に印象づけさせた。ちょっとした行為、間、すらも取り込む形だ。彼の戦術にはまると、自分の発言が矛盾だらけになりそうで心底恐ろしい。
 だから一つ一つ棘を千切らないといけない。
「……そういうことじゃねえんだ」
「なら、何か言ったらどうなんだ。このままだと君の言っていることは全て、嘘偽りだ。何も隠さず全てさらけ出したらどうなんだ。まあ最初から信じてはいないがな」
 喉を絞められている所為か、意識が徐々に遠くなっていく。
 畜生。
 思考が纏まらなくなってきた……
 脳に血液が十分巡っていないんじゃないかと俺は荒い呼吸を整えようと一回薄い深呼吸をする。しかし状況は何も改善されることなく、最悪のまま提供させられる。
 このまま気を失えば、彼は警察に連絡するだろう。そうなると、俺の潔白は証明させられるかも知れないが、弟の女装が世間に広まってしまう。この男だけに真実を言い、まるく納めようとしたことが、そもそもの間違いだったのか。そうか、この場合は俺が本当に襲っていたと嘘を付き警察に引き渡して貰えば良かったのか、いいやそれでも弟の女装がバレる。変態というレッテルを貼られるのは、俺だけで十分なのに……
 これ以上、弟を悲しませたくはないはずなのに……
 彼の涙も拭えない。それどころか泣かせたのは俺じゃないと守るのは自分自身。あの夏の日も俺の勝手で女装させて、今も、彼の事を認めてあげれていられれば、こんな事にはならなかった、殴る事もなかったのに……そうか、
 俺は、弟の事なんて、想っていなかったのか―――
 俺の勝手で弟を壊したと思い込んで、弟の自由さえも鎖で繋げようとしていたんだ。常識と、もっともらしい訳を付けて、ただただ弟が俺に従う姿を見て満足たかっただけじゃ無いのか。俺が弟を守ってやっていると自分に酔っていただけじゃ無いのか。そうだ、あの時の弟の誹謗中傷を聴くのは嫌だと言っていたことも、変態弟の兄と想われるのが嫌だ、が本当の理由じゃ無いのか。
 やっと気がついた。
 俺は自分勝手で最低な兄だ。いや、俺はもう兄なんて名乗る資格も無い……
「……俺は……なんて最低なんだ……」
 ポロポロと瞳から大粒の涙が流れてきた。
 情けない、なんて俺は情けないんだ……
「君は認めるのかい……?」
 背後からの男の声に、俺はゆっくりと首を縦に動かそうとした。
「一つだけ良いか……?」
 その前にやることがある。
「ああ、なんだ」
「俺が捕まったとき、妹を、この街から赤麦町に引っ越しさせてやってくれないか……?」
 赤麦町とは、母さんの故郷の町だ。去年の夏に訪れた町、あの町に引っ越しさせてあげられれば、何とかなるだろう……
「ああ、わかった、その町を調べておく」
「……すまない」
 嗄れた声でそう呟いた。
 その時、
 声がした。限りなく深い海の底で、眠りかけていた俺にハッキリと、その声は聞こえた。いつも聴いていたハズのその声は、何故か、何処か懐かしさを漂わせていた。
 いつか聴いた気がする……心の奥底で蘇る追憶の情景に俺は呼ばれる。……そうか、思い出した。あの夏の日の声に良く似ていたんだ。今よりも少し短い髪で、今よりも少し小さい背で、今よりも少し子供じみた笑顔を浮かべていて、仄か茜に染まった空の下、風に揺れた。あの時の、今も変わらない、柔らかな暖色の声で。
 彼は待っていてくれていた。俺が変えてしまっていたと言う幻想に囚われず。
 彼はいつも、俺の隣に居てくれていた。変わらない笑顔を俺にいつまでも……いつまでも振りまいて。


「……瀬戸さん、お兄ちゃんの言っていることは本当です。ボクは……兄さんの弟です」


 部屋の空気が一瞬にして、その質をより濃く、密度の高い物にしていた。
「……な、何を言っているのかな? お嬢さん……もう一度囁いてほしい……」
 弟の発言は予想外の展開だったらしく、彼の額はみるみる内に汗で埋まっていった。しかし、その前で俺も心底驚いた。いいや驚愕の感情の内、半分以上を占める物は驚きなどでは無かった。そこに或るのは、なぜ? という訝しさに似た物だ。
 弟は何を考えているのか、正直言って俺は困惑した。
「おい! 何言ってンだ! お前は……えっと……女だろうが!」
「違うよ、僕は男の子だ!」
 弟が描く憧憬の俺は現実と掛け離れている。多分、彼の中の俺は次にこう話していくだろう。『どうして、そこまで俺を庇うんだ……』『どうして、妹を続けなかった……』そんな言葉は虚飾でしか無い。
 俺は平気で嘘をつく人間だ。本当の俺はそんな真似をしない。でも、想いは受け取ってやれる。
 ―――だから、俺は俺のやり方でお前に答えよう。
 一種の賭けだ。弟の絶対的な拒否、瀬戸の揺るがない判断、この二つさえクリア出来れば状況は一変する。
 …………恥かしいがな。
「そんあ嘘吐いても、何も変わらねえんだよ!」
 しかし、弟は虚勢に負けず、真実を明かそうと表情を変える。
「違うよ! 僕は兄さんの弟だよ。女装が趣味の、兄さんの弟だよ!」
「……違う! お前は俺の弟なんかじゃない! お前は俺の妹だ。どこからどう見ても妹だ。そして俺はお前の身体に欲情した最低な野郎だ。おい財閥、さっさと警察に連れてけ」
 俺は今までになく凄みを利かせ、彼の瞳を凝視した。その鋭い睨みに恐れおののいたのか、彼も慌てて取り繕う。
 掛かった、と俺は淑やかにほくそ笑んだ。後は、彼が……
「おわっ……え……少しばかり時間をくれないか。状況が状況なだけに、正しい判断が鈍る。と、取りあえず、彼女の弁明を訊いてから警察に連絡を取るか否かを……」
「そんな暇はゼロだ! 早く俺を警察に引き渡せ。な? それでまるく収まる。お前は高校生の少女を救ったと瀬戸財閥の株も上がる。妹も変態の兄から離れられて田舎で長閑に暮らせて、清々する。これ以上の解決策は無いだろ!?」
 ここぞとばかりに、追い打ちをかける。
「いや、しかし誤認逮捕……と言うのもあってだね僕はその……」
「じゃあこれで良いだろ!」
 刹那だ。俺は彼の絞めから無理矢理に脱出し、弟に近づいた。
 本当に何を血迷ったのだろうか、常軌を逸している行動だ。こんな企てを実行に移すなんて。
 アウトローにもほどがある……
「良く見とけ、財閥。これで文句は無いはずだ」
 そう俺は吐き捨て、弟を見つめた。
「お、お兄ちゃん……!?」
 そして俺は弟の震える顔を見つめ、すっと唇を重ねた。感触は思ったよりも柔らかく繊細だった、多分弟のつけた香水の所為か、華の香が鼻腔を突き抜けていく。
「!?」
 弟の鼓動が聞こえそうだ。それほどに二人の距離は近い。瞳の中の俺が見えそうなほどに。
 本当に俺は何をやっているんだろう……
 ファーストキスを弟にあげちまうなんて……
 そして、ゆっくりと唇を離した。弟は鼻血を垂らしながら、俺の腕の中で卒倒した。しかし、その顔は、いつもと変わらない笑顔のままだった。
 はぁ……どうして満足気なんだ……
「な、な、な、何をしているんだあああああああああああ!」
 視界の端で顔を真っ赤にしながら叫ぶ瀬戸の姿が見えた。まるでトマトだ。
「な? これで十分なはずだろ。俺は無理矢理、妹にキスをした。そしてそれをお前は視ていた。これで捕まえる以外の選択は無いだろ?」
「……ああ、そうだな変態」
 そう彼は言い残し、廊下を抜け外へ出て行った。その時俺は初めて彼がほぼ全裸だと言うことに気がついた。
「……どっちが変態だよ、全く」
 と言うか、あのまま外出て……良いのか……?


 *


 弟の目が覚めたのは、それから二時間経った頃だ。俺は、何かの拍子で弟の記憶が飛んでいてほしいなんて事を願っていたが、そんな夢物語は、そうそうに打ち砕かれた。
「だ、大丈夫か……?」
「う、うん……大丈夫……」
 弟はそう言い、ゆっくりと起き上がる。その頭は少々寝癖で乱れた居た。
「…………」
 まだ寝ぼけているのか、ぼおっとしたままだ。
「…………」
 何か喋ろうか、弟が何かを話すのを待つか……
「…………」
「…………」
「……なあ、お腹減ってないか?」
 静寂を止めたのは俺の方だった。長く無言で居るというのは中々耐え難い物だと感じたからだ。
「うん、お腹減ってるよ……」
 弟は寝癖の付いた頭を直しながら、そう答えた。やはりまだ眠たいのか、大きなあくびを一つ付くと、瞳を擦り始める。
「……そうか……じゃあ、久し振りに外食するか……」
 …………
 ……とは言ったものの、財布の裏地の布はレシートしか無いと餓死してる。
 それでも言ってしまった事に取り消し機能なんて無いのだ。
 どうにか、話題を。
「……えっと……何が良い? 中華か? それとも和―――」
「……!? ちゅ、ちゅう!? ……ちゅうは食べれない……んじゃ無いのかな……?」
 失敗した。
 かなりの勢いで失敗した。
 先ほどまでの弟の薄い瞳が、フウセンウナギの口の様、バッと見開かれる。今は、魚の鱚もNGワードだ。
 平静を演じないと、更に厄介な事に成りそうだからだ。
「……あのな、中華か和食か洋食どれが良いかって訊いてるんだけど……」
「あ……ごめんなさい。ちょっと心の中があたふたしてて……」
 心の中があたふたしてるって……どんな表現だよ。
 まあ一時はどうなるかと冷や汗をかく一日だった事には違いない。女装に喧嘩、ここまで縁のないことが立て続けに起こるなんて、本当に信じられない事だ。
「……でもね、喧嘩して不穏なまま過ぎちゃうより、後から笑える話になってホントに良かったとボクは思うよ」
 ああ、俺もだ。
 弟は大きく伸びをする。俺は、その姿を見て普段通りの日常が戻ってきたと胸をなで下ろした。
 時計を確認する。針は九。
「もうこんな時間じゃやってないか……」
「そうだね、外食はまた今度で良いよ」
 内心良かったと思った俺が嫌いだ。
「悪いな……仕方がない、今夜は俺がおにぎりでも握るか……」
 こんな事を招いたのは俺にも否がある。それに傷を負わせたんだ。それぐらいの事はしてやりたい。
 が、
「え…………わーい、わーい、…………す、す……すごく嬉しいなー……」
 ……そんなに嫌なのか。
 文句の一つも言いたいが、今日は黙認しよう。
「冗談だって冗談。確かカップ麺が引き戸の中に大量に入ってるんだっけ……それより、俺の飯ってそんなにまずいのか……?」
 でも、それとなく訊きたくなるのが男の性だ。
「うん……正直に言うとおいしくないし、素材の味も殺してるかも……」
 ……泣きたい。
 今度から、得意分野に家庭科って書かないでおこう。
「露骨に嫌な意見、ありがとうございます」
 そう巫山戯ていると、急に彼の声のトーンが低くなった。
「ねぇ……どうしてあの時、キスしたの?」
 ………
 ギクリとした。背中を指ですぅーっとやられたときになるあの感じだ。触れないでほしかったが。
「キスしなくても、あの時ちゃんと理由を説明してれば、こんな事にまでならなかったと思うんだよ」
 まあ、確かに弟が俺の側に付いたことで瀬戸も戸惑い、流れはこちらに来ていた。あの作戦を起用しなくとも、少しの小突きで論破出来たかも知れない。
 でも、ここは本音で語りたい。
「……まあ……お前がかわいくて仕方が無くてキスしたんだよ」
 弟はかっと顔を赤らめた。
「へぇ、へぇーそうなんだああ、そ、そりゃボクが、じょ、じょ、女装すれば、そここっこここの男の人なんてか、かか、簡単におお落とせるからね」
 此処まで来ると清々しい程の動揺っぷりだった。しかし先ほどの理由も強ち間違ってはいない。
 そこからまた静寂が部屋を包んだ。弟の顔はまだ、紅の色が強い。
 …………かわいいなんて想いたくない。
 それに、まだ俺は認めてない……あんなの反則だ。
「テレビ付けて良いよね……?」
 ぼっとしていた俺に弟がそう話しかけた。俺を覗く瞳は、あの夏の日によく似た輝きを秘めていた。
 どことなく母さんの瞳に似ていると、俺はそう懐想した。
「そうだな」
 気晴らしである。
 リモコンのボタンを押し薄型テレビが発光する。ついた番組は時々見るニュース番組だった。人気の女性アナウンサーの軽やかな声が訊こえてくる。
『たった今入ったニュースです。瀬戸財閥の会長、瀬戸信長氏の孫にあたる、瀬戸リーン芽最愛氏が本日、午後八時頃都内の路上で下着一枚でいる所を駆けつけた警察官に保護された模様です。調べに対して瀬戸氏は、俺は美少年だ。兄に囚われた妹を助けるために警察に行きたい。証拠はキスだ。と意味不明な供述を―――』
 …………
『あ……』
 俺と弟はほぼ同じタイミングでそう口から漏らした。多分意も同じだろう。
 忘れていた。


 *


 思春期とは何かと厄介なことが纏わり付く時期だ。それは部屋に入ったら、弟が男の娘とかになってたり、その弟にキスしてしまったりと、予想外にも程がある展開だ。
 それでも俺は楽しもうと想う。だってこの時期は楽しんだ者勝ちのアウトローな季節だからだ。

 そして、一週間後の夜明けに次のアウトローはやってきた。

       

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